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11月11日(水)

第57回正倉院展
興福寺国宝館特別公開

ダンナの今年最後の出張に便乗して奈良&京都に行って来ました(^^)
(↓このへんは母の日記と一緒です(^^ゞ)

第一日目はダンナは仕事、夕方にならないと体があかないので、私は奈良の正倉院展に行くことに♪
正倉院展は最後の週末になるのでドンナンカナァ?と、
奈良の住人のぐんままさんに、気楽にお尋ねしてしまいましたら、
ナント、ナント、ぐんままさんは、キチンと問い合わせてくださって回答してくださいました!!
無責任に、おきらくにお尋ねしたことを大反省しておりますm(__)m

朝の新幹線から、一人でズッコケながらナントカ予定通りに乗れて、11時20分京都着。
直ぐに近鉄の窓口へ行って、11時35分発の近鉄特急のチケットをとり
荷物をコインロッカーに放り込み、トイレに駆け込み、ちゃんと11時35分発の特急にも乗れて、
おばさんとしてはナカナカやるでしょ(^^)v

宇治川を渡る!!

いやぁ・・・宇治川ですよ♪
只今宇治十帖を読んでる身としては、宇治川じゃ!ああ宇治川じゃ宇治川じゃ♪暗いな感動です(^^)v
大阪湾に注ぐえんえん44.5キロのどこかを渡ったわけで・・・まあ、川は川です。
釣り人が2〜3人いたり、
木津川になると葦だかなんだかもの凄い繁っていたり、中洲みたいなのもありましたねぇ(^^ゞ

そうそう、途中で橿原市においでの方は〜、とか言うの案内があって、
あー、いつかは絶対橿原市!と思ったんですが、
とにかく、京都近辺に来るとなんでもどこでも近いのネェ・・・。
昔の都人が畿内とその他を分けた気がよく分かりました♪
ようするに畿内はひとまとめの町なんですね。畿内より一歩外に出ると町じゃなくなる感覚というのもなんとなく判る気がしました。
近くて遠い町・・・遠いものっていうのか(^^ゞ

12時10分の近鉄奈良駅到着で、なんだか信号を渡ったような気がして渡っちゃったのはアホでした(^_^;
でも、そこで、登大路というコーヒーショップで
ヌァ〜ント680円也のランチ(ピラフとサラダ・コーヒーつき)を食べて腹ごしらえをしました♪

実は、ぐんままさんお奨めのお店があって(「塔の茶屋」)、私も聞いたことがあったので、
是非行きたいと思っていたのですが、
どう考えても、時間が足りなさそうで〜(^_^;
まあ、680円に負けた、と言ってもいいのですが(^_^;
それで、おかしいのよねぇ・・・お店で出てから、奈良市立美術館なんてトコに出てしまい、あー、あっち側だ!!

正倉院展は平日でもとんでもなく人が多いそうでしたが、
ぐんままさんのおかげで覚悟をして行きましたので・・・まあ、去年位かな(^^)v
いや、実際ホント凄かったんですよ!!
記録21万3千人余りとかで新記録だったそうですねぇ!!
でも去年だって凄かったもの〜!!

でも、こういう時、パスポートはありがたいm(__)m
はい、前売り券とパスポートの人はこっち進んでください〜なんてね、ウフフ(^^)
おまけに図録一割引です(^^)

というわけで、なんとか潜り込んで、走り回り?ジャンプ?して見たいものは見られたと思います(^^)v


第57回正倉院展

実は〜、
記録21万3千人余りとかで新記録だったというわりには、去年ほどの目玉はありません(^_^;
あ、ふつうのおばさん、として、ですよ!!
学門的に見て、はどうかわかりませんけど、興味本位で、ということで。
それでもなぜ集まる、といえば、やはり評判が評判を呼び、という所はあるんじゃないかな・・・(^_^;

第一室 聖武天皇遺愛の品々

平螺鈿背八角鏡へいらでんはっかくきょう」というのは、
チラシにもなっていて、今回の一押しなんでしょうね。
でも、こういうのは、あんまり期待できないなぁ・・・と、思っていたら、退色がそれほどでもなく綺麗でした。
大きさも径27.4センチというのは見て、これくらいと想像していたのですが、意外に大きかったですね♪

個人的には、隣のショーケースの「槃龍背八角鏡(ばんりゅうはいのはっかくきょう)」がよかったです。
螺鈿もこちらも「国家珍宝帳」にリストアップされている物だそうですが、
こちらのほうは出来立ての輝きを維持しているようです♪
底光りする鋭い輝きがオーラを出しています\(^^)/

両方とも八角というわりには八枚の花弁のように広がっています。「角」という気はしませんねぇ。
まして、「螺鈿八角鏡」は螺鈿の退色もないので、八枚花弁鏡という処かな。


漆皮箱(しっぴのはこ)」というのも素敵でしたよ(^^)
2点ありましたが
八角形の方は、↑の「螺鈿八角鏡」を入れてあった箱だそうですが、本来は違うらしい。
獣の皮を木型に張って成形し漆を塗って仕上げてある(漆皮技法)そうです。
どちらかというと、金唐革細工の感じかな(^_^;
あの鏡の箱は緋綾の内張りだそうですが、こちらは白[施の偏を糸に]製とのことです別の鏡の箱らしいです。
いずれにしても此れ自体が芸術品です。
丸型のほうは「槃龍背八角鏡」の箱だそうで、こちらはまあふつうに組盆というか、蓋もの容器という感じですかね。
こちらはまた形の整い方の違いで、蓋と本体が元は別物だったという説もあるそうです。


第二室 正倉院の遊具

遠目に見て、アレレきれいなボタンが並んでる、なんで〜?というアホ振りを発揮したおばさんm(__)m

紅牙撥鏤棊子(こうげばちるのきし)
紺牙撥鏤棊子(こんげばちるのきし)
棊子(しろのきし)
棊子(くろのきし)
これ全部碁石です!!
象牙で作った碁石を紅色・紺色に染めて、「撥鏤(ばちる)技法」という技法で模様を彫ったそうです。

これが精密で綺麗だったんだワァ\(^^)/
まだ模様もしっかり残っていました♪
「延暦十二年曝凉使解(ばくりょうしのげ)」↓という書物には「棊子六百枚」という記事があって、
一組の碁石は300枚と推測されるが、
「弘仁二年官物勘録(かんもつかんろく)」では、紅牙・紺牙撥鏤棊子は各160枚
白・黒棊子は各140枚で、既にその時代に白は135枚になっていたそうです。
いや、この白黒の碁石はこのまま繋げてネックレスにしたいほど綺麗でした(^^)

銀平脱合子(ぎんへいだつのごうす)」
こちらは碁石入れです。
2点出てましたが、片方は、もう模様が磨耗していてあまり綺麗ではありません。
もう片方は、金のためか、かなり模様もはっきりしていて綺麗です。
「国家珍宝帳」に、
百済の義慈王から、藤原鎌足に贈られたという「赤漆欟木厨子(せきしつかんぼくずし)」というのが載っていて、
その中に入っていた「銀平脱合子」というのがこれじゃないか、ということでした。


今回、私的に一番の目玉といえば、「木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)」
まあ碁盤のこと「棊局」というんですか!!
これはちょつと見たい、と思っていたのです(^^)
いやはや新品同様、とは言いませんが素敵です(^^)
ちゃんと碁石(棊子―きし―というそうです)受けの引き出しもついていて、凝ったつくりです。
盤面は紫檀張りで象牙の線、
周囲を象牙・つげ・黒檀・銀板を用いて「霰文木画帯(あられもんもくがたい)」をめぐらしている(図録の解説)、そうです。
縁のある分、現行の碁盤より一回り大きいそうです。
図録には、その四面の絵がちゃんと載っています。
実際には鳥が飛んでる、何か動物が走ってる、としか見られなかったので、今しみじみ見ていますm(__)m
そうそう、碁石受け(図録は「碁石入れ」となってる)は、
引き出しの中に亀と鼈(すっぽん)が頭を出している硯のような形になってます。
面白い意匠です。
フーム、天平時代にこんな細工のできる人たちがいたんですね!!
さすが、工芸の国だわぁ\(^^)/

金銀亀甲棊局龕(きんぎんきっこうききょくのがん)」というのは、↑の碁盤の箱です。
これはこれだけでお宝ですねぇ♪本当に宝箱のような感じです。
全体に鹿角(ろっかく)で亀甲模様が施されて、
金箔と銀箔の花形を押して「伏彩色(ふせざいしき)の技法」で彩色してあります。
今は、銀箔は黒ずんでいるし、色は殆ど分かりませんが、それでも金箔の部分は分かるし素敵です(^^)v



第三室 正倉院の調度

瑠璃壷(るりのつぼ)」
この部屋に入った途端、というか遠くから、もう〜、吸い寄せられて(^_^;
丁度ヒヤシンスの水栽培をするような感じの紺色のガラスです!!
紺が深いのに透明感があって、この時代のものとは思えません(^_^;
今、図録を読んだら「本来は、貴紳が室内で唾を吐く時に使う」とか書いてあってショック!読まなきゃよかった(;_;)
同じく図録に
「基本的には吹きガラス成形によって作られており」と有りますから、今のガラス製法と大して変わらないわけ?
また、
「本器は治安元年(1021)、平致経(たいらのむねつね)が東大寺に施入した『紺瑠璃唾壷』に相当すると考えられており、他の宝物とは伝来の経緯を異にする。当時の日宋貿易を背景にした請来品と思われる。」
とありました。
フーム、凄いネェ(^_^;

瑠璃の壷の傍に黄・緑・碧・黒の瑠璃のネックレスが有りました\(^^)/
いゃあ・・・今でもいける♪


「花氈(かせん)」
すみません、私にとっては単なるボロですm(__)m
こういうところに知性と教養とゲイジュッセンスが現れるのでありましょう(^_^;降参


第三室(壁面) 正倉院の刀剣

そうそう、ここに↑「延暦十二年曝凉使解(ばくりょうしのげ)」という書物が展示されていたんですね(^_^;
それは気が付いてましたが、碁石の記事が載っていたなんて知りませんでした(^_^;
延暦十二年というと793年です。その年の六月十一日に、北倉の宝物を点検した記録です。
元は香薬を調べるためだったそうです。
この時代の香薬といえば、もう宝石よりも金銀よりも尊い貴重品ですからねぇ。
正倉院といえば、蘭麝体の香木というのが通り相場です♪

金銅鈿荘唐大刀(こんどうでんそうのからたち)
金銅鈿荘大刀(こんどうでんそうのたち)
銅漆作太刀(どううるしつくりのたち)
――というのだそうです。三振りもありましたかねぇ・・・(^_^;
憶えているのは、今図録を見ると金銅鈿荘唐大刀(こんどうでんそうのからたち)の把の綺麗だったことだけ(^_^;
そういえば、書いてるうちに思い出した・・・三振りだったかは忘れてるけど、
飾り太刀というのに、切っ先がけっこう鋭くて、刀身も研ぎ澄ましている気がしたな〜。
勿論それなりの手入れはされているわけですから、赤鰯って事はないでしょうけど、
飾り太刀というよりは斬れそうな感じだった(^_^;
見ていて、あー、ひょっとして、聖武天皇のヒイジイチャンが、
これで入鹿をぶった切ったりして〜などと考えていたんだワァ・・・。
それと、今図録を見ると、

「国家珍宝帳」によれば、献納された聖武天皇ゆかりの御大刀百口は、
天平宝字八年(764)9月の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱に際し、殆ど宝庫から取り出され、、
現在は北倉に三口が遺るのみである。中倉に伝来する大刀はこれらとは別の由緒をもつものと考えられている。

という解説記事がありますが、
「聖武天皇ゆかりの御大刀百口は、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱に際し、殆ど宝庫から取り出され」
というのだけは記憶にあったんだ(^^ゞ
フムフム・・・書いていくと思い出すものネェ♪




第四室 正倉院文書

いろんな文書を張り合わせ継ぎ合わせて一巻としたものが多いことにビックリ(^_^;
去年もそうだったっけ?記憶にない!!

正倉院古文書正集第十八巻(駿河国正税しょうぜい帳、甲斐国司解かいのこくしのげ

これは大変大面白いことに、駿河国正税帳という駿河の国の税金の出納決算書というような公式記録と、
甲斐の国の国司の書類とを張り継いで一巻としたものだそうです。
「正税(しょうぜい)というのは、官稲の利息付貸付である出挙(すいこ)によって得られる地方財政の財源のこと」
だそうですが、解(げ)は役所内の上申の公文書一般のことですよね。
同じ国のもの、或いは々種類の帳簿ならともかく、
駿河の国と甲斐の国という違う国の、税収の明細書と上申公文書という異質な公文書を繋いでおく、というのは、
可笑しいというか・・・まだこの時代は紙が大事ですから、
公文書自体が紙背文書にされる場合も有りますからね・・・写経用にでも張り合わされた物が残ったりしていたのかな(^_^;
何種類かの古文書を継いで一巻としているのは他にもありますから、考えられるでしょ♪
当たっていたら、何かもらえる(^_^;

正倉院古文書正集第二巻(大粮申請継文たいろうしんせいつぎぶみ
これは下級官僚の給与に関する文書で、図六解説には、

式部省、治部省、兵部省などの各省や、下部機関に勤務する下級職員のための給与を民部省に請求した文書と、東大寺の寺田に関する文書てせある民部省諜など14通を継いで一巻とした物

と有りますが、宮廷の勤務地がそれぞれ違っているそうで、
「聖武天皇は紫香楽宮、恭仁宮、難波宮を転々としたが、天皇が平城京に戻った後も、他の宮に職員が残っていたことによる。」
という解説部分が大変興味深く印象に残っていました。
ん?だって、聖武天皇は、かなり天武系の血統を廃したことでノイローゼ気味だったのではないか〜、という説があるでしょ。
それで、どこの宮廷にも落ち着けなくて転々としていた、というのですね。
それを思い出したりしてました(^^ゞ


続々修正倉院古文書第二迭第四巻(後一切経雑按ごいっさいきょうざつあん

これは後一切経の写経に関わる様々な文書をつぎあわせているのですが、
写経所が、1万2千枚の紙や堺線(罫線)を引くための鹿毛の筆十本を請求した文書などが入っているんです。
「申請謁継○事」というのが図録の写真で読めますが、○の部分の字だけがよく見えない!!
嗚呼・・・ちゃんとメモとってくればよかったな(^_^;
これは紙背文書もナカナカ面白くて、
写経所の労働者の命令文書で、
(ナント!名前が分かっているのです、葛野古麻呂が乙麻呂に当てた「葛野古麻呂状案」)
もぅ、もうへぇ〜♪です(^^)

東大寺開田地図

東大寺領の荘園の開墾地図です。
これがナント、越中国新川郡(にいかわぐん)というところです。
さすが、東大寺は京都近郊だけでなく、そんなところにまで寺領を持っていたんですネェ(^_^;
もっとも、京都と富山・石川・福井あたりは、今私たちが考えるほど遠くは無いんですね。
京都には若狭からたくさんの海産物が入ってくるルートがあったりして、越中も京都の近郊意識があったかも?


第五室 正倉院染織

浅緑地鹿唐花文錦大幡脚端飾(あさみどりじしかからはなもんにしきのだいばんのきゃくたんかざり)
これは、もぅ先程の「花氈(かせん)」に対する、すみません、私にとっては単なるボロですm(__)m
ってのを繰り返さなくてはなりません。再び降参(^^ゞ

ここでよかったのは、縹布幡(はなだぬのばん)(麻布の幡)です。
これは、もう縹色ー藍色が鮮やかに残っていて、見ている人、みんなビックリしてました!!
口々に、あんなに綺麗だ、と言ってましたよ(^^)
同じタイプの紅布幡(べにぬのばん)(麻布の幡)というのがあって、こちらは蘇芳なんですが、かなり退色しています。
でも、ボロというまでにはなってませんね。

大歌緑綾袍(おおうたみどりあやのほう)
昔の人は小さかったはずなんですが、これはどういう風に着たのかな?けっこう大きかったです!
地色も模様も全然分からなくなって、形だけをとどめているのですが、
まぁ、ボロに近いか(^_^;

ボロ以前のボロの集大成がありました!!その名も
犀連珠円文錦残片(さいれんじゅえんもんにしきざんぺん)(犀の文様の錦の残片)というのですが、
まあ、なんといいますか・・・傍らに、
大田栄蔵氏による復元図が展示されてました。
こちらはなかなかに魅力的な図柄で、はぁー昔はこんなだったん、と(´∧`)〜ハァー

それに比較すると
赤地錦几褥(あかじにしきのきじょく)というのはまだまだ模様も色も鮮やかで素敵です(^^)v
机の上敷きだそうですが、このまま、衣装にもしたいほどですが、まあ小さいから(縦99cm、横53cm)、仕方ない。
布類ではこれが一番綺麗で保存字様態もよかったですね。


第六室 楽舞に用いられた品々

緋[糸に施の作り]鳥兜(ひあしぎぬのとりかぶと)
いや、これも・・・は?何これ?と思ったら、「雅舞用のかぶりもの」だそうです。
ぺらぺらに見えますが、けっこう腰の強い生地なのかもねぇ、と、思ったら、
ナント今図録解説で読んだら、
「゛ヒノキの薄板を網代に編んで芯とし、緋[糸に施のつくり](ひあしぎぬ)を張って」とありました(^^ゞ

布作面(ふさくめん)(麻布の面)というのは、よかった♪
「長方形の粗目の白麻布に簡略に面貌を墨描し、目をくりぬき、口や両頬に丹を塗って生彩を添えるのみの素朴な作り」
の布面です。
なかなか表情に飛んでいて面白いです。
なにやら女面は一枚しかなく、現存する32枚のうち、残りは全部男面だそうです。

布襪(ぬのしとうず)(麻布のくつした)

あ、こんなに素朴な布襪は初めて見ました・・・タブン(^_^;
いつも楽舞の綺麗な刺繍かなんか入った布襪でしたよね。



第七室 仏具・献物几・献物箱

犀角如意(さいかくのにょい)

これが最後の部屋の目玉かな(^^)
「如意」って本来は「孫の手」だったんですって!あ〜らびっくり!!
「それが僧侶や貴人の容儀を整えるためのものになって儀式具として定着した」
掌(頭部)が犀角、柄は象牙、そこにそこに南方系の珍材・宝石類で飾り、さらに撥鏤・木画・透かし彫りで装飾されています。
柄の部分は、紺と紅の短冊のような板が交互に張られていますが、
この短冊板は「紺と紅に染めた象牙」なのだそうです!!
象牙って染められるの?!?!

黄楊木金銀絵箱(つげきんぎんえのはこ)
[木便]楠箱(べんなんのはこ)(くすのきの箱)
これは毎度お馴染みの・・・同じものではないでしょけど、必ず毎年同種のものが出ますから。
大き目のオルゴール箱のような感じですよね(^^)
黄楊の方は、底板に東塔という字が入っているので東大寺東塔の什器だった、ということです。


銀盤(銀のあしつき皿)
いつもいいな、と思うもの、で、今回もいいな〜、と思いました(^^)

粉地銀絵花形几(ふんじぎんえのはながたき)(献物几)
献物几というのは仏前に供え物をする時に用いた大き目の足つき盆ですね。
天板を四枚の花びらのように切った桜の木を継ぎ合わせて長花形に作って光沢のある白色顔料を塗り、
側面に銀泥で花・飛鳥・蝶を描いてあるそうです。
足は麻布の芯を白あしぎぬで包み、その上から、羅や錦で覆っている、そうです。
これはちょっと豪華でした・・・まあ古びているけれど綺麗な古び方です。

粉地彩絵長方几(ふんじさいえのちょうほうき)(献物几)
というのもありました。これはヒノキだそうです。
やはり白色顔料を塗っているようですが、大分剥落しています。
でも、その剥げ加減がいいです。



第七室(壁面)

象牙
ホントに象の牙です(^^ゞ未加工だそうですが、
化石みたい!と思ったら、ホントに化石化しているそうで、象牙として用いられる状態であったか不明だそうです。


ハァ・・・疲れた!!あ、もう2時です!
4時伴には電車に乗らなくちゃならないので忙しい(^_^;
お茶席を横目に見て、トイレに行って、ドタバタと東大寺へ(^^ゞ


えー、この後はまた後日m(__)m


東大寺大仏殿

東大寺は、去年来た時に前だけ見て横切ったんですけど・・・何しろ団体さんですから(^_^;

で、今年は一人なので大威張りで行くんですが、近道だと思って、
あのたくさんのお店の前を通らずに突き抜けられると知ったかぶりで公園の方に紛れ込んでしまい大廻してしまう羽目に(^_^;
嗚呼!知ったかぶりは身の破滅!!新宿でも一度モノスゲェ身の破滅をしたのになあ・・・懲りない地理音痴だ(;_;)

で、まあ・・・鹿の落し物の強烈な匂いと闘いながらたどり着きました!!
ところが、御門前まで近づくにつれて、もっと強い有難い香りが漂ってきて、鹿の匂いは消されます!!
そう!お香です!!
お線香の香り、というよりはお香の香りですよねぇ・・・お線香なら相当お高いお線香です(^^ゞ

で、まあ、清浄無垢の気分になり、背筋もシャンと・・・まあ、伸びますm(__)m

でも、昔、死者のお清め、穢れの祓いなどにお香が焚かれた、というのが初めて実感できましたm(__)m
なにしろ、おばさんのお香体験等というのは、あまりにもお粗末で、お香席というのも二度しかやってませんし(^_^;
でも、香りによる清め、というのは、とにかく今度で実感できましたm(__)m

で、まあ時間もないので一目散に大仏殿へ♪
実は、大昔・・・四十年以上前ですが・・・修学旅行のときには、大仏様だけは見られたのですが、
大仏殿は修復中・・・って建ててる最中じゃなかったかな?
まあ、とにかく見られなかったのですよ!!
なので初見参なのだ\(^^)/

まあ、建物ですからねぇ・・・でも荘厳な雰囲気ですよ、とにかく。
ただ、外見より中には行ってからのほうが凄いです。
当然ながら天井高くて、この天井にもいろいろ工夫があって、
遠くから見てもどういう角度で見ても、合子天井の升目が揃って同じように見えるそうです・・・
昔の人の数学的才能と建築力にオジキm(__)m

今日はシーズン中とはいえ平日なので人少な・・・でも、こんなに少なくていいのかな(^_^;
正倉院の壮絶さに比較して静すぎて・・・修学旅行生もいないし(^_^;

大仏殿の柱は周囲役3.65メートルと案内板に書かれています。
元禄年間に再々建された柱が、明治末年に取り替えられたそうです。
そういえば、元禄年間の再々建は例の妖僧というれた護持院隆光の尽力なんだそうですね〜(^_^;
まあ、妖僧といわれる僧侶はそれだけの力があるからこそ、ちょっと悪い方へ向うと「妖僧」になっちゃうわけで・・・。

すこいですネェ・・・
あー、噂の柱から抜け出ている人がいました♪おじさん・おばさんの数人のハイキング姿のグループの人たちです。
「奈良を歩く」なんてツァーかもしれません・・・標準語で騒いでたし♪

「東大寺瓦釜跡発見」
東大寺の屋根瓦を焼いた釜跡が渥美半島で発見された、という展示もありました。
「東大寺瓦の運搬経路を探る」という実施計画について、
昭和40年、渥美半島埋蔵文化財調査で分かった」らしいです。
昭和43年、東大寺鐘楼の屋根修理があり伊良子の瓦を発見した、という記事も載ってます。

大雑把に見て回って、興福寺に行きたいもので・・・(^_^;

東大寺のHPはこちら
大仏殿の見たまま記録はこちら様がよくわかりますね(^^)


興福寺

来たよ!来たぁ\(^^)/興福寺だあ!!

いや、実は薬師寺も行きたかったのですが、
第一が正倉院展見ることで、そうなると東大寺で、
じゃあ駅に行くのに興福寺しか寄れないジャン・・・・m(__)m
それが、興福寺は修復中とかで駄目な所が多かったのですが・・・
時恰も国宝館ご開帳!!
修復費稼ぐため?

あるある・・・ここにあるのみんな国宝!!死にそうだ!!!!!
記憶に残ったものをちょっとだけ・・・実はいろいろあったのですが↓に書きますが、
興福寺は大変公式サイトが充実しているので、私的感想のみm(__)m

「銅像仏頭」・・・天武13年(685)・・・天皇自ら、蘇我倉山田石川麻呂の爲に発願された山田寺の、
その講堂本尊の頭部で、白鳳時代の基本作品と高く評価されているそうです。
蘇我倉山田石川麻呂ねぇ・・・大化の改新では良いように使われて、
天智天皇の許に二人も娘を送り込んでおいて、結局は天智に殺られた男ですよ(^_^;
それをなぜ天武が?と思えば鵜野讃良皇女のお祖父さんなんだわぁ・・・(^_^;

ということを考えれば、結局は蘇我氏の血なのですよねぇ〜
まあ我日本の天皇の血筋は母系を認めないそうですがね(^_^;

「聖徳太子二歳像」・・・てのはまた可愛くてねぇ・・・賢そうで、nemoのチッチャイ時みたい(*^-^*)
笑うな!昔のnemoは大変なものだったのだよ・・・なにせ我が家の「天児」!
ねもん家にこんな賢い子が生まれるはずは無い!
絶対、十で神童!十五で才子!!二十歳過ぎたらただの人〜♪ってパターンだ!と悟っていたので
現状に於いては見事に諦めついてます(*^-^*)
我ながら、子を見ること親に如かず(^^)u
脱線m(__)m
えー、この「聖徳太子二歳像」は、江戸時代の木造だそうで、
太子二歳のときに東に向って「南無仏」と唱えたという「伝暦(でんりゃく)」の所伝に基づいて作成されたそうです。
「半身裸形の合掌童形」です。

「文殊菩薩騎獅像」
こちらは、江戸時代の木造で像高が1.95メートル!!
もっとでかい気がしたけど・・・数字写し違えたかな(^^ゞ
漆箔・彩色・玉服、宝髷を高く結い金泥で回した冠帯に宝冠、右手に剣、左手に経巻・・・
とにかくインパクトありました!!

重文「釈迦如来仏頭」鎌倉時代・寄木造り。

重文「地蔵菩薩立像」は平安中期・檜の一本造り。

「金剛力士像」は凄いですねぇ・・・ここの売り物!!

さぁて、来ました、いよいよ「阿修羅」!!

像の高さは1.534メートル・・・って一メートル半ですか。
阿修羅は梵語のアースラから来たものだそうですが
生命(asu)を与える(ra) 
または
非(a)と天(sura)
で、まったく違った意味になるそうです(^_^;
西域では、大地に恵みを与える太陽神、
インドでは、暑さを招き大地を干上がらせる太陽神で、帝釈天と闘う悪の神。
で、帝釈天の教えに触れ仏教の守護神になる・・・と。

いやまあどっちでもええのですが・・・要するに太陽神・・・そのわりに暗いな・・・でも美少年(*^-^*)
悩める十代のイメージを持つのは私だけ?
しかも六面に顔が合って表情が違う所がいかにもいろんな顔を持つ人間的なイメージがあるのだけど(^_^;

「千手観音摺仏」これは、鎌倉時代のものなのですが、
楮紙一紙面をいくつだったかな・・・枠に分けて(私のメモには九つの枠になっているのだけど)
千手観音様の像を、一枠に一体摺り込んであります。
それが2428枚あるのですが、そのうち四枚に安貞二年(1228)の年記がはいっているそうです。


興福寺さんはこちらです。とくに 全文化財データベース一覧というのを作っていらしてわかり安いm(__)m
ところがですねぇ・・・↑に書いた実際見てきたものが載ってなかったりして・・・未完成なのかな・・・(^_^;
それとも、↑のは、興福寺さんの持ち物でなくて借用展示だったのでしょうか(^_^;
当然阿修羅や乾漆八部衆立像なんかは載ってますけど・・・。

今日現在(2006/05/16)でわかりませんm(__)m


まあ、今度いつ行かれるのかな〜(^_^;