■中国語の親族代名詞

 単語を覚えるために図を作ってはみたものの・・・。
(内容は、特に研究ではありません。)

図1:日本語
図1

図2:中国語
図2
親族代名詞の図
 親族代名詞を図にしたもの。まず、図1が日本語で、図2が中国語。図中央の★の視点で見たものである。参考:『使える・話せる・中国語単語』(語研)、『デイリーコンサイス中日・日中辞典』(三省堂)、他。

図1:日本語の補足
 基本的に図2の中国語版で必要な部分のみである。
 「外祖母、外祖父、外孫」という言葉もあるが、図中には載せていない。オス・メスの記号を使用しているのは、適当な表現が無いもの。

図2:中国語の補足
 複数の表現があるものはできる限り掲載したが、全てではない。

日中比較「父方・母方」「男・女」
 中国語は、全ての親族代名詞において、「父方・母方」の区別がある。日本語にはない。
 中国語は、全ての親族代名詞において、「男・女」の区別がある。日本語には、一部のものにある。「いとこ」にあたる日本語は、発話時は区別が無い。「義父、義母」など載せなかったが、これらも発話時は(特に、二人称としては)区別しない。

日中比較「おじ、おば」
 日本語では、「男・女」の区別がある。また、表記には、「兄・弟(姉・妹)」の区別がある。
 中国語では、「男・女」「父方・母方」の区別がある。「兄・弟(姉・妹)」の区別があるのは、「父方のおじ、及びその妻」のみである。

中国語の特徴「二音節」
 中国語は、二音節語が安定する。(中国語は一文字が一音節であるから、二文字で二音節である。)従って、元来、一音節語であったと思われる二音節語がある。図2中のものでは、大きく二種の分類ができる。
i) 同じ字(*)を二度重ねたもの
ii) 二文字目が「子」であるもの
(*)発話の単位を「字」というのは本来は間違っている。
 ここで一つだけ注意が必要なのは、一文字で用いることができるか否かの調査を、それぞれの語について厳密には行っていないという点である。参考にした単語集で、一文字の用例が載っていたのは、「母方のおば」のみだったのである(図2)。

女の子は一文字多い
 「娘、孫娘、姪」は、「女である」という情報を後から付加されるので(是非は一先ず置く)「息子、孫息子、甥」より一文字多い。この時、勿論、男の子の方は、上記の「二音節化」を考慮に入れる必要がある。

母方等も一文字多い
 理屈は、前章と同じである。比べて見るべきは「両祖父母、両甥」である。これも、「二音節化」は考慮する必要がある。

三音節語に無駄無し
 以上の三章からも明らかだが、わざわざ二音節の安定を捨てて三音節語になる場合というのは、必要に迫られての、止むを無いものと考えることができる。「母方の祖母、母方の祖父、姉妹方の甥、娘方の孫娘」がその例である。一見長いようだが、情報に無駄はない。

課題1:一音節語としての利用
 「二音節」の段でも述べたが、リズムの安定のためだめに二音節になっているものが、各々、一音節でも用いることができるかは、辞書を引くだけなので、簡単に調べることができるだろう。

課題2:三人称と二人称
 図1、図2中の親族代名詞は、三人称として用いることが可能である。これらが、二人称として用いることができるかについて考える。
 日本語において、目下の者に対しては、親族代名詞は二人称として普通用いない。逆に、目上の者に対しては、親族代名詞を二人称とするのが一般的であり、図1中のものには、二人称として使えるものと、使えないものがある。
 次の課題は、「中国語において、二人称の親族代名詞はどのように運用するのか。また、図2中の表現は、全て二人称として使うことができるのか。」を調べることである。

課題3:「甥」と「姪」
 「甥」と「姪」。図1、図2、見比べるほどに、不思議な現象である。『漢語林』(大修館書店)によれば、中国語での用字が、本来正しいようである。また人偏の「めい」は「姪」の俗字である。いずれ、詳しく調べたいところである。『漢字語源辞典』(藤堂明保)などが参考になるか。

作っては見たものの
 語学の勉強のために表を作った。もとは市販の単語帳で覚えようとしていたのだが、ただのリスト形式で縦に並べられても、こんなものを覚えられる訳が無い。また具体的な自己の親類に当てはめようにも、(日本には)これほど細かな親類付き合いというものが無いのだろう。そこで、図にしてみたまでは良かったが、後から考えてみると、どこかインターネットサイトにでもあるような気もしてくる。などと考えているうちに、いつの間にか、自分がウェブページ向けに編集し始めている。我ながら不憫だ。

学習における必要悪A
 こうしてウェブ上に乗せれば、誰かの何かの一助にもなろうかと思うが、実際のところ、自分の経験では、この手のものが助けになったためしがない。こういうものは、不便な中で自分なりの試行錯誤の末辿り着いたのでなければ、身にならない。分かりやすい、使いやすいなどというのは、最も当てにならない。これを、今日、「学習における必要悪A」と命名した。
 兎も角、「この試行錯誤が、自分のためになる」という話だった。しかし、当初、トイレに貼って覚えるつもりだったにも拘わらず、トイレに貼るのはおろか、プリントアウトさえしていない。あまつさえ、未だ一つも覚えていない。

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