知らざあ言って聞かせやしょう!

私の歌舞伎事始

「知らざあ言って聞かせやしょう♪」というのは、「白波五人男」の弁天小僧がゆすり場の「浜松屋」の段ではく有名な台詞です。
知らざあ言って聞かせやしょう♪というほど大げさでなく、私の歌舞伎歴をちょっとおしゃべりしたいと思います♪

私が歌舞伎を初めて見たのは、小学校の四年生の時、新宿第一劇場という、今はなくなってしまった芝居小屋です。
出演者は守田勘弥と大谷友右衛門、つまり、今をときめく玉三郎の養父と
先年80歳の「乱拍子」ということで話題になった中村雀右衛門です。
演物は「夕霧阿波鳴門(ゆうぎりあわのなると)」と「京鹿子娘道成寺」です。
夕霧のほうははっきり覚えているけれど、道成寺の記憶は定かでない(^_^;
ただ、私が偉く感激したのに、母が、「友右衛門もまだまだだね」と言ったのを覚えてます(;_;)
なんたって、母の自慢は「六代目(六代目尾上菊五郎―勘九郎の母方の祖父)」の舞台を見ているということで、
全てが「六代目」との比較に始まり比較に終わる・・・菊吉ハバアの典型です!!

雀右衛門賛歌

いゃあ・・・・綺麗でしたよ!!雀右衛門!!
その時は友右衛門でしたが・・・今の玉三郎より綺麗だと思った・・・と思います(^^ゞ
大体、この人が勘弥と「桜姫東文章」を掘り起こしてヒットさせて、まあ玉三郎に繋げた、というか、取られたというか・・・(^_^;

その新宿第一の後、東横ホール・・・これもなくなっちゃったなぁ・・・今の東急デパート東横店にあったんです(^^ゞ
電車の音が聞こえてねぇ・・・な・つ・か・し・や・・・そこで
「桂川連理枝(かつらがわれんりのしがらみ)―帯屋の段」と言うのを見てまた熱が上がった(^^ゞ
やはり勘弥とのコンビでした。
友右衛門は若かりし頃は立ち役でしたが、戦争から帰って歌舞伎界に居場所がなく、
女形に転向した人で大変苦労した人なのです。
恵まれない環境を拗ねてか失望してか途中で映画に走ったりして・・・(;_;)
彼自身の回想では決してそのようには述べられていませんでしたけど(数年前の新聞のインタビューで)は凄く気楽な事を言ってます
大谷友右衛門という歌舞伎界の主流ではない家柄で(^_^;
女形転向を勧めてくれた岳父こそ現幸四郎の祖父「勧進帳の幸四郎」でした。
しかし、その岳父の娘、雀右衛門夫人は妾腹の子。
いくら妾が当たり前の世界でも、妾腹は妾腹、
その夫の雀右衛門がそうそう気を使ってもらえるはずはありませんでした。

その人生の苦味が昇華された映画こそ、稲垣浩監督の代表作にも挙げられる「佐々木小次郎」(昭和27年・東宝)です。
映画には結構出て、それなりの成果も上げていたのにやはり舞台に帰りました。
先の新聞のインタビューでは映画は性に合わなくて、と言ってましたが・・・ラジオドラマにもよく出ました。
NHKに弟が勤めていたから頼まれて、というのがその新聞のインタビューの中にありましたが、それは初耳でした。
でも、当時の歌舞伎役者はけっこうラジオドラマに出でいましたからね。

しかし、そうして鍛えた演技力は歌舞伎の世界でもたいしたもので、その優しい持ち味とあいまって数々の名演を残しました。
勘弥はよく相手役に使ってくれました。また美男美女の名コンビだったのです。
玉三郎の初舞台も東横ホールの勘弥・雀右衛門の「十六夜清新」です。
そうやって考えれば「桜姫」といい「十六夜」といい、玉三郎はかなり雀右衛門の役を踏襲していますねえ(^^ゞ
勘弥からの流れか、勘弥と仲のいい勘三郎もよく相手役に使ってくれました。
勘三郎の「太閤記」には秀吉ー勘三郎、前田利家・勘弥、禰々ー雀右衛門(まだ友右衛門)の仲良しトリオで演じられました。
思えば勘三郎も妾腹の子ということで苦労した人でした。

そして、昭和39年の雀右衛門襲名!!
これは役者本人が2億円の切符を引き受けた、と言われる盛大な、バブリーな襲名興行の走りでした。
当然、これだけの襲名披露興行なら、たとえ妾腹の妹と言えども一家眷属勢揃いで口上に列してくれる物ですが、
団十郎は日生劇場をスポンサーにしてヨーロッパ旅行に出かけ、幸四郎(後の白鴎)は東宝所属を言い立てて出演せず、
「気のいい松緑」だけが付き合うことになったのです。

雀右衛門を襲名してから後は順風満帆!
と言えども歌右衛門・梅幸の陰に隠れ、後から突き上げてくる芝翫・扇雀(現鳫治郎)の台頭に心穏やかならざる時もあったでしょう。
しかし、殆ど同年の歌右衛門・梅幸が老いを晒し枯れ木が倒れるように倒れていく中で、
二回りも年が違う世代が違う孝夫・団十郎の相手役として燦然と輝き始めたのです。
そして1991年人間国宝、翌1992年の芸術院会員として女形の頂上を極めようとしています。
まあ、今も芝翫・鳫治郎の追い上げは厳しいですからね。芸に終わりはありません。
頂上に立つのは誰か?目が離せません(^_^;


歌右衛門の絶頂期!!

私は覚えていないけれど、本当に歌舞伎を見た最初は二歳の時!
歌舞伎座で歌右衛門の「籠釣瓶遊郭酔醒ーかごつるべさとのえいさめ」だそうで、八橋の歌右衛門がにっこり笑った姿を見て
佐野次郎左衛門よろしく目を丸くしていたそうです(^_^;
そうして幼児期にも何度か連れていかれたらしいのですが、そのへんはまるで覚えていません。
ただ大変大人しく見ていて、あきればいつのまにか寝ていたから観劇の邪魔になることは無かったそうです(^^)v

とにかく全盛期の歌右衛門の素晴らしさについては、よくぞ、この人と同じ時代に生まれて来られたた、
ありがたいことだ!と神仏に感謝するほどの素晴らしさでした。
母が六代目!六代目!と言うのと同様、歌右衛門の絶頂期に廻りあえたことは本当に幸せでした!!
歌舞伎ファンとしてもし最高の幸せを一つ挙げよ、といわれれば、
やはり玉三郎の出現にめぐり合えた事と歌右衛門の絶頂期にめぐり合えた事、このどちらかを取ることになるのでしょう。
しかし、晩年はいけません!!
女帝として歌舞伎界に君臨した「彼女」は芸術の神に感謝するのを忘れたように、権力を振り回し、
またその提灯持ちをするような評論家―歌右衛門や梅幸は出ているだけで価値があるなどという―の劇評に甘えて
醜態をさらしました(;_;)

また「伽羅先代萩」の「まま炊き場」のように現実と芝居を混同した演出は、
近松の虚実皮膜論を持ち出すまでもない、役者の思い上がりに他なりません。
同時代に生まれた事を感謝するほどの役者が、そんな詰まらない過ちを犯したことは、ファンとして残念です。

引き際という難題・・・
これは、どの世界でも難しいことですが、特に芸の世界の引き際の難しさですね(^_^;
歌舞伎だけのことでなく、今私は先日観た「バレエ」の鑑賞記録を書きあぐねています(;_;)
どうも昨年も同じ印象だったらしく空欄のままでした。
確かに一時代を築いた人を大事にし、出ているだけでわかる存在感やオーラを重要視することは素晴らしいことです。
しかし、それに寄りかかって、自分自身が築いた美しいイメージを損なうというのはどういうものでしょう。

実は母は梅幸の熱烈ファンでした。
私が今日の玉三郎は綺麗だった!!と言うたびに「梅幸の若い頃は」と闘志剥き出しに対抗してきたものです。
私が、あんなにブクブク太っちゃって袂の両側からおなかとお尻が突き出した「藤娘」なんてみっともない、
と言うと大変に悔しがって、「梅幸だって若い頃は」というのが始まるのです。
梅幸が評判悪いと、とにかく自分の目で確かめに行かないではいられない!
それで、自分でもあそこが悪かった、ここが悪かった、と言うのですよ。
でも、他人に梅幸をくさされるのは何より許せなかったのです。
ファンてそんなものなのです。
だからこそ、ファンにそんな思いをさせる公演が続くようなら潔く引くべきだと思います。



勘九郎雪月花

勘九郎の父勘三郎は気難しいのが唯一最大の欠点でしたが、
とにかく、あの四角四面の律儀・公正な劇評家戸板康二氏をして「嬉しい役者」と言わしめた名優です。
母はあの伝説の六代目菊五郎の次女。俗に言うサラブレッド中のサラブレッド!!
また、中村屋という歌舞伎の家自体が辿りつづければ、全ての梨園と繋がるという名門の家です。
そこに生まれた待望の男の子!!
勘九郎が桃太郎でその初舞台をして、天才的な才能を見せ、一躍アイドルになっていました。
そして芸に厳しい父勘三郎の事を
「僕は大人になってもずーっと勘九郎でね、子供に勘三郎ってつけてね、こら!勘三郎、バカ!勘三郎、このへたくそ!って怒るの」
と宣言して
「この子は六歳にして父親を超えようという気概がある!!」と花森安治氏を感激させました(^^ゞ

そして、一つ年下の八十助が「山姥」の坂田金時でデビュー♪
こちらも天才的な舞踊を見せて鮮烈な印象を与えました。
それを見た勘九郎が松竹の大谷竹次郎会長に、
「これでちびっ子歌舞伎ができるじゃねぇか」と迫ったというのは(真偽は別にして)有名な話しです(^_^;
ちびっ子歌舞伎も実現して「稲瀬川勢揃いの場」でご披露に及んだのですが、
日本駄衛門ー大谷広太郎(現・中村芝雀)、弁天小僧ー坂東八十助(現・三津五郎)、
忠信利平ー中村信治郎、赤星十三郎―中村梅枝(現時蔵)そして、南郷力丸ー勘九郎
この時は、ひたすら勘九郎の大人化おまけの台詞回しに観客だけでなく裏方さんたちも圧倒されていたそうです!!
しかし、このときのちびっ子歌舞伎のメンバーが今の歌舞伎の核になっているのですねぇ・・・感無量!!

その勘九郎も年齢とともに声変わりで、芝居の舞台がなかなか大変になってきました。
それを払拭するような「供奴」!勘九郎12才の伝説の舞台です。
母親が先に見てきまして、浪人中の私に「今この勘九郎を見なければ一生後悔する!!絶対見といで!!」といいました。
浪人中だよ、私は!!
なんて親だ!と思うでしょ・・・そういう親なんですよ(^_^;
でも確かに見ておいて良かったです。おかげさまで私はまた落ちましたけど(;_;)
この「供奴」はその後色々な役者が踊りましたが、12才の勘九郎を超える「供奴」はまだ見られない模様です。
先年、勘九郎の息子の勘太郎が9歳で踊りまして、それなり大絶賛で「後生おそるべし」と言われたそうですが見ていないので(^^ゞ
ただ、親父が12才であれだけの大絶賛を受けてしまうと、息子は同じ年ではやりにくい、
という勘九郎の配慮はうまく当たったようで、その辺はやはり親ですね(^^)

左団次が死んだ時・・・ん?今の左団次のお父さん、大変な名優だったのです(^^ゞ
で、↑その左団次が死んだ時、我が母が「ああ、いい役者がどんどん死んじゃうネ!生きているのが嫌になっちゃった!!」
と、嘆いたので、
「そんなこといったって、そのうちに、嗚呼、勘九郎が来月何やるか見たいから死ねない、と言うようになるわよ!」と慰めました。
「そんないい役者になるかねぇ・・・」と言ってましたが、私は「なる、なる、絶対!!」と断言!!

で、その後の勘九郎は
14歳で父勘三郎と「連獅子」を踊り絶賛を受け、その舞台がNHKの取材によってイタリアの放送文化賞を取りました(^^)v
18歳で、当代の舞踊の名手と言われた竹之丞(現・中村富十郎)と「三社祭」を踊ったり・・・と、
順風満帆に歌舞伎役者の道を歩みつつあるのはご同慶の至りです。

まあその勘九郎も一丁前にいろいろ浮いた話もロマンスもあったのですが、
勘九郎の母が「親不孝ばっかりしていた哲明(のりあき)が一生分の親孝行をしてくれた」と言わしめた花嫁を迎えました。
芝翫の次女好江さんです。
そして「後生恐るべし」といわせた勘太郎と七之助を儲けたのは周知のとおりです。
昨年はあらゆる賞を総ナメにして今や乗りに乗っている勘九郎!!
八面六臂の活躍で去年はまさに勘九郎イヤーでした(^^)v
親父同様守備範囲も広く女形・立ち役・喜劇・悲劇・舞踊・・・あらゆる分野で満天の雪月花の変化ぶり♪
そして2005年には勘九郎もついに勘三郎を継ぐらしい(^_^;
前途に乾杯u(^^)


辰之助は永遠に・・・

しかし、その勘九郎が泣き叫んでタクシーに押し込まれるのを見てしまいました(;_;)
辰之助が亡くななったときです。
辰之助というのは名代の名前ではありません。
しかし新之助(現団十郎)・菊之助(現菊五郎)と丁度三人の「○之助」が揃ったと言うことで「三之助」として売り出しました。
もともと、辰之助と新之助はいとこ同士、辰之助と菊之助は菊五郎劇団で親父同士が名コンビを組んでいることもあり、
稽古も一緒、遊びも一緒、悪事も一緒、という悪がき仲間という間柄だったのです。
この「三之助」という呼び方は本人や石川元三氏などには大変な不評だったのですが、当時は相当なブームになりました。

勘三郎と松緑はともに六代目菊五郎の継承者として、片や女婿・片や愛弟子(菊五郎劇団の統率者でもあった)として
本家争いのようなこともあったのですが、
結局は愛する人は一人(^_^;というか共に六代目の藝を大事にする、ということで手打ちがあり、それからは
互いの出しものに付き合ったり、という水魚の交わりになったのです。
その繋がりもあって、勘九郎に尊敬する人は?と聞くと「辰兄さん」という言葉が返ってくるような具合でした。
(辰之助、本名は亨なんだけど、「亨兄さん」じゃないのです・・・団十郎は「夏雄兄さん」なのに・・・不思議(^_^;)

辰之助と言う人は、歌舞伎役者の御曹司というには、大夫はじけた人で、親父の松緑もけっこう手に余るところがあったようです。
それと言うのも、並みの役者より繊細な神経を持ち、頭脳明晰に生まれてしまった辰之助の悲劇でもありました。
名優の、大幹部の歌舞伎役者の常として、浮気が第二の仕事のように愛人あまたの松緑の家庭に育ち、
愛人への使い走りに使われたり
賢婦人といわれた母・愛子夫人の苦労を見ては歌舞伎役者に疑問を感じてしまうのも無理からぬことでした。
そのため、ふつうなら、5〜6歳で初舞台して子役のいい役は総浚えするような境遇にありながら、
15歳までふつうの学生生活を送っていたのです。
しかし、15歳の時、観世栄夫氏の家で能面(なんだか知らなかったそうですが)を見て、感じるところがあつて、
舞台に出る気になったそうです。

松緑は日本舞踊藤間流家元も兼ねており、そのため舞踊の修行だけは欠かさなかったらしく、また本人も、
「舞踊家」としてのセンスはその頃から大変な評判でした。
気性も江戸前の竹を割ったようなさっぱりした感じで、何より会話にもウィットがありしゃれていて、
演技力もそれはたいしたものでした(^^)V
松緑の「オセロ」の折イヤーゴーを演じて出色の演技をしました。
ただ、この素晴らしさが、歌舞伎に反映されないところに辰之助の弱点がありました。
たとえ大根でもいとこの団十郎は歌舞伎の花があります。
もう一組の吉右衛門・幸四郎は華も実もある素晴らしい役者です。(当時の幸四郎の歌舞伎は辰之助と同じような物)
舞踊家としては私は?なのですが演技者としてはホントに凄かったのですよ!!

その辰之助が若くして死にました。
浮気な親父に反発はしていても、妾腹の弟の結婚に親代わりをしたり、結局は自分も浮気沙汰があったり、
そして、原因不明といわれる自殺未遂・・・あの繊細な神経に歌舞伎役者としての自分が耐えられなかったのだと思う・・・
ファンの勝手な推測ですm(__)m

あんなに大きな才能を開花させないままで・・・五分咲き・四分咲き・・・勿体無い(;_;)
私に言わせれば親父の松緑に殺されたような物だと思うけれど・・・、
いとこの吉右衛門が「叔父さんの姿を見ていられない」というコメントを出していましたっけ・・・(;_;)
その時、吉右衛門の後ろで勘九郎がもう泣き叫んでいる感じで、タクシーに押し込められていました。
辰兄さん、辰兄さん、と体中で叫んでいるようでした(;_;)

数年前、BSの懐かしの歌舞伎役者を特集した番組で辰之助の「番町皿屋敷」が出ました。
勿論、青山播磨は辰之助です。
番組が終わって母に電話をかけました。
「おかあさん、見た?」
「見たよ。あんなにいい男だったかねぇ・・・辰之助」
もう、その後二人とも電話の前で絶句・・・。
惜しい、あまりにも惜しい・・・。



実力派の三津五郎

三津五郎に関しては、ルックス・実力共に問題ない!!
ただ、ひたすら、華やかさに欠けるのです(^_^;
こんな良い男なのに、こんなに巧いのに、こんなにスケールがあるのにと悔しい思いをしたのは
一度や二度ではありません(^^ゞ
ライバルで相棒の勘九郎が華やかな分、割を食っている、ともおもいます。
でも、やはり、それは本人の持って生まれた器でもあります(;_;)
ただ、それで、三津五郎自身が卑さくなることがないのは立派です!!
また、一つ年上、ということで、勘九郎をよく立ててもいます(^^)
そういう時は、かえって、三津五郎の頭のよさと大人の感覚を感じます♪
しかし、私あたりにもいろいろ聞こえていた噂は・・・
まあ良い男なんだから、向こうがほっておかない、というのは分かりますけどね♪
でも「病気だ」と言われるのは・・・ナントカしてくださいませm(__)m
それにしても良い男だわぁ(*^-^*)



東の吉右衛門、西の仁左衛門
勘九郎は歌舞伎の雪月花

今の歌舞伎は、全くこの二人によって代表されている、といっても過言ではありません。
勿論勘九郎の活躍を軽く考えているわけではありません。
もし、歌舞伎を雪月花と言い換えるなら、それは勘九郎です!!
まあ、勘九郎は勘九郎の項で↑いいましたので、ここはこの二人!!

なんといっても歌舞伎が歌舞伎であるための最高峰はこのふたりに掛かっているのです。
東の、西のとはいっても、今や両方ともに東京在住!!
家の芸はともかくも仁左衛門の江戸前の稲瀬な男っぷりにはドッキドキ♪
また吉右衛門の時代物のスケールの大きさ豪快さには歌舞伎と言う芸術が、
古来の神々に愛されつづけた神聖さと猥雑さが二つながらに感じ取られて素晴らしいものです。

吉右衛門は、といえば例の「勧進帳の幸四郎」の次男八代目幸四郎白鴎次男坊。
17歳で「墨東奇譚」で山田五十鈴を向こうに回して相手役を演じた、というお化け!!
見ました!!とっても17歳とは思えなかった・・・芝居としては勿論それなりだったけど17歳だよ、17歳(^_^;
信じられませんでした(^_^;
だから、あの天才児幸四郎(前名の染五郎当時です)が弟の万之助に嫉妬を感じる、と言われても、
嫌味だとかウソだとか思いませんでしたから・・・今は尚更だけど(;_;)
幸四郎がミュージカルやストレートプレイの世界で神の声を聞いた、とするなら、
歌舞伎の世界で神の声を聞いた男は吉右衛門と仁左衛門、そして勘九郎、と言うことになるのでしょう(^_^;

歌舞伎役者として、着物を日常的なものにするため、ある時点まで、生活全てを和服で通す、という努力家でもありますが、
歌舞伎と言うのは、昔から、芝居小屋に通いなれた人が、ちょつと一幕覗いてこよう、
という通の間で育ってきたものだ、と言い切る人でもあります。
つまり、歌舞伎を演じる側として努力をする人ではありますが、見る側に対しても相応の努力を求める人でもあります。
歌舞伎役者の立場でも、
市川猿之助のように、誰にでもおもしろい歌舞伎を、と大衆化を目指す人もいれば、吉右衛門のような人もいる・・・面白い世界です。

それでも、吉右衛門も、通好みの歌舞伎役者としてだけでなく、TVの「鬼平犯科帳」で顔を売り、
歌舞伎外の公演で観客を集めています。
いずれも、大衆化という事をベースにして、観客の裾野を広げ、さらに、その上に高いものを目指していく、ということで、
自分の芸を高めて行っています。
「家の藝」とは言いながら、「勧進帳」の弁慶は他の追随を許しません。

しかし、伝統芸能だ、高級な芸術だ、というだけでは観客は集まりません。
「芸術の大衆化」ということだけでは反対ですが、観客によく知ってもらうということは大事です。
そして、歌舞伎は「かぶきものー傾き者」であるという原点を忘れて欲しくないのです。
時の政治権力から睨まれても役者として、表現の自由を追求しつづけた先達たちの熱い思いは、
その「傾き者」ということばに集約されていると思うからです。
役者の勲章は、お上から下賜される勲何等の勲章やら紫綬褒章なんてものでも、芸術院賞や芸術院会員の称号ではなくて、
やはり観客の拍手だと思います。
歌舞伎界を支える大黒柱だからこそ、「かぶきもの」でいてくださいm(__)m

さて、西の仁左衛門、というより孝夫さん!!
わたしたちには孝夫さんだよねぇ・・・(^^ゞ
この人の素晴らしさは玲瓏とした月の美しさ・冷たさ・・・そして、上方和事に見せる茶目っ気たっぷりの弱さとしたたかさです。
以前演劇雑誌に載っていた「松島屋三兄弟の先斗町定説」というのに
「亭主持つなら秀公さん、兄貴にするなら秀太郎、色にするなら孝夫ちゃん」がありました♪
ン〜、色にするなら・・・ぴったりだぁ♪(*^-^*)

しかし、そんな仁左衛門も最初から順風満帆だったわけではありません。
それどころか、東京歌舞伎の大発展に比較して上方歌舞伎は凋落の一途を辿っていたその最低状況の中に彼は生まれたのです。
その頃の上方歌舞伎といえば、市川寿海が最晩年の頃でした。
私などは、これがあの母がほれ込んでいた市川寿海?というくらいで、役者としてよりは、
映画に走った市川雷蔵の養父としてしか考えられないような具合でした。
鳫治郎(先代)も映画と東京歌舞伎が多くなり、その息子扇雀(現鳫治郎)は東宝で人気を得、
あとの大方の役者達も仕事の多い東京にうつって上方歌舞伎は風前の灯状態だったのです。

それを、上方歌舞伎の火を守り通そうと自費公演をしたり、勉強会をしたりしたのが仁左衛門の父十三代仁左衛門でした。
「若松会」という勉強会と自主公演によって若松屋三兄弟は育っていきました。
ことに三男の片岡孝夫は、21歳のとき「女殺油地獄」で芸術選奨新人賞を受賞して一躍演劇界のスポットを浴びました。
その余勢をかって東京に出てきたものの、封建的な歌舞伎界では、賞?なんだそりゃあ・・・
孝夫?そんな名前は歌舞伎にゃないよ、で
ついた役が、単なる「籠かき」だったそうです。
「籠かき」だといっても、普通の演劇ならそれなりに大事な役ですが、上下関係の厳しい歌舞伎界で、
しかも一応「若松屋」の御曹司がするような役ではありません。
その屈辱に耐えて、孝夫は注目を集め頭角を著していきました。
先月よりは今月、今月よりは来月と役がつくようになり、ついに孝夫という本名のままで
歌舞伎座の本興行に自分の出しものを出すようになったのです。

玉三郎ともコンビを組んで、歌舞伎界のゴールデンコンビ!プラチナチケット興行の主人公になりました。
上方出身というのに、江戸歌舞伎のイナセナ役がよく似合い、
花川戸の助六の「煙管の雨が降るようだ」というのは、全く彼意外にぴったりする役者を探すのは苦労するほどです。
また役の性根を掴み、その表現も素晴らしい・・・助六はいろんな人を見ましたが、
助六を見ていて、曾我の五郎をちゃんと連想させるのは彼だけでした!!
しかもそのすぐ後に「恋飛脚大和往来〜封印切り」の忠兵衛を演じるのですから(^_^;
そして、仁木彈正の冷酷な美しさ・・・悪の華というのは彼のための言葉でしょうか!!
吉右衛門の大きさに劣らなぬ歌舞伎界の大黒柱です。


悪魔か神か玉三郎(^^ゞ

三島由紀夫をして「現代の奇跡」と言わせた役者!
鬼才篠山紀信に惚れ込まれて歌舞伎役者の写真集の先駆けとなったスター!
円地文子から「玉三郎の舞台を観に行く時は“御花見に行くの”といそいそしてしまう」と言われた花形!
モーリス・ジャベール、ジョルジュ・ドン、アンジェイ・ワイダ、ヨーヨー・マ・・・世界の芸術家たちから熱いラブコールを送られる女優!

そして、決定的な一言は・・・これ誰が言ったんだっけ(^_^;
「玉三郎の功罪」と言うテーマで「彼の大きな罪は歌舞伎役者は美しい者だ、という意識を植え付けてしまったこと」
という言葉!!
そう!?昔は「芸で美しく見せる」、「不細工な役者でも芸さえうまければ美しく見える」という意識があったんだって!!
そのわりには、今残る伝説は美しい女形の話が多いんだけどなぁ(^^ゞ
慶ちゃん福助(芝翫のお父さん)なんて人は素晴らしい美貌の女形だったそうです(^^)
時蔵の父の4代目時蔵だって、大変な美貌だったからこそ、その早すぎる死があれだけ惜しまれたのですぞ(^_^;
でも、まあ、この一言、私としては大変気に入っていて、玉三郎は罪な役者だ!!と真実思っているのです(^^)v

玉三郎が凄いのは、やはり彼独特の美意識を持って舞台を支配していることです。
女形としては長身だった彼が、その背丈を盗んだりせず、すっくと立って、その立ち姿の美しさで、
本来の歌舞伎役者はこれだけ美しい者だ、という芸術観を観客に植え付けた・・・そりゃあ、他の役者に妬まれて当たり前!!
しかも彼は御曹司ではない。
守田勘弥は大幹部だけれど、玉三郎は実子ではなく単なる部屋子上がりの養子なのです。
それが単にきれいだと言うだけなら、とっくに潰されているのです。
げんに相当な風当たりもあったらしい!!

しかし、柳に風と受け流し、彼独特の美意識で舞台を支配していったのです。
その支配の仕方は、やはりどれだけ丁寧に舞台を作るか、と言うことに集約されています。
ただ美しい、と言うだけではすぐ飽きられてしまいます。
舞踊の稽古・女形としての素養の鍛錬・・・俗に言う三曲を舞台上で披露できるのは歌右衛門亡き後玉三郎だけです。
演技の深さを追及するための努力・・・読書や様々なジャンルの芸術の探求。
古い文献・記録をあたり、昔はどんなところから現代に至ったか、という確認をしたり、
自分の長身を生かす姿勢のとり方、舞台の寸法の取り方・・・etc.etc.

しかし、やはり反対派も多いのです(^^ゞ
玉三郎自身が自分の寸坊で玉三郎の世界を繰り広げれば、それは歌舞伎ではない、というわけです。
特に歌舞伎舞踊の中に彼の意志やテーマを持ち込むことに、批評家や古くからの歌舞伎ファンは大きな異論を唱えます。
確かに、歌舞伎舞踊は達者に踊るだけでいい、という面もあるのです。
しかし、そこに一つのテーマを盛り込んだとしても、それも歌舞伎舞踊の範疇から外れることではないと思います。
まず、少なくともあれほど丁寧に踊る役者は少ないです。
(ちょっと丁寧すぎる時もある!!微妙にだれる(^^ゞ)

後見も厳しくしつけられて引抜などの手際も相当に手だれていてそれだけでも大変なことです。
多くの役者に見習って欲しいと思います。
女形独特の体の柔らかを見せる大きな反りも、彼が女形の美意識の一つの表明として始めたことで、
昔だって(歌・梅などの頃)多少の反りは見せましたがあれほどではなかつた!!
今は福助も負けじと反り返っています(^_^;

玉三郎という名前を一般名詞にまでしてしまつた玉三郎は、これからどこへ行くのか?
今は後進の指導にも積極的で、地方でも役者でも抜擢に積極的です。
演出も手がけて・・・どうなんだろう・・・美意識は感じるけれど、演出家としての力量はちょっと私には言えないですね。

しかし、神の声を聞いた役者が吉右衛門・仁左衛門・勘九郎・・・とするなら、
玉三郎こそ芸術の神が生んだ神の子か悪魔の子か・・・今後が楽しみです。


スーパースター猿之助

吉右衛門のところで少し触れたのですが、
市川猿之助は、誰にでもおもしろい歌舞伎を、と大衆化を目指しています。
しかし、歌舞伎の大衆化というのが質の低下ということではない、のは自明の事です。
猿之助一門と呼ばれる若手役者たちの鍛錬の模様は大変な物です。

もともと、猿之助は団子&染五郎という三之助以前の歌舞伎アイドルとして売り出されていました。
しかし、澤潟屋の頭領であり、歌舞伎界の名優である祖父猿翁の死、そして、病弱だった父段四郎の相次ぐ死によって
否応なく澤潟屋一門の頭領として風圧を受けねばなりませんでした。
昭和38年猿之助23歳!!

もともと、猿翁という人は市川宗家の弟子筋にあたり、所謂名門ではありません。
しかし、二代目猿之助(↑その初代猿翁)の卓抜した実力によって歌舞伎界に重きをおくようになったのです。
しかし、当然、それを快からず思う人たちはいましたから、
孤児になった猿之助に対して自分から後ろ盾になろう、という物好きは余りいなかったようです。
まして、その頃既に団子(猿之助の前名)は人気があってなかなかのスターでしたから、
猿之助の襲名についても、健康を害していた祖父猿翁のたっての頼みで襲名という時でも、猿之助か「雪之丞」か、
などと二転三転して、そのたびに新聞が大きく取り上げていましたっけ(^_^;

ただ、逆に遠い存在だった藤間勘十郎(現夫人紫の前夫(^^ゞ)や中村勘三郎(勘九郎のお父さん)が猿之助自身の実力を買って、
非常にバックアップしてくれた時期もあり・・・ました。

しかし、猿之助自身に、単に先輩から教えられた物を唯々諾々と演じていくことができないという、
役者なら当然の自覚と闘志がありすぎました(^_^;
ことに歌舞伎は、誰かに教えられたら、たとえ自分では違うやり方で演じたい、と思っても、
とにかく一度は教えられた通りに演じなければならない、という暗黙の了解があります。
猿之助ははじき出されるか自分で飛び出すしかなかったのです。

ここで、やはり芸術の神様ですねぇ・・・時代は国立劇場という舞台を彼に与えました。
戸部銀作という演出家が彼の実力を高く買って、まあ国立劇場の古典歌舞伎復活上演という計画ともあいまって、
猿之助の役者としての才能と演出家・製作者としての才能を発揮する場を与えてくれたのです。
実は猿之助の代名詞ともなった宙乗り(「義経千本桜―川連法眼館―通称“四の切”)も
彼のバックアップで初めて国立劇場で演じられたのです。
昭和43年だそうです。

勿論、猿之助自身昭和41年から「春秋会」という自主公演を主催し、今なら当たり前のチケットの電話申し込みや、
郵送申し込みなどでの販売をしたのです。
これは画期的なことでした。
もともと、日本の演劇界は、「演劇史の公演形態」のところでも述べたように、
「かべす」と「団体」に頼るのが定番でしたが、
歌舞伎界でも、猿之助の「春秋会」の試みは旧弊なシステムの中に一石を投じたのです。
もっとも、郵送・抽選(先着順だったかな・・・?)にでもしなければ、
当時既に猿之助の春秋会のチケットは取れなかったのです。
まあ、一日か二日かの公演ですが、猿之助の人気は確固たるものとなっていったのです。

そこで忘れてならないのは、弟段四郎の存在です。
芝居は一人でできるものではありません。
猿之助が何もかも祖父譲りの才能と熱血の人とするならば、この人は、穏やかで辛抱強く兄を支え続けました。
兄が華やかな主役で脚光を浴びる時、ワキの老け役・敵役・損な役回り一切を引き受けつづけました。
勿論、猿之助がいなければ澤潟屋は潰れたかもしれないけれど、
段四郎の存在がなければ、猿之助の活躍のステップももっと低い物だったと思います。

丁度その頃、歌舞伎界で干されていたというか、実力はあるのに主流の名門でないために
冷や飯を食わされている役者が三人いました。
竹之丞(現富十郎)・納升(故宗十郎)・田之助でした。
彼ら三人と新橋演舞場を主体に年何回か一ヶ月公演を持つことができました。

ついに昭和46年七月、今に続く猿之助奮闘公演を歌舞伎座で開くことができました。
猿之助三十一歳の時です。
実は、前年にも「川連法眼館―四の切」の場だけは演じていたのですが、
この年から昼の部は、また四年後からは昼夜ともに「猿之助奮闘公演」と銘打たれる「猿之助の七月」になつたのです。
そこから先は順風満帆・・・とまでは言いませんが、それまでの苦労が結実していく時期に入りました。
あいかわらずサーカスだ、けれんだと言われつづけてはいましたが、
徐々に理解者も増えていきました。
先代幸四郎(白鴎)・先代鳫治郎等という重鎮が共演してくれるようになったのです。

そして「隅田川(演目名忘れちゃった・・・俗に言う“鯉つかみ”)」では、ついにうるさ型の評論家戸板康二をして、
「忘れられた狂言を掘り起こしつづけた猿之助の努力を認めざるを得ない」と言わせ、
スーパー歌舞伎では、ついに女帝歌右衛門が甥の福助を共演させるなど、歌舞伎界は猿之助に膝を屈したのです。
(年号は、平成12年7月「歌舞伎座」プログラムで確認・・・いくら私だってそこまでちゃんと覚えてられない(^_^;)
なんだか、猿之助の所は猿之助historyになっちゃったみたい・・・(^_^;

まあ、彼自身がドラマなんですね(^_^;
恩人の勘十郎から紫を奪っちゃう、とかねぇ・・・まあ、勘十郎も勘十郎だから、そのへんはおあいこなんだけど(^^ゞ
それでいて、恩人は?と言われた時に、戸部銀作や奈河彰輔なんかと一緒に、やはり悪びれずに勘十郎の名前を出すでしょ。

なんといっても私が、猿之助にしびれたのは、新橋演舞場の「蚤取り男」と「一寸徳兵衛」!!
いやぁ・・・いい男でしたね、一寸徳兵衛♪これは誰がやっても惚れれちゃうようないい役なんだけど、
やはり猿之助と三津五郎に留めを刺します(^^)v

そうそう、彼が色男の代表のような直侍を演じた時、鍛えに鍛えた脚が色男には似つかわしくないと、
「労働者の直はんです」と、インタビュー言ってましたが、そういうユーモアも彼一流のウィットに支えられています。

そうそう、猿之助のもっとも大きな仕事の一つに後進の育成と言うのがありました!!
勿論、さっきにも言うとおり芝居は一人ではできません。
例の三人の仲間たちも猿之助ほどではなくとも実力が認められ、加齢もあって、歌舞伎界での地位も確固たる物になると、
それぞれの活動の場で中心になって行きました。
そのため相手役の育成もあって女形の笑也・笑三郎などを抜擢して育てました。二人とも門閥の出身ではありません。
若手も市川右近を、部屋子から、弟子にして、今や猿之助の役を日替わりで演じさせてみたり、と重用しています。
彼を中心に二十一世紀歌舞伎組を組織して、スーパー歌舞伎の原動力としています。
いずれも門閥の梨園から締め出された役者達が、猿之助の下で修行して、
さながら歌舞伎梁山泊という呈です。
その中には、萬屋の頭領として頑張る歌六もいます。
名門萬屋ではありますが、祖父三代目時蔵と叔父四代目時蔵・スターでもあった錦之助を失い、大叔父勘三郎にも逝かれては
身を寄せる木陰とてなかったのですが、
猿之助のもとに身を寄せてからは、次々と大役・重要な役を演じるようになりました。



歌舞伎役者と学歴

そういえば、事のついでに言わせて・・・猿之助の家は当時の歌舞伎役者の家としては珍しい高学歴!!
大体祖父の猿翁と言う人が明治時代の役者の家で中学卒という今で言えば大卒以上のインパクト!!
当然息子の段四郎(先代)は大学にやり孫の猿之助・段四郎(当代)も慶應大学卒!!
ウソか本とかリップサービスもあったか・・・当時の猿之助の「近松」の指導教授であった故・池田弥三郎教授が
猿之助が役者としての道が決まっている事を非常に惜しんだと言う話もありました。

松本幸四郎の白鴎も、猿翁と同じく明治時代の役者の家で中学卒という・・・
しかもこちらは名門中の名門でショッキングだったでしょう。
当然当代幸四郎も吉右衛門も一度は早稲田に入学しますが、
幸四郎は3年くらいかな・・・吉右衛門に至っては半年くらいで早稲田中退!!
いくら「早稲田は一に中退、二に留年、三・四がなくて五に卒業」と言っても、ねぇ(^_^;

翻って、歌舞伎の女帝として君臨した歌右衛門は役者に学問はいらない、というお人でしたが、
自分の当たり役としている六条御息所の話をするのを聞いて、本当に切なくなった覚えがあります。
瀬戸内寂聴氏との対談で、寂聴氏が恥をかかさぬように、大変に気を使っているのが印象的でした(;_;)
学歴が大事なのではありません。
考える力、切り開く力、受け入れる力が必要なのです。
それでなけれ多大なエネルギーの放出となる舞台を演じることはできません。

今は人間国宝となっているある幹部俳優は、大変な歌舞伎舞踊の名手で
丸本物でも時代物でも自在にこなす名優だと思っていました。
ところが、ある新作の公演で役の解釈が全くできていないのです(;_;)
主役は当代の鳫治郎(その時はまだ扇雀)とその名優のふたり。二人に愛されるヒロインに藤十郎でした。
そしてワキに当代幸四郎が付き合う、という豪華な舞台でした。
幸四郎・藤十郎にとっては新作物は本来独壇場の名舞台でしたが、
(藤十郎と言う人は新作でしか褒められない!新作では絶賛される歌舞伎役者としては変則の人)
ここで驚いたのは新作物は?だった鳫治郎の役の掴み方です。
新作物だというのに、素晴らしく的確な役の性根の掴み方で舞台を席捲しました。
そして、あまりにも悲しかったのは名優様の役に対する取り組み方・・・習ったものはよくできても、
一から自分で作っていく物は、そうやすやすとはできないものなのですねぇ(^_^;

これは中卒の孝夫・玉三郎にも言えることで、あの人達は大変な努力家でいろいろな人と交流もし、
世界中の誰と比較しても恥ずかしくない芸術家だと思いますが、基本的に非常に頭のよい人です。
だからこそ若くしてあれだけのブームをつくり、それゆえに伝統芸術の世界で大きな敵を作り妬まれ苛められても、
淡々と己が道を歩むことができたのです。
当然古典も新作物もありません。
人から教えられた事を鵜呑みにするのではなく、自分の役として一から取り組み表現していくことができるのです。

学歴が大事なのではありません。
しかし、大学までの当然な基礎学力や一般常識、それをもとにしたそれ以上の専門知識は、
役者として活動していく上に不可欠のものです。
馬鹿では役者はできません。
偉大な役者馬鹿になるために頭脳明晰である、というのは不可欠なことなのです。


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