8月12日(木)

勧進帳/半七捕り物帖

今日は歌舞伎に行って来ました。

八十助の弁慶、勘九郎の富樫、福助の義経で勧進帳というわけで、切符とるのも大変だツタみたい。
(これは、おふくろ様が一日半電話にしがみついて下さったお陰です)
といえども、八十助は、ちょっと「二ンじゃない」、
ま、それで、あそこまでやれば文句はないといえばないけれど、木戸銭払う身にとっては、
勉強会じゃ無いんだからね、ってこともいいたいわけさね。

勘九郎はよかったわよ!マンマだもの。「家の芸」で悪けりゃ大変よ。
「家の芸」でも悪かったのは福助、期待してたのに、イマイチというより全の然ダメ!
おふくろが「座りかたがなってない」というておったが、それ以前に精神的に義経になってない気がする。
芝かんがついていてどうしちゃったんだろう?

その福助も、後の芝居のおきゃんな町娘の方はよかった!
こういうのやると、あの人の現代っ子の面が前面に押し出されて生き生きしているのです。
たしかに 、主役を張る華やかさもあるけれど、要するに安っぽい感じが抜けないのだな。
橋の助は不器用でニンにはまるかどうかで出来不出来が激しいのだけれど、安っぽくはないですよ。
うまくいかないものですねぇ。
大体、大方「裏の評判が悪い−性格が悪いとか我侭とか」福助の方が主役向き、
あいつはいいやつです、といわれる橋の助が脇役向きというのは分かりますよね。
人生ってそういうもんだもの。

勘九郎は二役で、口先だけの強がりやの弱虫の岡引きは良かったです。
お人好しのおっちょこちょいで子分にも逃げられる、そのくせ福助扮する子町娘には惚れられる。
「憎めない奴」のほうはよかったけれど、本来かっこいい筈の「三河町の半七」が嫌みな仕上がりで、
おふくろが「十年早い」といっておったけれど、あっしゃぁ「二十年早いかな?」と思うたです。

新派の英太郎が福助の母親役で出ていて、良い味をだしている。
江戸というよりは明治の雰囲気が強いと思うのは僻目か。
それにしても、立っても、すわっても良い姿で、新派での扱いはご時勢で仕方ないとはいえ可哀相だ!
評論家の先生、なんとかしたって!
この人の「女形芸」はもう、立派に人間国宝だよ。

脇役といえば、勧進帳でも芝居でも、吉弥が良い味をだしている。
勧進帳の「常陸坊海尊」はただ白髪の鬘をかぶって座っていれば良いと言う役じゃないのだ。
「最後まで、この人がついていれば、義経の最後も変わっていた!」というほどなのだから。
それなりの存在感と、弁慶の芝居を邪魔しないだけの配慮がいるのです。
芝居のほうは、もう、独壇場、田舎の茶屋の親爺にしては垢抜けすぎているような気もするが、
ああいう世話物の味を出せる人はいないよ。この人の「釣り船さぶ」よかったものね。
こっちも「人間国宝」ですよ!

永山社長様、先刻ご承知でしょうが、どうぞ、こういう脇役の人を大事に大事にして下さい。
主役だけでは芝居はできません。
ってなこたぁ、先刻ご承知ですよね。
学生時代から、好きが昂じてそこまで上り詰めた方ですものね。
とよけいな事まで書きたいくらい、脇がよかった8月公演でした。



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