9月10日(水)

アレクサンドロスと東西文明展
トルコ三大文明展


いやぁ・・・よかったですけど・・・混んでましたぁ(^_^;
特に都美術館!!大英博物館展までは行かないか・・・でもそれくらいな混雑でした。
国立博物館はまあ、広いですからね・・・でも混んでた・・・横山大観ほどじゃなかったですけど・・・(^_^;
でも、とにかく一見をお勧めする!という展覧会です(^^)v

アレクサンドロスと東西文明展

先日来、NHKでも何度か放映していますが、アレクサンドロスの遠征と、それによってギリシア文明がアジアにもたらされ、
ヘレニズム文化に発展していく過程を展示にまとめた物です。

私は、小学生の時、ご多分に漏れず「プルターク英雄伝」に嵌って、ご多分に漏れずアレキサンダー大王にいかれた口です(^^ゞ
あの頃の、ちょっと読書好きの小学生ってみんな大体そうだったのですよね♪
今、「プルターク英雄伝」なんて読んでる子供いるのでしょうか(^_^;
ちなみに、アレキサンダーはアレクサンドロスの英語読み、アレクサンドロスはギリシア語です。

まあ、とにかく、その初恋の人みたいな、アレキサンダー君に会ってきました(^^)
アレクサンドロス像はたくさん残っていまして・・・と言っても、実物を写した、という確証はどれもないらしい(^_^;
ただ、18世紀にスペイン大使が発見して、ナポレオンに贈呈した、という「ヘルメス柱型の作品」というのが、
もっとも実写に近い、といわれているそうです。
これがよく教科書などにも出てくるものですかね・・・今回もチラシやネットサイトに出ています。
挿絵や、写真で見ていたより、ナマの像の方が素敵です(^^)
それも含めて、今回は9点のアレクサンドロス像がありました。
「牧神姿のアレクサンドロス大王」というのは、今まで全くギリシア神話の牧神だと思っていたので、
あ〜ら、これアレキサンダー君だったの!!とびっくり(^_^;私ってしってる振りして知らないんだm(__)m

私がお気に入りだった像は、エルミタージュ美術館に保管されている物らしい紀元一世紀に作られた新しい物で、
表情が柔らかで二枚目です♪

(我が高校時代の教科書より―昭和○年、実教出版発行“世界史B”)
アレクサンドロスは紀元前4世紀末、ギリシア北部にマケドニア王朝を建国しており、
その頃、内部の弱体化したギリシアのポリスを抱合して、その連合軍を率いて東征をして、
オリエントからアジアに至る地域を征服して大国家を打ち立てました。
先ず、紀元前334年には小アジアを制圧し、
紀元前333年イッソスの戦いにシリアを随え、
紀元前332年には、エジプト征服、アレクサンドリア市創設
紀元前330年には、ついにアケメネス朝を滅ぼして、中央アジア・インドの西北部まで軍を進めた。
諸民族を融合した一大帝國の建設を完成しようとしたが、
紀元前323年、大王が熱病のため33歳の若さで死んだため、帝國の建設は完成しなかった。

どうです!あなた!33歳で大帝国建設一歩手前だったんですぞ!!
ってことは、ギリシアのポリスを抱合して東征に乗り出した時は、なんと22歳になるやならず!!
10年でユーラシア大陸を駆け抜けた男です!!
信長が、天下布武で10年というけど、スケールが違うでしょ♪
そりゃあイカレマスゼ!!

第一、諸民族を融合させよう、という意識が凄いと思うのですね・・・自分のマケドニアの民族だけで帝国支配をするというのではなく、
各地の民族と文化を融合させていく、というところにアレクサンドロスの偉大さがあると思うのです。
でも、結局は十年なのですね・・・神様は常にどんな英雄にでも十年しか御与えにならない!!
十年で物にならない物は何十年掛かっても物にならないんですよ(;_;)
だからさ、私が知事の多選を反対するのは、ここから来ています・・・ま、関係ないですか(^_^;
もう一回、アレクサンドロスの死後の国際情勢を↑の教科書から

アレクサンドロスの死後、その領土はエジプト・シリア・マケドニアの3王国に分裂し、互いに対立した。
このうち大王の武将セレウコスはシリアとイランを支配したが、
紀元前250年頃から、イラン東部にパルティア王国が起こって、メソポタミアまで進出した。
紀元前2世紀になると、西方のローマの勢力が東地中海に伸び、
紀元前30年、エジプト王国の滅亡を最後として、エジプト・シリア・マケドニアの諸王国はすべてローマの支配下に入った。
アレクサンドロスの東征以後、紀元前30年までの時代をヘレニズム時代という。
大王は夭折したが、エジプトから中央アジアにかけて、各地にギリシア人の植民地を作ったため、
ギリシア文化も東方に広がり、その地の文化と混合してヘレニズム文化となった。

つまり、アレクサンドロスの東征というのはギリシアとローマ、二つの都市国家時代を結ぶ帝國時代だったんですね。
そして、ギリシア文化からローマの文化を生み出す母体となったのです。

なんと、アレキサンダー君の手柄話で、大いに語ってしまいました(^_^;
まあ、教科書丸写し、と言われればそれまでですがm(__)m

第一部 アレクサンドロス以前の美術
ということで、ギリシア文化からの出展もあります。
ギリシアのアルカイック文化・アケメネス朝ペルシアのペルシァ文化などです。
絵葉書にもなってました「クラテル」という紀元前4世紀中ごろの葡萄酒を水で割るための容器だそうですが、両耳つきの瓶ですね。
黒色の地色と暗赤色の模様がなんともいえない素晴らしさです。
グリフィンの「リュトン」というのは古代オリエント、ギリシアなどの典型的な酒器だそうです。まあ・・・とっくり?

相変わらずのことですが、殆ど大英博物館とルーブル美術館から借り出してきた物です(^_^;
まあ、紀元前4世紀半ばくらいの蔦冠・耳飾・・・このへんは豪華な彫金細工で、これはギリシアのテッサロニケ考古学博物館から。
「オリュンピアスの金メダル」も↑ここからでした。
薄くて小さいけど本物ですね、これは。今の金メダルは、銀に金メッキですけど、ね(^_^;
アテネ国立考古学博物館所蔵、というのも結構ありました(^^)
「メディチ家型女神像」というのがそれですが、えぇ?メディチ家型って何よ?と思ったら、
メデイチ家に同型の女神像が残されていて、そういうんですって!!
ふうん、歴史の家だねぇ・・・(^^ゞてぇと、ハプスブルク家型とかブルボン家型とかも言うのかしら??


第二部 アレクサンドロス大王の登場とその時代

ここに、例の「アレクサンドロス像」がまとまって出でいます。
ギリシア文化といえばヘラクレスとアフロディテ像も多かったです♪
「うずくまるアフロディテ(ルーブル模刻)」と「サンダルを脱ぐアフロディテ(大英博物館)」の両方とも見られてOH!
「眠るヘルマフロディテ」というのがありまして、私は初見参だったのですが、
ローマ時代の模刻だそうで原作品はBC150年くらいの物だそうです。
これがナント「ヘルメスとアフロデイテの子」でヘルマフロディテ、
その昼寝の姿に惚れ込んだニンフのサルマキスが合体してできた姿、
ということでして・・・つまり○○のヴィーナスと同じなのですよ(^^ゞ
勿論絵葉書買ってきました♪好きだなワタシ(^^ゞ

「眠るエロス」というのが、「モティーフがプラトンとされる韻文」で
“深紅の林檎の頬持てるキュテレの御子・・・彼は眠りにとらわれ蕾の花のうちに微笑みながら眠っている”
という約がついており、その約が素敵で写して来ました(^^)

そうそう、都美術館の方もですが、金貨の展示が多かった!!「4ドラクマ」という単位が多かったです。
ギリシアのコインは、表に発行者(国王)、裏に国王or王家の守護神が刻まれています。

「金箔入りのガラス碗」という、これも大英博物館所蔵ですけど、
薄い金箔をガラスではさんだ「サンドイッチ工法」と言うのだそうですが、
紀元前の300年〜250年頃にこんな物ができていたとは(^_^;

第三部 東西文明の交流―ヘレニズムとイラニズム―

国立博物館のサイトの方の説明で

前3世紀中葉以降、東方のヘレニズム国家が衰退し始め、ギリシャ文化の新たな担い手としてアルサケス朝パルティア、インド・スキタイ、インド・パルティア、クシャン朝、クシャノ・ササン、ササン朝などイラン系の諸王朝が台頭しました。ここではギリシャ文化とイラン文化、インド文化が交流して生まれた新しい美術、なかでもガンダーラ仏教美術を中心に紹介します。

と載ってました。
ガンダーラ美術への影響です。で、ガンダーラ美術とは・・・また↑の教科書から失敬(^_^;

アレクサンドロスの死後も、
今のアフガニスタンの北部バルフを中心とするバクトリアは、ギリシア人の中心の一つであった。
紀元前255年頃、ギリシア人のバクトリア王国が建てられて、紀元前139年に北方からきたトハラ族に滅ぼされるまで
約100年余り続いた。
そのバクトリア軍は紀元前2世紀のはじめにインドに侵入し、パンジャーブ地方を支配した。
このような事情のもとに、今のペシャーワールを中心とするガンダーラ地方で、
仏教とギリシァ文化とが接触したガンダーラ美術が生まれた。

そして、ヘレニズム文化のその後としては、

ヘレニズムを尊重していたパルティアは、紀元(前ではない!)226年に同じイラン人のサーサン朝に滅ぼされた。
サーサン朝はイラン人の伝統を重んじて、ゾロアスター教を国教とし、アヴェスタ経を正しい聖典と認めた。
サーサン朝の初めに、マーニーが、従来のゾロアスター教とキリスト教とを総合した「マニ教」を起こしたが
↑のような結果でマーニーは死刑になった。
マニ教の教徒は北アフリカ・中央アジア・モンゴリアなどに布教し、中国やヨーロッパにも影響を及ぼした。
サーサン朝は、シャープル一世・布スロー一世の時代(3世紀後半・6世紀後半)に国政が振るい、
東は中央アジアに、西は東ローマ帝国と勢力を競ったが、7世紀にはいる頃には両国とも疲弊していた。

というわけで、ここの展示物の出土はイランが大変多く、ついでアフガニスタン・カザフスタン・パキスタン・ウラル地方と、
広い地域に跨っていました。
でぇ〜、当然ルーブルと大英博物館所蔵なのですが、ここからはエルミタージュ所蔵というのが増えてきましてビックリ♪
ついでにわずかながら、神奈川シルクロード研究所というのが見えて、へぇ♪
神奈川シルクロード研究所というのが、そんなもんあったかな(^_^;と考えたら、ナント葉山町の国際村の中にあるヤツですよ(^_^;
設備も建物も所蔵品も一流なのに、場所が悪くて誰も来ない、というのね・・・税金の無駄遣い!!

ここでは、銅貨・金貨のコレクションが凄かった!!
約半分は個人蔵(後半分は大英博物館)となっているので、ひょっとして同一人物なのでしょうかね?

ギリシア神話の神々をガンダーラ美術では冠の装飾などに使っていました。(へぇ♪)
「トロイの木馬浮き彫り」(パキスタン出土/2〜3世紀)というのは、
カサンドラがトロイの木馬を城内に引き入れる事を反対して押し留めている図柄なのですが、
これが、ゴータマ・シッダルタ太子(つまりお釈迦様)が城内から出で行こうとするのを押し留めている図だ、
とする説もあるのだそうです。

「6人の女性の壷」(ロシア・ウラル地方出土/6〜7世紀)というのは、ゾロアスター教に基ずく説からできた装飾品で、
「ダエーナーという永遠不滅の存在原理があり、善人が死ぬと、15歳の美しい娘の姿として霊魂を迎えに来る」という、
その迎えにきた美しい娘達を壷の回りに描いているのですが、これがなかなか素晴らしい物でした。

エピローグ 日本への道

というわけで、辿り着いた日本文化!!
は?と思うでしょ・・・そりゃぁ、シルクロードから色々な文化が入って日本文化が成立した、というのは知ってますが、
アレクサンドロスから、日本まで一気に来るとは思いませんでした(^_^;

でもヘルメスが毘沙門天になった、とか、テュケの女神が摩利四天になったとか・・・いろいろあるんですって!!
そういえば酒井抱一の「風神雷神像」が出光美術館から出展されるはずなんだそうですが、会期が悪くて見られませんでした(^^ゞ
それより、このコーナーで私を虜にしちゃつたのは、京都の金剛院所蔵の「執金剛神立像」(13世紀)!!
快慶ですって!!
そんなに大きいものではありません・・・1メートルくらいかしら・・・いやぁ素敵でした(^^)
そういえば「大黒天立像」(福岡観世音寺/11世紀)というのが、「大きな袋を肩にかけ♪」という御姿の最古のものだそうです。
「兜祓毘沙門天立像」(奈良国博/12世紀)というのは冠に鳳凰が着いてガンダーラの毘沙門天の様式だそうです。
↑いずれも重文!!
「海獣葡萄鏡」というのがありましたが、これはまあ、ふつうに7世紀の中国出土の銅鏡ですが解説が面白かった♪
曰く「海獣というよりも、見たことのない動物ライオンを不正確に模した。獅子のイメージで作った」とありました。
「不正確に模した」という表現はいかがなものか?
なと゛と思いながら、あっ時間がない!と慌てて都美術館へ!!


トルコ三大文明展

トルコはですねぇ・・・このところちょつとした国際的ブームでして、一寸づつ取り上げられることも増えて、
私も行ってみたいな他所の国♪の筆頭に挙げておりました(^^)
なんたって金細工の素晴らしい国、というのが、私のトルコのイメージでしたから、この展覧会は是非行きたかったのです。
そして、イメージは予想以上に金・・・だけでなく宝飾品の宝庫でした\(^o^)/

トルコ三大文明と謳っておりますが、ヒッタイト・オスマン・ビザンツの三帝國の微妙に違った文明のあり方を三大文明としています。
↑の世界史の教科書から、またも失敬して・・・

第一章  ヒッタイト帝國

小アジアでは、紀元前18世紀の中頃から、その中・東部へかけて、
インド・ヨーロッパ系のヒッタイト族(ハッティ族)の王国が栄えた。
ハッティとは、アジア系の先住民族の名前であるが、紀元前3000年代にインド・ヨーロッパ民族がこれを征服して王国を建てたので、
それもまたハッティ人と呼ばれる。ヒッタイトというのは聖書名である。

彼らは、最も早く鉄器を用いたが、楔形文字を採り入れ、独特の文化を発達させた。
また、シリアの北部を征服し、エジプトと対抗したが紀元前1200年ごろ滅んだ。

ここでは、「牡牛型儀礼容器(リュトン)」というのが、チラシにもサイトにも載ってましたが・・・まあ、よくできてるし綺麗でしたが(^^ゞ
私はスタンプ型印章というのがよかつたですね・・・いつぞやのメソポタミア文明でもスタンプ型印章がよかった♪と思いましたが、
あれは大理石とか石ですよね、ここでは、印章彫刻も素敵なのですが、本体自体の彫金が素敵です(^^)
アンカラのアナトリア文明博物館所蔵。
髪飾り・ピン・・・このへんでトルコに対する金の憧れが間違いでなかった事を確認してドキドキ♪
ヒッタイト族の鎌・鋸・万能工具などというのはやっぱり「鉄器の民族」らしくて、ふうん(^^ゞ
でも、実際は青銅器でした(^_^;・・・この辺はチョルム博物館所蔵。
粘土板文書もたくさんありました。
チラシに出ているのは「カトゥワ王とヒエログリフ文字による長文付き石碑」というもので、
彫られている人物像の感じはエジプト風です・・・まあ、微妙に違うんでしょうが・・・このへんは、かなりざっと見て通り過ぎましたm(__)m

第二章 ビザンツ帝國

東ローマ帝国のことを首都コンスタンティノープルの旧名にちなんでビザンツ帝國とも呼ぶ。
東ローマ帝国はゲルマン人の侵入の影響を殆ど受けず、
6世紀のユスティニアヌス帝の時代に最盛期を迎えた。
帝は、西方のゲルマン諸部族国家を討って、旧ローマ帝国領を一時回復した。
しかし、7世紀後半には、サーサン朝とサラセン帝國の相次ぐ侵入を受け、
7世紀末には北部でブルガリア人が建国し、その領土は小アジアとバルカンの一角に縮小された。
8世紀初頭のアラビア人の首都包囲は退けることができたが、異民族の侵入は続き、
11世紀には、トルコ系のセルジューク族が小アジアに侵入し、、南イタリアの領土もノルマン人に占領された。

東ローマ帝国では、
ディオクレアヌス帝以来の専制君主制の伝統が続き、末期の一時期を覗いては、皇帝権力はきわめて強かった。
ユスティニアヌス帝の時代には、「ローマ法大全」が編集され「ビザンツ様式」の教会建築など、ビザンツ文化が栄えたが、国力の衰えとともに、その住民も殆どギリシア人になるとともにギリシア語が公用語となり、文化も次第にギリシア的になった。
このため、東ローマ帝国はギリシア帝国とも呼ばれる。
このように、ビザンツ文化が古代ギリシアの文化遺産を守り、西方のルネッサンスに寄与したことは世界史上重要なことである。

というわけで、ビザンツ帝国は東ローマ帝国のことなんですね・・・そんなこと全然忘れてまして、
行ってから、はて、と思い出しました・・・大昔、「世界史だけなら東大にも行ける」と言われたくらいなのに(;_;)
このコーナーは殆ど全部といっていいほどイスタンブル考古学博物館所蔵品です。

ここでもアレクサンドロス大王の頭像が一等最初にありまして、あらら(^_^;
ここは大理石像が多くてけっこう楽しいコーナーでした(^^)
「アルテミス・エフェシア像」という頭部のないアルテミス(月の女神)ということで、どんなに美しい顔だったかな、と想像(^_^;
だって↑のアレクサンドロスも鼻欠けなんだけど素敵な二枚目像だったんですよ(^^ゞ
あ、これはエフェソス博物館と言うところのです。
メダリオン・イヤリング・指輪・・・みんなキンキラ光って綺麗です(^^)
金貨のコレクションも大変に充実していました・・・展示の仕方も一世に並べて、後ろ側が鏡で見えるのは国博と同じなのですが、
上のほうに金貨の図柄の拡大図も貼ってありまして、とても近寄って見るのが大変なので、
一枚か二枚くらい見て、私はそれで済ませてしまいました(^_^;
やはりユスティニアヌス帝の金貨が多かったようです。

でもねここはやつぱりモザイクの人物像がよかったですねぇ♪本当に細かくて表情までよくわかりますし、
月桂樹?の冠の蔓の先っちょまでよくできていました(^^)


第三章 オスマン帝国

さぁ〜〜、ここが今回の白眉ともいうべきお宝いっぱいの展示品です!!
で、一応、「世界史教科書」から御勉強(^^ゞ

小アジアのセルジューク朝が分裂した時、アナトリア半島の西半にもトルコ族の小王国が競い起こった。
その中で、東ローマ帝国に近い西北部のオスマン家が目覚しく発展した。
オスマン家は中央アジアから来た物でセルジューク族と同じ系統(オグズ部族)に属する。
オスマン家は東ローマ帝国と戦って領土を広げ、プルサを首府とした。(1326)
その後、バルカン半島に進出して、14世紀中ごろには、アドリアノープルを首府とし、
ヨーロッパとアジアの二大陸に跨る大国となった。

アンゴラの敗北で、オスマン帝国(トルコ帝國)の活動はしばらく停滞したが、
メフメット2世に至ってコンスタンティノープルを占領し(1453)、東ローマ帝国を滅ぼしてここに都を写した。
その孫セリーム1世は、シリア・エジプトを取り、従来のスルタンの称号の上にカリフ号を加え、
その資格のもとにメッカ・メディナへも支配権を伸ばした。
帝國は、その子シュレイマーン1世の時に黄金時代を迎えた。彼はハンガリーを征服し、ウィーンを包囲し、
またバクダッドを取ってメソポタミアを押さえ、南アラビアも征服した。
さらに、1538年のプレヴェザの海戦によって、スペイン・ヴェネツィア、ローマ教皇の連合艦隊を破って地中海を征した。
これ以後、トルコとヨーロッパ諸国との関係は、いっそう密接になっていくのである。

なんたって、今まで、国博から、二時間余り、そろそろ疲れも出て来て脚も引きずり加減になってきていた物が、
ここにきた途端、ぱっと元気になって半眼だった目がらんらんと輝きだしました(^_^;
我ながらゲンキンなやっちゃ(^_^;
もう〜〜殆ど「トプカピ宮殿博物館」からの出品です!!
(↑のサイトは【momo】さんの「アジアの細道」です。「東南アジアフリーク」と自称されるご夫婦の素晴らしい写真集です♪)

「弓術用指輪」は三点、いずれも硬玉・ルビー・金だそうですが、ごっついでんなぁ・・・いくら男性用でもでかすぎません?

あ!!ここで一番は遠征用テントをバーンとはってあるのです!!
テントに玉座を据え謁見するスレイマン一世の様子を再現していました!!
テントも豪華です♪
赤を基調として黒の模様・・・国博の「クラテル」を連想させる色調でした。

スレイマンについては、やっぴらんどさんの「楽しい世界史」のページから拝借しました。

1520年、トプカプ宮殿で即位したスレイマン1世は、25歳の細面のひげの美しい容姿で、立居振舞も王者の余裕と優雅さを身につけていた。
即位するとすぐに彼は勅令を発布して、父が没収した財産をもとの所有者に返してやり、またエジプトからイスタンブールに連れて来られていた奴隷たちに帰国を許した。
彼は、トルコ人からは「カヌーン」(立法者)、ヨーロッパ人からは「マグニフィセント」(壮麗王)と呼ばれて尊敬され、16世紀を「トルコの世紀」とした立役者であった。
征服活動も、ヨーロッパへ10回、アジアへ3回の遠征を行った。とくにヨーロッパへの征服活動はヨーロッパ各国の内政に多大な影響をおよぼした。
1529年、スレイマンは神聖ローマ帝国に攻め込み、ウィーンを包囲した。当時神聖ローマ帝国では、1517年より始まるルターの宗教改革により、カトリックとプロテスタントの対立が続いていた。
皇帝カール5世は、オスマン=トルコ軍の侵入のため、プロテスタント勢力と妥協せざるをえなかった。
また、フランスは当時神聖ローマ帝国とイタリアの領有をめぐって争っていたから(イタリア戦争)、共通の敵・神聖ローマ帝国をもつトルコとフランスは接近し、同盟関係を結んだ。これによってカピトゥレーションが規定がされたのである。
これは、非イスラム教徒の外国人を保護する政治上・通商上の恩恵であり、一種の治外法権だが、当時のオスマン=トルコの実力からすれば、外国人にこのような特権を与えても痛くもかゆくもなかったのである。
のちのヨーロッパ人のアジア諸国に対する治外法権は、このカピトゥレーションに由来することになる。

☆☆☆
ちなみに、やっぴらんどさんの、「文化」には「違い」はあるけれど、「優劣」はないのです」というお言葉には大変感銘を受けました。


この辺に関連するスルタンの花押入り文書などはトルコ・イスラム美術館ですが、この文書の紙自体が豪華なんですよ♪
全体金彩のすかし模様みたいなのがはいっていて・・・とにかく豪華!!

「皇女ファトマ・スルタンの儀礼用カフタン」(長衣〜ちょうい)というのがあったらしいのですが、実は私はそれは記憶にない(^_^;
私が覚えているのはどうも子供のらしいです(^_^;

さって〜、いよいよ短剣!!7カラットのエメラルドが三つですと!!
おまけに大小のダイヤモンドに飾られて七宝細密画で彩られている!!
でぇ・・・これは当然オスマン帝国の富と権力を象徴する物ですが、ナント、これを作らせたのは王様自身のためではない、という!
隣国に与えて、そのオスマンの富と権力を知らしめて、また友好の証とする、と言うのです。
こういうもので友好関係が保てれば、戦争で戦費と人命をかけるより安いものだというイスラム的発想なのだそうです。
へぇ〜♪へぇ〜♪へぇ〜♪・・・・(トリビア風に・・・)
でも、結局隣国に贈るチャンスを逸してトプカピ宮殿に残った・・・というのは(^_^;

で、この短剣だけではなく、様々な宝飾を施した短剣が他にも三振り(^^)
それと、今度は銃身ですよ・・・「金象嵌ダイヤ入り火打石銃」というのが凄い、凄い!!銃身本体は黒檀です。
もう一つ「金象嵌宝飾火打石銃」というのが、これはダイヤよりもエメラルドがそうとう質のよいものらしくて、
大きさは短剣ほどではないのですが・・・卒倒しそう(^^ゞ
でも、悔しいことに、これが下向きに展示されているので、ホントにガラスのそばに行って、
最前列でしゃがみこまなくては見られなくて大変でした(;_;)
そういえば、もうガラスがみんな汚くて・・・みんながガラスにおでこくっつけて見るんでしょうけど・・・(^_^;

あ、後「宝石付鐙」ね・・・これは豪華、というより可愛らしくて綺麗でした(^^)

出口の傍に青磁・白磁・染付け・瑠璃釉・色絵・・・様々な陶磁器があつて、これも豪華でした。

はぁ・・・オスマン・トルコの夢の後・・・猛き人もつひには滅びぬ・・・
興奮したぶん疲れも大きくて・・・いろいろ考えたり・・・それでも、東京駅を出る頃は・・・新橋に止まったのを気がつかなかった(^_^;


というわけで、関連の記事を↑世界史教科書からピックアップ

セルジューク朝
イスラム世界では、アラブ族の勢力が衰えるとイラン人が活躍し、さらにトルコ族がこれに加わって指導階級となり始めた。
トルコ族の本拠地は、中央アジアからモンゴリアにかけての草原地帯であったが、早くから西アジアに移動するものもあった。
10世紀以来、中央アジアから西方に移住したトルコ系のセルジューク族はまずイランの大部分を征服して、バクダッドに入り(1055)、イラク・シリアを支配し、さらに東ローマ帝国からアナトリア(小アジア)の大部分を奪った。
永年ギリシア文化のうちにあった小アジアは、これ以後イスラム教とトルコ族の言語や風習に同化することになった。

サラセン帝國
マホメットが632年に死ぬまでに殆どアラビア一帯をイスラム教の教えによって統一しており、その死後、
選ばれたカリフ達によって率いられたイスラム教団が帝國の呈をなしていった。
第二代のウマルの時、東ローマ帝国からパレスティナとシリアを、ついでエジプトを奪い、
サーサン朝を滅ぼして、イラクなどを征服した。西洋ではこれをサラセン帝國と呼んだ。

ラテン帝國
セルジューク族の侵入が一つの原因となって、西ヨーロッパからの十字軍が起こされたが、
13世紀の始め、第4回十字軍は商業上の利益のために、矛先を転じてコンスタンティノープルを占領し、
この地にラテン帝國を建てた。
ラテン帝國以前には封建制度は西欧と異なり国家財政の経済基盤であり、
ラテン帝國以後は西欧的封建制度となった。
約半世紀の後、ラテン帝国が崩壊してからも、内外の政情は混沌とし、
セルジューク朝を継いだトルコ族の一派の建てたオスマン帝国によって、1453年滅ぼされ、
コンスタンティノープルはオスマン帝国の首都になった。