6月17日(月)

そごうの「李朝の工芸」展へ行って来ました。

W坏日韓共同開催の一環というのか、「2002日韓」のマーク入りでの開催です。
ホントは国立博物館の「韓国の名宝」展に行きたかったのですが、ちょつと時間がなかったもので、ひとまず手近なところで(^_^;

やっぱり、母が先行してまして「鑑定団の中島先生なら『いい仕事してますねぇ』というところだよ」と言うので、
そこそこの期待で行ったのですが、まあ、いいといえばいいんだけど地味なんですよね(^_^;
ちょっとあれだけ点数が並んでいると飽きる、ということも・・・で、漆器などが出てくるとホッとします。

柳宗悦といえば、民芸運動の創始者、ということになつていますが、
その柳宗悦が、民芸運動を始めて、最初に注目した工芸品が「李朝の工芸」だったそうです。
で、今回は、その柳宗悦の収集品を所蔵する「日本民藝館」から、陶磁器・木工品・石工芸・金工・民画など130点の展示です。

友人淺川伯教が手土産として持参した「李朝の小さな壷」に魅せられて、そこから、宗悦の朝鮮陶磁器への傾倒は始まりました。
その当時、朝鮮陶磁器といえば、「高麗青磁」が殆どで、「李朝陶磁」などに目を向ける人は殆どなく、
専門家たちからも、「堕落した陶器」と呼ばれていたそうです。
そこで、柳宗悦の力になったのが、先の淺川伯教の弟巧でした。
淺川巧は、当時の朝鮮に在住し、朝鮮の言語を話し、同じ服を着て、家でも朝鮮風の生活をしていたそうです。
当時の朝鮮といえば、日本に植民地支配されていた状況で、この国では稀有な日本人だったのです。
その淺川巧と肝胆相照らし合うことによって、李朝陶磁器の収集も進み、更には巧の発案によって、
朝鮮美術館構想が生み出され、1924年(大正13年)美術館開館の運びとなります。
しかし、1931年巧急死、40歳でした。
宗悦の河井寛次郎に宛てた手紙に、「片腕をもぎ取られた思い」と痛切な叫びが見られます。

いやぁ、しかし、いたんですね〜、そういうリベラリストが!!
当時の日本人は今の日本人より、もっとコスモポリタンだった、というのは、あちこちで聞きますが、
古臭くて、保守的な「古橋」みたいなのもいたんだろうけど、やはり、自由人はいたんですね(^o^)丿

藍色染付けの花瓶・皿などは、古伊万里の風情で大変に姿もよく、民芸品というよりは、やはり、美術品の感があります。
ただし、こればかりが並んでいると飽きる、という気も起こります。
このへん、国立博物館でみるものとどこが違うのか、分かりませんが・・・違うのかな(^_^;

螺鈿や漆器は見事なものです。「螺鈿花鳥文箱」というのが大変美しく豪華な感じを今に残しています。
でも、螺鈿なんかはホンの数点しかないんですよ、残念(^_^;

民芸木工の箪笥なども、岩谷堂箪笥の元みたいな、飾り金具のがっちりした「質実剛健」を絵に描いたような家具が並んでいます。

「華角貼り(かかくばり)」という李朝工芸独自の手法による芸術的民具もありました。
これは、牛の角の根を薄く切り離し、板状に伸ばして、その表側に彩色し、これを木工品に張るという朝鮮独自の装飾技法です。
華や鳥、動物などが、鮮やかな色彩で描かれ、手箱・櫛・鏡・糸巻きといつた女性の身の回りの品々を鮮やかに彩っていたようです。

李朝の石工品・金工品。
石工品は石を丹念に削り取るところから生まれた力と根気の作品です。
「石彫獣口首水滴」というのが、代表作的に一番目立つのですが、全体の丸みといい、水差し口の精巧さといい、
勿論中もくりぬいているわけですから(^_^;
デザイン的にも、今でも新鮮でモダンデザインです。
李朝の金工品は何よりも形と彫り文様に特色があつた、と言われています。

柳宗悦は、それらの美について「朝鮮ではその美しさが今も続くが、変遷の早い日本はとうに失った力でもある」と評したそうです。

みんな、やはり、ふーむ、と唸らせられる物でしたけど、ちょつと分からないのは「文字絵」
これはね、ある意味大変芸術的なんだろうな、とは思うのです。
ビカソとかミロとかの世界なのか、という気もしないではないですが・・・ちょつと私の好みではなかった。
ごめんなさいm(__)m

しかし、工芸品はどんなに素晴らしくても工芸品と言う気がしないでも無い(^_^;
行きたいな!韓国名宝展!!