■三国志雑考「西暦二千年の憂国」

 高校の三国志研究会時代のもの。かつてもここに載せようと思ったことがあるが、一時期、(書いてある内容に関して)やはり違うような気がしたので載せなかった。今になると、(当時考えていたことの是非など)どうでもいいので、折角だからここに載せる。(ウェブ用に編集したものではないので、多少読みにくい。)

 月並みな話題からで恐縮だが、私が最初に読んだのは『三国志演義』である。とにかくその時は遂に成され得なかった志に酔い痴れ、本気で漢室の再興を夢見たものだった。それからというもの、漢に仕える者の生き方とはいかなるものかということが私にとっての一大事であった。しかし、そのうちに調べものなどをするようになると、やはり手にするのは正史『三国志』であった。調べるといってもたいていは自分の好きな(つまるところ『演義』に出てくる)漢への忠義を貫いた人々の伝を読むのだが、そんな時『魏書』を開いていることが多い。考えてみれば私がそれまで敵視してきた魏ではあるが、当時の人材という人材が集まったのも魏であり、私が『演義』を読んで共感したのもなにも蜀に仕えた人々だけではなかった。魏に仕えたということは時として漢に仕えたということと同義であった。私は『魏書』を進んで読むようになり、そこに忠義を忘れない人物を見る度に感動するところがあった。そしてやはり漢と魏との板挟みに合いながらも自らの道を模索しつづける様々な姿があり、ある者はその生き様故に正史に、或いは『魏書』に伝を残すことを許されなかった。
 なんと言っても私の頭は漢という国から離れることが出来なかった。それは、私が三国志を読むときに常に根底にその国の存在があると感じているからであり、実際にそれは間違いではないだろう。三国の興亡も何もその前の時代がなければ始まるはずはない。しかし私の頭がその国から離れられないのはそんな冷静な理由などからではなかった。それは、もっと衝動的な、言葉に表せないようなぼやけた光のようなものであった。私はそんなぼんやりとしたものをなんとか形にし、見つめ直してみたいのである。漢のために死んでいった者のなんと多いことであろうか。果たされなかった魂のなんと哀しいことであろうか。しかし一方で自分はどれほどその思いを理解しているのであろうか。彼らは何の為に死んだのであろうか。
 漢について考える時、まず最初に思い出すのは曹操の下にあってその野望に抵抗した荀ケである。彼は曹操陣営に身を置き、常にそのブレインとして働いた。曹操につくことは、当時の清流派たちからすれば、一見最も憎むべき行為と映ったかもしれない。しかし、彼は崩壊した国家をいち早くまとめる能力を持つ人物を現実的に選んだのであろう。一方で絶対に譲らないものがあった。国を奪うことだけはさせない。実質的には既にどうしようもなかったかもしれないが、なんとしても守らなければならない一線はあった。彼はそのために命を落とした。むしろ私は自害を以ってその主張を貫いたとさえ考える。  荀ケと激しく対立した様子が見られるのが孔融である。彼も同様に清流派の人物であることは疑いもない。孔融は度々曹操のとるべき正義について議論したが荀ケに退けられることが多かった。ここに私は二人の考え方の相違を痛いほど感じる。荀ケはあくまでも現実的であった。一方の孔融は弁術に長けたが実務は苦手だったと伝わっていることからも想像ができる。言いかえれば、現実はそこまで荒廃していたということだろう。孔融はそれに抵抗し、度々曹操に皮肉の手紙を送った。彼は後に道家の間で盛んになる清談の祖と言われる。清談は儒家の清議から起こったが、両者を比べればその性格の違いは明らかである。彼は常に果敢であった。そこに荀ケのような妥協はない。しかし志は同じくするものがあった。孔融が遂に曹操によって殺された後、その死体に取りすがる彼の友人を曹操は処罰しようとしたが、それを諌めたのが荀ケであった。
 孔融の友人に禰衡がいる。彼は何度も孔融に出仕を勧められたが拒み続けた。彼には、例え漢朝に仕えるということであれ、曹操の下で働くなどと言うことは耐えられないことだったのだろう。彼は孔融よりも更に頑なであったと言える。禰衡に見える隠遁の志から思うに、彼は道家思想を持っていたはずである。多くの士人は政治用の儒教と個人的思想の老荘とを使い分けていた時代である。彼の行動の素直さは『演義』に引かれているエピソードからも容易に読み取れる。彼は孔融と同様に曹操を罵るとともに、またその幕僚たちをも罵倒した。彼にしてみれば、清流派の血を引きながらのうのうと曹操の下にいる荀ケなどは最も許せない存在であったかもしれない。
 こうして荀ケの態度を批判的に見ていたと思われる人物は少なくないが、しかし誰もが自分はどうするべきか、身をもって悩み苦しんでいたのである。ここにあげた人物はほんの一握りに過ぎないが、いずれも曹操の為に命を落とした。私にはそのことが大変心残りに思われてしまう。無論死んだ者たちだけが賞賛に値するというわけでは決してない。しかし、死を以ってしても何かを守り通したということは事実である。
 しかし、思えば彼らが曹操の為に曹操によって命を落としたという私の表現は間違いではないだろうか。彼らは彼らの意志で生きたのである。決して曹操の意志によって死んだのではない。確かに彼らはもっと違った生き方をすることで、より長く生きることができたかもしれない。しかしそうすることは彼が彼として生きたことになるだろうか。後世の人で孔融や禰衡のことを悪く言う者が多い。しかし自らが産み落とされた時代に必死に生きたその生き様を嘲う権利が誰にあるだろうか。
 再び思い返せば、彼らは漢という国のために生きたのではあるまい。何よりも彼らは彼ら自身のために生きたのである。漢への忠義は、彼らの生まれた時代がたまたま後漢末であったことによるものに過ぎない。むしろ彼らは、多くの人々が崩壊した国家だとか腐敗した政治だとかにただ流されるばかりであった時代に、一個人としての生き方を、自分の生きるべき道とは何かを本当に実現したのである。彼らの魂が果たされずに終わったと言えば、それは彼らに対する劣悪な侮辱にさえなりかねない。
 一時期私が漢室再興を本気で夢見ていたことは述べた。しかし、それが実現するしないに関わらず、求めるべきはそれではなかったことが今わかる。ここには、命を賭けてまで守るに値するものを今自分は持っているだろうかという不安も残る。そのことを今はっきりと言いきることができない。しかし、それを模索していくことが生きることであるならば、それが痛みや苦しみを伴うものであったとしても、十二分に価値のあることではないだろうか。そしてそれこそが歴史を読む意味であり、彼らの死はここに生きるのではないだろうか。

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