4月5日(金)

昨日、劇団四季の「コンタクト」を見てきました。
それについての感想は観覧記の方に書いたんだけど、ちょつと劇団四季について言いたいことがあるんですよ!!

というわけで・・・

劇団四季は確かに作品的にも興行的にも演劇界に大きな足跡を残しています。
チケットの売り方、団体客を取らずに、個人のフアンの集客に務めたこと。
それによってカベスの束縛からも逃れて、公演時間・休憩時間の設定も容易になりました。
一般客にもクレジットカード支払いを認めて買いやすくなったし、電話での席の説明も親切です。
特定演目の専用劇場をテント形式で作るなど誰も考えなかったことですし、そのために、バリアフリーが容易になったこと。
ロングランが容易になりチケットも安くなったし、入手も容易になりました。

トイレの設置の仕方も見事です(これが大事なんですよ)!
男子トイレは見ていないのでわかりませんけど、女子トイレは壮観ですよ(^_^;
両側に30室くらい、トータルで50〜60室くらい並んで、入口も狭いので、否応なく行儀よく一列並びするようになっています(^^ゞ
以後、宝塚の新劇場も歌舞伎座も女性用のトイレをふやしたり、大変な努力を見せはじめました(^o^)丿
子どものためのチャイルドシート(子どもの背丈に合わせた嵩上げ用のクッション)・・・数え上げれば切りが無いほど、いろんな貢献をしています。

しかし、一方で「日本に本格的なミュージカルを根付かせたのはうちだ」と、浅利慶太氏が宣言するのは、あまりにも独善的のように思います。(朝日新聞の「劇団四季の50年」などで言っています)
浅草オペラにまで遡る、とは言わなくとも、少なくとも戦後の帝劇ミュージカルというか、東宝系の「モルガンお雪」あたりまでには遡らなくてはならないし、
本格的にミュージカルと取り組んだ宝塚歌劇団や、東宝の菊田一夫氏・森岩雄氏の業績を無視することは出来ません。
まして、ユダヤ人のアイザックスターンを感激させた「屋根の上のバイオリン弾き」の森繁久弥、ブ〜ロードウェイでアメリカ人と競演してきた「ラ・マンチャの男」の松本幸四郎(ロンドンで「王様と私」も演じた)を抜きにしては、日本のミュージカルは語れません。

四季はいつ行っても、同レベルの舞台芸術を提供できる、というコンセプトと、俳優個人に集まる人気ではなく、作品に下される評価を目指しているそうです。
必ずWあるいはトリブルキャストを組んで競わせる、或いは事故に備えて対応できるようにしている、という建前ですが、
舞台というものは、或いは作品というものは、俳優によって変わる、ということを無視しています。
その演じる俳優によって同じ作品がこうも代わるか、というほど変わってしまいます。
浅利慶太は演出家たる自分が一番偉くて、俳優は単なるコマだ。位の思いしかないのでしょうが、
舞台は、ナマモノ!その日、その時、その一瞬のスタッフ・キャスト・裏方・観客までをも含めての総合芸術で成り立つものです。
その辺りの思い上がり、あるいはかん違いが、どうも四季の舞台に色濃く出ているように思います。ゆえに、それに気付いた俳優達は、四季を出て行くしかないのです。

滝田栄・鹿賀武史・市村正親・榎木孝明・山口祐一郎・・・などなど。もともと、舞台人には「演技派は二流だ!」という発想があります。
それが過度のスターシステムに繋がって大根でも人気さえあればいい、というバカなことも起こりますが、
かといって、技術さえあれば何でもOKということはありません。
確かな存在感―その俳優がいるだけで、舞台が異次元の空間になる、とか舞台が締まる、という言い方で表されるような空気をかもし出すことこそ大事なのです。
俗に言う「オーラがある」これこそ超一流の俳優、いえ「役者」の条件なのです。
実力もあり、存在感も出てきた俳優達、独自のオーラを発揮できるようになった役者達が、
俳優個人の個性を無視した作品の作り方に抵抗感を持つのは当然だと思います。

もひとつ、疑問があるのは、浅利慶太という人があまりにも政治家や財界にすりより過ぎる、ということです。
もともと、叔父が田辺製薬の社長をしていたというような人ですし、劇団四季自体が、慶應大学演劇部が発展してきたものです。
民芸だの俳優座・文学座という、戦時中の新劇運動から出てきたものでもないし、アヌイ・ラシーヌというフランス古典作家、ジロドウなどのフランス現代作家のものを中心にしてきた、中産階級向けの演目を劇団の持ち物にしてきたのです。
ですから、必然的に財界とは親しいのでしょうし、朝日の記事の中では、田中角栄から特別措置の外貨割り当てをしてもらったとか、
ということが、自慢げに書かれていました。

確かに、外貨の割り当ての厳しい時や、どうしても国力に頼らなければならないことはあるでしょう。
モスクワ芸術座・ボリショイバレエなどの共産圏から、イギリスのロイヤルオペラ・ロイヤルバレエなどまで、
国を挙げての支援体制を持つことは文化国家としては当然です。
しかし、芸術というものは、常に体制への懐疑や揶揄・批判を含んでいるはずです。
そのへんのバランスの取り方が難しいところなのではないでしょうか。
そして、浅利慶太氏のバランスの取り方は、かなり政治家に対して迎合的に思えるのです。