3月23日(金)

金沢旅行をしてきました。
金沢の旅については、母の日記のほうでぐちゃぐちゃと書きましたので、こちらは見学したところについて。

泉鏡花記念館と兼六園について。

泉鏡花記念館

泉鏡花といえば、新派の「女系図」から始まって、玉三郎の「天守物語」「夜叉ヶ池」「日本橋」、
浅丘ルリ子の一連の鏡花モノ・・・などなど、私としては演劇作家〜戯曲家として、結構大事な人なんだけれど、
今時はなぁ・・・という感じの人でもあります。

ただ、近年は「泉鏡花文学賞」という文学賞が設定され、五木寛之かなんかが選考委員になっている、ということで、
名前だけは知っている、と言う人たちも多いかも・・・でも、それだって一部の文学愛好者だよねぇ(^_^;

金沢駅から出ている「フラットバス・此花ルート」の第9番札所、というのかな、尾張町2丁目で降りて、
横丁の道を10分くらい歩くと、なにやら、料亭の羽目板を復元したような、漆喰とこげ茶のぐるりに囲まれた建物があって、
さすが、金沢!こんなところに割烹料理か?しかし大きな店だなぁ、高いんだろうなぁ・・・と思ってその塀沿いに歩いていたら、
なんとそこが泉鏡花記念館でした(^_^;
おまけに、なんのことはない、私たちが歩いていた一本前の通りに出ると、そこはメインの大通りになっていて、
菓子文化会館、つまりは森八なんだけど、があったりするわけです(^^)
平べったく言えば、森八の裏が泉鏡花記念館で、同じ敷地内、と言ってもいい、
だって鏡花の庭から森八の裏口へ入れる、というよりは森八の裏から、鏡花記念館に抜けられます、ということです。

で、その鏡花記念館。入場者は私たちのグループと、先行の夫婦連れのみ。
また、私たちが出る頃、老母&熟年娘の親子連れ一組。つまりは常に限定二組!というようなまばらさ(;_;)

泉鏡花、本名鏡太郎。
明治6年11月4日、金沢の彫金師清次(工名政光)、母鈴(通称すず、江戸下谷生まれ・父は能・葛野流太鼓師中田豊喜)との
間の長男に生まれる。
明治15年、9歳の折、母すず、産褥熱にて死亡。
明治23年、17歳で尾崎紅葉の作品を読み、作家を志望して上京。翌年10月紅葉に入門を許され住み込みとなる。
明治32年、26歳、紅葉の新年会で、神楽坂の芸者桃太郎を知る。本名伊藤すず。
後の鏡花夫人であり、この夫人との恋愛が「女系図」に反映していることは余りにも有名。

展示は、生原稿・高野聖の初版本、或いは鏡花独特の浪漫と装丁美を尽くした本
(「白鷺」「日本橋」「なにがし」「絵本辰巳講談」などなど)など書籍の部類、
新派の舞台写真やそれを描いた鏑木清方の美人画など、鏡花ワールドの幻想美の世界・・・

ここでいいな、と思ったのは、各展示室の前に置かれたガイドペーパーです。
第一展示室には、この時期「鏡花・美の系譜」として、先に書いた「美しいひと」「うつくしい本」として、
装丁美に凝った本が並んでいますが、その著書からの抜粋が掲載されていて、鏡花独特の美文を味わうことができます。
鏡花を知ってココに立ち寄った人は、懐かしく読むでしょうし、
知らずに読んでみれば、レトロなジャパネスクの魅力を味わえると思います。
もっとも、鏡花の台詞はやっぱり声に出して読まなきゃその良さが分からないわけで・・・そりゃちょつと、ねぇ・・・

第二展示室のガイドペーパーも、「受けつかれる世界」とはなっていますが、コンセプトは第一と同じです。
ただ、ここは、さすがにご時世で、オーでイオコーナーがあり、「瀧の白糸」の映画のラストシーンと、
名弁士と言われた松田春翠の活弁を聞くことができます。
「春昼」という作品のジオラマも展示されており、その場の部分の朗読も行われています。

常設展示室は、鏡花手回りの煙草盆・煙草入れ・煙管・着物・雪駄・旅行鞄・角帯・眼鏡・硯箱・・・などなど。
殆どが、ウサギをモチーフにしたものです。
これは、「自分の生まれた干支から数えて7番目の物を持つと縁起がよいと、鏡花の母が水晶のウサギのおもちゃを与えたのが始まりのようです。
摩耶夫人像なんてものもありました。これはレプリカですが、一生を母恋に過した鏡花らしく、
亡き母を偲んで金沢の仏師に作らせたものだそうです。
お釈迦様を懐に抱いていらっしゃる「ふところご」という珍しいお姿の仏様だそうです。

いやしかし、わかっちゃいたけど、こうやってあらためて見ると、鏡花のマザコンて凄い!!!
私は絶対やだな(^_^;

だいたい、奥さん、お母さんと同じ名前でしょ?
そのあたりから惹かれるきっかけになったのじゃないでしょうか?
おまえは、俺のお袋の生まれ代わりだよ♪なんてのが、女を口説く殺し文句になるのかしらねぇ・・・??
それで、女は嬉しい!と思います??
私はずぇ〜〜〜ったい思わないな!!

まぁ、大体が源氏物語もマザコンと言えばそうだけど、でも、源氏のマザコンは対藤壷にだけですよ!
まぁ、六条御息所に対しても、最初はそういう気分もいくらかあったかも知れませんけれど、
(六条御息所の方には源氏に対する独占欲として、そういう気分もあったのではないか、と私は思ってますが)
藤壺に対してだけ、母親に似ているから惹かれる、ということで、
まぁ、紫上にしても、女三宮にしても、今度はその藤壺がもとになるけれど、
じゃぁ、その大本の母恋はどうなるか・・・ってぇとねいつの間にやら、
源氏は見上げる人に憧れる癖がある、ってふうに変わってしまいますからね・・・。


兼六園

ご存じ、名園中の名園!岡山の後楽園・水戸の偕楽園とともに日本の三公園のひとつ。
宋の李格非の「洛陽名園記」にある宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六条を備える、と言うところから、松平楽翁が命名した。
金沢市旧金沢城東南の公園。
文政(1818−1830)年中、前田斉広(なりひろ)が創設。嗣子斉泰の修補。

というのは、広辞苑からの転記なのだけれど、パンフレットの方には、

もともと兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭であった。
加賀藩五代藩主綱紀が1676(延宝4)年、この地にあった作事所を廃止、蓮池御亭(れんちおちん)を建て、
その庭を蓮池庭(れんちてい)と呼んでいた。これが本園の始まりと言われている。
1759(宝暦9)年の大火で蓮池御亭や茶室など蓮池庭が全焼した。
17740(安永3)年には11代藩主治脩(はるなが)によって蓮池庭が復旧されるとともに瀧なども新たに架けられた。

と書いてありました。
まあ、パンフレットの方も、そこから斉広くんが登場するんだけれど、こちらは読み方が「なりなが」とかな振ってありました。
アレレ??

で、まあ、
この12代斉広公が、1822(文政5)年に、東南の平坦地、千歳台一帯に豪壮な隠居所竹沢御殿を完成。
その庭に辰巳用水を取り入れて、曲水を作り、各種の石橋を架けた。
斉広が依頼して、白川楽翁が兼六園と命名したのは上のとおりだけれど
竹沢御殿完成後2年で斉広が死去すると同御殿を取り壊した13代斉泰は、霞ヶ池を広げ曲水の新たな取り入れも行い、
以前からあった蓮池庭と調和するように作庭した。
こうして、今に見る雄大な回遊式庭園の基本的な構図はでき上がった。

――と、まぁ、しちめんどくさいことを書き写したのは、ちょつと感じるところがあったからです(^^)
今は触れるほどのことはないので、私だけの心覚えさ(^^ゞ

いやいや、確かに素晴らしいです。ちょうど梅には遅く、櫻には早い季節でしたから、大して期待はしなかったのですが、
名残の梅がちらほらと彩りを添えて、桃も少しはあったし、日陰には水仙も少し残っていて、
花盛りならば、更に、と思うほどの美しさがありました。
夕顔亭(園内で最も古い建物)・時雨亭(復元)などという茶室は、みんな有料の御茶屋になっているところが気に食わないけど、
維持・保存にもお金かかるしね・・・強くはいえない(^^ゞ
日本最古の噴水と言うのも見ました。
1861(文久元)年に城内二の丸の居間先に作った噴水の試作品らしいとのことで、通常は3.5メートルの高さまで上がるそうです。
でもねココが一番素晴らしいのは、きっと雪景色の時ですよね(^^)
冬に、雪の頃にもう一度来たい!!と、切実に思いました。しかし、歩くの大変そう(^_^;

で、この兼六園の一角に成巽閣(せいそんかく)という建物がありまして、国の重要文化財に指定されています。
もとは、13代斉泰公が竹沢御殿の一隅に造営した殿閣で、母真龍院の隠居所として使用されたものだそうです。
金沢城から東南即ち巽の方角に当たる、ということで、始めは巽御殿と名づけられたのですが、
明治7年、兼六園の一般公開の折「成巽閣」と改称されたそうです。
敷地2000坪建坪300坪、二階建て、寄席棟造り、柿葺(こけらぶき)の建造物です。
階下は武家書院造り、階上は数奇屋風書院造りとし、これらを一つの棟の中に巧みに取り入れた巧みな様式となっており、
幕末武家作りの遺構としては、代表的で、他に類例がないものと高く評価されている。
とのことです。

確かに、藩侯の母の隠居所に相応しく、小ぶりではありますが、其処此処に、贅を凝らした(ギヤマン・金箔など)細工などもあり、
また、大胆な色使い(二階の「群青所見の間」などは天井を白群青、壁は紫、床壁に黒)もあり、
女性的で優しく、且つ怪しい雰囲気を持った御殿です。

当日は、ここでお雛様と雛道具の展示会があり、見たぞ〜!!
この間の国立博物館で、見損なったのが、すごく残念だったので感激!感動!

まぁ、小さくて可愛らしくて、精巧・緻密!!
代々の御簾中(加賀宰相の奥方は言わないか?)の嫁入り道具としてあらゆる面から、
当時の名工が腕を競って仕上げたであろう、と頭がくらくらするほど素晴らしいものばかりです。
本物の、姫君様のお道具類もかくや、と思わせるそれぞれです。
まぁ、大体、本物を作った名工たちが、これらの雛道具も、それにあわせて作ったのかも、と勝手に推測(^_^;

いや、しかし、百万石ですね!なんと言っても百万石よ!
これを思えば、おまつさん!あなたは偉かった!
芳春院とあがめられ、楽隠居の身でありながら、江戸に人質に出て、それで加賀百万石を守り通したんだもの!!
こうなると、やっぱり、女は賢くなくちゃ家が保たない!!
いやいや、「女が」ですね(^^)