3月8日(金)

「安田靫彦」展
「シルクロード砂漠の大画廊―敦煌美術展」



ホントは今日こそ上野の「横山大観」展見に行くつもりだったのですが、二度目の風邪の病み上がりで、
おまけに10日は歌舞伎なので、ここで無理して歌舞伎をパーにするわけにはいかず・・・
でも、一応、家の用事で駅までは出るので、遠出は無理だけれど、平塚美術館くらいはいいのでは・・・ということで(^_^;
アホネーチャンが車で送ってくれることになりまして、持つべきものは子でござる♪

平塚美術館「安田靫彦」展
けっこう混んでました。でもとってもよかったです。
しかし、安田靫彦って凄い天才少年だったのですね(^_^;)
入口正面の凄い絵が「物部大連」という大作で、眼光鋭く素晴らしい人物像が描かれていると感心して、
ふと見たら、24歳の作品で、ええっ!とビックリして、入り口脇の大作「吉野訣別」を見直せば、これが15歳の処女作品!!
ナンダ!ナンダ!ナンナンダ!?
で、94歳の死まで画業80年ビッチリ素晴らしいものでした(^^)

安田靫彦(1884−1978)は、横山大観に続く世代の日本画家で、小林古径・前田青邨と院展三羽烏と称された人です。
日本・中国のその古典美術・歴史を研究し、画題も多く、その歴史上の人物などにとつたものが多くあります。

1884年2月16日の日本橋生まれ。生家は料亭で、兄が直次郎、弟の靫彦が新三郎って言うのですよ(^_^;)
おとっつぁんは商売柄、なかなか粋なお人だったのですねぇ(^_^;
それでその父親が死んで引っ込んだところが根岸、言うまでもない根岸の里の侘住い♪
おまけに小学校を中退しなければならないほどの病弱で、その病弱さに後々まで苦しめられたそうです。

1898年、14歳で小堀鞆音に入門。
1901年17歳にして東京芸術学校日本画科に入学するも、その内容に失望し12月に退学!と言うんだから尋常じゃない(^_^;
1907年23歳で岡倉天心に認められ「日本美術院研究所」に招かれる。
ここで、奈良に内地留学するんだけれど発病、このとき病気の療養をさせてくれた修善寺の新井旅館に感謝し、
後に、この旅館の「天平風呂」なるものを設計した!!義理に厚いんですね(*^^*)

そうそう、設計はよくした様で、大磯の自邸と茶室、安田善次郎邸の持仏堂、新潟の良寛堂など。

第一部 青年期の作品 代表作「物部大連」↑これは平塚美術館の収蔵品!!
「御産の祷」は国立博物館蔵、新古典主義を掲げた「日食」は下図が芸大・本画が平塚で並べて見られるのは貴重な機会だそうです。
良寛に傾倒していった頃でもあります。
第二部 完成期の作品 昭和10年代の画行の頂点を極める作品群。というけど、この時期は私はあんまり買わないな・・・(^_^;
でも梅がいいのです(^^)何点か出ていますが、梅が好きだったそうで、それぞれの梅にそれぞれのよさが滲み出ています。
遠眼に見て、梅の花が盛り上がって見えるのです。日本画っさ、さらさら淡白に描くようですが、決してそうではありません。
厚く塗り重ねるところは、塗り重ねるし、絵の具を盛り上げるところは盛り上げます。
勿論油彩とは違いますが、その梅の花の盛り上げ方が、とても素敵なのです(^^)
そうそう、「風神雷神」はこの時代か・・・ん〜、まあ、私はソコソコデシタ。
第三部 円熟期の作品 大体私が日本画に目覚めた作品群はここにありますね(^^) 
「王昭君」とか「飛鳥の春の額田王」とか。
そういえば「卑弥呼」っていうのもあるんですよ、私は「額田王」と一緒くたに混同していました(^_^;
このへんが、もう〜めちゃくちゃいいです!! 
構図といい色彩の鮮やかさと寂びた感じの部分のバランスがなんともいえません。

肖像画もよく描いていて、有名な「山本五十六像」「(横山)大観先生」「谷崎潤一郎像」のほかに
「赤星家母堂」などという一般人の方のもありました。
そういえば、秀吉像が二点あつたのですが、一点目は(醍醐の花見」の秀吉なのですが、これは靫彦の創造した秀吉像なんだけど、
もう一点「伏見の茶亭」の秀吉の顔は、例の秀吉像の浜村純のそっくりさんの顔でした!!なにやらおかしい(^_^;

で、そこで帰ってくれば、私は偉い!!聞き分けのよい子(^^)なのですが・・・
今、横浜のそごう美術館で「敦煌美術展」をやっているのです!!

帰りは電車ですから、これに乗れば上野は無理でも、横浜までなら40分♪と思えば・・・ねぇ(^_^;

「シルクロード砂漠の大画廊―敦煌美術展」
で、まぁ、行って来ました(^_^;)
これも素晴らしくよくて、大体が模写が多いと、母から聞いていたのですが、(母も先週行ってきまして〜なんて親子だ!!)
模写にしても、よくできている、と思うし、復元・再現が素晴らしい!!
敦煌研究院の全面的な協力による、というのがうたい文句ですが、本当によくできていました。
結局は高級な舞台装置の中にいるようなものですが、実体験(まがい)を味わえるというのはちょっといいかな(*^^*)
私ってミーハーなのですm(__)m
しかも、そごう美術館としては破格に混んでた!!ビックリしました!!!

「敦煌」は中国甘粛省の西部にある古代シルクロードに栄えたオアシス都市です。
その周辺には多くの石窟寺院が作られましたが、そのうちでも、4世紀から1000年の修復を経て、
今日に429窟を伝える「莫高窟」は、壁画延べ45000平方メートルに及ぶ、という世界最大規模の石窟です。
今回は、その「莫高窟」から、「蔵経洞」という史料の宝庫が発掘された(1900年)100年記年の特別展で、
2000年には、北京で開催された記念シンポジウムと同時開催され、ニューヨーク・上海・広州で開催されたものです。

会場入口は、混雑していて、ざっと飛ばして後で・・・と思っていたら忘れちゃった(^_^;
全体的に褐色を主体とした色調で技芸天などが描かれていた・・・と思うんだけど・・・楽器等を持っていたと思うし(^_^;

「千手千眼観音像」・「緑度母」なんてのは緑を基調とした壁画で、ことに「緑度母」の華麗さは眼を見張るものがありました。
「緑度母」というのはチベット密教の観世音の化身なのだそうです。
そりゃあ、これをはがして来る訳にはいかないのでしょうしね・・・(^_^;

「莫高窟」第249窟が復元されていまして、天井画・壁画の様子を感じられます。
天井の真中が四角く(藻井ーそうせいーという)盛り上がった蓋のようになっていて、
入口(東)の正面(西)には阿修羅・南に聖王母・北に東王公・更にその入口に当たる東の面には摩尼宝珠が描かれています。
藻井というのは、「中国古代石窟建築の組成部分」だそうで、色彩画を描いてあります。

ここを通り抜けると、第158窟の寝釈迦の四分の三大の複製が・・・これはパンフレットにもチケットにも使われていたけど、むむむ(^_^;

その左手に第172北壁の「観無量寿経変」という日本の「当麻曼荼羅」の原形が。
画面全体複雑な構図とこれも緑を基調とした華麗な色彩で、盛唐時代の高度な芸術性を発揮したものです。
豪華・緻密・華麗・ダイナミック・・・いろんな表現の集大成みたいな壁画でした。
当然復元品なんですけどよかつた(^^)

さてさて、いよいよハイライトとも言うべき第17窟「蔵経洞」!勿論復元ですけどね・・
ここから、例の「敦煌文書」なるものが大量出土(5万点!)したのです。
ここは、他の窟に行く為の通路だと思っていたところが、ある時崩れて、掘り出してみたら・・・という奇跡の窟です。
紀元前4世紀〜11世紀までの仏教経巻・社会文書・刺繍・絹画(けんがく)・法器など、
仏教関係の文献、敦煌文書の90%を含んでいたそうです。
記年銘のある最古の文献は甘露元年(359)年で、蔵経洞に収められるまで7世紀にも渡って引き継がれたものでした。

その他、酒帳(酒帳)―酒が何時・何のために・どのくらいの量使用されたのか―の記録で、
紙の継ぎ目に「帰義軍節度使新鋳印」の捺印。
「三国志補チョク伝」というのもありました。隷書の趣のある書体です。
「仏説無量寿宗要経」というのは、8世紀から敦煌で組織的に写経が行われた、
ということを窺わせるチベット文写経と漢字写経842点。
「絹番(きぬばん)」という7世紀〜8世紀頃の絹も、触ったら切れそう・・・よく残って居たと感心するばかりです!!

「蔵経洞」の文書は、中国及び中央アジアの歴史・地理・宗教・経済・政治・民族・言語・文字・芸術を研究する上で貴重な文献で、
写本・木版刷り書物です。
漢字・チベット語・ウィグル語・サンスクリット語が使われているそうです。

でぇ〜、この貴重な文献を、1907年のイギリス隊のスタインという奴が1万点を持ち去ったのをはじめとして、
フランス隊のぺリオは5000点余を
日本の大谷探検隊は500点余の文書・美術を持ち出しました。
更に、アメリカ隊・ロシア隊は壁画を剥ぎ取り、塑像・文書とともに本国に持ち帰ったそうです。
これって泥棒ジャン!!

はい、もう疲れ果てて、帰りはタクシー。
家に帰ったら、今度はアホボーズがお風呂沸かしていてくれて、お米も研いであって、
アホネーチャンが帰ってきたら、一緒にごはん作ってくれる、というので、
お言葉に甘えて、入浴後はマッサージの椅子で揉み解し、金魚体操しながら半眠りになって、
「ママ、ご飯できたよ」の声でおもむろに起き上がって、私食べる人!!
こんな母親で良いのだろうか?とは思いながら、
なんたって病み上がりだし〜(だったらウロウロするな!と)、自分で突っ込みを入れながら、
ヨレヨレとご飯を食べてコーヒーを飲んで、馬鹿話を繰り広げて、幸せに酔いしれました(^_^;