芝翫


2011年10月29日(土)

芝翫の追悼番組がありました。
追悼番組といえば、評論家やら関係者4〜5人がゾロリと円陣組んで、
色々個人の人徳を大袈裟に偲んだり、自分はいかに個人と親しかったか、と吹聴したりするものですが、
ナント!これは、水落潔という評論家と玉三郎だけ!!

↓でも書いていたように、芝翫は玉三郎にずいぶん色々教えてくれてましたから、
追悼番組に出るのは当然です。
でも、まあ司会の古谷さんとその水落潔さんと玉三郎だけって、どういう意味だ?
みんな芝居で出払ってるってのかい?
こんなときは万障繰り合わせて出るのが浮世の義理でしょうが?!って思ったんだけど。

勿論、藤十郎(成駒家)やら福助・橋之助という子供たちもVTRでは出ましたけど(^_^;
これはどういう意味じゃ?と思って見ていたら、
もう、玉三郎の独演会でした(^^ゞ

本当に、芝翫からの指導の彼是を克明に身振り手振りを加えて、
所作の注意、勘所、性根の入れ方、相手役への心遣い・・・本当に「教えも教えた、覚えも覚えた!」
そうか・・・NHKも、これを言わせたかったのね!と大納得でした。

(「十種香」の)八重垣姫の時は、(首を)こう一つ、二つ、三つと左右正面と振る。
その時、どうしても三つ振るのは恥ずかしいと思って正面を省略したくなる。
でも、三つちゃんと振らなくては、自分では何もできない深窓のお姫様にならないよ。
それから、お辞儀をするときは、お姫様の銀のかんざしの裏を見せてはいけないといわれました。

八重垣が屋台にいる時は何もしない。
勝頼の所に行く時も髪を直してはいけないと言われた。
「奥庭」は下駄の音が八重垣が出て行く音でなければいけない。





2011年10月11日(月)の「母の日記」から

ナント!芝翫が亡くなってしまいました!!

もう〜、出ると休演、という状態が続いていたので心配してました。涙。
福助の時代から、すーっと好きでした。
雀右衛門も玉三郎も大好きですけど、芝翫もそれに劣らず大好きでした。
若い頃から今でさえ?町娘が似合う雀右衛門とは違って、
これまた若い頃から片はずしが似合う、
上品で、スケールの大きい鷹揚な芸風でした。
私が初めて芝翫を見たのは、、12〜3歳頃かな・・・当然福助の頃。
出し物は忘れちゃったんですが、「福助いいねぇ」と言ったら、
母が「あんた、古風な顔が好きだネェ」と言ってました。
それ以前に延若が好きなんて言ってましたから(*^-^*)
ほら、二人とも写楽の顔でしょv(^^)

芝翫襲名の鏡獅子は、前シテの弥生が大絶賛で、たしかこれで芸術選奨貰ったんじゃないかな・・・。

若い時から蒲柳のたちで、歌舞伎も何年か休んでいたこともあります。
絶世の美形女形だったというお父さんの「慶ちゃん福助」自身が夭折の人で、
やはり血統というのもあるかもしれません(^_^;
そうそう、芝翫のお母さんも、実は、
あの武原はんさんの妹芸者(大阪の大和屋という有名な置きやさんの抱え)という芸の人で、
当時としては、芸のサラブレッドです♪
ちなみに、今の松緑のオバアサン、
つまり名優二代目松緑の奥さん愛子夫人も新橋の名妓と謳われた人でした。
当時は、多かったのですよ!役者と芸者の組み合わせ!

まあ、今の福助・橋之助は殺しても死にそうも無いくらい丈夫そうですが(^_^;

その超美形の父親が夭折して、本来継ぐべきだった六代目歌右衛門を妾腹の兄に取られてしまい、
また、その妾腹の兄というのが、「女帝」という名を奉られたあの歌右衛門。
超に超が付く天才で、大スターで、またこれも超の上に超のつく根性悪で、
悔しい思い、無念な思いも数知れずではなかったか、と(^_^;

歌右衛門の嫌らしい事の第一は、大体が実子の跡継ぎもないのに、
死んだ奥さんの甥を二人も養子にして、わざわざ歌右衛門の家にとって大事な名前の福助を継がせた事!
それで、その二人が実力があればよかったんだけど、
福助を継いだ方は今の梅玉ですが、これはわりと若い頃からけっこう実力発揮しましたが、
三十近くなるまで泣かず飛ばずで・・・ねぇ・・・ある時突然よくなったんだけど。
魁春も最近、やっとなんとかなってきたみたいだけど、長いこと大根のままでした。

おまけに、当時は体調が悪くて公演に出ることは少なくなっていたのですが、
恩着せがましく自分が出てやるといって出た歌舞伎を2〜3日出たところで中途休演して、
実力もない松江(現魁春)に自分の役をやらせたこと!!
歌右衛門が出るということで、歌舞伎のチケットの売上が上がる(それは凄いと思うけどね)、
でー、
無理してチケット取ったら休演で代役松枝ですよ・・・泣くに泣けないファン多かったんじゃない。

芝翫も休演しましたけど、特に自分の役を誰にさせろ、とは指定していなかったみたい(^^)
まあ、あの時の松江と違って、今の福助が芝翫の役ができないようでは困るのでずか(^_^;

私は梅玉は好きですし、
歌右衛門はよくぞ、同じ時代に生まれたと思うほど、芸に関してはすきでしたけど、
その根性悪さだけは・・・嫌だったナァ(^_^;
また、そういう歌右衛門の提灯持ちみたいな批評家も多くて・・・。
芸と本来の性格。・人品とは別モンだよ!ってのが・・・まあ、区別できなくなるのもわかるけどね(^_^;
それほど、歌右衛門て人は芸の崇高さと人格とに果てしない乖離があったのさ!!

松竹の故永山会長も、それを(庶流に嫡流の名前が流れるって事!)かなり気にしていたらしくて、
関西の名優で名跡の絶えていた名前を見つけてきて、梅玉に襲名させて、
福助の名前を、嫡流の現福助に戻したんだよね(^^)

もっとも、超一流の役者とか芸人て、大体性格は悪いのが多いのよねん(^_^;
最近は、さすがに役者・芸人と言う人たちも、
本来の知性とか教養とかついてきて、つまんない意地悪だのすれば、
それが自分の評判落とすことになるってのがわかってきて、
まあ、そんなにひどい話は聞かないみたいですけど(^_^;
芝翫の長男でもある現福助が、何でもカンでも、
「歌右衛門のオジサマ」というのも気に入らない!!
だから、お前は(役者としての)心がけが悪くて根性が悪いんだ、と思っちゃう(^_^;

気のせいか、芝翫も真面目人間の橋之助の方が可愛いような気がするよ(^_^;

あー、話を、芝翫に戻して(^_^;
その蒲柳の質、しかも女形、というのに、芝翫は性格的には凄くサッパリした人のようで、
しかも大胆!!
YAHOOのニュースなどては、競馬が好きで、
入院中も100円馬券を18万円にした!とか出てましたけど、
大昔、まだまだ1ドル360円で、歌舞伎のアメリカ公演と言っても、外貨の持ち出しなど難しかった時代、
ラスベガスで大儲けして、
当時はHollywood女優しか着られなかった毛皮のストールを
奥さんのお土産に買ってきた!!

それに、芝翫クラスになれば、相手役だって大幹部クラスなのに、
「女形は旦那様次第、相手役が悪いと(「寺子屋」の)千代だって、一ヶ月は長く感じます」
なんて、オイオイ、そんなこと言っちゃって大丈夫?というほどスッパリ(^_^;

勘九郎(勿論、今の勘三郎)が芝翫の娘と結婚する!って聞いたとき、親みたいに安心しちゃった(^_^;

勘太郎の勘九郎襲名に口上を述べるのを楽しみにしていた、とYAHOOに書いてありましたけど、
それ以上に大事なイベント!!
歌舞伎座新築披露には、福助の歌右衛門襲名があると思うんだけど、
その時まで、なんとか持ってくれよー!と思ってました。
本とは、たとえ一日でも、芝翫に歌右衛門襲名させて、
「大成駒!」の掛声かけられてから、と思ってました!!

七代目歌右衛門は贈り名になるんだろうけど・・・無念!!
いずれにしても、ご冥福をお祈りします、というしか無いのよね・・・合掌。


以下、この記事について書き込んでくださったうちのお客様たちとの対話です♪
私のレスだけ。



私も、歌右衛門の「阿古屋」は、テレビだけでナマは見てません(^_^;
「政岡」は見てますけど、あの「ママ炊き場」にはウンザリでした!!
私が、とにかく凄い!と思ったのは揚巻ですねv(^^)
いやぁ、この時は歌舞伎座中が歌右衛門になりました♪
助六の水入りで、内掛けの下に助六を隠して、「この私に手を触れたら中ノ町の灯が消えますぞえ」とミエ?を切る処は、確かに「女帝」でした!!

折口信夫は「歌舞伎の中にゴロツキの世界を重ねていた」と言いますが・・・まあ、「市民社会をはみ出した野生」と言う意味のようで(^_^;
歌右衛門とか、昨今の海老蔵とか考えると納得してしまいます♪
お上品ぶったお能の世界だって似たり寄ったりですものね(*^-^*)



>歌右衛門
いやもう、そりゃあ凄い天才で大スター!
提灯持ちする評論家の気持ちわからなくは無いですけどねぇ・・・あんまり!ということも(^_^;

先代勘三郎とは妾腹で苦労した、ってことで生前わりと仲良かったのですよ!
ところが勘三郎が亡くなった時「徹子の部屋」の追悼でゲストで出て、ニタリニタリ薄笑いしながら話していたそうで、うちの母が悔しがって電話かけてきました(^_^;


当代勘三郎も、「親父が死んだ時、本気で泣いてくれたのは幸四郎さんと玉三郎さんだけ」と言ってましたよね。

片や先代勘三郎は、妾腹で、本妻腹の時蔵(の奥さん、当代の祖母)から、猛烈に苛められたそうですが、もう一人の本妻腹の吉右衛門(当代の祖父)がよく面倒見てくれて、その兄達二人が亡くなって、播磨屋のバックをする人が誰もいなくなった時には、よく面倒をみてくれたんですよ!!
四代目時蔵が若くして急死した時は、自分の女房役にしてくれていて、歌舞伎の最後に、その訃報を観客に告げる時、もう涙で声が出なくなった!というくらい。
吉右衛門の孫に当たる現・幸四郎が芸術院賞取った時も、「本当に喜んでくれたのは勘三郎のおじさんと水谷八重子先生だけ」という言葉があります。
まあ、だから、先代が亡くなったとき、幸四郎は親身に哀しんでくれたのでしょうね(^_^;