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10月30日(火) インターミッションD

紫式部―その宮廷生活と源氏物語―

またもカルチャースクール特別講習で聞いて来ました。
講師は、お馴染!?W大学のN教授です。

筆者の呟き
私は「紫式部日記」も「紫式部集」も殆どちよっとしかかじっていないので、よい機会だと思って参加したのですが、やはり、こういう時にピックアップされるのは、私などでも知っている超有名なところなので、へぇー!と感動することがない代わりに、詳しく教えていただけて、自分の解釈でよかったとか、悪かったとか、が理解できてよかったという面もありました。
でも、本音を言えば、それより、何より、合間に話される紫式部以外の道長・為時などの小さなエピソードとか、その解釈に至る諸々が大変なお宝講義です。大学生を相手にして、大学構内ではちょっと聞けないのではないか、という捌けたお話も江戸時代の歌舞伎などをひいてお話しになるんですよ!!これは爺婆中心のカルチャーセンターの講義でなけりゃきけないよ!!

本日の資料はプリント三枚。そのうちの、一枚目から二枚目半ばまでは、そのピックアップ事項の一文を、或いは和歌の贈答をとりだしたものがAからOまで15項目あります。二枚目後半は、家系図、「尊卑分脈」による官職・官位も入って大助かりです。
そして、三枚目が「紫式部年表」!これは私にとってはちょっとしたお宝資料です。勿論、ご自分でコツコツ作成されている方も多いでしょうけれど、私は、横着なピックアップメモ程度のものしかなかったので、紫式部日記から日付を克明に拾い、更に、N教授の解説も入って、おまけに政治情勢の参考事項も欄外に日付とも入っている、とは嬉しい限りです!!


T.紫式部の出生


(筆者注―プリント二枚目の冬嗣から始まる家系図が「尊卑分脈」の官職・官位とともに載っていまして、わかりやすくなつています。
祖先は藤原北家(閑院)冬嗣から出ています。父方はその三男良門からの流れ、母方は次男長良という藤原一門です。
父方は曽祖父兼輔(有名な歌人三十六歌仙のひとり・「堤中納言物語」の作者)までは従三位を頂く殿上人でしたが、祖父雅正の時代には従五位下の受領階級となり、父為時の時代は正五位下受領階級が定着していました。
ことに兼輔・雅正のような風雅に捌けた曽祖父や祖父と違って堅物で地味な性格の為時は和歌よりも漢詩をよくし、菅原文時の門下生のうちでも三羽烏といわれた英才でしたが、世渡りがヘタで、一条帝の寛和二年(986年)、式部が14歳の二月に式部大丞(式部の名はここからきているらしい)に就任し、同年の六月に官を退いてからは、長徳二年(996年)、式部が24歳の時に越前守に就任するまでの長期に渡って、無官の日々を過しました。
つまり、式部は娘盛りの一番華やかな時期を、父が失業中!という状態で過さなければならなかったのです。

また、その無聊の日々を慰めあう母は、式部が幼い頃、殆ど物心のつかない内に死別したようですし、また仲のよかった姉も早世し、寂莫たる娘時代を送っていたようです。「早くからの肉親の死が、式部の性格構造をした、といえます。

式部の友達で、西国の受領の娘がいて、彼女も妹を亡くして哀しんでいることから、仲良くなり互いの手紙のやり取りに姉よ、妹よ、と書きあったりしていました。源氏物語のなかで、九州やら伊予が頻繁に出てくるのは、彼女から聞いて様子を知っていたものと思われます。(筆者注―ということで、二人の歌の贈答が解説されました。また、式部の同性愛癖!?についても、例の宰相の君の美をこよなく愛して、昼寝姿を襲う話などもなさりながら、)
女学生によくあるおねえちゃま・妹みたいなものです。

弟の惟規(のぶのり)は兄という説もありますが、いろいろな年回りなどみていると弟でしょう。その弟の傍で、父の漢籍の講義を聞いているうちに、式部の方が早く覚えてしまい、この子が男子であつたならば、と為時を落胆させたというエピソードがあります。こういうことを、自分の日記に臆面もなく書くんですよ。ねぇ、どういうんでしょ?(ニコニコしながらおっしゃってました―筆者注
ここで、重要なのは、父の為時が、女の子にも漢籍の講義を聞かせた、ということです。この時代、誰でもが漢籍の講義を聞けたわけではないのです。ことに式部は女の子ですから。父が早くから式部の能力を認めていた、ということです。そして、そういう雰囲気の家庭に育ったということが後の式部に大きく影響しています。

U.紫式部の結婚

式部研究の一番古いものは、江戸時代の水戸派のお抱え学者安藤為章の著した「紫女七論」というのが最初にして唯一のものです。
近代以前では?先生、おっしゃいませんでした・・・筆者注・・・それより
その「紫女七論」の第一に「才徳兼備」とあって、そのイメージが、現代にまで影響を及ぼしているんです。あの時代の受領の娘があの年まで何もない、ということは考えられない不自然なことです。現代では、紫式部像も少々変わってきています。
ということで例の歌

方違へにわたりたる人の、なまおぼおぼしきことありて、帰りけるにつとめて、朝顔の花をやるとて
  おぼつかなそれかあらぬか明けぐれのそらおぼれする朝顔の花
返し、手を見分かぬにやありけむ、
  いづれぞと色分くほどに朝顔のあるかなきかになるぞわびしき

これは女から男へ読み掛けた歌です。しかも、「朝顔と夕顔」というのは歌の中などでは対比的に使うことが多いもので、夕顔は男待ち顔、恨み詫び顔(^^)。そして、朝顔は情事の後、男を送り出す顔です。
筆者注―こういうお話がね、お宝話だと思うのですよ(^^))
「才徳兼備」の式部像を抱く人達の説としては、「男は宣孝である。この時から式部と宣孝は交渉があって後に結婚したのだ」というのですが、そんなバカなことはありません。宣孝と式部は20歳以上年が離れているのですよ。若い娘がそんなおじさんにどうして歌など詠み掛けるものですか!?
「手(手と手蹟を掛けている)を見分かぬにやありけむ」ということは、手蹟を見ればしかと知れるような仲の人です。当然それまでに何かがあったと推測されます。女から歌を詠みかけるのというも、才徳兼備のイメージとは離れますが、当時の受領階級の娘としては当然のことです。

筆者の呟き―まあ、私としては相手が20歳離れていたとしても、もし、そういう仲になっていたとしたら、かえって女の方から歌を詠みかけてもおかしくないなぁ、と考えるのですけどね(^_^; 大体、そんなに才気煥発なおじょうちゃんが、逆に若い男に目をくれるだろうか、とも考えているのですが・・・大体式部はあまり美人じゃないわけですよね。そのへんの容貌に対するコンプレックスと頭脳の明晰さに対する自信が相半ばしていたとしたら、見かけの美しさに囚われる若いアンちゃんたちよりも、自分の自信あるところを正当に評価してくれる男性―というと、これは相当年の離れた男でなくては無理ではないか・・・。もっとも、だから若い恋に破れてあんなに遅くなって親子ほど年の違う宣孝と結婚したのかもしれませんけど。
それにしても、もし、宣孝がもう、この時代から式部に手をつけて通っているとしたら、なんで、いつまでも、正式に結婚しなかったんだろうとは、思いますよね。それでも、宣孝は式部にのぼせているのに(これは、この後にN先生からも解説がありましたが、宣孝はホンキで式部に惚れていたらしい)、式部はやはり年のことが気になって踏み切れなかったとか、(後に出てくる宣孝の身分の高い妻達を敬遠してとか・・・)理由付けはできると思いますが。それにしても、私も宣孝以外の男であったらいいのになぁ、とは思います。どちらかというと頭中将タイプの颯爽としたアンチャンなら、生意気同士でぶつかって、はかなく分かれる、というシチュエーションになってもおかしくないな・・・とか。そうあってほしいな・・・とか。)


宣孝は式部にマジメに求婚していたようです。やっと、9年ぶりに越前守に就任した父とともに下向していった式部が、父の任期半ばに、宣孝との結婚のため、単身都に帰って来るのです。それは、遠い越前にまで、せっせと宣孝が手紙を送って、式部を掻き口説いたからです。
宣孝という人は、式部の父為時と同じく、冬嗣−良門の流れから出ていますが、系図の流れとしては内大臣・右大臣も輩出している式部の家よりはちょっと上の家柄です。宣孝自身は受領階級ですが、式部の家よりは格が上です。力のある受領だったようです。山城・筑前・備中と裕福な国の国守を歴任し、右衛門権佐にもなっています。当然金持ちで派手好きで色々なパフォーマンスが好きのようです。学問・教養もまずまず大変なものでした。堅物学者の為時と仲がよかった、というのもそのへんのところからでしょうか。
筆者の呟き―そして、またその縁で、式部を知って、その才能に惚れ込んだのか!!)

しかし、なにしろ20歳違いです。式部が宣孝と結婚した時には、すでに宣孝には4人の妻がありました。しかも、その妻達は式部と比較しても相当格上です。それでなお、というのは、宣孝からの相当なアプローチがあった、と言えます。或いは、為時が宣孝に世話になったとか言うことも考えられます。

結婚生活はけっこううまく行っていたようです。宣孝は式部の才気煥発さを愛していたようですし。そして、賢子が生まれ、その翌年、あっけなく宣孝が身罷ります。わずか二年間の結婚生活でした。
この宣孝の死後、無聊を慰めるために源氏物語の執筆が始まった、と言う説があるのですが、色々な人に聞いても、とてもそんな時に(夫の死後、執筆などという)そんな心の余裕など持てない、と言うんですね。「源氏物語」のようなものを書くには非常に大変なエネルギーと道長のような後援者が必要なんです。

筆者の呟き―これには、私は疑問!勿論悲しみの中で茫然自失になってしまう人たちもいるでしょうが、悲しみを忘れたくて、手近に熱中できるものがあれば、それに没頭しよう、と思う人もいるのではないか、と思うのです。ことに、私は源氏物語以前にその草稿になるような小さな物語を書いていたと考えているのですから。源氏物語という大作ではなくて、独立した短編のようなものを書き散らしていたのではないかと思うのですが・・・それに、多少話題になるようなものを書いていないと、道長からのスカウト!と言うところにつながらないのではないか、と(^^ゞ)

筆者注―で、その、道長からのスカウト話なのですが、まず、「あの不器用な父為時」が、越前から帰った頃から、道長に目を掛けられはじめます。実は、その越前守就任の折りの話で、長年除目から見放されていた為時が、やっと長徳二年(996年)県召の除目で、淡路守になったところが、淡路が下国だと嘆いて悲嘆の上奏文を奏上し、それに一条帝が偉く感動し、英才を十分用いることが出来なかった君主としての不明を恥じて、食事も喉を通らなくなり引きこもってしまった!!そこで道長が自分の乳母子の源国盛に決定していた越前守と交換してやった、それで帝は大層ご満悦であつたという挿話が、今昔物語・古事談・十訓抄などにのつているそうです(清水好子著・「紫式部」先生は当然知ってるでしょう、と言う感じでその辺は割愛されてましたけど・・・)。

為時が越前から帰って道長邸にも出入りをはじめます。父為時が越前の国主になれたのは道長のおかげですからね、挨拶にも行ったでしょう。そこで彰子宮廷への式部出仕の話が出されます。


V.紫式部としての宮廷生活@

まず、紫式部という名称ですが、これは宮仕えする時の伺候名−さぶらいな−というものです。(まあ、宮仕えの時の源氏名ですね、と、先生がおっしゃつたかどうか定かではありません。この時目は年表に釘付けだったんですよ!!―筆者注)

その伺候名ですが、紫式部は、源氏物語で有名になる前は藤原のということで藤式部(とうの式部)と、呼ばれていたことは有名ですが、その「式部」というのが少し問題なのです。ふつうは伺候名には、一番近い親族の官職名を用いることが多く(宰相とか中納言とか、受領の娘なら伊勢とか讃岐のように)、無官であれば、元○○のとなるのです。ですから、紫式部(藤式部)の場合なら、中宮彰子のサロンに出仕したのは、宣孝の死後ですから、当然父為時は、元越前守ということで、「元越前」などということになったはずで、それが、為時が越前国守になる前の「式部大丞」からの官職名を名乗っているところを見ると、式部には、彰子に出仕する前に、父が式部大丞の頃、あるいは、その退官後にに宮仕えの経験があった、と考えられるます。彰子出仕以前の宮仕えを認めない説もあります。

中務の宮わたりの御ことを、御心に入れて、そなたに心よせある人とおぼして、かたらはせたまふも、まことに心のうちは、思ひゐたることおほかり。

父の為時は式部大丞に就任した頃、中務の宮具平親王邸のサロンに出入りしていました。具平親王は賢帝といわれた村上帝の七男です。不遇の中に当然時世を憂れう意識がありました。そのサロンに、父に伴われた式部もいたのではないか、宮仕えをしたのではないか、と考えることもできます。ぶっつけ本番に彰子サロンへの出仕では宮仕えのキャリアとしても不足です。
そして、その折には、単なるふつうの女房(平社員ならぬ平女房?―筆者注☆)ではない、「乳母とまではいかぬにしても相当な位置」での宮仕えではなかったか、と考えられます。というのも、この一文の元になる問題は、「そなたに心よせある人と−道長がおぼして」というのは、道長の長男・頼通(倫子所生)の嫁に具平親王の娘隆子を、ということです。「下っ端の侍女」では問題にならない。中務の宮でも重んじられた女房ではなかったか、考えられるのです。

主人の長男の嫁とり話に頼られるというのも大変な扱いですが)式部の彰子サロンでの宮仕えはそう気安いものではなかった、というのはご存知ですね。(源氏)物語の作者だとか言う前評判やら、それをお読みになった一条帝の「この人は日本紀をこそよく読むベけれ」とかおっしゃったということで「日本紀の御局」とかあだ名された、とかで、「一の字だに知らず」という謙遜な態度をとりつづけ、肝心の彰子中宮への講義も人のいないところでこっそり行った、というエピソードは余りにも有名です。
筆者注―先生は、そのエピソードを話しながら、またもニコニコと「そういうことも日記に書いてあるんですよ」と嬉しそうに非難していらっしゃいます!!)

さあ、そこで、彰子中宮への講義なのですが、

宮の御前にて、文集のところどころ読ませたまひなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼしいたりしかば、いとしのびて、人のさぶらはぬもののひまひまに、わととしの夏ごろより、楽府という書二巻わぞ、しどけなながら教へたて聞こえさせはべる、書くしはべり。

当初は白楽天の「白紙文集」ということだったのですが、それも終わり、あれこれと、中宮からの注文が出て、色々なものを教えて欲しい、ということになりました。このあたりは、さすがに道長の娘で、彰子もなかなかの才媛でもありました。そこで、式部が選んだのは白楽天の「楽府−がふ−」。これは白楽天の反政府・反体制的な内容のもので、当代の政治に批判を加えるものです。普通、若い女性がそんなものまで学びますか?これは、為時が中務邸に出入りしていた時に、式部が一緒に遊びに行ったか、宮仕えをしていたか、ともかくも、そこにいて、一緒に学んだものと思われます。
筆者の呟き―しかしまた、それを当代の政治を動かしている男の娘に教えちゃうのですよ、凄いですね(^_^;

ここで式部が彰子の下に出仕した日付の問題になります。

師走の二十九日にまゐる。はじめてまゐりしも今宵のことぞかしるいみじく夢路にまどはれしかなと思ひいづれば、こよなくたち馴れにけるも、うとましの身のほどやとおぼゆ。

筆者注―N教授のお宝年表には、「寛弘元年(1004年)12月29日夜、中宮彰子のもとに出仕(寛弘2年・寛弘3年という説もある。)」とあります。実は通説では寛弘3年となっているのだそうです。)
しかしながら、寛弘3年という日付では、周囲の人々(筆者注―平惟中の娘・五節の弁が大宰府権の帥となった父と宇佐八幡とのトラブルを気に病み容色が衰えるという)の描写に納得のいかないことがあり、また寛弘2年というと、12月29日というのが、小の月の大晦日にあたり、まさか、そんな忙しい日に慌ただしく出仕するなど考えられないでしょう。当然寛弘元年12月29日(寛弘3年の場合も同じく)は大の月で、大晦日前のまだ、のんびりしているときです。
筆者の呟き―あらら、と思ったのは、この五節の弁の容色が衰えた、という話は、それほどに宮仕えがストレスの溜まる職場だというふうに、私は聞いていたのですよ。ですから彼女の容色の衰えが、家族の政治的・社会的大難儀に関わることだと、今日聞いてびっくり!これもまた聞いて見なければわからないことでした(^_^;)

W.道長との仲

筆者の呟き―ついに、紫式部日記の一大テーマ登場です!!式部と道長は関係があったか、なかったか!?先程、私が年表に釘付けになって、先生のお話しを聞き漏らした、というのも、「寛弘5年(1008年)式部36歳、中宮、土御門邸に退出。この頃道長の召人となるか。」という一行に目が点になっていたからです。

従来から、式部と道長とは関係があった、なかったというのは争点の一つだったのですが、道長が深夜式部の局の戸をたたいたというけれどあけなかつた、という「紫式部日記」の文章(後出)を巡って、アプローチはあつたがあけなかった、ああ書いているけれど本当は開けた、という二派に分かれていたのです。で、年表にそう書かれているN教授は当然後者です。)

橋の南なるわみなへしのいみじうさかりなるを、一枝折らせたまひて、几帳の上よりさしのぞかせたまへる御さまの、いと恥ずかしげなるに、わが朝がほのおもいしらるれば、「これおそくてはわろかせむ」とのたまはするにことつけて、硯のもとによりぬ。
  わみなへしさかりの色を見るからに露のわきける身こそ知らるれ
「あな疾」とほほえみて、硯召しいづ。
  白露はわきてもおかじをみなへし心からにや色の染むらむ

筆者注―この文を読みながら、「朝がほ」のところで、わざわざお顔をあげて「いいですか、朝顔ですよ」とニッコリ!)
これは、これこそは、何の関係もない男が、朝早く、女の几帳の上から(さし覗く形になる)今をさかりと咲いている花を差し入れるなどとは考えられないことです。それに答えて「朝がほ」という言葉を使っている式部がいて、更に、「露がわきける」という。露といえば、この時代は涙の露、袖の露、といえば涙、と言うことですが、この露は違いますね。これが歌舞伎なら・・・(筆者注―・とここ聞き逃してしまったんですよ!残念!何のセリフをおっしゃっていたか??
いいですか、露がわきけるというのは道長の愛情がわくですね。(とおっしゃっていらしたのはしっかと聞きました。」

おみなえし、というのは、普通はあまり上品な女性の例えには使いませんが、この場合は、まあ、今を盛りと咲く女性達と考えていいでしょう。そういう女性達と比べられたら、盛りをすぎた自分から、道長の愛情が分かれていってしまうだろう、ということなんですね。そこで、また道長が、そんなことはないよ、というわけなんですね。

筆者注―この歌の注釈としては三省堂の新明解古典シリーズという受験参考書(監修・桑原博史)では次のようになっています
おみなえしの今を盛りと咲いている美しい色を見ましたばかりに、露が分け隔てをして置いてくれない(女盛りをすぎた)我が身が思い知られることでごさいます。
道長の返しとしては
白露は何も分け隔てをして置いているわけでもあるまい。おみなえしは自分が美しくなろうとする心のせいで、色が美しく染まるのだろうよ)

源氏の物語、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出できたるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせたまひける。
  すきものと名にし立てれば見る人の折らですぐるはあらじとぞ思ふ
たまはせたれば、
  「ひとにまだ折られぬものを誰かこのすきものぞとは口ならしけむ
めざましう」と聞こゆ。

これはまた、道長が「源氏物語」を前にして、こんなにいろいろなことを書いているんだから、さぞかし実体験も豊富だろう、と読みかけて、式部が、小説は小説で、誰がそんなことを言うのでしょう、心外なことです、と悔しがるんですね。これはもう、そういう仲の話です。
そして、そして、ついに出ましたよ!あの「戸は開けられたのかあけられなかったか」という話題の歌が・・・

渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、おそろしさに、音もせで明かしたるつとめて、
  夜もすがら水鶏よりけになくなくぞ真木の戸口に叩きわびつる
かへし
  ただならじとばかり叩く水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし

これは当然あけました。こういう時はあけなかった、と書くものなんですね。で、あけてます。「大鏡」に例があるんですね。「蜻蛉日記」の道綱母の、例の兼家が牛車で乗りつけた時、知らん顔してあけなかった、という文も、「大鏡」を読むと、相当待たされた挙句遅くなってあけた、こんなに遅くまで待たされて、と兼家がぼやいた記事が載っているんです。こういう時はあけないような顔をしてあけています。。

筆者の呟き―そうかなぁ・・・素人は未だに不審です(^^ゞト言っても、まあ、やはり態勢としては空けないという人に不利なんですよ。
我が敬愛する円地文子氏・瀬戸内寂聴氏はあった、とする派です。

円地氏は「源氏物語私見」の中で、「道長がその後、式部の局に通ってきた時逢わずに返したことが日記に見え、和歌の贈答もある。このあたりの記事から、後世の紫式部貞女説が生まれるのであるが、道徳律の尺度の違っている後の封建時代から見て、紫式部が道長を避け通したことにしているのはいい気なものだと思う。」と述べています。また、
瀬戸内寂聴氏は「十人十色・源氏がおもしろい」という対談集の中で、丸谷才一氏との対談で、丸谷氏は「紫式部は光源氏の歌をつくる時、藤原道長を意識していたんだと思うんです。道長は、紫式部の愛人だったわけで―後略―」と、ノッケからずばり切り出します。そして・・・

  瀬戸内―前略―今の小説家のようなあからさまなベッドシーンは一つもないけれど、丸谷さんの言葉でいえば「事実あり」って個所を、じつに適切な言葉でほのめかしてますでしょう。相当な恋愛のベテランじゃないと、あれは書けない小説ですよ。紫式部は“物包みの君”で、自分の私生活のことはほとんど書き残していないから、よくわからないのですが、男でわかっているのは結婚した藤原の宣孝と、そのあとにちょっと口説かれた男があるようですが、それと道長でしょう。そうすると父親ほど年の離れた亭主の宣孝も相当な男だったと思うけど、やっぱり本当に彼女を仕込んだのは道長だったのではないでしょうか。
  丸谷―道長の影響は大きいでしょうね。ご亭主の詮もあると思いますけど。
  瀬戸内―だいたい紫式部という人は、美人だったと思いますか。
  丸谷―絶世の美人というわけじゃなかったと思うけど、魅力はあつたでしょうね。
  瀬戸内―そうでしょうね。容姿は十人並みでも、内容があつて、それに何よりも聞き上手だったと思う。これは男にとって大変な魅力ですよ。インテリですしね、つまり歯ごたえがあつたんでしょうね。
  丸谷―道長は摂関家の息子で、将来大物になるように決まっているような男ですから、女性関係も派手だったに違いない。紫式部は、そういう派手な道長が位人身をきわめたときの愛人なわけですね。そういう人が天下の才女と関係する。そうするとこれは、今までに付き合った事のないタイプの女だったんじゃないでしょうか。
  瀬戸内―おもしろかったのでしょうね、道長にとっても。

うーむ、そうでしょうか(^^ゞ
確かにあの時代、色事ということではなく、男性が女性を見て口説かなくては失礼に当たる、という、なにやら「イタリア風エチケット」の時代ですから、まあ、わからなくもないですけれど・・・この道長との仲がどうこう、といわれた時式部は36歳くらいなのですよ。源氏に出遭った時の六条御息所を37歳にしちゃった私ではありますが、この紫式部36歳で道長と・・・というのはかなり苦しい気がするのです。もともと、美人であったわけではないですし・・・だからこそ、丸谷氏・瀬戸内氏の言う「今までに付き合った事のないタイプの女だったんじゃないでしょうか。」「おもしろかったのでしょうね、道長にとっても。」ということになるのでしょうが・・・。

私の引っかかるのは中野年表にも書かれていた「このころ道長の召人となるか」という一文です。そうなんですよ。道長と関係が出来たとすれば、当然式部は「道長の召人」なのです。あの誇り高い紫式部が!?
恋に盲目となる和泉式部でさえ敦道親王に、逢い易くするために、親王邸の女房になればいつでも会える、と親王自ら掻き口説いたにも関わらず、「召人」という立場になることを拘ってなかなかに踏ん切りがつかなかったのですよ。それを、あのプライドの高い紫式部がするでしょうか・・・?

寂聴氏に言わせれば「当代一の権力者に挑まれて拒否できる女なんていませんよ」という文をどこかで読んだのですが(出典不明。探索中。)・・・。

でまた、門をたたいてあけなかった話も「和泉式部日記」にあるのです。ただしこれは、設定が違っていて、門を叩く音を聴いた式部が、侍女に言いつけて門番を見に遣ったらもう諦めて帰っていった後だったと言う、本来、敦道親王だと知っていたら、式部は自ら飛んで行ってあけたと思うので、少し例としてはためらうのですが、あけなかつたことはあけなかったらしいのです。

また、式部は道長夫人の倫子から菊枕を送られたりしているのですよ。これは女房としても異例のことではないでしょうか。いくら、この時代でも、夫の愛人に菊枕を送るでしょうか?しかも、この年と同じく寛弘5年の重用の節句のことです。
ただ、これには疑問点もあって、
――九日、菊の綿を兵部のおもとの持て来て、「この殿のうへの、とりわきて。いとよう老のごひ捨てたまへと、のたまはせつる」――という口上がつくのです。36歳かぁ、今で言えば五十越えたあたりですからね・・・老いをぬぐいすてなさい、とはいくら主人の奥方だと言ってもちょつとあけすけすぎるのではないか・・・とも思うのです。しかも、式部の返しが「菊の露わかゆばかりに袖ふれて、花の主に千代はゆづらむ」と詠んで、きせ綿を倫子に返そうとするのですよ。これはまた、いくらなんでも、せっかくの主人の奥方からの下されものを返すというのは、なんとなく「女の戦い」臭い!と言う気もしなくはないのです。しかも、倫子夫人は式部の返歌も待たずに自室に帰ってしまったという、何かにつけて式部に歌を詠ませることを好む主人一族が?ふつうなら、当然式部から返歌があるものとして、そこまでを重用の節句のイベントとしているはずだと思うのですが・・・わかりませんねぇ・・・藪の中!!

いうわけで、私は道長との仲については懐疑的なのです。

W.紫式部の宮廷生活A

いつまでも、道長との仲のことばかりやってもいられません。講義時間は一時間半!もう後10分くらいになってます!!
で、まあ、先ほどの「紫式部の宮廷生活」の延長のようなところですが、先生も焦ってふっ飛ばします(^^ゞ

御前にも、近ふ候ふ人々、はかなき物語するを聞こしめしつつ、なやましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させたまへる御有様などの、いと更なることなれど、憂き世の慰めには、かかる御前をこそ尋ね参るべかりけれと、現し心をばひき違へ、たとしへなくよろず忘らるるも、かつは怪し。
明けたてばうちながめて、水鳥どもの思ふことなげに遊びあへるを見る。
  水鳥の水の上とやよそに見むわれも浮きたる世をすぐしつつ
かれもさこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかんなりと、思ひよそへらる。

前の方は中宮彰子の素晴らしさと、その周囲にいられる事の幸福感を語りながら、その幸福感を味わう自分を突き放して見ている作家の目を記した「自己凝視―作家の精神」を書いた物です。
後の一首は有名な「水面下の水かき」ですが、「他人の体験すらも自分の体験のように考えられる「自己回帰」の一文であす。
どちらにしても、表面上の幸福な顔の陰で、正しく水鳥の水面下での水かきのような苦労は付き物なわけです。様々な苦労や苦い思いを飲み下し、平安そうな日々を送っている自分の姿を式部はしっかり見つめています。そして、更にそうやって自分自身をもつき離して見ている自分を意識しています。

この後ちょっと大事なポイントです。紫式部の身分・待遇についてですが。

御輿には、宮の宣旨乗る。糸毛の御車に、殿の上、少輔の乳母若宮抱きたてまつりて乗る。大納言、宰相の君、黄金造りに、つぎの車に小少将、宮の内侍、つぎに馬の中将と乗りたるを、わろき人と乗りたりと思ひたりしこそ、あなことごとしと、いとどかかる有様、むつかしう思ひはべりしか。殿司の侍従の君、弁の内侍、つぎに左衛門の内侍、殿の宣旨の式部とまでは次第しりて、次々は例の心心にぞ乗りける。

これを見ても紫式部が大変な厚遇を受けていたことが分かります。ざっと見ても、道長夫人と若宮が乗った三つ目の車です。先の二つには道長や倫子夫人の姪など身内で固めて乗っているのです。
「つぎに馬の中将と乗りたるを、わろき人と乗りたりと思ひたりしこそ――と言ってますが、それは馬の中将の方こそ言いたいんですね。この人は九条師輔の孫の娘ですから、もう全然身分が違うんです。その人と一緒に乗っているということは、もう破格の待遇と言って良いわけです。
では、中宮の宮廷において、どういう地位にあったかといえば、全く、公的な仕事をしている様子はなく、中宮出産の折にも、することなく、自分は部屋にいて、他の女房達が出たり入ったり忙しそうなのを見ているのです。それでいて、何か行事などがあると歌を求められたり、草子作りなどは中心になってやっています。いろいろな記録を書いたりというのも仕事だったようで、要するに宮中に仕える公的役職ではなく、あくまでも道長個人に仕えて、特別な待遇を与えられた宮仕えであったようです。

というわけで、時間もすぎて、慌てて、先生も締めのお言葉が出たりして、私も慌てて質問!

式部は、中宮彰子と共同して道長の反体制勢力と連絡係とりあつたということですが、それはどういう・・・?と質問したところ、
「それは、晩年ですの話ですね。いつまでも道長との間が続くわけはありませんから、晩年には道長との仲も途絶えている。彰子も道長の強引な遣り方にあんまりだと言う気分がある。そこに小野の宮が近づいてくる、そう言うとき、窓口になる女房が常にいるわけで、それが紫式部だつたということで、二人で組んで道長の反対勢力と結びついた、ということではありません。女性ですしね、政治的な活動ではありません。」ということでした。


☆☆☆
以上、「紫式部―その宮廷生活」の講義の抜粋ですが、私としても、紫式部について、いつかは書かなくちゃ、と思っているので、マジメにまとめてみました(^^)

付録―あの質問の後、前回の「源氏物語の女性達」という講座の時、葵上に関して「紫式部は葵上に愛情を感じている」とおっしゃつたのはどういうことかを質問!
「それは『正妻』ということですね。あの時代妻は何人もいて皆認められていますが『正妻』というのはただ一人です。兼家も時姫と道綱母との扱いは違います。かといつて、正妻の家にずっといるわけではないのです。葵上はあの時代の最高貴族の娘が、上流貴族に嫁いだ典型の書き方をしています。死ぬ時にホンの少々気持ちの表現が出てきますが、それまでは上流貴族の典型の書き方です。それでも『正妻』というのは非常に思いですし、夕霧と言う後継ぎを生んでくれたことを源氏は非常に感謝しています。ですから葵上の死後の左大臣邸にもよく訪れて世話をしますし、左大臣を非常に大事にします。そういうところですね。」と、いうことでした。そして
「あなたはRの○○スクールの方ですか?」とおききになるので「いえ、昨年の先生の講座でそのことを伺って、ネットで書きましたら、そのサイトの主催者の方が、先生からR のさよならAをもらった方で大変盛り上がりまして」とお答えしたところ、
「そうですか、何年か前、Rで数年間教えていたことがありまして、ですから埼玉方面はだめなんですね。湘南はダイジョブだと安心していたんですけど、ここでそんな質問に出会うとは・・・ブツブツ」とおっしゃり会場は大まで行かないけれど中爆笑でした。
これってどういうことだつたのでしょうね・・・?




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