表紙へ /観覧記表紙へ

11月25日(金)

「平安の仮名、鎌倉の仮名」

―出光美術館―

馬鹿な、馬鹿な私!!
只今、風邪がけっこう大変になってきて、なってきているというのに・・・
今日歌舞伎行ってきてしまいましたぁ(^_^;
で〜、せっかく東京行くんだから出光も〜(^_^;

今は、WEBでとって、クレジットカードを差し込めば直ぐ発券になるの!!
これはビックリでした(^_^;

十時からチケット発券機がスタートするので、キッチリ間に合うように行って、直ぐ出光美術館に(^_^;
で、序幕はパスして、「熊谷陣屋」から見れば良いやネェ、と(^^ゞ


でー、今回の展示は「古今集1100年」「新古今集800年」に連動する形で、
和歌を書く、というソフトとしての意味から「仮名」を取り上げているようです。
前回の「書の名筆展」では、あくまでも、「書」が主体であったのですが、
今回は、「仮名」というソフトによって、和歌を如何に表現しているか、ということですね。

まあ、本来は、というか万葉時代の和歌は口承文学だったはずで、
自分の作品を朗々と歌い上げる、というのもポイントだったそうです。
柿本人麻呂が歌聖といわれるポイントのひとつには美声であった、ということも含まれる、と聞きました。
それが、万葉仮名から、大和文字というのかな、仮名が生まれて、
貴族の社交のツールとして書かれる歌、書いて伝える歌になっていくわけです。

和歌の出来栄えには、和歌だけでなく、使用される料紙、書く技術も大いに加味されて、
三位一体で評価・鑑賞されるのです。
まあ、ここまで時代が立ってしまうと、料紙の素晴らしさはちょっと損なわれていることが多いのですが、
墨色・筆跡は損なわれることなく、和歌本来の鑑賞に大きな役割を担っています。

また口承では、いろいろな誤伝や齟齬が生まれますが、書かれたものであれば、
その通り伝わりますから、当時の社交の記録というだけでなく、
大きな歴史の流れを意味する資料ともなっています。

とは言っても、何人もの人々が書写していくうちに、自然に誤記されたものもあります。
有名な所では「百人一首」は本来のオリジナルとは違う表現になっているものが多いですよね。
まあ、あれは定家のセレクト上のテクニックという説も有りますが、
現実には誤写されたものを書いてしまった、ということもあったんじゃないでしょうか。

しかし、みんな、よく書き写していますよ\(^^)/
天皇までも自分の手で、古今集や、各歌人の家集などをマメに書写しています。

これがまた八代集のトップを飾った「古今集」と、棹尾となった「新古今集」がそれぞれ
平安と鎌倉という二つの時代の象徴になっているところが正に天地人の成せる業ですよね(^^ゞ
(「八代集」では新古今が最後ですけど、「二十一代集」ということだとまだまだ続きすが、一応、ね)

図録には「平安時代の和歌史概説」「鎌倉時代の和歌史概説」が、仮名の解説に先立って掲載されています。
それぞれ大御所の後藤祥子・田渕句美子の両氏が執筆されています。
これは国文研の受講ノートに書くかもしれないのでパス(^_^;



第一部 平安時代の仮名


「平安の仮名」と「鎌倉の仮名」ということで、それぞれの時代の代表が出展されていますが、
やはり、「平安の仮名」というと、
貫之・行成・公任・道風・・・というところなんでしょうか。
あっ、三蹟というのがありましたね♪この行成・道風に佐理が入ります・・・そういえば、
今回佐理はあんまり見かけなかったな・・・(^_^;
と言っても、どれも「伝」とつくのが多いんですね(^_^;

こういうときの看板展示の代表は「高野切」で、高校の書道の教科書には、必ず載っている
「寛平のおほんときのきさいのみやのうたあはせのうた」という、アレです。

これも「伝貫之」で、しかもももう絶対に筆跡が違うし・・・第一種・第二種・第三種、全部違うのに、
室町時代から、「伝貫之」なんだそうです(^_^;
おまけに、第二種の筆者は源兼行と殆ど確実視されているらしいのに。
まあ、筆者が誰であろうと名筆は名筆、天下の名品ですよね\(^^)/

でも、この天下の名品を出光は所蔵しているのですよ!!
まあ、行く度にビックリしてますが、それと、今回も新聞の切り抜き持参で800円を200円引きです(^^)v
これは本当に頭が下がりますm(__)m
もともとの800円だって大変なサービス価格ですからねえ(^^)

とにかく、平安時代の仮名は優雅・繊細・悠揚としています。
出光美術館のメルマガで

現在私たちが目にすることのできるのは、“手書き”と呼ばれる筆跡のプロが、上流の貴族達の注文で書写した『古今和歌集』等の調度手本の類ですが、これらの手本類に見られる、美しい料紙に記された、端整ではあっても堅苦しさの感じられない優雅な文字の様子や、心のままに書き散らされたような趣きの和歌の書かれ方には、優雅さや繊細な情趣を何よりも大切にした、この時代の貴族達の日常生活における、和歌の書かれ方が反映していると思われます。

と解説していましたが、本当に「字まで貴族なんだぁ〜!」というのがピッタリです(*^-^*)

「伝行成筆」の「歌仙歌合」というのがありました。
上段に人麻呂、下段に貫之の歌を各十首づつ書いて行きます、
その次のブロックは、上段が凡河内射恒十首で、下段が伊勢十首・・・という風になっています。
それぞれ風趣があうものを机上での歌合せという趣向なのでしょう。
行成にしてはちょっと筆が細すぎないかなぁ・・・と私風情が考えるのは不遜(^_^;
でも、ナニシロ「伝行成筆」は多くてねぇ・・・いろいろ比べて見るのは楽しみでした♪
「伝行成筆」のその他は、「関戸本古今集切」「貫之集切」「針切」、当然ながら「和漢朗詠集」など・・・です。
「針切」というのは初耳で?という感じでしたが、
今、図録を読んだら、
「百人一首」でお馴染みの「相模」の家集「相模集」と、
「源重之の子で、僧であった人」の家集「源重之の子の僧の集」という「二つの歌集を纏めて閉じてあった冊子の断簡」だそうで。
へぇ〜!!そういうのもあったの?
誰かが纏めて閉じて冊子にして所蔵していた、ということなんでしょうね。
それをどの時代かでバラシテ売り分けた、と(^^ゞ
「針集」の名は、「筆線が針のように細く、筆致が鋭い所から」ソウ呼ばれるそうです。

そうそう、行成といえば、同時代の公任
「拾遺抄切」「大内切」「唐紙和漢朗詠集切」「藍紙万葉集切」「石山切−伊勢集断簡」・・・
凄い名筆ですよねぇ・・・溜息が出ちゃう(^^ゞ

そういえば、「和漢朗詠集」というと、行成なのですが、これ、編者は公任なのです♪
勿論、「伝公任」の「和漢朗詠集」↑もあります。
アホ息子に神田の古本屋で「和漢朗詠集」(当然写真本ですよ♪)を探して、と頼んだ時、
息子が「和漢朗詠あるんだけど、行成じゃなくて公任なんだって、ママ間違えてない?」と電話してきて、
いや、ママが言ってるのはそっちじゃなくて〜、とドタバタしました(^_^;

私は行成の書も公任の書も凄く好きなんですが・・・

公任は、
太政大臣(藤原頼忠)の嫡男に生まれ、母は醍醐天皇の皇子代明親王の娘で正三位の厳子女王。
同母姉妹に円融天皇の皇后遵子、花山天皇の女御となったィ子がいる、超〜サラブレッド!!
ところが長姉の円融皇后遵子が子のないまま、道長の姉詮子と競って半ばごり押しに皇后位に就いたため
詮子の子一条天皇の宮廷では、ソノブンしらけ鳥飛んで行く東の空へ〜♪ミジメ、ミジメ〜♪てなことになり
遵子も「素腹の后」といわれたりして気の毒なのですが、その前の詮子イビリを聞くと、ねぇ(^_^;
もっとも詮子だって黙っていびられているようなタマじゃないですが・・・(^^ゞ
あげくは政敵の道長に擦り寄ったりしてやっと権大納言に辿りつく、という(^_^;

行成は、
最終官位は、正二位按察使権大納言で、公任とどっちもどっちなので゜すが、
こちらはちょっと家格落ちて、まあ、おじいさんは摂政藤原伊尹ですが、父義孝は若死↓ですから。
母は醍醐源氏の中納言源保光女ですが、幼い頃に祖父も父も亡くして、王氏ながら中納言の孫としてで育ったわけで、
官位も進まず苦労したらしい。
(平安時代は閨閥では、圧倒的に母系が強いけれど、実社会ではこれまた圧倒的に父系ですから・・・)
で、道長に見出されてからは、優秀な官僚として、道長側近として順調な出世をしていきます。
まあ、嘘かホントかいろいろ有りますが・・・(^_^;

私は行成の書も公任の書も凄く好きな分、そういう話を聞くと嫌だなぁ・・・と複雑(^_^;
ことに和泉式部日記をやった時に聞いた公任は(;_;)号泣もの!!
もっとも、それが貴族社会というものだったわけで、今の常識や礼儀ではカウントできないことなのですが(^_^;
嗚呼・・・余計なこと書いちゃいましたが、
そういう人でも、こんな素晴らしい書が書ける、と・・・あくまで「伝」ですが(^_^;

そうそう、「唐紙和漢朗詠集切は藍紙万葉集切との書風の共通性から、藤原伊房を筆者に推定する説が有力である」と、
図録の解説にありました(^^ゞ伝称筆者ってそういうことらしいですねぇ(@_@;)

しかし、「石山切ー伊勢集断簡」などは、書も素晴らしいですが、料紙も保存状態が素晴らしくて、まだまだ美麗です(^^)
解説図録の表現を借りるなら
「白胡粉地に重唐草文を雲母刷りにした唐紙、布目打の唐紙、三色の染紙を“破り継ぎ”の手法で継いで、
金銀泥で蝶・小鳥折枝を描く」
「白胡粉地に桜蔓唐草文を雲母刷りにした唐紙に、金銀泥で、松・柳・楓等の折枝や小鳥秋草を描く」
「白胡粉地に繋ぎ丸獅子唐草紋を雲母刷りた唐紙」とか、ねぇ・・・字で書いたって想像できませんけど(^_^;

そうそう、メズラシヤ女性の書がありました!!
「伝小大君」の「香紙切」!
まあ、勿論「伝」なんですが、時代的には11世紀後半の書写ということで、ちょっとずれているらしい(^_^;
あ、小大君のことについては「やまとうた」さんというサイトさんの「千人万首」の中の「小大君」のところに詳しいです。
私も名前しか知らなかったのですが(ナニシロ小と大ですから憶え安い♪)、
「三条院女蔵人左近」という別称があるのもここで初めて知りました(^_^;

ここは凄いサイトですから、是非一度覗いてみてください(^^)
・・・これを読んで下さる方は、大体ご存知でしょうけど(^_^;

「和漢朗詠集」の「戊辰切」というのが上下巻でありました。
この「藤原伊行」の分が、なんとも王羲之の雰囲気なんですね・・・ちょっと感激(^^)



  第二部 鎌倉時代の仮名

またも、出光のメルマガを失敬して・・・これは無断引用はまずいのかな・・・(^_^;

院政期から鎌倉時代にかけて、和歌の役割の比重は褻の領域から晴の領域へと大きく旋回します。宮廷貴族を中心とした人々によって、日常生活の洒落た会話といったレベルで詠まれていた和歌は、芸術性の高い文学作品として作られるものとなり、この傾向はやがて『新古今和歌集』の中に結実します。また一方で、度重なる勅撰集の編纂や、院や天皇が宮中で催す歌会や歌合、行幸時における和歌の詠作など、和歌は政治を文化的にプロパガンダする役割を担うようになります。和歌を記す仮名に即していえば、このような変化は、書のプロではない人々に、緊張を伴う場で自分自身の詠歌を仮名でしたためる、という機会を増やしました。

つまり、貴族社会の一般教養として和歌が定着してしまい、
和歌の素人の貴族が歌を作るためにプロの先生につく、と。
お稽古に通って家元からお名前をもらう、という今の家元システムの走りのような、
「古今伝授」なんてものが生まれてきます(^_^;

平安時代だって、いわゆる歌人というものはあって、職業ではなくとも、
求めに応じて、その場にふさわしい歌を詠む、詠めるという技術を認められていたわけです。
古くは「梨壷の五人」なんて歌人たちもいますけど、当然位階は低いし、官職も低い・・・中級貴族、というところですか(^^ゞ
まあ具体的には五位・六位クラスの受領階級です。
梨壷のリーダー格源順ですら、最終位階は従五位(下?上?)で、能登守ですから。
清少納言のお父さんの元輔だって、そうですよね。
でも歌人としては、歌合せの判者や、天皇・皇后の私的サロンには伺候することもできたわけです。
(さすがに直接お言葉を賜る、ということはなかったかもしれませんが・・・)
平安中期の女流の時代でも「蜻蛉日記」のヒロインの右大将道綱母だったり、和泉式部、紫式部だってそうですよね。
貫之もある意味では職業的歌人で、その公的な場に於いて、公的な歌を詠む、ということはありました。
でも、彼らは、あくまでも、貴族としての位階・官職があって、職業歌人として生業を立てているわけでは有りません。

しかし、鎌倉時代、というより平安末期には俊成などがもうプロの歌人として平忠度などを指導していたんですよね。
それが子供の定家・孫の時代になると宮廷での官位はともかく、実際の仕事は正に職業歌人ですよね(^_^;
そして、その職業歌人たちは、歌合せに不慣れな素人の歌詠みたちに、和歌懐紙の書き方などを教えます。
さらに歌合せの記録をとったりします。
また勅撰集入集を目指して百首歌などが流行ってくると、個々に書いて来る詠草集などの添削をする。
そこから、
寂蓮様(じゃくれんよう)、後京極様(ごきょうごくよう)、世尊寺様(せそんじよう)、伏見院様(ふしみいんよう)
などという書風が出来てきます。
ちなみに、私か源氏で使わせて頂いている某大学の影印は中院家の1531年の写本で世尊寺流です。
ヘヘヘ・・・世尊寺流こそ、何を隠そう行成の流れなのさ!!

さすがに鎌倉時代になると「伝」というのは少ないです(^^ゞ
全体に鎌倉時代の字は線が太いですね。
解説にも有りましたけど、見れば納得、という感じです。
その中では寂蓮などは華奢で優雅な方ですかね・・・平安の名残を留める、というか(^^ゞ
そうだ、寂蓮は「伝」が多いですね。
「大坂切」「雲紙本朗詠集切」「田歌切」「大色紙」「関屋集切」「栄花物語切」・・・みんな「伝」です。

「伏見天皇筆」「広沢切」はさすがですネェ♪
例の後深草院の第二皇子です(^^ゞ
しかも、中宮の父は西園寺実兼ですよぉー!!「とはずがたり」の世界です(^_^;

「伏見天皇が自らの和歌を部類して自選、筆録した家集の断簡」だそうです。
しかも料紙が具中暦や文書の紙背か素紙だそうで、歌の訂正や重複も見られることから草稿という風に考えられるそうです。
そうかぁ、この時代でさえ、しかも天皇でさえ、紙背を使ったりしていたんですネェ・・・感動!

天皇というより、青年武将の颯爽とした勇姿が偲ばれるような字です。
ちょっと灰汁が強いかも(^_^;

今、ネットの古書店で「伏見天皇本影印源氏物語、14巻揃でン万円」なのだぁ!!欲しいなぁ(^^ゞ

あ!実兼の書もありました!!和歌懐紙と「実兼集切」自筆ですけど、無論達筆ですけど、
おおらかな頭のよさそうな?字です。
実兼は、
西園寺家に仕えた京極為兼を庇護し、自らも京極派に属して新歌風の開花に尽力したけれど
結局は爲兼との間にを生じ失脚させたそうです。


初めて聞く名前で(スミマセン、無知で)衣笠家良という人の「御文庫切」は素敵でした\(^^)/
初めて、といえば、「春日懐紙」(国文学研究史料館蔵)の解説で、「春日若宮の神主である中臣氏」というのを読んで、
や〜っと春日大社が、藤原氏の氏神である理由が分かった!!
おバカな奴ですm(__)m

お〜「田原切(伊勢物語) 伝後鳥羽天皇筆」「拾遺集切 伝後鳥羽天皇筆」というのがあったぞ〜!!
えー、ちょっとイメージの後鳥羽天皇とは違うなぁ(^_^;
剛毅・豪腕・独断のイメージでしたが・・・流麗で・・・流れっぱなしのような気も、
でも上品です!!ホントに品格はありますよ。

世尊寺様といえば、
秋きぬと目にはさやかにみえねども〜の家隆さんの、勿論「伝家隆」ですが
「升底切」「中院切」「光台院五十首切」(三種)「祐海切」「新勅撰集切」・・・
みんな名品・名筆です\(^^)/

そういえば、「宗尊親王筆」というの、これも「伝」ですけど、初めて見ました・・・ホントに初めてかな?
でも、今まで、記憶にないもの(^_^;
鎌倉の初代の宮将軍です。三代目の実朝の後、四代・五代が摂家将軍で、
この人が六代目で、初めて皇族から征夷大将軍になったんですよ♪

この人は後嵯峨天皇の長子だったのですネェ・・・母方の身分が低くて鎌倉下りになったのですって!!
↑のWikipediaで初めて知った!
まあ、詳しくはそちらをご覧になってくださいm(__)m
有為転変の人で、高度な文化人だというのは吾妻鏡の関係上土瓶耳してましたが、
帝の第一王子とは思いませんでした・・・フーム
アレレ・・・脱線m(__)m

その「伝宗尊親王筆」の「如意宝集切」というのは、ナカナカ颯爽とした書体で素敵です。
本当に鎌倉の字は読み安いですよ(^^)


さて、いよいよ、古今伝授の家です(^_^;

先程の「やまとうた」さんというサイトさんの「千人万首」の定家のページに行くと御子左家の家系図が出ます\(^^)/感謝

平安時代の最後のほうに「御家切(手鏡『若竹』のうち)藤原俊成筆」
「自選家集(手鏡『若竹』のうち)藤原俊成筆」という2点があって、これは真筆のようです!!
大変に繊細・優雅で伸びやかな字でした。
いまだに「御家流」と言いますが、定家から下った後の御家流の書体はけっこう読みにくいです。
丁度、今某セミナーの源氏が「葵の巻」で、いつも影印を取らせていただいてる中院文庫では、
「花宴」と「葵」が抜けているのです。
それで別の大学の全巻揃のトコから「花宴」と「葵」を頂いているのですが、
室町時代後期に書写したとみられる「源氏物語」の写本です。
でも中院文庫(世尊寺流)(こちらは、享禄4年ー1531年書写)に比較するとかなり癖が強くて、読みにくいです(^_^;
まあ、好みもあるでしょうけどね(^^ゞ


「伝西行」の「中務集」は素晴らしい金蒔絵の箱もついていました♪
でも、この「西行を伝称筆者に持つ写本やその断簡は、
藤原俊成の監修の下に俊成や周辺の人々によって書写された一連の私歌集であることがわかってきた」そうです。
ウーム、見るからに優雅で繊細で美麗ですものねぇ・・・あの以前見た西行の書簡に比較すると、
あれけっこう雑に書いているせいもあったでしょうが、こんなに端正な書体じゃなかったもの(^_^;
で、まあその「伝西行」は、というと、↑の他に「光孝天皇集切」「和泉式部続集切」

「伝坊門局筆」ということで、「良経詠正治百首断簡(秋篠月清集切)」(静嘉堂文庫美術館蔵)というのは、
俊成の筆をもっと繊細にしたような美しい水茎ということばがそのまま当てはまる筆跡です。
で、これは坊門局(俊成女)の実際の筆跡とは違うのだそうで(^_^;

良経
関白後法性寺九条兼実の二男で俊成に師事していたそうです。
当然御子左家をバックアップしてもくれたし、まあパトロン♪
このあたりから、芸術家に対して庇護を加える・支援するというのが出てきたのかな?
平安中期にはそういう事はなかったですよね・・・。
歌道では後鳥羽院に重んじられて、能書の聞こえ高く、後京極様といわれるそうです。


俊成ー定家ー為家と続いた御子左家も二条(為氏)・京極(為教)・冷泉(為相)という三流に分裂してしまいます。
嫡流としては二条家なのですが、この時代の特質として、
勅撰集選者とその任命者たる天皇の皇統の争いが一致して、皇統の迭立に伴い、
二条家(大覚寺党)、京極家(持明院統)の浮沈を繰り返します。一応冷泉家も持明院統ですが影が薄いね(^_^;

今日にも評価の高い「玉葉集」の選者であった京極為兼は伏見院の信任も厚く
西園寺実兼↑も為兼を庇護し、自らも京極派に属して新歌風の開花に尽力します。
「為兼は、二条家が歌道家の権威を独占し、和歌の詠法の細部にも規制を加えて権威を高めるというやり方に反発し、
二条派和歌の権威を突き破る歌論を主張して激しく闘争した」
というのが図録の解説(田渕句美子氏)にありましたが、
結局は実兼との間に争い(身分が違いすぎて対等の争いにはならないよね)を生じ失脚させられたそうです。
京極家の歌も、「風雅集」を最後の光芒として衰退してしまうそうで・・・結局今残っているのは冷泉家か(^_^;



そうそう、日本三大国宝手鑑の一つ「見努世友(みぬよのとも)」も特別展示!!

これは凄いですよ!!
ホントに!これ一冊で、本当に書体の全てがわかります(^^)
因みに国宝古筆手鑑「見努世友」は、京都国立博物館所蔵の「藻塩草」
MOA美術館所蔵の「翰墨城」とともに三大国宝手鑑と称されているそうです。
これ見るだけでも、この展覧会の意義が有ります!
正に名筆オールスターですね(^^)