10月3日(水)

一日の日、古今亭志ん朝が亡くなりました。
肝臓ガンだったそうです。
先日、持病の糖尿が悪化していて、徹底的に直さなくてはならないから、と今年いっぱいの休暇を宣言したばかりでした。
その時でさえ、志ん朝に頼りきりの、今の落語界を危惧する評論が出ました。
それが、幾日も経ずに死去とは・・・

悲報を聞いた桂米朝が、「東京落語の次を背負う人だった」というコメントを出していましたが、
既に東京落語界は、彼に大きく頼りきっていたのです。

名人と言われた志ん生の次男に生まれ、常に父親と比較されつづける宿命の下にいて、
それでも曲がることなく、萎縮することなく独自の芸境を切り開いてきていました。
先日の「ニュースステーション」の久米宏との「最後の晩餐」という対談では(嗚呼、なんというテーマだったのか!)
久米氏から、「みんなから、志ん生、志ん生と言われて、嫌じゃなかったですか?」と聞かれて、
「確かに嫌でした。途中まではね。今じゃ宗教みたいなもんだと思ってますから」と軽くいなしていました。

それかあらぬか、奔放な父志ん生の芸風とは大きく異なり、
いわゆる「文楽・正蔵の世界」の楷書の落語を完成した、と世間でもいい、私も確信しています。
常に行儀のいい、品格の高い、暖かな話をしていました。

私が忘れられないのは、彼がまだ二十代でしょうね、お笑いの牡丹灯篭に新三郎で出演したときの二枚目ぶり!
それは大変なものでした。艶と色気があつて、落語家にしてしまうのは惜しい、と言うほどの好い男でした。
そして、芸術座の「寿限無の青春」、これはかなりシリアスな若手落語家の青春というようなテーマでしたけれど、凄い演技力で、
落語は演技力なのだ、と実感したものです。

志ん生を継げ、志ん生を継げ、と、回りからの期待や勧めも断って、一生志ん朝の名前を大きくすることに邁進しました。
それは、先に、やはりガンで亡くなった兄(志ん生長男・金原亭馬生)に対する遠慮・配慮もあったかもしれませんが、
やはり、父・志ん生に対するある種のわだかまりもあつたと思います。

馬生自体も、自分の道に励んで馬生の世界を紡ぎ出し、地味ながら独自の固定ファンを持っていましたから、生前から、
「親父の晩年はあいつのために随分豊かになった。俺に遠慮せずに、志ん生はあいつが継いでくれてかまわない。」
と、言っていたそうです。
一見地味な兄とは違って華やかで人気もある弟に対する遠慮のようにも思いますが、私は違うと思っていました。

父の志ん生という人は落語だけでなく生き方そのものが自由奔放な人で、妻たる馬生・志ん朝の母は大変な苦労をしたそうです。
貧乏はともかく、その女出入りの激しさは大変なものだったそうです。
志ん生の一代記を書いた吉川潮さん(のんフィクション賞受賞の結城昌治氏のものでなく)の取材メモには、
志ん生に、若い頃の無頼の話を聞いている途中に、
おかみさんが急に泣き出して、昔の浮気の恨み言を言い出して、その場が大変な修羅場になってしまったことが残っていたそうです。

年の離れた弟はともかく、兄は、母親の身近にいて、その苦労をつぶさに見ていたはずです。
陰に隠れて泣いている母親、どこへ愚痴をこぼすことも出来ぬまま、思わず息子に愚痴をこぼしたこともあつたでしょう。
父は偉大な先人です。尊敬もし、誇りにもしていたでしょうが、その母の悲しみを間近に見ていた子どもとしては、
父の名を継ぐことに躊躇があったのではないでしょうか。
「俺まで、親父の名前をありがたがっちゃ、あんだけ苦労したおっかさんにすまないだろ」

馬生の思いだけだと思っていましたけれど、幼かった志ん朝にも、その気持ちは伝わっていたのかもしれない、と今は思うのです。
勿論、芸人としての意地もあるでしょう。
俺は七光だけでここまで来たんじゃない。俺は俺の努力で自分の名前を大きくしたんだ!
志ん朝の名前は大きくなりました。
この3月には芸術選奨文部科学大臣賞も受賞しています。

8月の末に、肝臓ガンが見つかって、もう末期だと言うことを、おかみさんは告知したそうです。
「ああそうかい」という静かな答えだったそうです。