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6月25日(火)

待望の「オイディブス王」でございます♪

蜷川幸雄が大昔、幸四郎(当時は染五郎)で、演出して非常な評判を取ったものでした。
今なぜ、萬斎なのか!?
それは、萬斎が「旬の男」だ!ということも勿論あります。そして・・・というのはまた後で(^^ゞ

即日完売!取れないはずのプラチナチケットをゲットできたのは、思いもよらない流れで、
幸運としか言いようのない大幸運!!
これで、今年の私の運は使い果たしたかも・・・(^_^;
しかも、取って下さった○様のご好意で二枚も!!
というわけで、あの我が母親も同行できたのですよ(^^ゞ

大体、母の検査入院中に、「モーツァルト」という秋のミュージカルが取れた、取れない、と一騒ぎありまして、
(まあ、それは結局取れたんですが)
その時、母が「萬斎のオイディプスも見たかったんだけど、あんた
もう取れない、って言ってたから・・・」と恨めしげに言うのを聞きまして、
(ええっ、チケット取れないのは私のせいじゃないよ!!とブツブツ)
あらら、もしチケット一枚だけでいいからと、御願いしてあるのがバレタラヤバイ(^_^;と思っていたら
○様のご好意で二枚も取って頂いて、わぉー!!となりまして、
こりゃ母親連れて行くっきゃないだろう、と私にしては、清水の舞台から飛び降りるような親孝行になりました(^^ゞ

お席もG列の8・9という、ひょえ〜!!というような前のど真ん中!!
オイデイプスは傍に来るは(まぁ、さすがにすぐ傍ではありませんでしたが)♪
舞台への通路代わりにコロスが通る♪羊飼いも♪賢者も通る♪
そのたびにライトが当たって、ウレシハズカシのお席でした(*^^*)

で、とにかく、素晴らしい舞台ではありました!!
でもね、やっぱり、言いたいこともあるのです(*^^*)

まず、見終わって、私の一言「マンサイって意外に育ちが悪いのね」!?
母の一言「麻実れいってたいしたもんだねぇ!!」
へぇ?宝塚なんてハナクソ程度にしか言わない母がメズラシヤ!!
こないだの吉右衛門との「蜘蛛の巣城」の時だって、麻実れいについては「でかい)しか言わなかったのにさぁ〜(^o^)丿

と、いうところが、この芝居の全てだったと思います。

ナンセ、「ターコさん」は素晴らしかった!!良い貫禄です(^_^;
あの芝居を通して、あの人が主役だった!と私も母も感じました。

チケットを取って下さった○様は先に御覧になっていて、
「正面のドアをバンとあけて出てきたときの萬斎さんのオーラ!は素敵でした」とおっしゃっていました。
更に
まだ「一生懸命さ」の方が勝っていて、こなれて無いかなーなどとも感じました。
でも毎日やってるうちにどんどん進化していくのでしょう。
最後の公演の方が多分ダンチに上手くなるのでしょうね(ま、エラソウかしらん?)
と、おっしゃっていらっしゃぃましたが、私が見せていただいたのはもう千秋楽近くで、
こなれるべきところはこなれてきている、と思いました。
でも、けっこうセリフが突っかかるのが気になりました(^_^;
なんてったって、あれだけの量ですから!!
もっとも、その都度巧く切り抜けてましたけど(^_^;
それと語尾が弱いこと。ことにサ行の発音が・・・「〜し」というような・・・

麻実れいは一回だけだけど、凄いチョンボをしまして、一瞬、こちらの方が青くなってしまいました(^_^;
もし、あのままずずぅ〜と舌がもつれたらギリシア悲劇はギリシア喜劇になっているところでした。
首の皮一枚!というところでスッとセリフが流れて、ホッ(^_^;

しかしねぇ、その観劇直後の私の一言「マンサイって意外に育ちが悪いのね」っていうのはですね・・・
これがこの芝居の一番のポイントだったのではないかと思いました。
姿が美しい、口跡がよい、演技が巧い、ではなく、「マンサイって意外に育ちが悪いのね」ということが全てだと思うのです。

「育ち」と言っても、いわゆる行儀が悪いとか、一般的な「育ちの悪さ」では当然ながらありません。
演技の巧拙を超越してある、役者としての存在感という意味ではちゃんとあるのです。
それとも違う、ナント言えばいいのでしょうか?

私は、常々あの和泉元彌が、「狂言和泉流宗家」を看板にしているというのに、どうして、あんなに貧乏臭いのか不思議でした。
あの母親も「なりあがり」っぽくて・・・(^_^;
まあ、大体、あの嫁取り話の時に家の格がとか伝統が・・・とか言っていた時にも、
「狂言師風情が片腹痛い」と思っている御家もおありだろう、と思っていましたけどね・・・
でも、今夜わかった、と思います。

歌舞伎というのは、あってはならない庶民の娯楽として、歌舞伎役者はかぶき者、河原者、はっきりいえば河原乞食!といわれて、
特に江戸時代は、外を歩く時は、笠で顔を隠さなければならない、という非人扱いだったのです。
しかし、庶民たちからは、常に英雄であり、憧れの仰ぎ見る大スターだったわけです。

片や、能・狂言は大名道具。殊に能楽師は、大名家お抱えの芸術家であり、大名自身の能楽の先生です。
けれど、それは、稽古の時は先生でも、普段はあくまでも武家の末席に連なる家臣なのです。
それでも能楽師は間鍋詮房のように若年寄から老中にまで駈け上った者もいたけれど、狂言師はどうであったのでしょう?
いずれにしても、能楽師より上ではないわけです。

北条秀治の「九代目団十郎」で、「勧進帳」のために「能・安宅」の教えを受けた能楽師に批評を仰ぐシーンがあります。
その場では、床の間を背負った能楽師に対して、歌舞伎の総元締め成田屋団十郎が部屋の隅から平伏して話を伺いますが、
歌舞伎役者は、能楽師と同席するどころか、本来なら、部屋の外から、声を聞くのが精一杯、というところだったでしょう。
大体、この団十郎に「安宅」の指導をしたということで、能楽師の誰か、誰だつけ?お咎めを受けていますから。
もっとも、ごひいき筋には、大奥の御老女は勿論、御三家御簾中や大名の奥方・姫君などが、わんさといて、
いろんなお伽もしたようですが、それはまた別の話(^_^;

ことに、明治以降、没落した狂言師の家と比較して、歌舞伎は、危機を謳われながら、伝統芸能の中核をなし、
名人・スターを輩出して経済的に(これが一番大きな問題だと思うんだけど)も豊かな状態にあつたわけです。
俗に、「役者の台所は火の車」というのは、それほど派手に使っているからで、それでまた、後援者や興行師が、
「役者が金のことを心配しちゃいけねぇ」とばかりに、無尽蔵に借金をさせて、派手な生活をさせたのです。
「旦那」と呼ばれ「若旦那」とちやほやされて、何人もの使用人や弟子に取り囲まれて、
ちょっと横を向けばキセルが出てくる、お茶が出てくる・・・妾を囲うなんてのも含めてね・・・(^_^;
そういう馬鹿馬鹿しい暮らしの集大成が「王を演じるのではない王になる」ことを許すのではないか、と考えます。

はっきり言って、今の歌舞伎界でもそういう生活ができた人たちは一握りです。そして、今後はそういう生活は成立しないでしょう。
また、経済的に豊かであっても、そういう生活が身についた人と身につかなかった人もいます。
しかし、実在することは確実であり、その役者たちと、地味に狂言の研鑚だけに励んできた人たちとは棲む世界が違うのです。
表現できる世界が違うのです。
「王を演じるのではない、王になる」ことができるか、ということです。
勿論、そう言うと、では殺人者の役は人殺しをしなければできないか?というと、そんなことはありません。
萬斎は精一杯青年王として「演じて」いたと思います。
しかし、たまさか、既に幸四郎の「王たる王」であったオイディプスを見てしまった者としては、
やはり、萬斎のオイディプスは、「王になれなかった王」としか受け取れなかったということです。

つまり、私が言いたいのは、たとえ社会的に阻害された身分であっても、
「人々から仰ぎ見られていたパワーがある者とない者との違い」ということなのです。
さすがに、今「旬の男」野村萬斎にしても、それだけのパワーはまだ持ち合わせてはいなかった、ということだと思います。

そして、私が先に見た松本幸四郎にはそれがありました。
あの人は、生まれながらに王の位の人です。
テーバイの王たる父から棄てられても、コリントスの王に拾われて王子となり、さらに自らその王子の地位を捨てても、
父を殺してテーバイの王位に就くという、
生まれながらに「王」の呪いを背負ったオイディプスに相応しい王ではありました。
残念ながら、その王の風格が、「今回の」萬斎には感じられないのです。
まあ、ひとつには線が細い、ということもあるのですけど・・・
オイディプスが追い詰められていくときは、そういう演出かもしれないけれど、神経症っぽく見えてしまいました。

幸四郎の「オイディプス」が1976年というから、今から26年前、大体同じ年三十半ばくらいでしょうか・・・

そういえば、幸四郎の親の白鴎が幸四郎時代に、新劇の「リチャード三世」かなんかに特別参加したとき、
稽古場での、その幸四郎のその殿様ぶりにカルチャーギャップというか、滑稽感すら覚えた新劇人に、しばらくの間
「高麗屋ごっこ」と言うのが流行ったそうです。
誰かが「幸四郎」をやって椅子にふんぞり返り、回りの中間達が、「幸四郎」の気持ちや指図を読み取って言われぬうちに動く、
というゲームだったそうですが(^_^;
新劇人達が感じた幸四郎という歌舞伎役者の生活の浮世離れしたばかばかしさ!
その馬鹿馬鹿しさが王の存在感なのかもしれません。
「裸の王様」の馬鹿馬鹿しさは、たとえ馬鹿馬鹿しくとも「裸でも王様」なのだ、というシビアな現実でもあるのです。

そして「血の熱さ」!
ギリシア悲劇は血の色はあくまでも紅く、且つ熱くなくてはならぬのではないかと考えています。
これは考え方・捉え方の違いですから、私は・・・ね。
そこが、シェークスピア劇との違いだと考えているのです。
シエークスピアというのは、捉えようによって「血は蒼く冷たく」でも「血は紅く熱く」でも、その交差でも、いかようにも捉えられます。
しかし、ギリシア悲劇の血は紅く熱くなくてはならないのではないか・・・と考える時、
萬斎という人の血は紅くということはありうるけれど、熱くはないのではないか?
たとえば、燃やす炎があるとしても氷の炎というような、地の下に沈みこむような冷たい炎のように思います。
「オイディプス」の萬斎を見ていて、そういう違和感と、マクベスをやらせたら、面白いだろうな、という思いがよぎりました。

蜷川幸雄が「王は嘆く時でも下は向かないものだ。天を仰いで嘆け」と言ったそうです。
萬斎は、その言葉に事のほか感銘を受けたそうですが(狂言では型として上を向いて嘆くことはないそうです)、
それを積み重ねていけば「王になれる」か?否か?
狂言界の王位に就いた時には「王」になれるのでしょうか?

幸四郎とは違い、麻実れいは職人の子です。
職人といっても本人が「私の父は職人です」というので、刀の鍔師です。
武士の魂といわれる刀剣を打つ刀鍛冶ほどではなくとも、職人と言い切るのはためらいますが、まあ職人の子です。
それでも、彼女はテーバイの女王でした。
あの芝居を、オイディプスを牛耳って、全ての災いの元はイオカステであり、
イオカステの死によってオイディプスの生きながらの地獄が始まることを印象付けました。
それは麻実れい自身が宝塚時代から中央に立ち、常に周囲からの憧れの目で見上げられることによって後天的に得た王の座です。
でも、またそれは生まれながらにして、彼女が持っていたオーラでもあります。
そういうことも起こります。
生まれながらのある種のオーラは確かに萬斎にもあります。今後に期待しましょう。

そう、玉三郎も「王」の子ではありません。
仁左衛門は「王」の子ではありますが、「王の子」として育つ環境ではありませんでした。
ふたりとも、「育ちが悪いな」と思わせる時が今でもあります。
しかし、ふたりとも「育ちの悪さ」を超えて、片や世界に羽ばたく玉三郎であり、片や東の吉右衛門に拮抗する西の仁左衛門です。
後何年かして萬斎のオイデイプスが再演されたときには「王たる王」のオイデイプスになっているかもしれません。
期待して再演を切望します!!

わずかの出ではありますが、川辺久三はさすが。山谷初男はいつもどおり(^_^;
クレオンの吉田鋼太郎は人のよさそうな年上の義弟を巧く演じて出色。
クレオンというのは「アンティゴーヌ」ではどうしても悪役っぽく捉えられてしまうけれど、
わりと「常識人でいい人っぽい人」だと私は考えているので、今回はイメージ通りでした(^^)
テイレシアスの菅野菜保之も今まで見た中で一番よかったかも(^_^;
コロス(今回は「嘆願者」というの)はけっこう、ダンス(動きの範囲かな)のレベルにバラツキガあったけれど、
ユニゾンはよくあっていたと思います。

振付・花柳錦之輔というのにビックリ(^_^;
ただ、あの紅い少林寺風衣装はな・・・(^_^;
他の衣装はみんないいと思うのだけど・・・特にイオカステの衣装はよかった。前田文子さん?
なんか聞いたことあるのに思い出せないな・・・?
そう、ヘアメイクも武田千巻という人は初耳だったけど、イオカステのぶんはよかった!!
麻実れいは、今回この衣装とヘアメイクで相当得をしたんじゃないか、と思うほど!!
逆に萬斎はあのヘアメイクがちょっと若作りになりすぎた気がするんだけど・・・衣装はよかったですね。
ふたりとも白を基調にというより、白一色でギリシアは白!という私のイメージピッタリで嬉しくなりました(^o^)丿
ただ、衣装が白と赤で、照明・原田保・・・ちょつと明るすぎた気もするのですが(^_^;
明るいからこそ悲劇が白日に晒されるという残酷さを強調しようとしたのでしょうか?

東儀秀樹の音楽は意外に平凡!カーテンコールはいつもの音楽になっちゃったし(あれちゃんと曲名があるシングルカットの)、
もうすこし、なんとかして欲しかったなぁ・・・と思いました(^_^;

脚本的には、翻訳(山形治江/従来は福田恒存・訳、山崎正和・潤色)をわざわざ新しくしたそうです。
ようわからんけど、ちょっと引っかかるセリフがあったことはありました。
でも翻訳劇だしね・・・と思ってみているので違和感はもともとあるのが当然というか・・・
それより、最後の場面の幼い娘達との別れが冗長だな・・・と。
あんなに長々しくされるとオイディプスの悲劇への感銘が薄れてしまうような(^_^;
それとも、あそこまで、行くなら、「アンティゴーヌ」はともかく、
本格的にオイデイプスのさすらいから、「コロノスのオイディプス」までやっちゃうか?
ちょっと、最後が散漫になったように感じました(^_^;






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