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オー!宝塚!!

――T――

ずーっと 書きたいと思っていたことがありまして、我が宝塚観劇の記録なんだけど、
自分でもあんまりばかばかしいと思っていたのですが、
つい先日、年甲斐もなく(私のすること、みーんな年甲斐のないことばっかりや!)
きゃぁ宝塚
てなことを書いてしまったので、良いチャンスとばかりに書くことにしました。


なんて、書き始めたのは何時の事でしたか・・・下の方に、ゴンチャンの訃報にショック受けている記事があるので、
タブン1999年の初頭くらいからだと思います。
で、そのゴンチャン・上月晃の訃報記事から、だいぶ停滞していたのですが、
またぞろ、2006年の集団退団?を機会に、
その間の観劇記やら、母の日記から切り張りをして書き留めることにしました。

だって、私がおばあさんになった時、いろいろ思い出し話するのに、全然脈絡が無くなりそうなんだ物(^_^;
先程、ちょっと「ロンドン公演」のことを書こうと思ったのに、ちゃんと思い出せなくて、自分でも呆れましたから(^_^;
というわけで、続き物にしました。
この「お〜!タカラヅカ!!」は、その―T―として、次に進みますm(__)m

私が宝塚を生で始めてみたのは高校3年の11月!あんた、この死ぬほど大事な時期に、母親が見せたのですよ!

「そんなに勉強ばっかりしていたら頭か゛おかしくなっちゃう!」なんて言って、それが人生狂わせた発端です。
今と違って、その頃は宝塚の生徒もけっこう外部出演しいていたし、また現在(のBS)程ではなくとも、舞台中継って
けっこう多かったので、宝塚自体知っていたし、スタークラスなら大体顔も名前も、何が看板かくらいは分かっていたのだけれど
ナマの舞台はやっぱり魔物よ!もうそれから宝塚、宝塚、宝塚!「宝」という字がついていたら、宝田明も宝くじも
とにかくなんでも目の中に飛び込んでくるのです。
しかも 私は何を隠そう、戦後のヘビーブームの子で受験戦争なんて言葉のはしりの子なのですよ!
どうするあんた?たって手後れ!浪人!そのことについては書きたくないけど・・・ま、とにかく全てはそこから始まったのだ!
当時はちょうど マル・サチ時代の終りの時期でサッチャン・内重のぼるの退団発表があった時でした。
ちなみにマルとは那智わたる。

この前 麻路さきが止める時、TopStarの寿退団は初めてだとか言っていたけれど、実は彼女がその道の先輩だし、
完全なTopじゃないけれどマル・サチ・オソノと称されたオソノさん・藤里美保がサッチャンとW Topで寿退団しています。

その一つ前のマッちゃん・テーリー時代テーリーサン・明石照子はどやったかな?
止めてから決まったのか、決まってからやめたのか?
ちなみに、オソノさん・藤里美保テーリーサン・明石照子も、
そうそう退団してから結婚した淀かほるも、お相手はお医者様で、「タカラジェンヌはお医者に弱い」という記事が出ました♪
その後の結婚相手見てもお医者様多いですよね・・・カンちゃん初風諄も一休・美和久百合も・・・。
後は実業家!
実業家と言っても今流行の怪しげな?実業家ではなく、東証上場企業のオーナー!
一番驚くのは、東宝の松岡功夫人(というより、松岡修三のお母さん)に納まった千波静ですが、
この人、当時のステージアルバムなんか見ると、素晴らしいスターでね・・・もう一寸いたら、
絶対タカラヅカのエポックメイキングににる!というような人だったのに、
なんでぇ!東宝の息子が手をつけちゃったんだ!!
悪く言えば、商品に手をつけたのだ!!

まあ、もともと、千波静の家自体が、書生をおくような家だったので、
家同士、ということもあったでしょうけど、それにしても、東宝社長の御曹子は玉の輿ともいえますね(^_^;
千波三姉妹といわれてましたが、私が見ているのは長女の淳さん。
ダンスの名手ということでけっこう有名でした。
「イケズの淳さん」てトコもあったらしいけど・・・一時は妹の静に抜かれて、
内海先生から、もうやめろ、と言われたこともあったらしい♪
でも、トップにはならなかったけれど、それなりにダンサーとして名前の通る形まで行ったのでよかったんじゃないかな(^^)

内海重典先生はね、
凄い暖かい先生で、あの頃、新人公演なんて見向きもしない演出家が多い中、
必ず足を運んでいたそうですし、
他の先生が抜擢した生徒でも、ちゃんと続けて使ってくれたよい先生ですm(__)m
宝塚の演出家って、そういうトコ、根性狭くて、
他の演出家が抜擢した生徒には冷たいのですよ!!
せっかく、前の公演でよい役をもらって、好演しても、次に繋がらなくて駄目になった生徒けっこういます!!
内海作品としての代表作は・・・まあ、ゴンチャン・上月晃をTOPに押し上げた「ラ・グラナダ」ってのが、
1960年位までの宝塚歴代作品の三位になってます。
ちなみに一位は「花のオランダ坂」
二位「霧深きエルベのほとり」
三位がこれで
四位「シャングリラ」

三位の内海作品を除けば、全て大作家菊田一夫作品なのです。
ある時期、大変に菊田一夫が宝塚に入れあげた時代があって、浜木綿子・淀かほる・寿美花代などはその教え子、
と言っていい・・・最後の教え子が那智わたるですが・・・そのころから、菊田一夫は宝塚から手を引いた、
というより、宝塚の閉鎖性に辟易して身を引かざるを得なかった、というのでしょうか・・・。
後で、菊田自身がどこかに書いてました。
↑の他の演出家が抜擢した生徒は使わない、と言うようなことに共通する要素でしょう(^^ゞ
まさか、今(2006年)ではそんなこと無いでしょうけど、ねぇ(^_^;

内海作品は
作品的に芸術作品というのは無いんですが、エンターテイナー作品としては面白いものが多かった(^^)v
外の世界でも、いろんな歌手やアイドルたちのショーの構成・演出を引き受けたりしてらっしゃって。

芸術家の高木史郎に対して、職人内海重典、というところでしょぅか。
高木先生は多くの名作で名前を残したけれど、
内海先生は、生徒に対する愛情でみんなの心に厳しくて暖かい思い出を残していると思います。

マッチャン・寿美花代
はもうすっごい噂があったんだけど・・・勿論イェィーのおじさん高島忠夫とです♪
知らん顔してあくまでも東宝移籍で芸能活動をするってことだったのです。
だってもうとっくに色々な分野に進出していたし、
TVで、たとえワンクールといえども、
自分の名前をかぶせた寿美花代ショーなどという番組を持ったのは後にも先にも彼女だけでしたね。

客席でのフリートークも巧くて、エンターテイナーの才能炸裂で客席に降りると返ってこない!!
(まあ、お客が離さない!ってこともあったんでしょうが)
生徒から、閉演時間がおそくなるから、マッちゃんを客席に下ろすな、と言う要望が相次いでいたそうです。


マル・サチ・オソノとマル・サチ時代


マル・那智わたる
サッチャン・内重のぼる
オソノさん・藤里美保

マッちゃん・テーリー時代の終わりに飛び出した超人気者が三人!
同期(28年初舞台)のマル・那智わたるオソノさん・藤里美保
そして、その一つ下のサッチャン・内重のぼるです。

あー、ちなみに、今何期生なんて呼びかたしてますが、昔は「○年初舞台」という言い方でした(^_^;
七十周年くらいの時は、そう呼んでいたんたけど、八十周年くらいの時はもう何期だった、かな(^_^;
それで行くと何期生になるのかしら・・・?
だから、おばさんたちは、今でもツレは39年初舞台、オトミは40年初舞台、とかいう言い方をしますねぇ・・・古い!!

当時は例の「華麗なる千拍子」で宝塚が日本中を席巻していた時代でした。
「夢を売る男」なんて、宝塚から出た歌が日本中で流れる!なんて・・・遠い目!!
これで寿美花代は紅白歌合戦にも出たし(^^)vイェ〜イ
で、この「華麗なる千拍子」は高木史郎のショーで、主役はマッちゃん寿美花代なのですが、
脇仏のように、両サイドに並んだのが、マル・サチで、これが、主役のマッちゃんを食っちゃうほどの大人気!
でー、寿美花代がオカンムリになった!と当時の新聞に書いてあった(*^-^*)
(図書館に行って、縮刷版から記事を探したりしたんですよ・・・馬鹿な私・・・あれ書き写したレポート用紙もあったんだけどな)

この三人は、マルの人気にあやかって、トリオで売り出すのに使われた名称ですが、
これがうまく当たって、見事に三人とも大人気になったのです。
でもやはり、サッチャン・内重のぼるに比べると、ちょっと地味なオソノさん・藤里美保は一歩ひくし、
まず時代がアイドルとして不良性を求める時代だったのですネェ・・・まあ、いわゆ裕次郎現象(^^)
これに、サッチャン・内重のぼるはドンビシャだったんですなぁ(*^-^*)
かっこよかったよー!ダンスも巧くて、ダンスのサッチャン

でー、月組はオソノサン・サッチャンのwTopで行っていたんだけど、
演技的にオソノさんはのほうが巧いし、味があったらしい・・・というのは、ナマで見てないのですね、此の方はm(__)m
ただ、テレビの中継などで見ると、ふつうに女優さんとして巧かったのです!!
それと、ねぇ・・・まあこういう言い方は失礼でしょうけど
大体、舞台写真見ると凡その出来は想像できる物ですよ(^^ゞ
舞台写真ってその瞬間を捉えているわけで、瞬間的によく取れていれば大体OK!
勿論、たまには例外も有りますけど八割・九割がた言えます。

舞台写真見ても、かっこいいのはサッチャン、芝居がわかるのはオソノサン(^_^;
特に女役に回った時のオソノサンはよかった(「不死鳥の翼燃ゆとも」など)、と思います。

でー、結局賢い彼女は、女優にもならず、お医者様の奥さんの道を歩んで、
その後、関西の米朝司会モーニングショーで、アシスタントなどをちょっとやって、これはけっこう観ました。
最初分からなかった!
舞台を離れて何年か経った、後でしたけど、もう〜極々普通のお母さんて感じで・・・そういう意味でも賢い人でしたね(^^ゞ


オソノさんを見送って、サッチャンの一人舞台が始まって、いよいよマルサチ時代です。
フェアリータイプのマルに対して、↑不良的アイドルのサッチャン♪
演技派のマルに対してダンスのサッチャンでした!!

当時としてはスターがダンス巧いって珍しい!
やはり、ダンス巧いのはかっこよくても、どこか職人膚の地味系の人が多かったのです。
それにトツプにらなると、自分はセンターで歌って、周りをダンス陣が固める、というパターンが多かった。

で、まあ、そのダンスのサッチャンの寿退団のお相手は、
当時ワールドダンサーズの総帥として振付家としてテレビ界・ショービジネスを席巻していた浦辺日佐夫氏でした(^^)
今や振付家の重鎮とも言える名倉加代子さんなども、堀内完のユニークバレエ団の後、
浦辺日佐夫ワールドダンサーズに移り、
その後オフジ・千夏記(俳優・細川俊之夫人)たちとホリデー・ガールズを結成し、
独立して今の大振付家の地位を築いたんですよ♪
ちなみに劇団四季の加藤敬二は名倉さんの弟子!!


でも、人気はやっぱりマルが凄くて、
当時はあの王子様のタイツ姿というのが、もうもうビックリモノの素晴らしさでした!!
ホントに絵の中から抜け出たような、という表現がぴったりでしょう。
でー、↓にも書くとおり、彼女の演技力が大演出家の菊田一夫の認めるところとなり、外部出演も多くなりました。
そこで、マルの退団がいつも噂になる頃、突然サッチャンから先に退団ということになってしまったのです。

当時は、組を背負う人気Topの退団は三年前に申し出る、という不文律があったそうです。
それが二年前になり、今はどうなのかなぁ〜(^_^;
剣幸は「一年半位まえですね」みたいなこと、以前テレビで言ってたと思います。
「中畑さんが引退が決まっていた年のオールスターで劇的な大ホームラン打った時、
あ、アタシもやめよう、と思ったんですよ」
だそうでした。
つまり、最後の大ホームランが打てる余力を残して、ということなんでしょうか(^^)
サッチャンも、自分の代表作「霧深きエルベのほとり」でかっこよいマドロス姿を見せて、
サヨナラショーまで、当時のサヨナラショーでオール40分踊りまくり、というのは初めてだったそうです!!

いやぁ・・・かっこよかった!!ダンスの花組が二回続いた後、
ダンスのサッチャンのサヨナラ公演で満開の散り際を見せられて嵌らないわけは無い!!


マル・ゴン時代

サッチャン・内重のぼ・が寿退団をして、マル・サチ時代が終り、
マル・ゴン時代になっていったのだけれど、このころは
もうマル・那智わたるは外部出演が多くて、組み入りもしていなかったのです。
演劇専科ってね。
「専科」というのは重宝なところで
そうやって実力もネームバリューも出来てきて、外部に売れるようになると
4組(今は五組になりました!)体制からはずしてフリー扱いして、エリートって感じになるんだけれど
今度はまた、各組で持て余して余り物みたいな人を専科入りさせて姥捨て山のように扱う訳です。
(2006年7月現在、リストラ専科の大掃除が終わって、みんな綺麗に出払って、
今度は組Topも若返りでだそうで退団ラッシュ!月がもう替わって、昨日宙がやめ、星・雪が変わります)

スターは勿論、脇役でも
重宝に使われる人は、1年のうち7ヵ月舞台で、その外にも外部出演があって、少しは休ませて!
というくらいなのに、
お呼びのかからない人は、なんにも専科つて、年に一度の儀礼的な出演だけってことも多かった。ま、今もそうですが(^_^;

ちなみに、専科入りの最低年齢記録がそのゴンチャンこと上月晃でした。
研究科5年で歌で芸術祭奨励賞をとってしまったものだから、普通の組子としては置いておけなかったしね。

(浜木綿子が芸術祭の奨励賞を取ったのは研3だけれど、
彼女の場合は対象が外部出演の゛悲しき玩具゛(石川啄木は当時の市川染五郎、現松本幸四郎)で、
しかも彼女自身が雪組のTop娘役だったからね)

というのも、その頃の各組Topは実力者ぞろいで、簡単に首のすげ替えはできないし、
上月の専科入は苦肉の策だったんでしょうね。

それでも星組は空いていることはいたんだわ。でも、これが那智わたるの出身母体だったから、
やっぱり大トツプの那智わたるに遠慮があったんでしょう。
歌劇団側によ!
そのころの那智わたるの勢いたるやすごかったですからね!!
当時ゴテマルと呼ばれてたくらい、とにかく煩かったらしい。
というのも、その時代の今で言えば 蜷川幸雄みたいな大演出家にして東宝重役だった菊田一夫という人が、
彼女の演技力とスター性を高く評価していい仕事をどんどん与えていたし、
彼女もよくそれに応えていたのです。
だから、いまの松本幸四郎、とか石坂浩二とかを相手役にして、「終着駅」「マノン・レスコー」とか、
「風と共に去りぬ」も大々的なプロモーションで
当時としては珍しいヒロインのW Castingでスカーレットを演じたりしたのです。
だからもうマル・那智わたる退団は秒読みでもあったわけです。

本来なら、とっくに辞めたかったらしいけど、当然宝塚は慰留!!
今の直ぐTOP交替させたい現象とは大違い(^_^;
マルも「嵐が丘」「エデンの東」を、是非やりたい、という希望もあってなんとか我慢していたんですね。

大体今でもそうだけれど、ナントカ時代って言われた一方が止めると、
残った方も気力がなくなるというか、その「ナントカ時代」の終りを悟ってしまうのですね。
[ナン]と「トカ」でいてこそ「ナントカ時代」な訳ですから。
彼ら、彼女らがBigであればあるほど、ライバル心も旺盛だったろうし、そのライバルが
辞めた時の喪失感も大変な物があるのでしょう。
那智わたるも内重のぼるが辞めた時点で今度は私が辞める番と思ったでしょう。
(このマルがやめた直後、
ゴンチャン・上月晃が目標を失った、辞めたい、と言い出して歌劇団を慌てさせたのですよ。
わずか研八でした!それはまた後日)

ちょっと話が飛ぶけれど、「菊・吉」なんてのが典型的なパターンでしょ。
生きているうちはお互い相当張り合ったらしいし、いがみ合う事もあったみたいだけど、菊五郎が死んじゃったら
吉右衛門まで元気が無くなっちゃって、それまで勘三郎が菊五郎のやり方で舞台を勤めたりすると、凄く怒っていたのが
今度は「俺が相手をしてやるから、寺島のやり方でやってみろ]っとまでいうようになったんですって。


マル・那智わたるが退団発表して、
天下晴れてゴンチャン・上月晃が星組Topとして組み入りして、
(まあマルの退団発表の一年前には組み入りして、一応、星のTOPとして、特出のマルを迎えています。
昔は、そういうとき、一本づつ分けて主演したんだけど、今は二本同じ比重で特出になるのですね(^^ゞ)

月組はサッチャン内重のぼるの後をミヤコさん・古城都がついで、
超演技派娘役の誉れ高いベンチャン・八潮路まりとの名コンビが出来つつあったのです。

さて、花組と雪組が問題なんですが・・・。

はい、私が最初観た頃に話を戻して。
私が一等最初に見たというのも花組だったし、
その頃は東京公演は、11月の次は3月だったのです。で、それがローテーションの関係でまた花に当たる、という♪

ホントは1月に新宿コマ劇場の公演があって、雪組がきていたんです。
でも、新宿なんて、その頃は高校生が独りで行けるところじゃなかったのです。
今だって 結構怖いイメージが残っていて、新コマは勿論だけど
お食事会、ヒルトン、とか新宿プリンスといわれると、ちょっとしり込みしてしまいます。
(新宿住民の方 ゴメンナサイ!)

それで、まぁ人間たるもの傍にいるものに情が移るというのが道理でありまして、
私も花組のファンになったわけです(*^-^*)それが今も続いてる\(^^)/
大体「ダンスの花組」ですからね・・・私の好みにピッタシカンカンだったのです。
これ花組を見たんじゃなければ宝塚にここまで嵌らなかったかも〜〜♪

そうそう、
もともと、11月公演というのも芸術祭参加の特別公演で、例のマル・ゴンが特別出演をしていた特殊な物だったのです。
最も、その頃は特別出演とか合同公演とか、今よりもっと、組み同士の交流が盛んでしたけどね。
11月に観た時は、那智わたるの美しさとカッコよさ、ナンタッテ足の長さが違うのよ!
その頃(1964〜5年頃)のことですもの。
それから上月晃の歌唱力と、おすましやのタカラジェンヌには珍しいコメディアンヌぶりに惚れ込んだんのでした♪

3月も上月晃のみは残って特別参加していたのです。
で、その3月公演は鬼才鴨川清作の中国モノの喜劇だったのです。
これが、やはり、従来の宝塚モノとは違ったちょっとオヒンガワルイケド猛烈面白いもので、作品的にもBatchGoo!
だけどゴンチャンは11月と全く同じ事をしていてガッカリ!
でも、今考えると、あの時代の宝塚で、Topスターがあそこまで喜劇タッチで出来たのはやはり偉かったですよm(__)m
でも、当時としては、すぐにアイソがつきた私の前に現れたのが
その時女役に廻っていたコウチャン・甲にしきと、
すでに女役に転向してダンスで勇名をはせていたマリコサン・近衛真理だったのです!
カッコよかったよぉ\(^^)/
女賊の役だし、もう、ほんとに妖艶なの!
それで二人で軍鶏の踊りーー戦うダンスーー
なんて超、超かっこいい!この頃から私の女役大好きとダンス大好きは決まっていたのです!


えっと、私が女役大好きファンと言うところで・・・宝塚ファンには珍しいでしょうが、
あの頃のコウチャン・甲にしきの美しさたるや、凄かったのだぁ\(^^)/
もともと あの当時にしても男役としては小さいし、
研5で初主役でやった゛落陽に花散れどー出雲のお国 ゛が出色の出来で、大絶賛を浴びた事もあって
女役に転向せよって声がものすごくて、コウチャン自身猛烈に抵抗していた頃だったんです。
宝塚に入ったのは男役やるためや、女役やったら、外出て女優になる!ーーって、
で、結局がんばり通して、男役で花組Topになったものね。
もともとガンバリヤで、研4の頃 ゛歌劇゛ 誌だったか゛宝塚グラフ゛誌の新人紹介欄に
平凡な素質を 努力で才能にまで高めた希代のガンバリヤ゛と批評家の先生から書かれたくらいの人だったからね。

そういえば、かのゴンチャン・上月晃 (とミヤコサン・古城都 )とは同期なんだけど、
しかもゴンチャン・上月晃とは同じちっちゃい男役同士なんだけど、
個性が違うんですよねぇ。
まず さっきも言うとおり、コウチャンはガンバリヤ!予科の頃から誰もが認める優等生、
おまけに
日舞を宝塚の大先輩の南悠子に習っていて、その縁で他の先輩諸氏にも可愛がられているわけですよ。
ところが
ゴンチャンといえば九州山鹿のドイナカから出て来て、ダンスもバレエも初めて、
体操で国体まで出た運動神経だけが頼り!!
って感じで、先行き不安になって、美容師の通信教育を受けていたというくらいだったのです。
ところが、ところが・・・舞台ってものは面白い!
初舞台はともかくも、きれいでそつなく何でも出来るが、ハ゜っとしないコウチャンに比べて、
ゴンチャンのほうは
あっという間にその個性と歌唱力でスターの階段を駆け上がり、
↑に書いたとおり、芸術祭奨励賞を受け、月組の(今で言う)2番手になり、
初主役ー大劇場の一ヶ月の責任公演だからねーー、史上最年少の専科入り、などなど記録ずくめでした。
といっても、努力という意味ではゴンチャンも負けてない!
今伝説に残っている「凄い訛りを一晩で直してきた」というのはゴンチャンのことです。
自分で工夫した記号を台本が真っ黒になるほど書き込んで一晩で「標準語」で言えるようにしてきた、とかでした(^^ゞ
今、その生徒の名前を伝えていない、というのは宝塚歌劇団の意思を感じてしまうよ(^_^;

コウチャンとしてはライバルとも思っていなかったゴンチャンに水を開けられ焦っていた頃だったのです。
それでも女役のコウチャンはきれいでした。
だから男役のコウチャンが見劣りしたのですよ。
とにかく私は女役の甲にしきの大ファンとなりました。
が、当然のこと乍ら、これがなかなかやらないのですよ。
本来が男役の上、なまじ女役で評判がいいと女役に回されちゃうという本人の抵抗が強くて、
そばにモデルもいたのです。

で、マリコサン・近衛真理のお話です(*^-^*)

マリ子さん、といっても、最近?やめた男役の王道を極めた大TOPのマリ子さん麻路さきでは当然ありません(^_^;

近衛真理も最初は男役スタートでダンスが巧くてソコソコ役は付いていたようです。
研四で「皇帝と魔女」の新人公演で主役の寿王をやった位ですから、
同期のサッチャン内重のぽる、ほどではなくともナカナカの扱いだったと思いますが・・・
何せ、彼女はまん丸でそこがどうしても男役のネックになります!!
あのー、男役って、要するに長手の顔にリーゼントってのが、やっぱり決まりナンバーワンなのだ!!
しかも声もけっこう高くて綺麗系の声でした(^^ゞ
というわけで、彼女は泣く泣く女役転向♪でー、これが大正解!!
退団の頃には宝塚の至宝・石井さん・春日野八千代の相手役まで勤めるようになりました\(^^)/
とにかく、通常の花組公演では、ダンスの甲チャンと組んで絶妙のダンスコンビネーションを見せていました。
特に、愛し合う男女の別れ、みたいなの躍らせると、この二人に適うコンビって・・・今も無いんじゃないか、
って思うほど(^_^;
「いつも男が年下に見えるのはおかしい、工夫がいる」という批評があったけど、
其処がいいじゃん!と、私なんかは思ってました(^_-)-☆
もともと、マリ子さんは29年初舞台、甲チャンは35年初舞台で、
33年から宝塚音楽学校が二年生(それ以前は一年だけ)になった関係で七歳違うんだから(^_^;
ダンスだって、切れ味のシャープさを誇る甲チャンに対して、まりこさんは余裕のテクニックという必殺技!
ただそれだけじゃなくて、
宝塚って、断然男性優位社会を描いていて、男役が女性をリードする定型がきまっているんだけど、
この甲チャン・マリ子さんのダンスコンビは、絶対的に男役優位じゃないんだよね〜。
勿論シナリオとしてはそう書いてあるし、ふつうのコンビなら普通に男役優位に持っていかれちゃうんだけど、
そこがマリ子さんなんだよねぇ(^^)v
一人で踊っても勿論素晴らしいダンサーで、ペチャパイなのに、すご〜く豊満なイメージが有ります(*^-^*)
内海先生のショーの名作に「HITKIT」というのがありますが、
これが女役ダンサー近衛真理の魅力炸裂で素晴らしいショーでした(^^)

1960年前後にショーの世界で「捕らわれた女彪」を男彪が助けようとするダンスが大流行したことがあります。
日劇なんかでも、立川真理
(ナント同じ真理なんだよね・・・・麻路さきのマリ子さんも入れると、マリ子さんてダンス巧い人って意味(^_^;)
が、男性舞踊手と踊ったりしてました。
宝塚の嵌る前、両方テレビで見たけど、宝塚のほうが断然よかつたなぁ♪

そうそう、この頃はテレビ中継も多くてね・・・今のように宝塚の専門チャンネルがあったり、
WOWOWで毎月必ず、ということはなかったですが・・・でも、けっこうありました。
だから、私がかなり古いモノを知っているのはテレビ中継のおかげもあります。

でも、実際、宝塚に嵌ってせっせこ劇場かよいを始めた頃には、
NHKは宝塚中継は「年に二度」ということになってました。(´∧`)〜ハァー
まあ、その他に時々「お昼の軽音楽」みたいな番組で特集してもらうことは・・・数年に一回くらいあったかなあ(^_^;
後、あ〜、今思えば画期的な出来事ですが、
ゴールデンタイムの歌謡番組に一年間宝塚の誰かで出る、というのがありましたねぇ・・・遠い目(^_^;

というわけで、マリ子さん・近衛真理は女役に生転換した男役としてはかなりの出世で寿退団しました。
お相手は、「七人の侍」などの黒沢作品によく出ていた土屋嘉夫・・・でも離婚したよね・・・子供二人引き取って(^_^;

遅くなりましたが花組のTOPのカンサマ麻鳥千穂と雪組トツプのスータン・真帆しぶきについては次回。

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

1999年3月26日 (金)
ゴンチャンが死んだ!
ゴンチャンといってもわからない人のほうがおおいでしょうけれど
上月晃といえば結構知っている人も多いかもしれません。
だって 想像以上に新聞やマスコミの扱いが大きくてこちらがびっくりしています。
まぁ 宝塚のひと時代を気づいたTheBigOneなのですからヅカファンとしたら
当ったり前よォーってことにもなるのでしょうが
外部の人たちにしてみたら宝塚なんて特殊な世界のことは関係ないし、
でも それでも演劇界全体から見渡して、
これくらいの扱いを受けるだけのことは成し遂げた女優だったのですねぇ。
一月の宝塚の我がコラムにもチラット書いたのですが
那智わたるとのマル・ゴン時代を経て甲にしき・古城都との名前だけの3K時代。
事実上のTheBigOneとして君臨し、華やかなさよならショー、
けれど、退団後のマネジメントを松竹に依頼し、宝塚や東宝から裏切り者扱いされ
何度にもわたる金銭トラブルやスキャンダルがあって芸能界引退か!
って感じだったのが、海外に活路を求めてパリでのレビュー出演(フォーリー・ベルジュールだって?
そんな大きな劇場だったかな(^_^;)を成功させ、
日本人としては初めて主役としての3年間の長期出演をしたのです。
http://www.tci.ne.jp/n/nomura/gonfiles/pari.html
(それ以前にも高英夫とか、十年近くパリのレビューには出ていたけれど
主役ではなかった・・・はっきりいってチョイ役だったらしい)

この大仕事をまとめたのはプロのエージェントではない、
勿論間に立ったのはプロのエージェントでしょうけど、上月側のマネージャーとして仕切ったのは
上月晃の為に彼女より一足先に退団していた一期上の高城樹里(黒田悦子)でした。
いろんな噂が乱れ飛んでいたけれどこの大仕事をまとめて彼女は結婚したそうです。

3年後、そこそこにパリでの仕事を成功させて帰国した上月晃に
菊田一夫が声をかけました。
当時の当方の演劇担当重役というより、いまも菊田一夫演劇賞に名を残す
大劇作家です。
宝塚の現役生徒やOBがちょっとでも芸能活動をすると
やたらに大きく取り上げる歌劇団はずーっと無視し続けました。
上月晃のほうも私は何も悪いことはしていない、って感じで突っ張り続け
(勿論個人的には恩師の内海重則等とは交流があったでしょうが・・・)
宝塚関係のイベントにもお声がかからぬのか出ないのか一切出演せず!

その後菊田一夫のバックアップもあり、彼女自身の頑張りもあって
「屋根の上のバイオリン弾き」のゴールデや「ラマンチャの男」のアルドンサ
などで女優としての地位を固めたのです。
http://www.tci.ne.jp/n/nomura/gonfiles/kouzuki.html
それでも、大劇場のさよならセレモニーがきっかけで、やっと出始めたのですが
年功序列のうるさい宝塚が、あれだけの元BIGStarを遇するには
ちょっとお粗末な感じがしました。
去年のバウホール20周年(?)のイベントでは
初風淳の下って扱いでしたからね。
けれど、世間は鳳蘭、大地真央、麻美れいの大先輩として
越路吹雪以来の大スターとして
芸術祭奨励賞を2度も受賞した女優として扱ったのです
このあいだの「42nd Street」では圧倒的な存在感で
時代を作った女優という物はどう言うものかというのを
見せ付けたものでした。

安らかに・・・

ごんちゃんが死んで7ヵ月後、どこか地方のテレビ局の重役夫人として、
成人した息子さんもいるという「えっちゃん」が亡くなりました。
享年57歳。やはり癌だったそうです。
私には、どうしてもごんちやんが迎えにきたような気がしてなりません。




次へ続く





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