私の演劇史!?

東宝ミュージカル

東宝ミュージカルといえば、どうしても、その前身の「帝劇ミュージカル」というところから始めないといけないかもしれません。
さすがに、私も「帝劇ミュージカル」をナマで見てはいません(^_^;
ただ、やはり、越路吹雪の「モルガンお雪」という帝劇ミュージカルの代表作の名前と、
古川緑波などという人の名前はインプットされております。
また日本で初めてブロードウェイのヒットミュージカル「マイフェアレディ」を上演したのも東宝です。
この時は、何もかも初めてづくしで大変だったようです。
帝劇ミュージカルというのが黎明期ー第一期とすれば、「マイフェアレデイ」はその第二期になるでしょう。

脚本・音楽・振付・衣裳・照明・・・それぞれが英語と日本語の通訳を介して製作されていく
第一歩の試行錯誤から始まったのです。
当初、ブロードウエイ側は、日本のヒロインであった江利チエミの音域に大変難色を示していたそうです。
彼女の本業はジャス歌手であり、音域もいわゆるハスキーボイスで低いものでした。
ジャズにとっては魅力的なハスキーボイスも、
オペレッタから発展したミュージカルのヒロインの声(ソプラノ)としては確かに難がありました。
しかし、当時の日本としては、「歌って踊れて芝居ができる」という女優は悲しいことに↑上記の越路を除けば、
彼女と雪村いずみくらいしかいなかったのです。
さすがに越路はもはやイライザには無理な年とイメージでしたし、彼女こそ宝塚男役からの転進組の走りで、声もハスキーでした。
雪村は乙女らしい容姿とジャズを歌ってはいても、音域も江利よりは高音も出る。
しかし、雪村は江利チエミほどには踊れない!!
ショーマンシップの塊のような江利に比べて大舞台を仕切る雰囲気(アトモスフィア)に欠ける所がありました。
(江利は当時の紅白歌合戦の紅組司会などもこなしていたのです!!)
花売り娘の汚れ役がこなせるだけの演技力にも不安がありました。

今なら当然オーデイションで雌雄が決せられるか、或いはWキャスト、ということもできたでしょうが、
当時は、大スターになっていた彼女達にオーデイションとはとんでもない!
落ちたら名前に傷がつく、という考え方が常識でした。
(この後、雪村はアメリカ人と結婚し「HolidayInJapan」というアメリカのツァーに加わり、
歌唱力・演技力とも揺ぎ無い実力をつけて帰国しました。現在も活躍しています)

ヒギンズ教授は当時日本にたった一人しかいなかったミュージカル俳優の高島忠夫
彼は東宝から分裂した新東宝という映画会社の主演俳優でしたが、新東宝の倒産によって移籍してきたのです。
もともと東宝という会社は宝塚でもわかるように家庭的繋がりというか、子飼いを大事にすることで有名でした。
本来なら外様の高島にそんな大役は来るはずもないのでしょうが、
なんといっても「ハイカラな歌を歌える俳優」というのが彼しかいなかったのです。
当時、歌える俳優といえば高田浩吉という映画俳優がいましたが、これは時代劇専門の俳優で松竹でもあり問題外でした。
実は東宝には宝田明という歌える俳優がいたことはいたのですが、彼は歌謡曲しか歌えない、と思われていました。
後年、江利チエミの誘いで彼が「アニーよ銃を取れ!」に出演して芸術祭奨励賞をとるまで、
宝田明がミュージカルスターになるとは考えられないことでした。
その時の新聞評に「これで高島と並ぶミュージカルの二本柱ができた」というのがあったことを克明に覚えています。
そんなミュージカルにとっては貧しい時代だったのです。

そして、ピッカリング大佐の益田喜頓!!これこそ、その後の東宝ミュージカルを支える蔭の大スターてす。
彼は小樽の工業高校を出て、浅草で「あきれたボーイズ」という今で言えばミュージックコントグループを作り、
解散した後は東宝に所属して多くの映画・演劇に出演していました。
この後の東宝ミュージカルは彼抜きには何も語れない素晴らしいミュージカル役者でした。

勿論、製作・脚本・演出は菊田一夫
今も「菊田一夫演劇賞」に名を残す大プロデューサーであり大作家・大脚本家・大演出家であります。
スターの発見・育成でも多大な功績があります。
一番有名な物では、初舞台早々の浜木綿子が宝塚のその他大勢で焚き火にあたっているシーンで、
その手のかざし方がよかった、ということで主役に抜擢し、さらに舞台歴三年目に芸術座に外部出演させて、
「悲しき玩具」という石川啄木のドラマで「小奴」の役を与え、彼女は見事に芸術祭奨励賞を取りました。
また松本幸四郎(後の白鴎、現幸四郎の父)を松竹から移籍させ、幸四郎自身は東宝では不遇でしたが、
息子の現幸四郎はミュージカルの大スターとして大成し、本場のブロードウエイで「ラマンチャの男」を演じるまでになりました。
「屋根の上のバイオリン弾き」も、当時はあんな暗いミュージカルは当たらない、と反対された物を押し切って、
大スターを集めて話題を作り内容のよさをアピールすることに成功しました。
越路吹雪がフリーになった後、
宝塚退団後のマネジメントのことから宝塚と絶縁状態にあった上月晃を東宝の舞台に復帰させ、
彼女が本来の実力を花開かせるまでにバックアップしました。
(東宝からフリーになった越路吹雪は浅利慶太による日生劇場ロングリサイタルの成功と、
その延長による「アプローズ」の成功によって、
名実ともに日本のミュージカルの女王になりました。)

「マイ・フェアレデイ」から始まった第二期の東宝ミュージカルは
「南太平」「王様と私」「SoundOfMusic」「AnythingGose」などなど・・・ヒットを生み出しましたが
特筆すべきは「ラマンチャの男」「屋根の上のバイオリン弾き」です。
先にも言うように、両作品とも、東宝は最初、逃げ腰でした。
曰く「ラマンチャの男」はハイプロウすぎる、「屋根の上のバイオリン弾き」は暗すぎる。
双方ともに、その時代に受け入れられるには日本文化が成熟していない、と東宝は考えたのです。
そこを、プロデューサーとしての菊田一夫は、「トリプルキャスト」による宣伝効果(「ラマンチャ」のアルドンサ役)・
オールスターによる宣伝効果(「屋根の上」の初演のオールスター振りは凄い!!)で乗り切りました。
今でも「屋根の上のバイオリン弾き」の初演プログラムを見ると震えが来ます(^_^;

「ラマンチャの男」は今では有名になってしまった、
「事実とは何か?あるがままの人生に折り合いをつけて生きていく、事実とは真実の敵だ!!」
という台詞に象徴されるように自己の実存する真実を追求していく哲学的なテーマを問い掛ける物です。
初演の一週間はやはり観客動員が少なかったのですが、好評が好評を呼んで徐々に観客が増えていきました。
日本人が自己のアイデンテティの探求に目覚め始めた時期に差し掛かっていたのでしょう。
しかし、日本の商業演劇の宿命で、一ヶ月の公演を伸ばすことはできず、悔しい思いをしました。
(私も気がついた時は既にチケットが取れない状況になっていました。自分の詰めの甘さに歯噛みしました(;_;))
ところが、芸術の神に愛された幸四郎に神が微笑みました。
本場ブロードウェイの「ラマンチャの男」フェスティバルとでも言うのでしょうか、それに主演として招待があったのです。
そして、幸四郎自身の果敢なチャレンジ精神と恐るべき努力によって、それは見事に達成されました。
凱旋公演は熱狂的に迎えられ、幸四郎のミュージカル俳優としての地位はよりいっそう重くなり、
歌舞伎役者高麗屋当主松本幸四郎としてのバランスに苦しむところとなります。
昨年1000回公演を樹立し、幸四郎一人ではなく、日本ミュージカルの「金字塔」として燦然たる輝きを失ってはおりません。

この公演形態について、関連記事があります。
下の公演形態についてを御読みください。

「屋根の上のバイオリン弾き」はユダヤ人が定住地を持たず、というよりは持つことができず追われて世界各地を転々として、
それでも強く雄雄しく生きていく姿を描いたもので、やはり日本人に受け入れられるかどうか、と言う心配がありました。
しかし、人種に関係なく親が子を思い、男女が愛しあい、強く生きていこうとする真摯な姿は多くの観客の胸を打ちました。
また、シャイでミュージカルに不慣れだと言う客席も成熟していきました。
三回目かの再演の折、フィナーレで「皆様もご一緒にハミングを」と森繁に促された客席から静かに、
しかし一世に「サンライズ・サンセット」の唱和が起こりました。
その頃からオペラなどではプラボー公害が起こりつつあったのですが、
とにかく観客も大きく変わっていく時代でもあったのです。
観客席で見ていたアイザックスターンが、突然、休憩中に森繁の部屋に現れて、
「お前にはユダヤ人の血が流れているのか?」と質問して森繁を驚かせ狂喜させたという逸話を聞きました。
それまで国際的バイオリニストの名前を森繁が知らなかったと言うことも(^^ゞ

「屋根の上のバイオリン弾き」は森繁から西田敏行に引き継がれて演じつづけられています。
森繁は老いたりとはいえ健在ですが、妻ゴールデを演じた越路吹雪・淀かほる・上月晃は逝き、
神父を演じた前述の益田喜頓、イエンテ婆さんの夏原夏子も亡くなり・・・ましたが、
途中からですが肉屋を演じている上条恒彦は、役代わり公演でテビエも演じ、
小澤栄太郎から引継いた「ラマンチャの男」の宿屋の亭主もあわせて、
今や東宝ミュージカルの要として活躍しています。


菊田一夫の死後、第三期といっていい「ミス・サイゴン」が始まるまで、東宝は多少低迷していました。
その間を縫うように台頭したのが「劇団四季」ですが、それは「劇団四季」の項で。
しかし、オーデイションによってアイドルとして低迷していた本多美奈子・岸田敏志をヒロインとして起用、
脇に市村正親などの大物を据えて、本物のヘリを舞台上に飛ばすなど
スペクタクルな演出で話題を呼び、主役は無名に近くても脚本さえよければ観客は集まる事を証明しました。

「ミス・サイゴン」の成功でいを強くした東宝が、初めて大作のロンドン・ミュージカルに挑んだのが「レ・ミゼラブル」でした。
しかし、「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンとジャベール警部の二人ともに
「劇団四季」から出た主演級の俳優滝田栄・加賀丈史たちであり、
その主要なキャスティングも歌手の野口五郎など、既成のスターたちで興行的には安定していても新味には欠ける面もありました。

しかし「レミゼ」は繰り返し公演され、多くのスター・役者が育ちました。
「レミゼ」から生まれた島田歌穂は英国で御前演奏をしたことなどでもわかる実力派ですが、
東宝は子飼いでない彼女には冷たいようです(^_^;
同じく「レミゼ」のコゼットからスタートした鈴木ほのかは今期の「レミゼ」ではフォンテーヌを演じ成長振りを見せているようです(未見)。
今期のジャンには「レミゼ」のアンサンブルから勝ち上がった今井清隆・岡幸次郎がジャンやジャベールを演じていますが、
今井清隆は、「レミゼ」から勝ちあがって東宝ミュージカルの主演なども果たすようになると俄かに「四季」に入団し、
たった二ヶ月で準主役級の役を獲得し「オペラ座の怪人」のタイトルロールをGETして
全国ツァーを終えるや退団して東宝に戻った大変厚かましい役者です(^_^;
山口雄一郎は「女王大地真央」の相手役からついに「レミゼ」の主演になりましたが(前期からの居残り主演)。
ここに特筆すべきは、今期のジャベールの内野聖陽で、文学座の新劇俳優として「モンテクリスト伯」で主演を果たし、
東宝ミュージカルの「エリザベート」に死神トートとして初主演し、
最近は蜷川幸雄のシェイクスピア劇「ペリクリーズ」で本場ロンドンで絶賛を博した偉大な俳優です。

今井の例が示すように、もはや、東宝・四季という分け方が陳腐なほど、ミュージカル界は錯綜しており、
役者の木曽訓練には当然のようにダンスや歌が組み込まれている時代になりました。

宝塚からトップスターが退団すると東宝ミュージカルの主演女優につく、というのも菊田が那智わたるを抜擢しての通例でしたが、
現実は、宝塚のトップスターも女優として物になった、と言う例は少なく、
本場パリで三年間の主役を張ってきた上月晃と鳳蘭・大地真央しかなく、那智わたるも菊田の死後は引退してしまいました。
別格として新劇からストレートプレイを中心に地歩を固め、松竹系で活躍して、
今や演劇界の女王的存在になってきた麻美れいがいます。
特筆すべきは宝塚でトップだった淀かほるが後半は重要な脇役で、その貴重な存在感を示していたことです。
最近の涼風真世・一路真輝・愛花みれ・久世星佳(東宝系だけではないが既に読売演劇賞など多数の賞を受賞)が
どの程度まで行くかが見もの、と言うところでしょう。
主演女優としては、幸四郎の娘である松たか子が大変な存在感を示して東宝系だけではなく、
日本の演劇女優として君臨し始めた、ということです。



東宝現代劇と芸術座

「劇団四季」に行く前に東宝繋がりで「東宝現代劇」と「芸術座」について少し・・・
菊田一夫のスター発掘といえば、忘れてならない森光子!!
祇園の御茶屋の娘で嵐寛寿郎の姪、歌手としてスタートして関西でソコソコの女優として活動していたのですが、
菊田一夫に発見されて声をかけられた彼女は、安定していた関西での生活を捨て、
もっと大きな飛躍を求めて東京に出で来たのです。
そのころの東京と関西との演劇界の断絶具合は今から想像できないほどでした。
(「知らざあ言って聞かせやしょう」片岡仁左衛門、参照)
しかし、「がしんたれ」で大きく存在感を示した彼女は、ついに「放浪記」という森光子の看板演目を射止めました。

東宝現代劇については、続きを書きますm(__)m

劇団四季について

劇団四季は確かに作品的にも興行的にも演劇界に大きな足跡を残しています。
チケットの売り方、団体客を取らずに、個人のフアンの集客に務めたこと。
それによってカベスの束縛からも逃れて、公演時間・休憩時間の設定も容易になりました。
一般客にもクレジットカード支払いを認めて買いやすくなったし、電話での席の説明も親切です。
特定演目の専用劇場をテント形式で作るなど誰も考えなかったことですし、そのために、バリアフリーが容易になったこと。
ロングランが容易になりチケットも安くなったし、入手も容易になりました。

トイレの設置の仕方も見事です(これが大事なんですよ)!
男子トイレは見ていないのでわかりませんけど、女子トイレは壮観ですよ(^_^;
両側に30室くらい、トータルで50〜60室くらい並んで、入口も狭いので、否応なく行儀よく一列並びするようになっています(^^ゞ
以後、宝塚の新劇場も歌舞伎座も女性用のトイレをふやしたり、大変な努力を見せはじめました(^o^)丿
子どものためのチャイルドシート(子どもの背丈に合わせた嵩上げ用のクッション)・・・数え上げれば切りが無いほど、いろんな貢献をしています。

しかし、一方で「日本に本格的なミュージカルを根付かせたのはうちだ」と、浅利慶太氏が宣言するのは、あまりにも独善的のように思います。(朝日新聞の「劇団四季の50年」などで言っています)
浅草オペラにまで遡る、とは言わなくとも、少なくとも戦後の帝劇ミュージカル↑というか、
東宝系の「モルガンお雪」あたりまでには遡らなくてはならないし、
本格的にミュージカルと取り組んだ宝塚歌劇団や、東宝の菊田一夫氏・森岩雄氏の業績を無視することは出来ません。
まして、ユダヤ人のアイザックスターンを感激させた「屋根の上のバイオリン弾き」の森繁久弥、
ブ〜ロードウェイでアメリカ人と競演してきた「ラ・マンチャの男」の松本幸四郎(ロンドンで「王様と私」も演じた)を抜きにしては、
日本のミュージカルは語れません。

しかし、その浅利慶太がスターシステムを逆手に取ったオーデイションシステムを成功させ定着させた手腕については
正直に敬服しております。
東宝からフリーになった越路吹雪は浅利慶太による日生劇場ロングリサイタルの成功によって、
名実ともに日本のミュージカルの女王になりました。↑
そして、その越路をヒロインに据え、副主人公以下全キャストをオーデイションによって公募したのです。
「あの越路さんと共演できる!!」ということで、現役の多くの芸能人たちが応募して来ました。
従来では考えられないことでした。
そして、それをステップに本格的ミュージカル女優として認められた元アイドルに木の実ナナ
同じく元ジャニーズの飯野おさみがいます。
木の実ナナはそこから、福田一夫脚本によるパルコ・ミュージカルの主演女優として進出いきました。
飯野は「劇団四季」に正式に入団し「ウエストサイドストーリー」のリフや「Cats」に出演しています。

四季はいつ行っても、同レベルの舞台芸術を提供できる、というコンセプトと、
俳優個人に集まる人気ではなく、作品に下される評価を目指しているそうです。
必ずWあるいはトリブルキャストを組んで競わせる、或いは事故に備えて対応できるようにしている、という建前ですが、
舞台というものは、或いは作品というものは、俳優によって変わる、ということを無視しています。
その演じる俳優によって同じ作品がこうも代わるか、というほど変わってしまいます。
浅利慶太は演出家たる自分が一番偉くて、俳優は単なるコマだ、位の思いしかないのでしょうが、
舞台は、ナマモノ!
その日、その時、その一瞬のスタッフ・キャスト・裏方・観客までをも含めての総合芸術で成り立つものです。
その辺りの思い上がり、あるいはかん違いが、どうも四季の舞台に色濃く出ているように思います。
ゆえに、それに気付いた俳優達は、四季を出て行くしかないのです。

滝田栄・鹿賀武史・市村正親・榎木孝明・山口祐一郎・・・などなど。
もともと、舞台人には「演技派は二流だ!」という発想があります。
それが過度のスターシステムに繋がって大根でも人気さえあればいい、というバカなことも起こりますが、
かといって、技術さえあれば何でもOKということはありません。
確かな存在感―その俳優がいるだけで、舞台が異次元の空間になる、とか舞台が締まる、
という言い方で表されるような空気をかもし出すことこそ大事なのです。
俗に言う「オーラがある」これこそ超一流の俳優、いえ「役者」の条件なのです。
実力もあり、存在感も出てきた俳優達、独自のオーラを発揮できるようになった役者達が、
俳優個人の個性を無視した作品の作り方に抵抗感を持つのは当然だと思います。


もひとつ、疑問があるのは、浅利慶太という人があまりにも政治家や財界にすりより過ぎる、ということです。
もともと、叔父が田辺製薬の社長をしていたというような人ですし、
劇団四季自体が、慶應大学演劇部が発展してきたものです。
民芸だの俳優座・文学座という、戦時中の新劇運動から出てきたものでもないし、
アヌイ・ラシーヌというフランス古典作家、ジロドウなどのフランス現代作家のものを中心にしてきた、
中産階級向けの演目を劇団の持ち物にしてきたのです。
ですから、必然的に財界とは親しいのでしょうし、朝日の記事の中では、
田中角栄から特別措置の外貨割り当てをしてもらったとか、
ということが、自慢げに書かれていました。

確かに、外貨の割り当ての厳しい時や、どうしても国力に頼らなければならないことはあるでしょう。
モスクワ芸術座・ボリショイバレエなどの共産圏から、イギリスのロイヤルオペラ・ロイヤルバレエなどまで、
国を挙げての支援体制を持つことは文化国家としては当然です。
しかし、芸術というものは、常に体制への懐疑や揶揄・批判を含んでいるはずです。
そのへんのバランスの取り方が難しいところなのではないでしょうか。
そして、浅利慶太氏のバランスの取り方は、かなり政治家に対して迎合的に思えるのです。


公演形態について

ブロードウェイでは、最初の第一幕が90分、そこで休憩が20分第二幕が50分前後ということで構成しているそうです。
それが、人間が同一箇所で、落ち着いて集中できる限界、ということです。
宝塚や四季もそういう時間配分を目指しています。
歌舞伎は、序幕70分で世話物・25分休憩で所作事(舞踊)さらに20分休憩で
当日の主演目の演劇90分〜120分というところですか。
勿論出し物によって時間配分が変わって、真中の所作事は、臨機応変に20分くらいから1時間くらいまで縮めたり伸ばされたり、
また、役者の力関係でも大いに変わってきます。これは歌舞伎の大きな弊害ですが(;_;)
昼夜でも違いますし、歌舞伎の芝居は、細かく場割して一幕一場とか二場とかその場つなぎに暗転になりますので、
その間にトイレに駆け込むことも出来ます。
商業演劇の休憩時間が長いのは俗に言う「かべす」の為です。
つまり、菓子・弁当・寿司・・・売店の売上の為ですね(^_^;

そのために、「ラマンチャの男」のような特殊な出し物は嫌われます。
あれは、最初日生劇場で初演された為にそういう問題は起こらなかったのですが、
何度目かに帝劇で上演された時、食堂街からの強い要請で、二幕に分けて上演され、演劇ファンからの強い反発を受けました。
そのため、それ以後は帝劇以外の、劇場内食堂を持たない劇場・・・日生劇場・青山劇場などが多くなりましたが、
帝劇で上演される時にも休憩なしで上演されるようになりました。

日生劇場創立に関わった劇団四季の浅利慶太は、当初から「かべす」の演劇への関与を快く思わず、
日生劇場に食堂設備をしなかったのですが・・・一歩出れば帝国ホテルはじめ、日比谷のレストラン街もあります。
それでも、劇場に弁当持ち込む日本の特殊事情を考えて、
ロビーの中で食事などができるようにテーブル&ソファなど充実させたのは彼の力です。
しかし、やはり、それだけでは不便と観客から言われて、劇場の上に、殺風景な食堂を作ったのは日本的な情景でした(^_^;

本当に演劇が好きなら、劇場の中で食事したいなどと考えたりはしませんが(私は大嫌い!!絶対否定!!!)、
日本人の「芝居を見に行く」感覚は行楽なんですね・・・ゆえに芝居見物イコール弁当♪
嗚呼!!

そうそう、「ラマンチャ」の場合、開幕前にちゃんと「これから2時間20分は休憩がありません」というアナウンスがはいりますが、
先日の「オイデイプス」では、そういう告知なしで2時間突っ走られてビックリしました(^_^;)
一応、休憩時間のチェックで、通しらしい、というのは、開幕前にわかっていましたが、アナウンスがないので半信半疑でした。
幸四郎の「オイデイプス」の時は、同じ蜷川演出で休憩ありましたからね(^^)
幸いトイレはナントか持ちましたが、年老いた母は通路際の席を幸いにトイレに立ちました。

上演時間というのは、観客の為に大変大きな問題です。
早く見て早く帰りたい人もいるかもしれないし、やはり、ひと息ついて、一幕ごとにフレッシュな気持ちで見たい人もいるでしょう。
演者のほうとしては、早く帰りたい、という気が強いでしょうし・・・。
劇場運営者としてはもし、休憩時間をつくるとしたら、その間をどうもたせるか、が問題になるでしょう。
トイレの設備・休憩場所・売店の設置となれば、ごみの始末は?となりますよね・・・(^^)
それ以前に開演をずらすか?終演をずらすか?それによって観客動員も変わってくるかもしれません。

初歩的な問題ほど奥が深いという典型です(^_^;

実はもう一つ問題がありました。
「団体さん」ということです。
商業演劇ですから当然利益を挙げなければならない。できれば早く、確実にチケットを捌きたい!!
一枚・二枚と個別に売るより、纏めて売れればなおけっこう!!
というわけで観劇を↑行楽とする考えそのままで、「かべす」と組み合わせて
いろんな会社の慰労会や農協さんの観光旅行の一環として宴会代わりに売り込まれたり(^_^;
しかし、そういう観劇団体は観客としてはあまりありがたいものではありません。
連れて来られた団体さんだって、個人個人の好みがありますから嬉しい人ばかりではない(^^ゞ
しかもチケットピアなどの台頭でどこでどんな芝居をやっているかがわかるし、みんな自分の好みを大事にする時代になってきた。
まして、どこのチケットでも家から電話一本で取れるような時代です。
最近ではそうい団体さんは少なくなってよかったな、と思います。

これは、やはり劇団四季が団体に頼らず、演劇好きな個人が自分でチケットを取って舞台を観に行くことで、
商業演劇が成り立つ、という手本を示したからで、これは大変な四季の功績だと思います。

今は、その代わりにクレジット会社が全館(半館の場合も)貸しきり日を設けて、
自社のクレジットカード利用者に安くチケットを入手できるようにしています。
これは劇場側としては、早めに安定収入になるし、クレジット会社としては客集めになるし、
観客側にとっては多少なりとも安く買えるし・・・今のところは三方円く収まっています(^^)v





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