1月9日(水)

「宮廷装束による『源氏物語』の世界展」
「時を越えて語るもの−史料と美術の名宝−」

行って来ました。新年初の観覧記!
銀座松屋の「宮廷装束による『源氏物語』の世界展」&東京国立博物館の「時を越えて語るもの−史料と美術の名宝−」

実は、昨日(8日)なら、松坂屋の「源氏物語の和紙人形展」も行けたし、
いつもなら、もう一軒、今なら都美術館のMOMA展あたりに行きたかったのですよ。
でも、そうしなかった原因は、国博(東大教授は国立博物館のことこう呼ぶのですね(^_^;)の方で、
共催の東大史料編纂所・画像史料解析センター所長の黒田日出男教授のギャラりートークがあったのです!!

で、まあ、ギャラリートークは二時からなので、松屋「宮廷装束による『源氏物語』の世界展」の方からまわることに。

「宮廷装束による『源氏物語』の世界展」

朝10時、開店を待つ形で、お店の人たちに「おはようございます。いらっしゃぃませ♪むの営業スマイルに出迎えられて、
八階に上って行ったら、ナント、会場前がざわついている!!
こんなに早く?なんで?私開店早々に来たのよ!!なんで?
というわけで、オットリガタナで駆けつければ・・・ヌァ〜ント、Mの宮様ご夫妻が9時30分からお見えになって、
ご観覧の真っ最中なのだとか(^_^;

宮廷装束ということで、殆ど日替わりで宮様方がお見えになっているとのことで、
「昨日なんか、○○の宮様の妃殿下が来て、ひ一歩歩くと振り返ってお尋ねがあるので、前に進まなくて困ったんですよ!!」
と、嬉しそうな店員さん!!
おいおい、てぇっと〜、追い越しちゃいけないってこと??

「えー、ですからね、お急ぎの方には、受付に申し出て頂いて再入場券をお渡ししてますから、お急ぎならご遠慮なくどうぞー」
そんな、アイソよく言われても、アタシャ交通費がかかるのよ!!

でも、まあ、そこそこ混雑もしてきて、さすがに大学の先生もしているMの宮様は話がわかるらしい。
それとも強引なおばさんがいたのかしら?SPの後ろを通って先に通してくださるらしい(^^)
その後、宮様が見ていたところをチェックすればいいんですものね(^^)

で、宮様にはこの展示の監修をしている有識文化研究所の仙石宗久氏が解説に付いているのだけど、
一般見学者の足止めを気にしてか、助手の方達が、その一般人にも解説をしてくれているのです。
これはよかったです!!

展示物と言っても、そう古いものはなくて、明治帝あたりからの者が殆どです。
大掛かりなものは復元品と、宇治の源氏物語ミュージアムから門外初出品で持ってきたというジオラマなんだけど、
このジオラマがよく出来ていて、私のようなミーハーはすぐ喜んでしまいます\(^o^)/♪

四方から回って、六条院の四季折々の生活や宴の模様が見られたり、女楽や、明石上の出産準備の様子もあり、
かと思うと、紫式部が指図して草子をまとめている様子もあり・・・となかなかに楽しいのです(^^)

人形の装束はさすがに良く出来ていて、顔がみんな同じ、というのは難点だけど、まあお雛様のことを考えればね。

装束の展示品としては、「貞明皇后の御小袿」が、チケットやパンフにも使われているので一押し、と言うことなのでしょが、
個人的には、桧扇がよかったです。
映画や芝居で遠目に見るほかには、お雛様の桧扇くらいしか見ていなかったので、
実物の桧扇をまじかに見るや、その贅沢さとしっかりした作りには感激!!
これなら、何枚も贅沢な和紙を重ねて、と言われて納得できました(^^)
そのへんが、今の扇子や舞扇くらいしか想像できない一般人としては、大変参考になりました。

あとは「明治帝第六皇女昌子内親王御料」の刺繍の見事さね。地もいいですけど刺繍が豪華です。
「昭憲皇太后の御小袿」も美麗でしたが、それらが下々の女官といっても、高級女官に下賜されて、「おめり」がはずされて、
実際に着用していたらしい、ということも一興でした。
下賜の御料というのは記念品にしたり飾っておくものではなく、現実に着用してよかったのですね。

で、掲示板でちょつとそのお話が出ていたときに、「宵居の物語」の解説を借用して書きました。
同サイトの管理人斎木様からのご好意でこちらにも掲載させて頂きますが・・・以下

「宵居の物語 http://www.roy.hi-ho.ne.jp/keik/yoii/index.html」というサイトで、
「おめりは袷の着物の袖口や襟の部分で、裏の生地を少し表に折り返し表からのぞくようにする仕立てで、
現代では『ふき』と言います。
裏の色が細く表を縁取るようになるので、裏表の襲ね色目を表すには最適。」とお書きになっていらっしゃいましたが、
私としては、芸子さんの半襟を返すことしか想像できなくて、
そうか、そういう風に返してきる「着方」かと理解始ていましたが・・・

そうしましたら、斎木様から直に書き込みで解説がありました。
その「おめりを外して」ですが、私もあの装束の前で「どこどこっ!?」って感じで観察してきました(笑)。
おめりについては、こちらで引用して頂いてある文章の通りですが、あの小袿には中倍(なかべ)もついてましたね。
表白、裏白で、表から見ると、縁のところから中倍の紫、裏の白が細くのぞいていたと思います。あれが「おめり」です。
あの小袿は衿や袖口にはおめりがあるし、と思っていたら、縦褄(たてづま)のところだけ外してありました。
購入してきた図録でも確認したので、間違いありません(笑)。
本当に、そうして実際に着用していたのだと思うと、また違った興趣がありますよね。

そして、今度は
先日こちらでお話しました「おめり」のお話、私も面白いと思っていたものですから、自分のサイトにも載せてみました。
ものすごく簡単ですが図解しましたので、お時間のある時にでもお立ち寄り頂けますと嬉しいです。
でも、あの時代って平安より詳しくないので、いつもより嘘つき度120%up!って感じのCGになってます
ということで、「宵居の物語」では、素敵なCGがわかりやすい解説と共にアップされています。

そうそう、Mの宮様に、仙石氏が「こちらはTの宮様ご成婚の折のご装束で・・・」と解説しているのにはビックリ(^_^;
あの〜、貴方様のご子息の・・・とチャチャ入れたくなりましたが、よくよく考えれば、
こういう宮家の婚礼衣装なんて宮内庁が考えるだけで、父宮・母宮がどうこうということではないのでしょうね。
とすると、仙石氏が解説しているのも奇妙ではないか(^_^;

そういえば、出口のところに「源氏物語」を映画化した「千年の恋」の衣装を展示してありました。
源氏の直衣と紫上の小袿、それに吉永小百合演じるところの紫式部の女房衣装。
当然のことながら、吉永小百合のが一番豪華だった!!なんせ主役だもの(^^ゞ
意外やそう安っぽくはなくて、それなりに・・・まあ、本物を見た後だとなんか重みが足りないと言うか、
時代を経ていないということもあるかもね。
Tの宮様のご成婚の衣装だって、明治・大正時代のものと比較すると軽い感じがしますから仕方ないかしらね(^^ゞ


というわけで、国立博物館へ。

「時を越えて語るもの−史料と美術の名宝−」

どうせ、いつも一時間くらいで二回りできるのだから、とタカをくくって、のんびり食事して、常設展をちょっと覗いて、
12時半頃、会場の平成館へ。
これがさ、びっくり!!見出があるのですよ!!
半分くらい、回ったか、回らないうちに、もう一時間立ってしまい、あららん、あららん!!

黒田先生のギャラリートークの前に、一通りは見ておきたかったのに、見るもの見るもの、凄い珍しいものだつたり、
大変な史料だったりで、すっとは先に進めないのです(^_^;)
しかも、朝からかなり気合も入れて見ているので疲れても来ていて、ちょっとは休みたいし・・・

仕方ないので、後半は、ホントに駆け足で、どこに何があるかだけ押さえて、15分は休もうと集合場所のロビーへ。
意外に人がいない・・・と思っていたら・・・
時間になった途端ウワァ!!というほど集まった!集まった!爺さん婆さんの群れ!!
先生から出る資料もパンフも取りっこになるくらい凄い熱気(^_^;
で、先生も、「予想以上の方達がお集まりになって、一時間ちょっとの解説なので、この後もう一回やります。
お時間のある方は、先に一回りされて次の回の解説を聞いてください。」とおっしゃるのですが・・・
殆ど全員がくっついて回ったと思いますねぇ(^^ゞ
で、この回終了後、次の回はすいてるんだろうなぁ・・・とちょいと覗いたらまたも大変な人数!!
先生のボルテージもいっそう上がってました(^^ゞ

というわけで・・・黒田教授の解説で、見て回ると・・・

先生の専門は「画像」でありますから、画像中心ということになります。
というわけで、「まず絵の見方です」。

第一展示室のトップは「後醍醐天皇像」です。
この時の後醍醐天皇は何歳くらいか、というのは眉を見るのです。
歴代天皇の画像というのはないですが、後醍醐天皇は遺した。
それは、背景に書かれた「天照大神・春日大明神・八幡大菩薩」という文字に意義がある―つまり、
後醍醐天皇は、その直径の子孫である、という意を表しています。
また、頭上に(衣服が直衣にも関わらず)べん冠を冠り、
左右の手に持つ金剛杵(右)と金剛鈴(左)の持ち方が大日如来の持ち方に同じで、
それは天照大神の直径であり大日如来の法を受け継ぐという二重の意味を持っているのです。
直衣に描かれた霊龍・両肩に配された日月、袈裟、獅子座の礼盤の上に八葉蓮華の敷物を敷いて座っている、
それぞれに意味があります。

次の「薬師如来像」(は至極あつさりと。)
この仏様には、由来の絵巻物語がついています。
(自分で、先に見て回った時は、こっちの絵巻物の方が面白かったのですが(^^ゞ)
一木造の仏様である、ということは霊木から作られた、ということで、材の持っている霊を彫るということで、
長谷観音様もそうです。

三番目は「三条西実隆像紙形」です。
実隆は、室町時代の歌人・貴族です。
和漢の学や有職故実に通じて、「実隆公記」は室町時代の基本史料として貴重です。
「紙形−かみがた」というのは、いわば、スケッチです。
土佐光信に描かせた物らしいのですが、どうやら気に入らなかったようで、そのままになってしまったらしいのです。
しかも、どこに行ってしまったかもわからなかったのですが、実隆公記という日記に、
「いつ誰にその肖像を描かせた」ということが書いてあった珍しいケースで、
おまけに似ていないから気に入らない、と言うような感想まで書いてある。
たまさか別の史料を買つた人がその史料にはさみこんであるのを見つけて、今回、こうして日記の著者と肖像画が出遭った訳です。
(ふうん、そういえば、ボストン美術館と日本のどこだかに残された半分づつの屏風がであったことがありましたね〜(^^ゞ)

今回は、その実隆の晩年の像です。
これを見て、ぱっと連想するのは・・柿本人麻呂ですね・・・(あっ、そうか!)
つまり学問・文化に関わる人、ということを表しています。
柿本人麻呂は唯摩居士に似せて描かせ、後の人たちが、人麻呂に似せて同じ形に描かせた。
後には、牡丹花肖柏の「牡丹花肖柏像」、石川定山なども真似て描かせています。

「伝・源頼朝坐像」です。
(「伝」の意味!)
最近では教科書で有名な神護寺の頼朝像が違う人ではないか、と言われています。
当時の都の貴族達の伝聞では、「頼朝は立ち居振舞いが美麗で頭でっかちの小男」と言われていました。
それから行くと甲府の善光寺の頼朝像の方が似ていると思われます。
これは、善光寺の頼朝に似ているようです。

「島津家文書」は武家手鑑の最高峰です。
今まで門外不出だつたものが、やっと東大史料編纂所が去年の春に手に入れることができて、公開の運びになりました。

足利将軍三代に渡る肖像画です。
六代義教・八代義政・13代義輝ー室町時代は肖像画の世紀です。

この第一展示室の最後で一番見て欲しいのは「落合左平次道次背旗」に描かれた「鳥居強右衛門」です。
美術史家と歴史研究者では「美術品」の見方・読み方が大変違います。
歴史家としては磔にされた経緯、磔の仕方、手首・足首の縛り方なども研究対象です。
そして、全体の印象、不動明王・仁王などを連想させる赤の色から大きな怒りを感じ取ります。

第二展示室のトップには、是非合戦物の大きなものを持って来たいと、私たちも国博も考えていました。
しかし、両方とも、それに該当するものを持っていない。
国博側が小牧の戦いの屏風ならある、といって来た。
で、とにかく見てみると、これは大変だ!鉄砲隊がいる!これは長篠の合戦だ!
長篠の合戦と言えば、それまでの戦国時代の一騎打ちから近代の合戦形式に変わった大変な合戦です。
これは、色彩も少ない下絵という程度のものですが、よそにある他の長篠の合戦の絵や屏風より克明で大きいです。
大したものじゃないと思われて倉庫に眠っていたものが、共催という二つの考え方で生き返ることができました。
共催というのは新しい出会いを生み出す素晴らしいことです。

「たはらかさね耕作」と「倭寇図鑑」はどこの教科書にも必ず載っていて、皆さんもよく知っている絵巻ですが、
「たはらがさね耕作」は、作品として庶民に見せるためのものではありません。
大名の子弟に庶民ー当時は農民の暮らし、農作物の作り方から、年貢として届けさせるまでをテキストとして描いたものです。
これと「倭寇図鑑」は東大史料編纂所から一番貸し出しが多いものです。

道長の「御堂関白日記」ありましたね。信長・秀吉・家康の自筆が並んでいます。
なかなか一度に見比べる機会はありませんから、よくごらんになつてください。

第三展示室。トップは「大石内蔵助父子像」から。
元禄時代は、幼少の子でも父親達が罪を犯せば連座するものであつたが、15歳までは刑の執行が猶予されました。
大石大三郎は、15歳になって刑の執行があるはずでしたが、かえって広島の浅野本家に召抱えられ、
父と同じ1500石という高禄で、母りくと共に広島に移り、四十七神社を邸内に作りました。
それとともに、江戸三田のじんべえという仏師が生前の父を知っているということで、像を作ることを依頼、
じんべえは9回も作り直して完成させたということです。

これで江戸後期の肖像彫刻がわかります。
大石は身長150センチくらい、丸顔で温和な感じですが、主税のほうは175センチ前後もあり目が釣り上がっています。
これは大石りくが主税とそつくりの顔をしていたらしく、大女でもあつたようです。
大石の顔は、向井去来の讃がある「大石内蔵助像」によっても丸顔で温和なことがわかります。
また、この去来の讃から内蔵助が焦門俳諧に興味を持ち、焦門の俳人達との交流もあつた、ということがわかります。

「朝鮮人行列図」は本物の朝鮮通信使の行列ではありません。
朝鮮通信使というのは江戸幕府260年間に12回正式使節が来ていますが、それとは別に毎年唐人祭りと言うようなものが有り、
その風景を描いたものです。
相手を見る時自分の想像する外国人を描く、という特徴が出ています。

第4室「国絵図」
(正面壁に琉球、足許に薩摩の国絵図が広がって、薩摩の開聞岳や国東半島を踏んで説明を聞く形です)
縮尺26000分の一位で描かれた日本全国の国絵図です。
これは琉球の分ですが、この部分だけでも、掛けられるのは、この大きな国博だからです。
それを、家康は慶長の時全国から提出させています。
国絵図で、一番古いのは、秀吉がやらせたものですが、見つかっていません。
綱吉の元禄時代から天保時代にわたるまで5〜6回提出させています。
海底地形までが正確に描かれたものです。

「明治天皇宸翰御沙汰書」
明治帝が歴史編纂を行うよう、三条実美を修史事業総裁に任じた御沙汰書。
これが東大史料編纂所の母体となつている有難いものですが、もっと以前に、
塙保己一が編纂していた日本史の史料が「塙史料残稿」です。

この奥から出口までにコンピューターが並んでいまする
今まで展示されていた史料・画像などが詳しく見られます。是非使ってみてください。
今日は、どうもありがとうございました。


ということで、解説終わり。一同礼、パチパチ拍手もあり、お開きに(^^)
疲れた〜、面白かったけど疲れました(^^ゞ
でも、あれもこれも面白いものばかりで、仕方ない目録を買ってしまった(;_;)
金2000円也!しかもズッシリ重いよ!!これじゃ帰りにお買い物できません(;_;)
相当な疲労と充実感と、ごちゃ混ぜで車窓の人となる。
そして、東京駅で東海道線でGの検札終わった途端意識を失いました(^_^;

そう言えば「紫式部日記絵巻」もあったのに・・・ま、それはまた「源氏店」のインターミッションにでも(^_^;