横山大観、明治元年(1868)、水戸藩士酒井捨彦の長男として生まれる。幼名秀蔵、後秀松と改める。 明治11年(1878)測量製図の技術を以って茨城県に職を得ていた父が、一家を挙げて上京。秀松は湯島小学校へ。 明治18年(1885)府立中学(今の日比谷高校)を卒業して建築家を志し、東大予備門を受験するが、同附属英語専修科との掛け持ち受験が発覚して、両方とも失格、私立東京英語学校に入学。 明治20年(1887)19歳、東京美術学校創立のことを聞き、父の反対を押し切って受験を決意。 明治21年(1888)20歳、母方の親戚横山家を相続し、名を秀麿と改める。 東京英語学校を卒業。この頃、父の知人で東京美術学校創立当初の教授結城正明に毛筆画の手ほどきを受ける。 また、上野公園内にあった帝国図書館に通い、もっぱら英治新聞で学習する。 明治22年(1889)21歳、二月、東京美術学校開校、第一回生として入学。学資を得るため小学校教科書などの挿図を描く。 明治26年(1893)25歳、七月、美術学校絵画科を卒業。卒業制作『村童観猿翁』。この秋東京美術学校予備校創設、教師となる。 明治27年(1894)26歳、この年、伊勢神宮嘱託となり、福地復一指導のもとに奈良から高野山等古社寺巡歴。 古名画の模写作成に一年間従事。 明治28年(1895)27歳、京都市美術工芸学校教諭となり、京都に移住。このとき同教諭に竹内栖鳳も就任。 かたわら、低湿博物館嘱託となり、模写事業に従事。 十月、京都博覧会主催日本青年絵画協会第四回共進会に『武蔵野』を出品。この頃から大観の号を用いる。 |
「中国の古都、洛陽の南13km。伊水の流れをはさみ、両岸の山肌に南北1kmにわたって、次々にその姿を見せる龍門石窟。 紀元5世紀末の北魏時代に始まり、以来およそ400年の間に開かれたとされる石窟は、大小合わせて2345を数え、そこに表された仏像の和は、11万体にものぼると言われています。 本展は、日中国交正常化30周年と、龍門石窟が2000年12月にユネスコ世界文化遺産として登録されたことを記念し、中国からの出展作品約40点を展観いたします。あわせて平山画伯が描かれた素描20点も特別展観いたします。 |
>北魏時代の顔はかなり庶民的なおっちゃん・おばちゃん顔! >初唐のころになると、なかなか威厳のあるお顔でした。 『敦煌の石窟芸術』によると、「北魏の造像は〜顔の相は品よくやせた細おもてで〜 隋代の仏像〜は、顔つきが豊満に、鼻梁が低く〜唐代〜の仏像は、相好が温和で慈悲深く、 おごそかで落ちついている」とあります。 石窟ごとにいろいろ特徴があるのかもしれませんね。近くにあれば見てみたいものです。 |