2016年

6月14日(火)

紫式部日記」の日でした。

今日、先生にお聞きしたい!伺いたい!と思っていたことがっに聞けました!というほど大げさなことで派なのですが、

「源氏のモデルとして大津皇子は挙がっていないのですか?」というこです。

源氏のモデルとしては、高明ら・伊周・道長なんてとこが有力候補になってますが、

大津皇子と言う話は挙がって来ないんです。でも、「懐風藻」の大津皇子のとこなんて読むと、まんまじゃないか!とオバサンは思ったわけです。

それで、10年以上色々探したりしてたんですけど、そういう風に書いてあるのは一冊か二冊で、

しかも、「大津皇子のモデル考も一考に値する」くらいのことしか書いてなかったりするのです。

それでここ数年は先生にお聞きしたいとチャンスをねらっていたのですが、

最近は、オバサン自身が体調悪くて、ご講義終わったらそそくさと帰ってくるようになってしまって、先生や先輩たちとお茶を飲むことも無くなってしまったんですよね

・・・なので、こういう質問を、カルチャーの時間内に伺ってよいものか?ダメかなぁ・・・とトツオイツ(^^;

でも、今日具平親王サロンのことがお話に出たので、ついにご講義終了後の質問タイムにしてしまったのですねぇ(^^;


紫式部が具平親王サロンに宮仕えしていたというのは、先生が初めて主張なさったそうですし、最近では殆ど定説に近くなってきました。

というわけで、講義終了後に、「何かご質問がございますか?」と仰った時、
今日、具平親王のお話が出たので、この機会に、当然式部も「懐風藻」を読んでいたはずだと思いますが、

それなら、源氏のモデルとして大津は考えられませんか?と言う風に伺いました。

先生としては、
大津だけでなく、高明・伊周・道長など色々のモデルを合わせて構想した、と仰ってました。
モデル考というのは、一時期はやったのだけど、はっきりさせられないことが分かってきて、今はモデル考をする人は殆どいなくなりました、

とのことでした。

フウム、そうですか?
でもモデル考は特定の誰と言うことじゃなくても、この人の人生のこういう処をチョイスして、とか考えるのは不毛の理論じゃないと思うんだけどな・・・

と思ってました。第一、「懐風藻」の大津の記事を読んで知らんふりはないよね、と思うんですねぇ・・・。

ま、致し方ないです。素人が考えておかしいと思ったってねぇ(^^;

そしたら、ヌァ~ント!先生がお一人でホームにいらっしゃったところに行きあたった!!
普段は、遠いところにお立ちだったら、知らん顔して失礼するのですが、今日は自分から寄って行って、先生に話しかけましたm( )m

え?まあ、先ほどは変な質問をして失礼しました、ということで(^^;

そしたら、大津皇子をモデルの一人じゃないか、と言う説は「河海抄」に載っているんだそうです!!

えーっ!
そうか・・・やっぱり古注釈なのねぇ・・・全然読んでませんm( )m手も足も出ないもん。
それにしたって、「万葉集」の研究者もまた、大津について、そういう説が古注釈に載ってるって知らないわけね・・・少なくとも、去年の「万葉集」の先生は・・・(-"-)

それにしても、先生!やっぱり、カルチャーの講義中には出したくなかったのですね?ってか、

まあ、オバサンが出すぎた質問をしちゃったわけですが・・・困った(^^;

でもさ、そこで、先生を離したら続きが聞けないから、電車に乗って一駅、先生のお座りになった座席の前に吊革にぶら下がって食い下がりました(^^;

一人分ずつの空席がいっぱいあって、先生が指示してくださるんですけどね・・・久し振りに食い下がった\(^o^)/


そしたら、、高明・伊周・道長大津皇子だけでなく、いろんなモデルがいて、私などでも他にも兼明とか、憲定とかは知ってますが、もっともっといるそうで、

先生が「みんなカードにしてこれくらい」と10センチくらいの高さを両手で作っていらっしゃいました。フウム・・・やっぱりそれくらいねえ。

でも、どうして現代の先生のみなさん、大津のことに触れないんでしょう?と思って、やはりタブーですか?と伺ったら、
「そうですね。昔は。処刑された人はやはり罪人としてはまずいでしょうねぇ。」とのことでした(^^;

一駅、あっという間でしたが、積年の疑問が解けた!で~、源氏やるなら、古注釈にアタックしなくちゃどうにもならない!ってのもわかった!!

日暮れて道遠し!だなぁ・・・(^^;