3月14日(木)

待望の上野に行ってきました(^_^;)

横山大観―その心と芸術―

これがさ、冗談じゃなく大変な混雑で、我者としては朝一の8時50分のライナーで、
博物館9時50分着のスケジュールで行ったのに・・・(もっとも博物館は9時30分開館なんだけど(^_^;)
まぁ、いつものことで、上野につくや否や、わかるのですよ!博物館に行く人の行列!!
イヤ〜な予感はしたんだけど、平日だし、朝一だし・・・ああ、それがそれが・・・
到着した途端並んでいる行列のしっぽが見える(;_;)
一応テントの内だったけど・・・ただいま10分待ち位になっておりま〜す!と、不機嫌そうな係員の声!!
これは、10分じゃ入れねえだろうが・・・と呟く!案の定20分!
エスカレーター上がって、会場の入口まで25分、というところかしら(^_^;
ま、とにかく入れたことで良しとする。しかし、混んでる・・・(;_;)見えない・・・(;_;)
そこをなんとかゲリラ式に覗いていく(^_^;

大観と言えば「富士山」!会場正面は富士山です。「霊峰飛鶴」
私は、どうも、この大観の富士山というのはあまり好きじゃないのだけれど、全くカレンダーみたいじゃない(^_^;
でもやはり、こうして、見るとカレンダーじゃないのですよね、当然と言えば当然か(^_^;

大観の年譜を出生時から「大観」誕生までピッアップしてみると、(図録から)
横山大観、明治元年(1868)、水戸藩士酒井捨彦の長男として生まれる。幼名秀蔵、後秀松と改める。
明治11年(1878)測量製図の技術を以って茨城県に職を得ていた父が、一家を挙げて上京。秀松は湯島小学校へ。
明治18年(1885)府立中学(今の日比谷高校)を卒業して建築家を志し、東大予備門を受験するが、同附属英語専修科との掛け持ち受験が発覚して、両方とも失格、私立東京英語学校に入学。
明治20年(1887)19歳、東京美術学校創立のことを聞き、父の反対を押し切って受験を決意。
明治21年(1888)20歳、母方の親戚横山家を相続し、名を秀麿と改める。
東京英語学校を卒業。この頃、父の知人で東京美術学校創立当初の教授結城正明に毛筆画の手ほどきを受ける。
また、上野公園内にあった帝国図書館に通い、もっぱら英治新聞で学習する。

明治22年(1889)21歳、二月、東京美術学校開校、第一回生として入学。学資を得るため小学校教科書などの挿図を描く。
明治26年(1893)25歳、七月、美術学校絵画科を卒業。卒業制作『村童観猿翁』。この秋東京美術学校予備校創設、教師となる。
明治27年(1894)26歳、この年、伊勢神宮嘱託となり、福地復一指導のもとに奈良から高野山等古社寺巡歴。
古名画の模写作成に一年間従事。
明治28年(1895)27歳、京都市美術工芸学校教諭となり、京都に移住。このとき同教諭に竹内栖鳳も就任。
かたわら、低湿博物館嘱託となり、模写事業に従事。
十月、京都博覧会主催日本青年絵画協会第四回共進会に『武蔵野』を出品。この頃から大観の号を用いる。

この年譜で見ると、なにやら中流家庭の坊ちゃんが、明治開化の発想の下、志を全うして順調に歩みだしたカンがあり、
私が聞いていた貧苦の中で刻苦勉励して美術・芸術と取っ組んだ、というのは?と思ったのだけれど、
図録掲載のエピソード(図録―また買っちゃったんですよ(;_;)どこに置くんだろ、この特大版!)を読むと、
やはり、貧苦は貧苦で壮年時の大観は大変だったらしいのです。

明治34年(1901)に妻文子を失ったのは、貧苦から来る肺患で、その後も娘・父・妹・後妻と、皆々同病で失っています。
明治期もそれ以前、以後もマイシンが発見されるまで、肺患の殆どは栄養失調からくる死病であつて、
たまさか富豪や貴族がかかることがあつても、貧しさの象徴とも言える病気でしたから。

それにしても、その貧苦のさなかに海外渡航もし、国内の各地を歴遊し、住宅を新築し、文展の審査員なども受けて、
貧苦?と言うところなのですが、そのへんがね・・・名誉がお金に結びつかない、明治の芸術家なのかもしれません(^_^;

前回の安田靫彦展(他の芸術家、海外も含めて)でも思ったことですが、こうした大家の作品の中でも、
もう、地にひれ伏して拝みたいような作品と、ふうん、これねぇ〜?というような作品が混在するのは何故でしょう??
私ごときがそのようなことを言うのはホントにおこがましい恥知らずなのでしょうけれど・・・疑問です(^_^;

今回、感激したのは「無我」!我が母は、あれ一枚見るだけでいいから、と出かけたのですが、それだけのことはありますよね。
子どもの無邪気な表情と亡羊とした中に窺がえる大気、さらには、ある種の哀しみまでを感じます。
「屈原」もよかった!嵐の中に立つ屈原の孤独や怒りや絶望が、また、それを乗り越えていく決意が大きく感じられたと思いました。
芸大の卒業制作でもあつた「村童観猿翁」は、農村の風景なのに雅な古代の都振りを感じさせる色調で、あたかも平安時代の絵師の手による作品のような雰囲気がありました。
「瀟湘八景」は初見参でしたが、海・山・人・風・雨・雲・光が渾然となって一幅の画に収束し、
さらに、八景の絶妙なバランスを感じさせる素晴らしい作品でした。
もう、一点同名の「瀟湘八景」があり、これは昭和になって、描きなおした?ものだそうですが・・・これもいいけど・・・

ダメだろうとは覚悟していたのですが、絵巻は全滅!!見られませんでした(;_;)
「生生流転」はまぁ、芸大で縦横斜でジックリ見たから、もういいか・・・とはいえないけど、諦めはつくものの、
「長江の巻」と「四時山水」は見たことないんだもの(;_;)
もっとも、並んでいる時に、係員から、「絵巻物は大変混雑してみるのは大変です」とある程度因果を含められるのですよ(;_;)
いいよ、「長江ー」は博物館でそのうちやるでしょ、「四時山水」だって大観美術館に行けってことだよね、きっと(^_^;

よく、見られた所では「松並木」「洞庭の夜」「竹雨」・・・概ね、墨絵的なものの方が、私はいいなぁ、というか、好きです(^^)
墨彩のほうが、かえって、いろんな色と奥行きを想像させていいです(*^^*)
「木立に立つ白鷺」は最初白鷺が見えなくて(^_^;ハハハ・・・木立の風景だとばかり思って、それでもいいなぁ、と思いましたけど(*^^*)

でー、「夜桜」と「紅葉」の屏風二対、というより各二双、合計四面なんですが・・・結論から言うと、圧倒的に「夜桜」!
もう〜、これは凄い!!
写真で見てもいいな、と思っていたんですけど、これは、もうナマの迫力は大変なものです!!
写真では人魂のように見える篝火がパチパチ音を立てて燃え盛っています。
煙が辺り一面に漂って夜桜の妖しさをいっそう引き立てています。
その煙にむせてか、夜桜の妖しさに巻かれてか胸が苦しくなってきました。
「桜の下には屍体が埋っている」という比喩が浮かぶ前に、桜の陰から美ししも恐ろしい影が浮かび上がってくるようです。
桜を散らす夜風も艶めいて、梢を揺することさえ忘れて、桜と風が悩ましく睦みあっているような気さえしてきます。
美しいのに恐ろしい!恐ろしいのに見たい!見ても見ても飽きることがない、いえ、もう十分!足を進めたいのに進めない!
そんな作品でした。
疲れました。
「紅葉」はねぇ・・・これだけ見ればさすが大観、というかもしれませんけど、
「夜桜」と対照しては気の毒な感じです。

会場出口も富士山でした。「日出処日本」豪華に日の丸付き。まあいいんですけどね(^_^;)
あ、富士山では、「或る日の太平洋」波涛の彼方に富士山が見える、北斎を連想しましたけど、でも
波涛の力を感じさせて、やはりただならぬ絵でした。
富士山の四季を描いたのもよかったです。


「松永耳庵コレクション展」

言わずと知れた「電力の松永」こと松永安左ヱ門(1875−1971)であります。
戦後の電力再編成において、分割民営化の推進に寄与し「電力の鬼」とも呼ばれた実業家で、と思っていたら、
ヌア〜ント、政治家でもあつたらしい、あらら!
まぁ、コチトラはね茶人&コレクターとしてしか名前を知らないわけですから・・・(苦しい言い訳(^_^;)

その松永さんのコレクションたるや、国宝・重文級がゴロッチャラ!しかも、蒐集に蒐集を重ねた上に、
この国立博物館や福岡市美術館など、あちこちに寄付してしまうと言う気前のよさ!!
でぇ〜、いつかは見たいもんだわねぇ、と思っていたら、この大観展と同時開催だそうで、さぞかし混雑!と思えば、
まぁ、混んではいるけれど、大観展の後に入れば、まぁ〜!すいてる!と思える不思議さ(^_^;
大観展の行列のそばをくぐって、
和服姿のおば様方・おばあさま方が、眉をひそめて、そそくさとお入りになっていたのはこのためであります。
あの方達にしてみれば、まぁ、なんて迷惑な時期に開催してくれるのかしら、との思いがお強いでしょう(^_^;

で、まあ、松永氏60歳にして、茶を知る、と言う元は、その原三渓氏と、例の益田鈍翁の影響&指導のことであるらしい。
戦前には埼玉県志木の柳瀬山荘を本拠とし、戦後は小田原の松下軒を中心に、茶会を催し、
茶の湯の分野での美術品蒐集をしていましたが、ついに、それが鑑賞美術に進展し、膨大なコレクションとなるに至りました。

会場も平成館の左半分と、一階の映写室の隣のいつもミュージアムショップになつているところとねその次の小ギャラリーを潰して。
「柳瀬山荘の時代」「松下軒の時代」「松永記念館の時代」と分けて展観されています。
第一会場入口には、この国立博物館に寄付した茶室「春草廬(しゅんそうろ)」が復元してあり、実際に見学ツァーもあるそうです。
大体、この茶室自体が、松永氏が茶を始めるに当たって、原三渓氏から贈られたものだと言う!!
なにぃ、茶室のプレゼントだぁ??誰か私に図書館プレゼントしておくれ!!

あっ、とにかく、心に残ったものだけひとつふたつ・・・じゃないと大変なんですよぉ〜!!
はっきり言って、これが個人のコレクションなんて許せない!!くらいのものです(;_;)
根津嘉一郎さんにしたって、原三渓さんにしたって、あの時代の富豪って凄いよね・・・(;_;)

まず、牧谿(もっけい)の「猿猴図(えんこうず)」、牧谿というのは中国南画の第一人者で、大観が模写した、と言うほどの画家ですぞ!
韋駄天は、特に禅宗で重んじられた仏教の守護神です。
「平家公達草子絵巻」美しい絵と、地の文は平家の公達の挿話を描いた白描絵巻。私はこの白描というのが意外に好きらしい。
第一図の後半など一部が前田青邨に送られて、模写が投入されている―ということて゛、
青邨と、この絵巻作家との時代を超えた共作ともいえるかもしれないですね(^_^;

「大井戸茶碗・銘“有楽”」これは重要美術品。(私は重要文化財と重要美術品の違いがわからない(^_^;)
確かに素敵だけど・・・大学新卒者の初任給が50円の時代に14万6千円で競り落としたと言われると・・・?
あ、茶碗は「長次郎の黒楽」が二つありました。「銘“尼寺”」と「銘“次郎坊”」
個人的にはこっちのふたつの方が好き・・・それでもいくらまで出すかと言われたら??
あっ、出せないんだった(;_;)
「志野茶碗・銘“橋姫”」というのもよかったです。長次郎も志野も何の指定も受けていなかったけど、好きです(^^)
「唐物・文琳茶入・銘“宇治”」も素敵でした。仕服も四揃それぞれに・・・ちょっと似通っていたかな(^_^;
「蒲生氏郷の茶杓」が共筒で出てました。「武人らしい」という解説が出ていたけど、掻く先が直角に近くて笑った!!
仁清の「色絵吉野山図茶壷」と言うのが出ていてねこれはよかったです。重文指定。
MOAの仁清の「藤花紋茶壷」はグラビアで見ると綺麗だけど現品を見ると・・・ムムムと思うんだけれど、これはホントに綺麗!!
仁清の中でも、もつとも華やかだと解説にありました。そうでしょうな(^^)
あ、この茶壷が松永耳庵「侘・数寄からの転機」となつたそうです。

「病草子絵巻・肥満の女」を見たぞ〜!!これは朝日の「名画日本史」にも掲載されたヤツ、当然重要文化財!
噂の国宝「釈迦金棺出現図」11世紀の宗教絵画の名品中の名品で、様々な困難の末87歳で入手、とありました。
これは、もう茶人ではなく、「蒐集の鬼」です(;_;)

「辻が花染め九条袈裟」と言うのがありました。桃山時代の小袖を仕立て変えた袈裟だそうで、
先に逝った愛しい女の小袖を出家に当たって仕立て変えたものだったかもしれません。
ドラマチックやわぁ・・・って、勝手に作るな!!

「繍佛裂(しゅうぶつぎれ)というのもありました。敦煌美術展などにもあつた、あれです。もう、ヨレヨレのヒョロビリです。
法隆寺に伝来した天人物の繍仏は、中宮寺に伝来した「天寿国繍帳」と共に飛鳥時代を代表する繍仏である、との解説がありました。

まだまだ、書いているときりがないです。いやはや、凄いコレクション!!


で、まあ、ヨレヨレと外に出ると・・・アア〜ッ、なんと、どこまで続くこの列は!多少分断されつつも遥か入口の門まで(^_^;
そばを歩いていた二人連れのおじさんたちが「あれ見てみろよ、たった一時間か一時間半の差で、いいところに入ったな!」
と感嘆符そこら中に撒き散らしてしゃべってました(^^ゞいやぁ、同感です、ご同輩!!

上野の森は桜にはちょっと早かったようですがカンヒザクラ(寒緋桜)の花盛り!!
博物館の中にも数本がワぁっと盛り上がって咲いていましたが、公園内の其処此処に花の塊がありました(^^)
ホントは、この後池田満寿夫の版画展を見に行くつもりだったのですが、お友達が感激してましたのでね・・・
その後更に高島屋の「龍門石窟」展に回る身としては、この疲れで、「池田満寿夫展」見て、その後日本橋に回れるか、
というと、自信がない!ウジウジと考えながら歩いていたら、都美術館に行く道を間違えて、
(今、岩崎庭園の復元工事中で回り道しなくちゃ行かれないのです)
ああ、これは日本橋に直行せよ、ということね〜、ときびすを返しました(^_^;

お昼は、上野から東京駅に帰ってきた時点で12時5分前になっていたし、相当疲れてもいたので、
トイレにもよらず、慌ててサバティーニに飛んでいったのですが、もうダメ!
どこへいつても行列だったので、もしや、と例の喫茶室!
ここがランチをしていることは意外に知られていないので、とにかく、と行ったら、一日中混んでる喫茶室の魔の時間♪
うまくランチにありついてしかもコーヒーとデザート付きで1000円也♪フフフラッキー♪

「龍門石窟」展

「中国の古都、洛陽の南13km。伊水の流れをはさみ、両岸の山肌に南北1kmにわたって、次々にその姿を見せる龍門石窟。
紀元5世紀末の北魏時代に始まり、以来およそ400年の間に開かれたとされる石窟は、大小合わせて2345を数え、そこに表された仏像の和は、11万体にものぼると言われています。
本展は、日中国交正常化30周年と、龍門石窟が2000年12月にユネスコ世界文化遺産として登録されたことを記念し、中国からの出展作品約40点を展観いたします。あわせて平山画伯が描かれた素描20点も特別展観いたします。
というのは、チケットのウラに印刷されている口上書きです。

↑龍門石窟の造営は北魏時代に始まり、北宋まで約400年間に続いたが、その二大ピークは北魏と唐。
伊水の両岸南北1kmの山麓に築かれた大小2345の石窟のうち約3割以上が北魏、残る6割を唐時代に建設したといわれています。
北魏6代の孝文帝が、洛陽に遷都した太和18年(494)前後に始まったようです。

古陽洞・賓陽洞・蓮華洞・火焼洞・魏字洞・普泰洞・皇甫公洞・路洞・薬方洞など・・・

塑像頭部は10cm前後、或いはそれに満たないようにも思われる小さなもので、更に、それより小さな7〜8cm前後のものもあります。
身体像の部分は、頭部が欠損しているので、このミニサイズの頭部塑像と繋がらないのか不思議ですが、
それだけ(特定できないほど、発掘数が)多いということなのかしら?

「力士像」というのが、わりとちゃんと損傷なく残っていまして、その顔がやたらにテラテラ光っていておかしいんですよ(^^ゞ

「四面仏憧塔(しめんぶつどうとう)」というのが会場中央部にあり、石の釣鐘という感じで、その四面に仏像彫刻が施してあります。
「瓦当(がとう)」というのは、銅鏡ならぬ石の鏡という感じの円盤です。

唐時代の石窟―西山時代
龍門における唐時代の石窟開鑿は、初唐時代にそのピークを迎えます。
ほぼ640年代には、北魏時代に途中で放棄された賓陽南洞が完成。次々と西山を掘り進み7世紀末〜8世紀初には東山へ。
仏像は磨耗しているのか、彫りの浅い平面的な感じではあります。

東山の諸窟
則天武后期(690〜704)頃から開かれた擂鼓台(らいこだい)三洞
則天武后最末期〜玄宗皇帝(700〜756)に造営された看経寺洞など。
仏像は目鼻立ちクツキリの五頭身です。

奉先寺遺跡
奉先寺遺跡は、龍門石窟南門の西南義湾村の北、伊水から300メートルの距離、
玄宗皇帝の開元10年(722)に刻まれた「河洛上都龍門山之陽大盧遮那像塗龍記」による。
調路元年(679)8月15日に勅を報じて大奉先寺を興したという――という解説がありました。

「千仏碑断片」というのは、写真ではよく見かける石灰岩の壁をくりぬいて、ヤッチのような仏壇をつくり、仏像を掘り起こし、
更にその仏壇ヤッチの周囲の壁に、小さな仏像を彫刻したものです。
今まで見た中では、その周囲の仏像が一番小さかったかも(*^^*)
我家にある、「龍門石窟万仏洞」の写真(奉先寺ではない)では、一万五千仏の、各仏4.5センチというのがあるらしいのですが、
それよりは、だいぶ小さいように思えました(^_^;

概ね、西山の仏様(如来坐像)はお顔がお優しい感じで、親戚のおじさんみたいでした。
東山(如来坐像)の方は威厳があって、それでいて深い優しさがあるいい感じでした。

仏像彫刻もいろんな流れがあるので、一概には言えないけど、
大体5〜6世紀の仏様は、神々しい感じが多くて、10世紀頃になるとそれなり、現世的なお顔が多いんだけど・・・?と思っていたら、
石野さんの「中国歴史あら?カルト! http://village.infoweb.ne.jp/~yamamott/index.htm」で、
↑の感想を書き込んだところ、次のようにレスを頂きました(^^)
>北魏時代の顔はかなり庶民的なおっちゃん・おばちゃん顔!
>初唐のころになると、なかなか威厳のあるお顔でした。
『敦煌の石窟芸術』によると、「北魏の造像は〜顔の相は品よくやせた細おもてで〜
隋代の仏像〜は、顔つきが豊満に、鼻梁が低く〜唐代〜の仏像は、相好が温和で慈悲深く、
おごそかで落ちついている」とあります。
石窟ごとにいろいろ特徴があるのかもしれませんね。近くにあれば見てみたいものです。
ナルホド、そうなんですか。
まぁ、見方にもよるでしょうが、今回の仏様は、ちょつと変わった感じだつたのかもしれません。
いえいえ、私の見方がおかしいのかも(^_^;
最終的には、石野さんの「石窟ごとにいろいろ特徴があるのかもしれませんね」というところに落ち着くのでしょう。
確か「三蔵法師展」でもガンダーラとマトゥーパではほぽ同時期に作られたにも関わらず、大きな違いがある、ということでしたものね。


大本山永平寺奉納襖絵展

龍門石窟展の隣のコーナーで、道元禅師750年大遠忌に合わせて(歌舞伎座でもそんなこと言うとりましたなぁ)、
伊藤彬と田淵俊夫の二人の画家が
永平寺の襖絵を制作したそうです。
でぇ〜、見てきたのですが・・・横山大観見た後で、というのは苦しいですよね(^_^;
それでも、勿論いいと思うものもありました。
禅寺ですから、全部墨彩で、厳かな感じもしますけど・・・画題がなんというか、現代的で、ちょつと不似合いな気がしたものも(^_^;
さぁ〜っと回って・・・会場で御覧になつていたおば様方が、
「きっと永平寺に行っても入れないとか、見られないとかの襖もあるんでしょ?ここでは見られてもさ」などとおっしゃっていました。
それはそうですね。はい、儲かりました(^^)


「さくらに見る日本の美展」
大丸ミュージアム

ここは見られたら・・・と軽い気持ちで行ったのですが、よかったです(^^)
奥山土牛・加山又造・上村松園・小倉遊亀・高山辰雄など・・・早々たるメンバーの「桜を題材にした日本画」の展覧会で、
気楽に美しさに酔いしれることができました(^^)
そうそう、ここでも、横山大観の「夜桜」という小品・・・とまでは言わないか・・・30号くらいなのかしら・・・がありましたよ(^^)

しかし、一番よかったのは上村松園の「小町」これはね小野小町の背景に桜の花びらがちらほら散り掛かる、という感じの絵で、
桜というモチーフには遠い気がしますが、まあ小町桜ともいうし・・・(^^ゞ
20号くらいの会場内では一番小さな絵だったのに、遠目に見て、あれ、なんだ、誰の絵!?というほどインパクトが強くて、
雅な雰囲気と古の香華が薫り高い作品でした。

あとはね・・・加山又造の「夜桜」の屏風!・・・ハハハ、ここでも「夜桜の屏風」ですけど♪
よかったです(^^)
加山又造の桜は「春秋波涛」も素敵でしたけど、やはり「桜」いいです!!
「桜といえば中島千波」の中島千波も当然出ていて、でも今回は大観と加山又造の「夜桜」屏風が出ていては
太刀打ちするところまではいきませんよね・・・(;_;)

そういえば奥村土牛は例の「桜」が出ていなくて、「吉野回顧」という吉野山の桜の風景の絵だったのですが、
その真正面(50センチくらいのところ)に一人の女性がずっとたたずんでいて、みんな絵が見られないのです。
どっちがわから覗こうとしても、彼女の体に遮られて、見えなくて、何人もの方たちが、少しは待ってみるものの、
待ちきれなくて、迂回して行くんですよ(^_^;
私も、けっこう待ったんですが、頭に来て、会場係らしき偉そうな人に、ナントカして、と言って、そのそばに連れて行って、
「ずっと動かないんですか?」「そうよ、ずっとあのまま」という話し声が聞こえたせいか、やっと、少し離れて・・・
画学生かなんかわかりまへんが、人様に迷惑になるような鑑賞の仕方はやめて欲しいですね!!

せっかく、憂き世の憂さを忘れて、ピュアな心を取り戻せる場所のはずなのに、これは残念でした(^_^;
会場係もそっくり返って、ボーっと突っ立ってないで、迷惑鑑賞している人のチェックをしてチョーダイ!!何のための会場係さ!!


いやぁ〜、疲れた!疲れた!
しかし、よく回りましたね・・・(^^)
相変わらず、Gの検札が終わった時点で気を失って・・・でも今日は、横浜辺りで目がさめちゃった(^_^;
その分疲れが取れずに、うちに帰って、なんとなくトロトロとしてしまいました(^_^;