2024年

2024年02月

02月05日(月)

『少女漫画はどこから来たの?』

という本を買っていたのです。

もはや年金生活者のオバサンとしては本を買うのもそれなりに大変です。だから、一か月の図書費は3000円以内、と決めています。
大体文庫or新書本2~3冊で終了♪となります。

先日の米澤穂信の古典部シリーズのマイブームは大変でした。ま、中古も含めてですけど、全六巻か~?

一か月で4000円近くを米澤穂信に費やしました。ま、その中には本体28円で送料315円か?なんてのもありましたけど(^^;

朝日の書評欄は眼の毒で、いつも欲しいものばかりがチラチラ!だけどそういうのに限って単行本で高いんですよ。

文庫や新書の推薦コラムもありますが、書評として取り上げられるのは大体単行本ですからね。

大体、単行本は高いうえに大きくて重い(/ω\)涙。

オバサンは寝ながら読むのでとても大変なのです。

(話進まない!いつも通り前振り長い!)

で~、9月か10月かのその書評欄で「少女漫画はどこからきたの?」っての大発見。


上田トシコ・むれあきこ・わたなべまさこ・高橋真琴・今村洋子・水野英子・ちばてつや・牧美也子・望月あきら・花村えい子・北島洋子という

オバサンの少女時代を彩った漫画家さんたちの座談会の記録です。
「少女漫画を語る会」というのの発起人の水野英子氏はじめ、いろいろな方たちが奮闘努力されて出版にこぎつけたようです。
今、聴かなきゃわからなくなっちゃう当時のお話、現実にこの会で話すことでご本人も忘れていたキャリアが掘り起こされたりしたんですね。

上田トシコさんもお亡くなりになってしまったし、わたなべまさこさんも92~3~4歳?ウーム。
この1996年9月に始まった座談会から2000年8月まで四回に亘った座談会の全記録です。

で~、出版は2023年5月30日第一刷、翌月20日に第二冊でした。その間に↑上田さんは2008年にお亡くなりになりました。

そりゃ直ぐ買いたいとは思えども本体2600円、税込み2860円です。

ワッ!これ買ったら今月おしまいだわぁ・・・大体単行本だし重そうだし、

と思って、文庫出るかな~?それまで待つか~?とは思えども、・・・待てない!諦められない!

・・・ん~、青春の一冊だ!と覚悟したのは三か月後(^^;・・・オバサン優柔不断(^^;

というわけで、12月、自分へのクリスマスプレゼントと思って買いました。
だけど届いてビックリ!覚悟していた以上に大きい・厚い・重い、字も細かいのがギッシリで

当時の絵もたっくさん入っているのですが(大変貴重でありがたい♪の、で・す・が・・・)、

これまた細かい・・・ふつうなら分冊になるようなのがギッシリ一冊に集約されています。

少女漫画家の皆様の思いが詰まった一冊だったのです。

大体、少年漫画というのはサンデー人気もあるし、あ、今時はジャンプか~?マガジンとのライバル話が面白くて、

良く特集があるし何本か見て本体読まなくても慨史はわかっています。

ところが自分自身が読んでいた少女漫画の世界というのは意外やよくわからないのですね~。

というわけで買ったはいいけど、何度も言うように大きい・厚い・重いの三重苦です。

面白いんですけど、中身も濃過ぎて読むのも大変だったりして寝っ転がっては読めないの~。

第一回目の座談会だけでバンザイしてしまい、ちょっと積読になっとりました。
それが、今回の芦原さんのことで、こりゃあ、読まなくちゃなんねぇだぁ!と決意も新たに再開始めました。

第一回目も読んだのに記憶オボロになってますので、また初めから(^^;

原作や原稿の取り扱いの悪さ・酷さはもう著作権の「戦前」というほどで、

〇英社なんか階段の途中にゴミ箱置いて、その中に原稿全部捨てていたそうです。

ただ、漫画家も原稿は買取だから「それが自然だと思っていた(Ma氏)」という話でした。

Мm氏も「亭主の原稿が連載一作分、全部断裁処分されていた」というエピソードを話されています。

Mh氏は、単行本にするときに「やむなくトレースで起こしたり、直にざら紙の雑誌からコピーして起こして本にしたというようなことはたくさんあった」そうです。

上田氏は「私は編集の方たちは、皆さん大学を出て、編集者になる以上はそういうことはみんなわきまえているとばっかり思っていたんですね。

雑誌社には倉庫がたくさんあるので、そこへちゃんと保管してくださっているものだと勝手に決めていて。自分はもう全くの無知だったんです。」と慚愧の念を吐露していらっしゃいました。

まあ、当時の漫画家は職業として不安定、とくに少女漫画家は若くしてスカウトされた方も多くて、

甘く見られていたというかいわば編集者の手の上で転がされていたようなところもあったのでしょうねぇ。

そういえば、このメンバーには里中満智子氏とか入ってってないし、少女漫画の概念を変えたという「ベルばら」の池田理代子氏も入ってないですね。

後も一つ、これは、「鑑定団」あるあるなのですが、

昔は漫画家の住所などもオープンでした。「好きな漫画家さんを応援しよう」とか「ファンレターを出そう」なんてのでね。

で、その住所を頼りにサインもらいに行ったりすると、ちゃんとちょっとした絵を添えてサインしてくれたりしたんですよ~。

そんな話もこの座談会では出ていて、絵を描く時間がないから手元に残っていた原稿を切ってそこにサインしてあげてしまったりして、

結局手元に残っている原稿もボロボロになっているものがある、とかね。

まあ第二回読むの楽しみですが寝転がって読めない以上、なかなか大変なんですよ~。

そういえば、世間でいう見ず知らずのおばさん呼ばわりは気に入らないけど、自称で言う「オバサン」はけっこう気に入ってます。

ま、ホントはもう「オバアサン」と言わなきゃおかしいのだろうけどね。
それより、インタビューなんかで馴れ馴れしく「おとうさん」「おかあさん」て呼びかけるのはいかがかと思っています。
Hello、Madam?とは欲してませんが。
日本語って、そういう呼びかけ方がないのよねぇ・・・公任が「このあたりに若紫やさぶらふ」なんてか呼びかけて、

紫式部の虚栄心をくすぐった、というのくらいですかねぇ。

「すみません、ちょっとお聞きしてよろしいですか?」くらいの日本語は使えそうな気もするけどね。

02月09日(金)

赤松良子さん逝去

私たちの世代の憧れの方です。


元文部相なども勤められましたが、やはり労働省の婦人少年局長として「男女機会均等法」の成立に尽力されたことが大きいですね。
けっこう経済界・市民団体・男女、各方面から行き過ぎだ、いや不十分だ、とか色々言われたけど大きな一歩でした。

これがあって、〇友の女性の若年定年制というか肩たたきとかが裁判で不当と認められたんじゃなかったかな・・・もうあまりに古い話で

どちらが先か忘れてしまったところもありますが・・・。

私も、ですが、私たちの時代では、男女差別は当然受け入れなくてはお勤めできない、という思いがありました。
ただありがたいことは、我が職場では今でいうセクハラみたいなのはなかったことですね。

出向で来ている大手企業の人たちが〇〇の宴会で、ここの宴会ではちょっと騒いだだけで翌日出社できない、とぼやいてました。

でも、〇友の女性たちの訴訟や、赤松さんの呼びかけなどもあって・・・ちょっとだけ目覚めたんですよね。

まだまだ長い眠りは覚め切れてないないようですが・・・。

深い感謝とともに、ご冥福を心よりお祈りいたします。

02月10日(土)

嗚呼!今度は小澤征爾さんですか・・・われらの世代の憧れの人たちが続々と・・・。

生で見たのはもうだいぶ昔・・・1973年位?・・・てえと、ボストンに行く前?もう世界の小沢でしたね。
日比谷公会堂で「マタイ受難曲」だった、ということは12月だと思う。
少なくとも寒い時期ですよ。
勤務先が加入していた音楽団体の抽選でかなり良い席が取れたので友人たちとおしゃれしながら厚着して色々工夫していたんでした。
もうちょっと年食ってたら、松本楼でお夕食とか、ってなるんでしょうけど、
当時はまだまだおぼこいからね。ふつうに日比谷辺りのレストランで済ませていったと思います。残念。

指揮が素晴らしいかどうかは素人でよくわかりませんでしたが、
とにかく登場した時のオーラはものすごくて、最近は殆ど黒の上着でしたが、この時は白い指揮服で、
当時としても指揮服に白を着る、ということは超珍しいことだったのです。
当時の指揮服は当然黒の燕尾服!ラフなコンサートやテレビ番組ではたまに白のタートルの上に黒のスーツとか、
今の佐渡さんスタイルのマオカラーの襟の上着というのがボチボチ出てきました。

ま、ミーハーでカッコよさにしびれました(^^;
マタイ受難曲は、歌物語のような形式なので、ダレルことはあまりないのですが、ソリストが誰だったかもう覚えていません。
ただ、バスのソリストが素敵だったことだけはうっすら記憶にあります。

あと2003年位?の日曜日の雨の朝、古文書入門講座に行くために電車に乗っていたら、ある駅から二人連れの男性が乗ってきました。
ウム?見たことある顔?ギャハァ!小澤征爾だ!スカスカにすいている車内で座ろうともしないでドアの傍で立ちんぼして話しています。

えっ?えっ?・・・何?何?・・・娘にメールを送りました。
「今、どこそこ駅から小澤征爾が乗ってきた!」

ちらりと浮かんだのは、今日は〇〇芸術館でコンサートだぁ!
オバサン、半年前のチケット売り出しの二日間、通算で7~8時間くらい電話にしがみついていたんですけどね・・・。
2回券も一回券も取れず撃沈していたのでした。
当然講座はさぼるつもりでしたけどね。

お友達もけっこう電話してダメだったの~!と、当時はランチ盛んだったから話の種になりました(^^;
何しろン10年ぶりの日本でのタクト!しかも地元に近くて便利というのもありました。

で~、半年後の当日は雨の日曜日でしたから、道路は車が混雑して動けなくなって電車移動になったんじゃないでしょうか?
案の定、そのコンサート会場のある次の駅で降りていらっしゃいました。
もう一人の男性は多分マネージャーか付き人さんか?
小型のスーツケースを引きずっていたのはあの中に指揮服が入っていたのでしょうね。

スカスカ電車の中でどの程度の乗客が気づいていたかわかりませんが、
気づいたとしても、みんなが押し寄せられる雰囲気ではなかったのですが、
ギリギリのところで、近くに座っていた女性がサインを求めに立ち上がりました。
オバサンも、あ~、いいなぁ♪とは思いながら、もう電車も速度落とし始めているし・・・オバサンはあまりサインとか集めるのは好きではないし、
で良い所を見られた♪♪ということで満足、満足でした。
小沢さんは、一瞬当惑した用でしたが、ちらりと周囲に目を走らせて、断らずにサインしてあげてました。

ま、オバサンは二日間電話にしがみついてたご褒美だったかな~、と、今でも時折思い出します(^^)

そういえば、1月末に江戸京子さんお亡くなりになりましたよね。
微妙に感じるものがある。
お二人の離婚はかなり小澤さんの勝手な理由というか、
「江戸さんを利用して地位を築いたくせに、世界の小澤になったらファッションモデルと浮気して離婚か~」と、
音楽界だけでなく一般にも白い目で見られる状況だったですね。

そしたら、江戸英雄さんが「娘が至らなくて」とご挨拶になり、
小澤さんのお母様が「こちらこそ至らない息子を申し訳ございません」とご挨拶をおうけになったということで
美談にすり替わっちゃったのです。

江戸京子さんご自身は何もおっしゃらず、当時はヨーロッパのどこかに演奏旅行中ということでマスコミの洗礼も受けずに済んだんですけど・・・ま、
江戸さんのご令嬢ということで、それなりの配慮も当時はマスコミ側にもあったでしょうから。
芸能リポーターなんて人種もいなかったし、SNSもなかったし・・・。
第一ヨーロッパは遠かったですもの!政治問題ならともかくゴシップで追っかけ取材なんてできなかったでしょうね。

その後のSEIJI・OZAWAの活躍は皆様ご存じの~というところで、
やはり、ピアニストというプロの奥様では支えきれなかったかもしれないな、とはちょっと思います。
当時のお二人も、その辺を理解して決断なさったのかもしれませんね~。

小澤さんも体調不良で療養中でしたし、あの去年?一昨年か?の写真のやつれ具合を見ても、
いつ訃報が報じられてもおかしくない気はしていましたが、現実となると辛いですねぇ。
・・・でも、なんとなく、江戸さんは小澤さんに思いを残していらっしゃって、旅立ちに連れていらっしゃったような気がします。

それならそれでよかったのかも。どちらにしても、お二人のご冥福をお祈り申し上げます。

02月0日()

 

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