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2008年
1月9日(水)

宝塚月組
A-"R"ex

瀬奈じゅんって荻田公一と初めてだったんですってネェ!!
ビックリ(^_^;

えー!っというわけで月組見てきました(^^ゞ

おかげさまで、今日は母のデイケアの日でした!
このチケットを取ったときは、母もそんなに悪くなかったもので(去年の10月頃かな・・・)、
暮れには、もう既に二回ほどチケットをお釈迦にした後でしたから、随分心配しました(^_^;

でも、とにかく行けました\(^^)/

私は、宝塚は本公演(大劇場→東宝劇場)しか見ない主義なのですが、
今回は、一寸虫が知らせて取っておいたのです(^^ゞ
よかつた!!

まあ、瀬奈じゅんが、ということも有りますが、ナンタッチ矢代鴻退団です(;_;)号泣
どうして、そんな恩知らず、無謀なことが出きるのよ!歌劇団(;_;)ギャア

矢代鴻がいなくなったら、パリの匂いのする女性の役が来たらどうするの?
あの歌唱力をどうするの?
某オジサマサイトで、矢代鴻がいなくなったら、オギーはどうする?って書いてあったけど、
オバサンだって、どうしよう、と思う(^_^;涙、涙・・・。

で、まあ、その矢代鴻を送る舞台でもあったんだよねぇ(^_^;
あんな役もらったら、辞めるっきゃないか?!・・・良い役で、良い演技でした。

まあ、その前に、このカンパニーの皆様、よくあの長台詞を覚えたネェ・・・・。
しかも、噛まずに!えーっと、主役の瀬奈君は一寸カミマシタケド・・・(^_^;
宝塚の生徒ということでなく、みんな、役者として一皮向けたんじゃない(*^-^*)

出雲綾さん!素晴らしい!!ただ女優と言うだけでなく、
未沙のえるに対抗できるほどのショーウーマン振りm(__)m
舞台を進行させ、ユーモアと余裕で仕切って行く、昔から見ている滝ちゃんではなくて、
まったく女優の出雲綾でしたm(__)m
役としてはアテナイの女神アテナ。

大体、これは神と人間が区別がつかなかった頃の話。
神と人間が台頭に取引をしようとしていたころの話、と言うことになっていまする
その話の中に主役として登場した役者、それが何時の間にやらその役のままの人間になっているわけ。

「筋ガキ」と言う言葉が何度も飛び交うのは、役者が役を演じているのか、
人間がたった一度の人生を舞台で演じるように考えている、ということなのか、それは、観客の受け取り方次第です(^^ゞ
あー、役名もね、その演じるキャラの比喩だと思っても良いんじゃないでしょか(^^)

アレクサンダー大王の駆け抜けるような人生を・・・というのはプルターク英雄伝の中に置いてきて、
荻田公一の描くアレクサンダーは、アレックスというナイーブな若者です。
いや、実際のアレクサンダーもナイーブではあったかもしれませんが(^_^;
劇中劇と言うことでは無いけれど、人生は舞台で演じられる一幕の芝居のような物だ〜的な演出から始まります。

アレックスは、実力派国王の息子、
父は自分の膝元で甘やかすことを避けて臣下の貴族の子弟と共同生活をさせる。
母は、自分の溺愛の対象として、密着しすぎるように生活している。
しかし、
父は「愛していないわけではない」と言い、
アレックスは「一度でも甘えたかった、頭をなでられたかった」と言う。
母は「愛していると言うわけではない」と言い
アレックスは「そんな言葉を聞かされて平気でいられるほど強くは無い」と言う。
今でもどこにでもある家庭の情景。

挙句は、母は父を殺します。娘の結婚式の宴に。
「無視していられるうちはよかった。無視できなくなったから刺せと命じた」
その時、アレックスはどうする?どうしたらいい?
この母子関係は、ちょっしたハムレットとガートルードです。
この恐ろしくも魅力的な、怨念の塊のような王妃こそ矢代鴻の独壇場でした\(^^)/
フィリップの萬あきらは、いつもほどの冴えがないなぁ(^_^;

そうそう、萬あきらは、この父王フィリップと、アレックスに滅ぼされるペルシア王のダリウスの二役を演じます。
でー、ダリウスが問いかけるのね、アレックスに。
「私は誰かに似ていないか?」と。
そういえば、誰かに似ている・・・と頷くアレックス。
「そうだ、私はお前の父に似ているのだ。なぜならお前の父もこの私も、お前が越えなければならない壁なのだ」
ウーム、これ、ここで言って欲しくなかったなぁ・・・これは観客に悟らせてよ!と思う。
でも、これをここで言わせなくちゃならないのが宝塚でもあるんだけど(^_^;

作家って父親殺しが好きですよねぇ・・・まあ母親殺しも好きですが(^_^;
要するに親殺しが好きなんだ・・・何故か?それは作家の生理なんだろう、と思います。
んー、作家は、自分以前の先輩や恩師、自分に影響を与えた作家を越えたい、という思いが常にあるからね(^_^;

しかし、この台詞書いたのは荻田公一という男性作家です(^_^;
まあ、いつかも話題になったけど、作家は両性具有だけど、ね(*^-^*)
ここまで冷酷に夫を殺したい妻の気持ちを書けるのかな?

母の信仰の教祖、デイオニッソス・・・誘惑と快楽・そして狂気の神。
「“デイオ”と呼んでくれればいい。デイオとは神のことだ」
甘えたがりの弱い人間の最後の行き場としての存在意義を主張するデイオ。
葡萄と葡萄酒の神、そして薄汚い蛇だというデイオを、霧矢が、不気味な熱気とともに演じるんだけど、
ちょっとキャラに無理があるなぁ・・・。
この人はストレートなもの、悲壮なもの、明るい笑いやペーソスというには素晴らしい展開の仕方を見せるが、
こういう、ちょっとひねった役(ひねくれた、と言う単純なことではないよ!)には、もう少し経験が要りそうだわ♪
プトレマイオスになると途端に、こちらが本役です、みたいにやりやすそう、になるのは笑っちゃう(^_^;
今回は、あの膨大な台詞を克服したと言うことでオーケー、と言ったら、傷つくか?!

台詞の内容と台詞の意味の把握は出来ている、と言う意味でだよ(^^ゞ
自分がキャッチした台詞の意味を観客に言い聞かせられるテクニックがあるのだから、
そのテクニックの基礎になる部分の雰囲気をもう少し、ということね。

台詞、台詞と何度も言うけど、これはある種荻田公一の台詞遊びのショーでもありそうだわ(^^)
色々な警句・冗句をふくんだ喜怒哀楽の台詞が飛び交い、おー!と思わせておりますが、
では、その台詞が紡ぎだすものは何か?と言うと、台詞の断片がキラキラしているだけで、
それが舞台の上に積み重なっても何を構築しているか、というのは不明です。

ただ、キラキラした台詞が舞台を飛び交っているのは楽しいけれどねぇ(*^-^*)
たとえば、デイオが戦いを辞めないアレックスを追求して、ついに言う
「お前は絶望の淵が見たかったのだ!」なんてのは、とても魅力的!
そうです(^^)人間は怖いもの見たさで、自分を追い込んでいく。
強ければ強いほど、自分の限界を見極めたい、限界などあるものか、などと言いながら、
自分自身の絶望の淵を覗こうとするのですよ(^^)

私も、「源氏」の紫上の項で書きましたけど(^_^;
「出産という生の淵から地獄を覗くことのなかった紫上は、老いて行く自分という道筋から死の淵に立って地獄を覗いてしまいました。」
って。
紫上とアレックスを比較するのは変?
でも、ナントナク分かるでしょ・・・自分自身で絶壁に立ちたがる気持ち(^_^;

なぜ、死の淵を覗くのか?
なぜ、絶望の淵が見たいのか?
それは、その宿命を与えられた者しか分からないのでしょうね。

さて、アレックスの瀬奈じゅん!
この人は相変らず育ちがよくて、王の子としてふさわしい(*^-^*)
でも、今日の瀬奈はいつもの明るい若大将ではなく、大きな諦観を抱いたナイーブな若者です。
こんなに恵まれた環境の中で、この人はどうしてこんなに静かな諦観を抱いているのだろう、と言う人です。
日本で言えば上杉謙信、いやガックンのじゃなくて、もっと日本史の中で想像できる謙信ね(^_^;
謙信も凄い「諦観」の中に戦国武将として生き抜いて行った、と思うんだけど、
今回のアレックスは、その線で近いかも♪

今回の最大の収穫は、この瀬奈の「諦観」かな(^^)
それがあるからこそ、この芝居が軽くもダサくもならなかったんでしょうね。

ギリシア文化の中に「テオリア」という思想がありますよね。
「観想」と言う意味に訳すかな・・・。そういう観想の中から生まれた諦観というのかな。
こないだのMAHOROBAは悲壮感がないのが一寸残念、と言う所でしたけど、
今日は、その悲壮感が無いところがいいです\(^^)/
大きな諦観の中に身を沈めて、さらにその中を漂いながら、
絶望の淵を目指して行かなければならないアレックスと言う若者を、
瀬奈は等身大のままで、しかもスケールを損なわず演じ切った、と思います(^^)v
それは、
ある種、瀬奈の男役の美学を求める姿とも一致しているからかもしれない、と、一寸思いました。

今、瀬奈はTOP of the Topsの道を歩み始めてしまったでしょ・・・後一年か、何年かの中に
TOP of the Topsとして完成させなければならない男役の美学。
誰も助けてくれない胸突き八丁の登り道・・・
先頭を切る者にしかわからない孤独とプライド。
アレックスが駆け抜けたように、瀬奈も自分のやり方で駆け抜けていかなければならないよね・・・。
今、瀬奈がアレックスを演じる姿こそが、アレックスが人生を演じた姿なのかもしれません。

アレックスの勝利の女神として伴走者として、あるいは最後のマドンナとして
ニケという女神を彩乃かなみが演じます。
彼女も美しくナイーブでありながら、強く雄々しい雰囲気と、
ちょっとピーターパンに寄り添うテインカーベルを思わせます(^^ゞ
アレックス自身がひょっとしたら、永遠の少年ピーターパンだったのかもしれない、とも思いました(^^ゞ

今回、瀬奈の相手役は、母親役の矢代鴻です。
王位を望んで息子を育て、その息子が王位を継いで、息子を失ってしまった、と嘆く母王妃。
いや、矢代鴻を送るにふさわしい舞台でした(*^-^*)

そうそう、アレックスとアテナの問答で、
アテナがエジプトに行って、「私の名はイシスよ」という時、
アレックスが
「アテナはエジプトではイシスと呼ばれるのか?アテナとイシスは同じ神なのか?」と問うのです。
すると、アテナが、
「同じ神ではないけど、人間の意志が望む神は同じ、それをその国の名で呼ぶのです」
(まあ、↑そんな風に)と、答えます。
これね、私も色んな場合で感じていたのでお〜♪
簡単に言うと、ギリシア神話のアフロディテがローマ神話でビーナスになるわけです。
キリスト教の教えの中の原罪つて、仏教なら前世の罪業でしょ。
人間が求める神って、地域が変わり国が変わっても、そして時代が変わっても
そんなに変わりは無いんじゃないでしょうか(^_^;
それは人間自体がそう変わりようが無いから?かもしれないんですが・・・。
まあ、最近は、分からない=理解できない人達が増えてますから、
「人間というもの」も変わっているのかも知れませんけど、ねー(^^ゞ



。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

ちょっと、これに触発されて、大昔の「ブリガドゥーン」のテープを聴きました。
いやぁ・・・これはあまり宝塚人気としてはパッとしなかったんだけど、私は好きでした♪
鴨川先生もかなり執着していたと聞いてます。

これは、百年に一度此の世に現れる村に迷い込んだ二人の青年、トミーとジェフの物語なんだけど、
やはり、舞台の中で演じられる人生の虚実が現実の観客の中に問いかける、という作品です。

宝塚では夢の中に生きようとする鳳蘭のトミーに勿論焦点を当てていました。
でも、
私としては、現実世界の中に戻ろうとして戻りきれないジェフが、但馬久美の大変な名演と共に印象深い作品でした。
今、これを出きるコンビ、というとね、やはり、瀬奈と霧矢ですよ(^^ゞ
トミーはね、純粋で、やはりそのままスターの瀬奈でいいと思います。
婚約者さえ捨てて、夢の中に生きよう、というのがわがままに見えないような純粋さは瀬奈の独壇場です♪
ツレも、そういう人柄の良さ、純粋さを全身で演じるのではなく、醸し出すことの出きるスターでした(^^)
おまけに、スゲー大根なのに、この台詞こう言わなくちゃ芝居が壊れる、というような
芝居のポイントになるような台詞を、これ以上巧くは言えない!という言い方をするのですよ(^^ゞ
いままでのあの大根はなんだったの?
この台詞を際立たせるために、あんな大根ぶりをしていたの、と言う感じでした。

ジェフは、ストレートに現実を生きる青年としてているのに、
それなのに、夢の世界があまりにも現実のように思える自分に戸惑う、というちょっと小難しい役です。
霧矢のデイオは、ちょっと元のキャラに無いもので不満な部分もありましたけど、
今、このジェフをやって、現実の世界に戻ろうとして戻れずあがくジェフが出きる人って、
霧矢か・・・もしかして、彩吹と・・・蘭寿はできるかな(^_^;
朝海と水なら出来たね(^_^;・・・そう考えると一寸惜しかった(^_^;
寿美礼様のトミーはちょっと霧矢のデイオのようだわ(^_^;

瀬奈と霧矢なら名コンビて゜すよ(^_^;
ムム・・・もう手遅れだろうけど、見たかったな(^_^;








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