8月27日(月)

27日から三日間、蔵王温泉に家族旅行しました。
出かける前は、蔵王高原をハイキングして、山寺を見て、斉藤茂吉記念館を見て・・・、と気宇壮大だったのですが、
やはり弱者揃いのねもん家一同としては、そうそう回りきれず、第一日目は「童の里」という地元の美術館、
第二日目は蔵王高原ハイキング、最終日は「斉藤茂吉記念館」とはなりました。
その旅行期間の珍談集は「母の日記」に書きましたが、結局は交通利便性が、都会ほど蜜ではない、ということもあります。
まあ、時間の流れが違う、ということですね。
結論的に言えば、良い旅でしたけど(^^)

27日「童の里

これは、山形藩主の最上義光の遺品を中心に、県内各地から集めた五棟の建物を展示場とした地元の博物館です。
五棟の建物 1.行在所 2.庄屋の蔵 3.古しえの家 4.雅の蔵 5.彌平治邸

1.行在所 ― 明治14年の明治帝の東北巡幸の際、天皇の休息所として建てられた建物ですが、
なんと、当時の出羽の大富豪の半沢家が、先に、行在所を建造した各地に問い合わせて、
10年の歳月をかけて作ったのだそうです。
畳の敷き方が、天皇が次の間から玉座の位置にお通りになるために、一直線に敷いてあったりして、ちょっと面白かったです。
で、まぁ、内部には皇室・皇族からの拝領品・その巡幸時の記念写真などが若干飾られているのですが・・・
それで、ここからが笑い話なのだけれど、
天皇の玉座(椅子)というのは、いちいち各地巡幸に際しては、天皇と一緒に運び回るのだそうですよ!!
で、行在所を後に遺してもポイントになる御座がなければお・ま・ぬ・け!ではないですか?
で、宮内庁に頼み込んで、「高御座」をわざわざ作らせて貰い、それを玉座を置いた処に置いて、
明治帝のご真影を飾ってあるのです。
つまり、天皇が一度も座ったことのない高御座(^_-)
で、これは、宮内庁との交渉の結果なのか、本物の高御座は畳一畳ぶんの大きさのはずなのに、ここでは二畳分になってます。
これなら、ゆったり○できますねぇ〜(昔、某帝が、司召しの日に女官と高御座の中で戯れて、というのは有名な話)
おまけに、この半沢家の家紋が卍なのですよ。
それで、たまに来る外国人見学者などが、なんで、この家はナチスの紋章を飾ってあるのか?と質問するそうです。

2.庄屋の蔵 ― 明治中期に建てられた河北町の堀米家の米倉で、二階は貴重品倉庫として使われた二階建て土蔵です。
玄関部分だけは山形市の老舗後藤又兵衛旅館の玄関を復元していました。
1.の行在所で、もう、帰ろうか、と思ったほど、馬鹿馬鹿しい、と思ったのですが、
ここからがよかった!!
内部には、山形藩の奥方・姫君など上臈の調度品が展示されてあり、どれも大変保存状態がよいのです。
彼女達上臈も、湯治に来たらしく、その滞在湯治中の諸道具(手水桶・鏡台・化粧道具など)・遊戯類(双六など)など
がきちんと展示されていました。
維新の三舟(高橋泥舟・山岡鉄舟・勝海舟)の掛け軸や、渡辺崋山の掛け軸があったのにはびっくり!!
後、蔵王温泉を訪れた文人・墨客(深田久弥・里見頓など)の色紙類の展示。
豪商・豪農の栄華の縁をうかがわせるものも。

3.古しえの家 ― 宮城県古川市の民家。江戸後期に作られた平屋木造建築。
雪国のため、柱は50cmほどもある太さで、荒々しく手削りされています。また、釘・楔などを用いない組み立て工法です。
内部では、旅館の帳場・明治時代の銀行の金庫・名和好子さんのこけしコレクションなど雑多なものを展示。
ちょつと、白川郷の合掌造りの豪邸を思わせる建物です。

4.雅の蔵 ― 中山町長崎の富豪・石崎家の蔵座敷です。明治中期の二階建て土蔵です。
槐(エンジュ)という、贅沢で縁起がよい、といわれる木をふんだんに使っています。
この槐(エンジュ)という木は、紫檀・黒檀も叶わぬ高価な木なのだそうです。
内部は、山形藩主・最上家・水野家のゆかりの品々で、時間がなければ、ここだけ見れば十分です。
というより、ここと、2.庄屋の蔵だけでもいいかな・・・というくらいで、行在所はまあお笑い種ということで(^_-)

山形藩というのは、藩主が5回に亘って変わっているそうで、最初の足利氏とか米沢藩主の上杉氏は知っていても、
山形藩主?という感じでしたが、最上氏なのですね。
で、ことに最上義光と言う人は名藩主だったようで、いまだに親しみを持たれているし、遺品なども大事にされているようです。

武具・刀剣類・刀の鍔・小柄・印籠・根付・煙草入れ・・・素晴らしいコレクションです。
ことに、鍔と根付は好事家が来ると一時間でも二時間でも見ていく、と説明がありましたが、ごもっとも(^^)
ここは、本当によかったです。

5.彌平治邸というのは、ついに時間切れで見られませんでしたが、先ほどの 4.中山町長崎の石沢家の母屋です。
江戸末期の木造建築で、最上川の舟場に位置していた家を復元したそうです。
京文化の影響を深く受けた細めの柱を特徴とした造りで、内部には、古美術が展示されていたそうです。
ここは、おみやげ物と休憩所になっていたので、お呼びじゃないわ、と、どうせ、バスの時間も迫っていた、と言うこともありますが、
まるで馬鹿にして見なかったのですよ、損した〜〜(;_;)

要するに、ここは凄く素晴らしいものと、馬鹿馬鹿しいものが玉石混交なのです。
もったいない!と思いますが、ま、あちらの方達にとっては、どれも同じように大事なんでしょうけれど、・・・。
それにしても、価値のばらつきが気になりました。
こんなにいいものを、埋めているのはもったいない、とも思いますし、あんなもの見せられても・・・と言うこともありますし。


29日「斉藤茂吉記念館

当然のことながら、日本を代表する歌人です。近代歌壇を形成した!と言っても言い過ぎではないと思うのですが、
「斉藤茂吉記念館」と、ヤフーで検索しても出てこないのです!
山形をつけてもダメ!
で、結局山形の観光協会とか、ナンタラカンタラの地方サイトを辿ってたどり着いたんですよ。
これは、ちょつと情けなかった!
北村薫の「空飛ぶ馬」という短篇集の中の蔵王を舞台にした短編の中には、ちゃんと、出てきたりしているのですが、
世俗的には受け入れられてないのですね・・・ガッカリ(;_;)
北杜夫のお父さんよ、と言っても分からないわよね・・・(;_;)

と、ボヤキはこの辺にしまして、記念館は山形駅から奥羽本線で2つ目、10分ほどの「斉藤茂吉記念館前」という駅で降りてすぐです。
この駅は、当然無人駅で、電車を降りるときに、車掌さんに切符を渡して降ります。

記念館は駅のそばの小高い丘の上にコンクリートの地上一階・地下一階の現代的な建物です。
設計が誰かは分からないのですが、芸大美術館と非常に似通った感じでした。
一階は、殆どロビー&ラウンジという感じで、茂吉の歌を自身で書いた書を大きく引き伸ばしたものが飾ってあります。
大体が歌碑になっているものです。

斉藤茂吉は山形県南村山郡金瓶村(現上山市金瓶)の守谷家の三男に生まれ、当時の常として、
頭脳の明晰さを買われて、
東京の青山脳病院の院長斎藤紀一(北杜夫著「楡家の人々」の楡喜一郎のモデル)の婿養子となったわけです。
ところが、頭脳の明晰さも向き不向きの方向があって、一高生時代に正岡子規に傾倒し、和歌の道を歩み始めます。
神経科のお医者様より文学方面に大きな才能を示したわけです。
それでも、一応長崎医学専門学校の教授になったり、オーストリア・ドイツに医学留学をしています。
もっとも、留学中は文学書を収集するのに忙しく、膨大な留学費用も、殆どその資金になったそうです。
斎藤紀一氏は病院の後継者には恵まれなかったけれど、斉藤家の名を挙げた立派な後継ぎは得た、と言うわけです。
学士院賞・文化勲章も勿論受章しているし、昭和天皇に和歌のご進講もしたわけですから。

記念館は、それらの茂吉の業績と、「赤光」初版本や、「阿羅々木(アララギ)」の創刊号からの本、茂吉の書・短冊・色紙、
茂吉と、当時の文学者(伊藤左千夫・幸田露伴・島木赤彦・土田文明・・・などとの交友)、茂吉以降の歌壇の状況などの展示、とともに、
茂吉記念館の創立の世話をした守谷家の甥夫婦のコレクションなども合わせて展示してあります。

これが、茂吉愛用の肥え柄杓やバケツなどと言うものがあったり・・・おかしかった!!

茂吉の一生を描いた「斉藤茂吉の世界とその時代」というスライドを上映する立派な映写室もありました。

斉藤茂吉文学賞受賞者の短歌なども展示してあり、本人が書かれているので、
その和歌と字とのマッチングが興味深いものがありました。
いや、茂吉の時代の人たちは、みんな達筆なのですよ。
何方のを拝見しても、それなりの書体を持っていてみんな素晴らしいものです。
ところが、受賞者の時代になると・・・ま、そういう時代です(^_^;

庭には、茂吉の箱根山荘の勉強部屋などが移築してありました。
そういえば、昔はこういう家が多かったなぁ、という感慨を催すような家でした。

しかし、これほどの施設に訪れる人もまばらなようで、残念でした。
でも、山形駅から2駅目10分と言えども、一時間半に一本の停車ではねぇ・・・無理もないです(^_^;
これは何とかするべきだと思うんですけど、「斉藤茂吉記念館前」という駅名が泣きますよ!!


そういえば、ここも、明治14年の天皇巡幸の地になっておりまして、記念館の上のほうに、例の行在所がありました。
時間がなくて見ていませんけど・・・・(^_^;