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10月26日(土)

県民の為の能を知る会

解説 伊勢物語と能 上坂信男
狂言 附子 太郎冠者 山本則俊
能 井筒   シテ  中森貫太
ワキ 村瀬 堤:
笛  内潟慶三
小鼓 柿原光博
大鼓 古賀裕己

プレゼンテーション 中森晶三

「井筒」というのは能らしい能です。昔お公家さんの家では、乳母が子どもを脅しつける時、
「お能を見せますぞえ」と言ったそうです。そういうお能です。
「謡」として良いが劇として冗漫な部分がありますので、(今日は)それを省略して致します。

筆者注・なるほど!「お能を見せますぞえ」が、良い台詞だなぁ、納得(^o^)丿
やはり、公卿の子弟などは、そういう場に当たったら、コチトラのようにモジモジしたり、居眠りしたり、というわけにいかないわけで、
難行苦行の部類に入るでしょうからね(^_^;)
好き好んで、自由に見るのとは大違いですね・・・(^^)


解説 伊勢物語と能 上坂信男

樋口一様り「たけくらべ」の題名の元に「筒井筒」の少年と少女がやりとりした歌があります。
「筒井筒 ゐづつにかけしまろがたけ 過ぎにけらしな 妹みざるまに」
「くらべこし 振分髪も肩過ぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき」

「伊勢」の作品の中ではふつう23段ですが、二人は結ばれるが、女の父が亡くなり、男の世話をできなくなり、
男は新しい女〜河内の方へ通うようになる。
これは別に男が薄情なんじゃなくて、この時代は、女が男の生活の面倒を見る時代だから、ですね。
嫉妬も見せず、夫を送り出す妻に、夫は疑いを持つ・・・自分以外の男ができたのではないか。
ある夜更け、夫は河内の女の下へ出かけたフリをして、庭に潜んで様子を見ていると、妻が、キレイに装って、庭先に立ち
「風吹けば沖津白波たつた山 夜半にや君がひとりこゆらむ」と詠む。
この夜更けに夫は無事で山を越えて、河内の女の所についただろうか・・・と心配しているんです。
それを聞いて、夫は、ぷっつりと河内への訪れをたった・・・今度は、訪れを絶たれた河内の女が悲しみの歌を詠むんです。
「君があたり見つつを居らむ生駒山 雲なかくしそ雨は降るとも」
同じ23段の中でも、いくつかの作品が生きる。

「筒井筒 ゐづつにかけしまろがたけ 過ぎにけらしな 妹みざるまに」というのは古い歌で、
現在「伊勢〜」の本は「つついつのー」となつている。謡は古い本の「筒井筒」である。
夫が新しい女のほうへ通うようになったけれど、夫の無事を祈る妻の愛情を主題に、「本物の愛情の深さ」といっていいと思いますが、
夫の浮気心をやめさせる。という。

「伊勢ー」は「昔男」を主人公にした短篇集。在伍中将業平を当てこんでいるが、23段は業平には結びつかない。
同じような愛情を元にした伝説の一段で、何時の頃かわからないが、差し支えないというところに置かれた、と思われる。
様々な話―「愛情の美しさ」を集めた。
中年の男女の恋、と言えるかもしれない。
倦怠期の男女が愛情によって男の心を取り戻した、という話。
能では業平の話として作ってあります。

能では、前シテ・後シテとも「若女」の面。業平に死なれたその女が、在りし日の業平を思い出す。
前シテは里の女でも、後シテは本性を現す。
ツレは、後ジテは業平の肩の衣装を着て男の姿、面は若女〜昔と今を表す。
一つには、業平が生きていた昔と女が生きる今。
業平が死んで脳が出来ている頃には、女も死んでいる・・・という二つの意味があります。
生と死という相反するものを一人の女で演じる。

二つには、理想と現実を女の面と男の衣装で表します。

能の場合、シテが一人芝居で演じる。ワキは「見物の代表」といわれるほど。
一人の女の○○(筆者注・聞き取れませんでした)を追求することによってより高度な劇ができる。
大体、白拍子は男の格好をする。世阿弥はより高度な舞台に仕上げました。

狂言 附子 
太郎冠者 山本則俊

前回にも書いたけれど、私は「狂言」が苦手です。
大体、お能に向かう為の休憩タイムになってしまいます。
今までで面白いと思った狂言は「鐘」でしたっけ?・・・嗚呼題名出てこない(^^ゞ
それだって面白い、というのではなくて、鐘の音を演じ分ける、というところが興味深かったわけで、
狂言自体が面白かったわけではありません。
狂言として面白いと思ったのは、茂山千作・千五郎さんたちの「佐渡狐」くらいでした。
茂山家は誰にでもわかる。誰にでも面白い「お豆腐狂言」を標榜しているそうで、ホントに私にもわかります♪
という感じで面白かったのです。
まぁ、体から滲み出る雰囲気と言葉の持つ語感の雰囲気が・・・ああ、狂言て、もともと上方のものなんやなぁ・・・と思わせる
しみじみとしたおかし味がありました。
それで、私は関東の狂言に関して、諦めみたいなものを持っていたのです。

前回にも書きましたが、狂言は歌舞伎で、松羽目物として多く扱われています。
これは似ているようで「全く」とは言わないまでも、狂言とはかなり、非なるものです。
まず第一に美しい!歌舞伎役者は美麗に化粧をしておりますし、概ね狂言師より、歌舞伎役者の方が二枚目です(^_^;
衣装もかなり豪華な、太郎冠者でもキンキラものを着ますし、
演出も華やかで、舞うだけでなく、踊る、歌う・・・テクニックも派手です。
それを見慣れた目には、狂言はどうも貧相に見えます(^^ゞ
大名道具の能装束の豪華さに比較して、その従たる立場!
時間稼ぎ・気分替えのように生まれた狂言の衣装はそのまま貧相であります。
その見た目の貧相を越えて、おおらかでゆたかな人間模様を感じる、というのは私の知識と感性では無理でした。

それを生意気にも、能楽関係のお友達に言いましたところ、その方から、茂山家の演技の方針などお聞きしまして
(「お豆腐狂言」という言葉もその方から教えていただきました)、

以下
関東でも山本東次郎家(大蔵流)はおもしろい、そうです。
京都の茂山家は「おもしろくなければ狂言でない=お豆腐狂言」と称して、
面白さを追求すれば崩していっても良い・・という道を進んでいますが、
山本家は「乱れて盛んなるよりはむしろ固く守りて滅びよ」(カックイイ〜!)と、伝統を保守する道を選んでいます。
とのことでした。

私は、山本東次郎氏をナマで拝見したことはありませんが、
NHKで、能楽入門かな?にご出演になっていらっしゃるのを拝見して、ホンのわずかな場でしたが、
凄い方だな、と思ったことを覚えています。
確か道成寺の鐘の後見についてお話しになったんですよ。
シテはシテの仕事をきちんとすればよい。私どもは私どもの仕事をきちんとすればよい。
それでつつがなく舞台が進むものです・・・みたいな(^^ゞ
言葉は違っていると思いますが、わぁ!プロだぁ!!と感動した覚えがあります・・・10年以上前かも(^_^;

ところで、今回は、その東次郎氏の弟で山本三兄弟、と言われる末弟の則俊氏の出演でした。
結論から言うと、面白かったのです。
時代を超えて生きている人間がそこに居ました。どこにでも居る普通の人間が置かれた状況からとる普通の行動。
そこからくるおかしみがありました。
裃の地味さも、禿げかけたお頭も一向気にはになりませんでした。
そういう太郎冠者さんがそこにいる、というように見えました。
そして、ブスを瓶から取り出して食べる仕草!!
口の中のかなりの所まで箸に見立てた扇を入れますが、それが、微妙なところでピタリと止まるのです。
何度繰り返しても、同じ所で!「五分の見切り(隆慶一郎“吉原御免状”)」だ!と思わず唸ってしまいました(^^ゞ
普通なら、あの勢いで、扇を口中に突っ込むのは怖い!ちょっと手元が狂えばむせてしまうでしょう、咽もつくかもしれません。
それが、ピタッと止まるのです!!しかも良い形でした(^^)
眠るわけには行きませんでした(^o^)丿



能 井筒 

シテ 中森貫太
ワキ 村瀬 堤:
笛  内潟慶三
小鼓 柿原光博
大鼓 古賀裕己

えっと・・・私はお笛と相性が悪いのでしょうか・・・?今日も立ち上がりの悪いような・・・後半はよくなったかと思うのですが(^_^;
これは、私が素人だから、そう思うのでしょうか(^_^;
本日の第一声というか、最初の印象がこれでしたからねぇ(^_^;
大鼓は大変結構でした・・・掛け声を除いては・・・掛け声のお声はよいのです。いや、本当に!!
しかし、うるさい!けたたましい!!あんなにうるさくて良いのでしょうか(^_^;
小鼓は、今日の囃し方の中で、ただひとつ、ここが頼りの拠り所でした。

でぇ、旅の僧・村瀬堤氏は・・・お風邪を召されていたのでしょうか・・・ちょっと鼻詰まりのお声で、こういう声なのかな・・・(^_^;
もし、お風邪だとしても、こういう声は苦手です。ただ、大変な美男!のっぺり系といえば言えるのかもしれませんが、
昔、やんごとない奥方達が能役者に入れ揚げるって、こういう美男の能役者にだわ!と納得(*^^*)

でぇ、いよいよシテの里の女登場!!
あらら、お声が偉く太い(^^ゞ
まだ、解説のお声しか聞いてない、着面で謡のお声を聞くのは始めてですからイメージ違って当たり前、といえば当然か(^_^;
でも、大層、太くて重々しいお声です。ビックリしました(^^)
華やかさには欠けるけど(すみませんm(__)m)良いお声です!!

後から伺うと、120分をそのままでは、初心者もいることだし、と75分にはしょってサラリと謡われたそうですが、
私も初心者でナンノコッチャわからないせいもありますが、あの重厚なお声のセイか、そんなにサラサラとは感じませんでした(^_^;
でも、お能に詳しいらしい観客(後出)の方が、貫太師が、今日はサラリととおっしゃる度にうなづいていらしたので、
まあ、サラリなのでしょう。
解説の時は、おすわりになっていらしたので背の高さはわかりませんでしたが、スラリとして良いお姿でした。
前日の不眠が祟って(この日はアホ娘の院試本番で、さすがに寝つきが悪かった(^_^;)けっこう意識が飛んだ時もありましたが、
やはり、いいな、と思いました。
私は、筒井筒の相聞歌のところで、じっと井戸の傍らで昔を偲ぶように座っているところが、大変形も良くて、
ああ、こういうところに、演者の格が出るんだろうな・・・少なくとも、歌舞伎や他の演劇などではね・・・と思っていたら、
後の質疑応答で、もし、これ以上割愛するとしたら、その筒井筒の部分(「クセ」というそうです)です、とおっしゃられてショック!!
もっとも、貫太師も、それでは本末転倒ですから、とおっしゃつてはいましたが(^_^;

で、後日、鎌倉能舞台さんのHPに行って、「公演リポート」から「演者のひとこと」を失敬してきました(*^^*)

演者のひとこと
とにかく丁寧に、しかし軽くやりたいと思っています。この曲をしっかりやると観ている人には拷問。
いかにも優雅にしっとり舞いたいです。
すすきをかき分け井戸に映った自分の姿を業平の面影にダブらせる部分は一番の見せ場です

とのことでした。
勿論、井戸の中に昔を覗き込む・・・という意味なんだ、とはわかりましたが、「互いに影を水鏡」の詞に呼応するとは考えましたが、
「自分の姿を業平の面影にダブらせる」とは全然考えつかず、ぼーっと見ていました(^_^;
後で、「対訳つき謡本」を読んだら、ちゃんと、地謡が、
「さながら見えし昔男の・・・業平の面影」と謡っていた!筈でした・・・意識失っていたんでしょうか(^_^;

演者として、見せたい部分・切りたくない部分と、観客として見たい所はけっこう違うものなのですね(^_^;

実は、前日か、前々日に、能舞台の関係者の方から、なにしろ長い曲なので、と伺って、大曲だとは聞いていたけれど、
と慌ててアンチョコをひっくり返したら、120分と書いてあって、ありゃりゃ!と心配していたのです。
で、VTRひっくり返したら、観世寿夫さんの井筒があることになっている!ので必死に探したんですけど、時間切れ!!
で、当日、ブッツケ本番で見せていただいたのですが、それで良かったと思いました。
素人がなまじヘンな下準備はしないほうがいいですから(^_^;

で、更に後日談!
やっぱり観世寿夫があるなら、見なくちゃ!!と必死に探したんだけど無い!!
でも、前後のメモと残っているVTRから、これを録画しそこなって非常に口惜しかったのを思い出した(;_;)
あれば、お宝映像だったのに、もぅ〜(>_<)



質疑応答 上坂信男・中森貫太

前回は、質疑応答と言っても、お仲間内のことなのだろうと失礼したのですが、今回はお薦めもあって残っていたら、
大変有意義な質問も出て、よい勉強になりましたm(__)m

貫太師は、ハイライトにしてしまった事を大変気にしてらして、

「井筒」は静かな曲で、動きのある「船弁慶」『安達が原」などと違いますから。
初心者にもわかる「県民のための能を知る会」ということで、いつもよりサラサラと3割方カットして演じました。
ふつう1時間55分というところを1時間15分でやりましたから。位をしっかりとってやれば、ここでも1時間40分はかかります。
「雑」な井筒で申し訳ありません。

とのことでした。
私は、えっ、雑じゃないよ、と思いましたが、側に座っていらした詳しそうな若い男性はウンウン、とうなづいていらっしゃいました(^_^;
で、この方がですね・・・
「いつぞやの□□ホールで、○○流宗家が『井筒』を演じた時、大変な井筒(序の舞でグチャグチャになったらしい)を見せた。
これについてどう思うか?」と、執拗にお聞きになるのです。
やはり、そういうことは、すぐ噂になるものらしくて、貫太師もご存じのようでしたが、

それは、□□ホールが、そういうやり方でやってください、と言ったのかも知れません。ですからご意見があるなら、□□ホールの方へおっしゃると良いと思います。

と軽くいなしていらっしゃいました。
そりゃぁ、当然!!
そんな、他人様の、しかも他流の演技について批判がましいこと言えるわけないじゃないのよねぇ!!
でも、その詳しいお方は食い下がる!!で、まあ

当日はお笛の体調がよくなかった、ということは聞いております。また小書き(特別演出)もついていたそうですし

と、かわしていらしたけど・・・ああいう質問者は困るだろうな・・・聞いてるこっちも嫌になるものです(;_;)

こんなのばかりだと残った事を後悔したのだけれど、「初心者ですが」とおっしゃる方達の質問は「目から鱗」のことばかり♪
私は、いかにボーっとみているか(^_^;)

「長絹」についている紐(「露」)は何に使うものですか?という質問で、あれ?あれは直衣・狩衣の男装束のように、
実生活では袖を絞るものじゃないの?
それを装飾化しているのでは、と思っていたら、袖をうまく反す為の重石がわりですって!!
で、「露」がついていない袖の場合、「杜若」などは目印にもなるそうですし、
また、かける面によって、或は「おおみずごろも」など、袖先が見えない場合など、5円玉を重石の為に縫いこむそうです(^o^)丿
ふうん、聞いてみなくちゃわっからないもんじゃあ(^o^)丿

お能の衣装は豪華で綺麗なのに、狂言の衣装は配色も悪い(まぁ、貧乏臭いということね(*^^*))のはどうして?という方も。

配色と言っても、能の場合は、季節を限定したがらにしてしまうと、その季節にしか使えないので、
四季折々に使えるものということで、いろいろな模様を織り込んだりします。
約束事と言っても「赤」が入ったものを年配の役の場合は着ません。若い役ですね。
先日「萩大名」で出てくださった萬才さんは素晴らしい萩の花の模様の入ったお衣装でしたが、
ブスは庶民の話なので主人よりずっと地味です。


能をやる方は能だけ、狂言をする方は狂言だけだと思っていたのですが、今日は能のほうに狂言で出ていた方が出ていましたが、
という質問も(間狂言がありましたから)ありました。

能は能楽師だけが演じます。それも、シテはシテだけ。ワキはワキだけと決まっています。
能の中にある間狂言は狂言方が演じます。
但し、みんな、自分のところだけできても、全体がわからなければ、できませんから、それぞれみんな、全ての役割を習っています。
囃し方は狂言のほうにも出る(演奏する)ことがあります。
また、囃子方の子弟も能の子方に出ることがあります。
謡えなければ打てない、打てなければ謡えません。


「後見」というのは、何の為に、だったか、どんな事をするのか、だったかな・・・(^_^;という質問もありました。

「後見」というのは、ただボーっと座っているようですが、舞台上は一番偉いんです。
何かあつたら、すぐ対処できるような人が後見になります。
特に主後見(おもこうけん)は、当日のシテが勤まるような人、つまり、シテが倒れたら、そこから舞わなければならない。
囃し方に何かあつたら、すぐ鼓を取って打たなければならない。
その日の舞台上の全てがわかっている人でなければ後見になれません。
大曲の場合は師匠が後見につきます。
ですから
後見がすることもなくただ座っているということは、舞台が無事に進行している、ということです。


今日の面の「若女」について説明がありました。質問があつたからかしら?

「若女」は観世流の面の中で一番若い・・・二十何歳くらいから、20歳後半くらいの面です。
「井筒」はいろんな面を使います。
「井筒」は一回はやりたいもので、一回目は気合が入ってどうしても長くなるんです。
何回もやっている人は軽くやっても手抜きにならない。
今日の場合、あれ以上カットするとなると「クセ」の部分「筒井筒とくらべこし」の歌の部分を省くことになります。
あそこは、演者としても大変なんです。
15分座っているだけですから・・・それも衣装をたくさん着込んで、座りにくい体勢で大変辛いです。
「能をやっている役者の芸を見る」というところでしょうか。
能楽師同士で、「今日クセやるの?」という会話もあります。
床机にかける方もいらっしゃいますが、有常の娘が床机に掛けるほど偉いか?というところがあって私はかけません。

上坂先生がしきりにうなづいていらっしゃいました。
また、「筒井筒とくらべこしの歌を省いてしまうのは正しくない」ともおっしゃってました。
「作りものを下げる時あそこが生きてくる」とのことでした。
なるほど・・・井戸が片付けられる時、その歌が蘇る・・・ということなのですね(^_^;
ちょつとそこまで考え及びませんでした(^_^;
でもやはりあそこは大事なところだと思います。
貫太師ご自身も「『能をやっている役者の芸を見る』というところでしょうか。」とおっしゃつてましたもの!!

そうそう、貫太師のお言葉といえばですねぇ・・・これは、能楽師としての気持ちと能楽堂運営者としての考え方だと思いますが、

「県民の能を知る会」としては、初めて能を見る方、家庭にいる方たちに来易い時間、ということで、平日を宛てています。
解説と狂言一番・能一番という組み合わせで2時間。それが休憩なしで座っていられる限度だと思いますし・・・
(その前に、いろいろ工夫を重ねていますが、お席が窮屈で申し訳ありません、とのお言葉が)
ですから、長い物、大曲というのは、なかなか、取り上げられない、取り上げても今日のように、カットせざるを得ないところがあります。

だからといって、先の□□ホールの件については、ホールからそういう依頼のされ方をしても、
「自分で納得が行かないものはお受けしません。」とおっしゃっていました。

これは、歌舞伎でも同じなんですね(*^^*)
歌舞伎の場合は、もう少し、庶民生活のホームドラマみたいなものがあったり、わかりやすいスペクタクルもありますから、
能よりは楽な部分があるようですが(^^ゞ
それでも義太夫が入るものはとっつきが悪いでしょうし、この頃はイヤホンガイドなどというバカな事が受けていますが、
間の静寂を重要だと思う演劇人にとっては邪道以外の何者でもありません。

歌舞伎役者の立場でも、
市川猿之助のように、誰にでもおもしろい歌舞伎を、と大衆化を目指す人もいれば、
中村吉右衛門のように、歌舞伎と言うのは、昔から、芝居小屋に通いなれた人が、ちょつと一幕覗いてこよう、
という通の間で育ってきたものだ、と言い切る人もいます。
しかし、二人ともそう言いながら、猿之助は、埋もれてしまった作品の掘り起こし・通し上演・若手の育成などで、
歌舞伎に新しい息吹を与え、
最初のうちは、あんなのサーカスだ、と猿之助歌舞伎を蔑視していた連中、あの女帝歌右衛門でさえ屈服させて、
「世界の猿之助」となりました。
吉右衛門のほうは、といえば、通好みの歌舞伎役者としてだけでなく、TVの「鬼平犯科帳」で顔を売り、
歌舞伎外の公演で観客を集めています。
個人的な見方ですが、今の歌舞伎界は、「東の吉右衛門、西の仁左右衛門」といってもよいと思います。

いずれも、大衆化という事をベースにして、観客の裾野を広げ、さらに、その上に高いものを目指していく、ということで、
自分の芸を高めて行っています。

能は伝統芸能だ、高級な芸術だ、というだけでは観客は集まりません。
「芸術の大衆化」ということだけでは反対ですが、観客によく知ってもらうということは大事です。
その上で、能楽師のかたたちも観客もより上を目指して行くことが大事なのだと思います。
時間の流れも鎌倉・室町〜時代とは違います。
徒に割愛する、ということではなく、やはり、改定するべきところは改定し、その時代に生き残ることも大切なことです。
「ハイライト編」という脚本を作ることも大事です。
やはり、貫太師がおっしゃるとおり、初心者にとっては、2時間座りつづけることは大変な難行苦行です。
年寄りには・・・若くても近い人もいる!!トイレの問題もあります。

休憩時間については、掲示板のほうで問合わせがありましたが、やはり、通常一時間に一回は欲しいところでしょう。
ブロードウェイでは、最初の第一幕が90分、そこで休憩が20分第二幕が50分前後ということで構成しているそうです。
それが、人間が同一箇所で、落ち着いて集中できる限界、ということです。
宝塚や四季もそういう時間配分を目指しています。
歌舞伎は、序幕70分で世話物・25分休憩で所作事(舞踊)さらに20分休憩で
当日の主演目の演劇90分〜120分というところですか。
勿論出し物によって時間配分が変わって、真中の所作事は、臨機応変に20分くらいから1時間くらいまで縮めたり伸ばされたり、
また、役者の力関係でも大いに変わってきます(^_^;こりゃぁ、歌舞伎の大きな弊害ですが(;_;)
昼夜でも違いますし、歌舞伎の芝居は、細かく場割して一幕一場とか二場とかその場つなぎに暗転になりますので、
その間にトイレに駆け込むことも出来ます。
商業演劇の休憩時間が長いのは俗に言う「かべす」の為です。
つまり、菓子・弁当・寿司・・・売店の売上の為ですね(^_^;

そのために、「ラマンチャの男」のような特殊な出し物は嫌われます。
あれは、最初日生劇場で初演された為にそういう問題は起こらなかったのですが、
何度目かに帝劇で上演された時、食堂街からの強い要請で、二幕に分けて上演され、演劇ファンからの強い反発を受けました。
そのため、それ以後は帝劇以外の、劇場内食堂を持たない劇場・・・日生劇場・青山劇場などが多くなりましたが、
帝劇で上演される時にも休憩なしで上演されるようになりました。

日生劇場創立に関わった劇団四季の浅利慶太は、当初から「かべす」の演劇への関与を快く思わず、
日生劇場に食堂設備をしなかったのですが・・・一歩出れば帝国ホテルはじめ、日比谷のレストラン街もありますしね・・・(^_^;)
それでも、劇場に弁当持ち込む日本の特殊事情を考えて、
ロビーの中で食事などができるようにテーブル&ソファなど充実させたのは彼の力です。
しかし、やはり、それだけでは不便と言われて、劇場の上に、殺風景な食堂を作ったのは日本的な情景でした(^_^;

本当に演劇が好きなら、劇場の中で食事したいなどと考えたりはしませんが(私は大嫌い!!絶対否定!!!)、
日本人の「芝居を見に行く」感覚は行楽なんですね・・・ゆえに芝居見物イコール弁当♪
嗚呼!!

そうそう、「ラマンチャ」の場合、開幕前にちゃんと「これから2時間20分は休憩がありません」というアナウンスがはいりますが、
先日の「オイデイプス」では、そういう告知なしで2時間突っ走られてビックリしました(^_^;)
一応、休憩時間のチェックで、通しらしい、というのは、開幕前にわかっていましたが、アナウンスがないので半信半疑でした。
幸四郎の「オイデイプス」の時は、同じ蜷川演出で休憩ありましたからね(^^)
幸いトイレはナントか持ちましたが、母は通路際の席を幸いにトイレに立ちました。

上演時間というのは、観客の為に大変大きな問題です。
早く見て早く帰りたい人もいるかもしれないし、やはり、ひと息ついて、一幕ごとにフレッシュな気持ちで見たい人もいるでしょう。
演者のほうとしては、早く帰りたい、という気が強いでしょうし・・・。
劇場運営者としてはもし、休憩時間をつくるとしたら、その間をどうもたせるか、が問題になるでしょう。
トイレの設備・休憩場所・売店の設置となれば、ごみの始末は?となりますよね・・・(^^)
それ以前に開演をずらすか?終演をずらすか?それによって観客動員も変わってくるかもしれません。

初歩的な問題ほど奥が深いという典型です(^_^;





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