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5月20日 (木)「空蝉と明石の御方」−紫式部は自分を誰になぞらえたのか

1999年にこのテーマで書いたときは、源氏物語の登場人物について自分の考えていることを、
あっさり書いていこうと思っていたのですが、花散里あたりからだいぶ「身が入ってきて」、
あれこれ引用などをはじめてしまい、最初の意志と無関係に長冗舌を振るうようになってしまいました。
それで、長いことがいいとは決して思いはしないのですが、せめてもう少し丁寧に書いておこうかと少々手を入れることにしました。

まず、私としては紫式部は己をだれになぞらえたのか、というところから入っていきました。主人公たちはみなみな作者の分身であるとしても、多くは、一番色濃く作者の影が投影されている人物像として特定の名前が挙がるものです。
それは、源氏物語の中の「女君」たちのうちで、紫式部と同じ階級の女性がふたりおり、通説的には「空蝉」が作者の影を背負っているように言われております。

円地文子さんはじめ諸先生方は、空蝉を紫式部がわが身を託しているように
おっしゃるのです。が〜、
確かに受領階級の女性ではあるし、
例の藤原道長を袖にした、という言い伝えが、空蝉がただ一度のアクシデントの後
源氏を拒み通した、というシチュエーションに結びついたとも解説されています。

円地文子氏と永井路子氏との対談のなかでも(対談「源氏物語のヒロインたち」)
永井―自分はもっと運が好かったらこういう人の恋人になれたろうに、こんなに年上の受領なんかと結婚してしまって、もう先が見えている、と悲しむ。その一方では、源氏の君との関係か゛、もし、続いたとしても、もう゜先が見えている、というふうに、恋をしながら、醒めた気持ちがそこにある。
円地―その点は、非常に教養があるんですね。
永井―そうなんですよ。理性があるというか、魅力的に書かれていますね。
円地―魅力的な女性ですね。
永井―これは、たぶん紫式部が自分を・・・。
円地―私もね、自分をかなり投影しているんじゃないかと思う。――以下略――

それはそれで納得なんですけれど、それだけではない。
確かに半分は空蝉でしょう。
しかし、後半分の自分を託したのは明石御方だと思うのです。
明石御方といえば、紫上が藤壷の形代(かたしろ)であるならば、もう一方の見上げる人である六条御息所に似ている、というところから
心惹かれていく部分があるわけで、紫式部とはまったく結びつかないように思うのでしょうか?
しかし、俗に「一の字だに知らず」ということばに集約される「抑圧の美学」(?)を考える時、その実践者は明石御方をおいて他にない、と思うのです。

もちろん、空蝉が一度の出逢いを一期のこととして、逢わずに耐えることも、紫上が源氏の女出入りに耐えることも、「抑圧の美学」ではあるでしょうが、紫式部が自己の内側をひた隠しにしたような抑圧の仕方はしなかった。
それに呼応するようなあまりに強烈な自己制御を以って自身の「抑圧の美学」を意識的に貫いたと言えるのは明石だと思います。
要約すれば、外見及び行動上は、空蝉に自己を託し内面的行動については明石御方に託しているのではないでしょうか。

明石御方は源氏の子を産むという幸運に恵まれのすが、
「わが子の将来を思って愛する娘を紫上のもとに託し、自分は影の存在となって耐えとおすという生活がある。その抑制された情熱は雪の中に燃える炎の感がある。やはり中の品の女性というべき紫式部が、自己の投影と理想とを明石の君に描いたと見る説があるのも、明石の君のそういう性格によるものである。」(慶応大学教授・西村亨“いろごのみ”の生涯―グラフィック版源氏物語―より、1976年発行)という説もあり、けっこう明石御方と紫式部を結ぶ人々は(残念なことに!?そりゃぁ残念よ!みんなが作者のモデルは空蝉、空蝉っていって私一人だけが明石って考えているんだ、といい気になっていたのに、これ読んだとき、ガ〜〜ンですよ、若かったし)少なくないようです。

勿論、明石御方は、受領といっても、もとからの受領ではないわけです。
明石入道は大臣の子孫で出世もするはずだったものを、自ら進んで近衛の中将を捨てて受領となったのだし、
また、その妻で明石御方の母に当る明石尼君もその祖父が中務卿であったというのだから、
ただの受領階級とは違うわけで、本人としては、そのへんのことから、空蝉以上に屈折したものがあったとは思えのるです。

「須磨」の巻では、罪人に大事な娘をやるなんて、と妻に責め立てられた入道が、
「故母御息所はねおのがをぢにものし給ひし、按察使大納言のみむすめなり」という衝撃の告白があります。
真実ならば、明石御方は源氏と「またいとこ(はとこ)」の関係で、あれほど引け目を感じることはないのではないか。もっとも、そうすると、源氏の側から見て「母のいとこに」あたる入道が受領階級にいる、ということは、かなり困ったことかもしれません。
(女二ノ宮ー落葉宮があんな屈辱的扱いを受けるのは彼女の母・更衣に受領の親戚がいるからです)

明石御方の容貌も「この女すぐれたる容貌ならねど、なつかしうあてはかに、心ばせあるさまなどぞ、げにやむごとなき人におとるまじかりける。」という紫式部好みの表現がされていますし、「初音」の巻では物語風なものを書いている、という文があったように思います。そのあたりからも、かなり紫式部は自分を投影しているように思えますが。

また、これは飛躍しているかもしれませんが、明石入道が
「もし我に遅れて、その志遂げず、このおもひおきつる宿世たがはば、海に入りね」と言ったのは(書いたのは)、その志の意味は多少違っていたでしょうが、
紫式部の幼少時、父から勉強を教わっている兄の傍らで聴いているだけで、兄より先に覚えてしまって、「この子男なりせば」と嘆いた父のもっと沈痛な思いを受けた式部のこころの叫びだった様な気がします。

さて、かたや空蝉ですが、これも全く受領の娘ではなく、一応親は衛門督を勤め、生前には宮仕えにも出したい、と言っていた事を、帝が記憶にとどめている(と、源氏が言っている)ことからも、更衣のことを考えれば、出身はそこそこのところ、かえって明石御方の現実よりは身分的にはよかったわけです。ところが親が早くに死んでしまえば、当時としては、もう女一人生きていくことはできない時代で伊予の介の後妻となるしかなかったのです。

あのアクシデントの後、二度も源氏を拒みとおして、更にその夜
――つれなき人も、さこそしづむれ。いとあさはかにもあらぬ御気色を、ありしながらの我が身ならば、と、とりかへすものならねど、しのびがたければ、、この御たたう紙のかたつかたに、「うつせみのはにおく露のこがくれてしのびしのびにぬるる袖かな」――と詠むのは哀切である。

で、このふたりの共通点は明石御方の「伊勢の御息所にいとようおぼえたり」というのは有名ですが、空蝉に対する犯しも、これは藤壺へのそれを連想させるところがあるのではないか、と、考えています。ただ、そうなると、藤壺の宮と呼ばれる先帝の四の宮(第四皇女)で、帝の寵厚き藤壺は、何度も桐壺帝を裏切って不義の子まで生すのに比べて、受領の後妻で中の品の空蝉が、ただ一度のアクシデントの後、自分の心を押し殺してまで源氏の誘惑を退けたのは大変なものだと思います。このへんの紫式部の意図は如何、と考えるところもあります。また、逆にこれが世にいう玉鬘系統の別人による挿入部分であるにらば、どういう人がどういう意図をもって描いたのでしょうか。

後、空蝉と明石御方の類似点というか、相互連想させるのは、かたや逢坂の関、片や住吉でのそれぞれの再会です。
明石御方は出会いも異郷の地明石ではありますが、子供を出産した明石御方が住吉詣でに出かけた折も折、源氏の「御願はたしに詣で給ふ」たところに行き合わせ、彼我の身分の相違を思い知らされるところです。
ここで、源氏の嫡男の夕霧が、
――大殿腹の若君限りなく貸しづきたてて、馬添ひわらはの程、みな作り合せて、様かへて装束きわけたり。雲居はるかにめでたくみゆるにつけても、若君の数ならぬ様にてものし給ふを「いみじ」と思ふ。――

あの明石御方が惨めな苫舟で行ったとは思えません。まぁ、明石入道にしてからが、念願の宝の赤子の初詣ともいうべき住吉詣でなのですから、源氏の体面を考慮して微行を呈しても、それは盛大な御座船ともいうべき船で行ったと思われます。だからこそ、
――「帰らむにも中空なり。今日は難波に舟さしとめて、祓いへをだにせむ」とて漕ぎ渡りぬ。――こともできるわけです。
ふだんなら、金の力に物を言わせて今の国守くらいあごで使っておりましょう。ただ、どんなに財力を持ち贅を尽くし権勢を振るっても、当代の帝近くに仕える身分を誇る人々にはかないません。財力ではひけをとらぬ、と思えばこそ、「大殿腹の」ということが身に堪えたはずです。ここは、あはれ、というよりも、後の波乱含みの前兆のようなドキドキする場面ではあります。ここで、歌舞伎風のブッカエリでもあって、明石御方が「しかし、待〜て〜よ〜」となつたなら、私も明石御方が嫌味とは思わなかったかも。

そして空蝉の「関屋」です。夫伊予の介の任国・常陸に下向していた空蝉が、夫(今は常陸の介)の任期切れで上洛してきます。その途中の逢坂の関で、御祈願成就のお礼参りに石山寺に参詣した源氏に出会う、(といっても歌のやり取りだけだけれど)ところです。明石御方一行に比べては、きっと格段にみすぼらしい旅姿であったでしょう。どうもねこの常陸の介は貪欲に蓄財に励むタイプではなさそうですから??
その折の源氏はあいも変わらず、自分勝手でノー天気だけれど、女心の哀切さがしみじみとしていて、
「あふさかの関やいかなる関なれば茂きなげきの中を分くらむ」の歌は、秀歌かどうかわかりませんが心打つものがあります。

結局空蝉は夫の死後、好色な継子に言い寄られて剃髪し、源氏の庇護を受ける身になるのですが、たった一度の過ちを心の拠り所として生きながら、決してそれに甘えず、そのために微かな恋の炎を一生燃えつづけさせるという大変なことをしてのけた、賢い、というのかな、いや健気と言いたい女性です。
円地文子氏は、先にも述べたとおり、この空蝉が偉くお気に召していて、紫式部が自身をなぞらえた、ともあちこちで書いていらっしゃるのですが、出番が少ない割には本当にインパクトが強くて、これだけでも「女の一生」が書けそうな内容をはらんでいると思います。そのへん、同じ玉鬘系といわれる「夕顔」とは対照的で、あちらは、あの一篇の短編小説的な輝きがよいと思うけれど、空蝉に関しては、なんとなく書こうと思えばまだまだ書けるシチュエーションなのに勿体無い!と思うことがあります。

ま、と゜ちらにしても賢いですよ、明石御方にしても空蝉にしても、したたかでさえある、と思います。
先の対談集でのしめくくりに、円地・永井両氏がおっしゃつていました。

永井―結局、王朝でわりときわだった活躍をみせるのは、ああいう受領層の娘たちですね。器量もあんまりよくない人のほうが・・・(笑)。
円地―今も同じかもしれませんよ(笑)。


空蝉については、ここで終わるのですが、明石御方について少々書き足しておきたいと思います。


2000年10月25日(水)付記
「明石御方」

「源氏物語のヒロイン」と目される紫上の最大のライバルとして、登場する明石御方ですが、私は他の源氏ファン方たちより扱いが悪いらしい。
「叙情の女君・景色の女君」という自分勝手な分類の中でも、明石御方は景色の女君に入れていると思います。
なぜか?
まぁ、嫌い ! ? ということもあるのでしょうけれど、それほどの重要性を認めていないから、というわけなのです。勿論、彼女が女の子を産まなければ「藤の裏葉」の中詰の大団円に繋がらないし、「若菜」にも繋がりにくくなるわけですが。それならまた別の手を考えればいいわけで。夕霧の典侍腹に女の子を誕生させて養女にしておくとか、ね。要するに源氏物語というものの受け取り方の違いでもあるのでしょうが。
ただ、2000年8月8日・31日の「原(ウル)源氏物語」を書いていて、やはり明石御方にも、彼女を主人公にした独立した物語が存在しただろうとは思いました。
それは、例の貴種流離譚による「海部(あまべ)の民の伝承文学の集成」(2000年8月31日「光源氏と紫上-5」参照)としてあるものではないか、ということです。また、それだからこそ、源氏物語の二部になって明石御方の存在感が急速に薄れてしまう原因でもあるのではないか、とも考えます。それについては、後日。

明石御方は、最初は誰もいいな、と思うのです。雛にはまれな・・・という雰囲気で知性も教養もありそうで、嗜み深く、謙虚で、そのくせ心のそこではプライド高く、と。そのへんのところを、円地文子氏の対談集「源氏物語のヒロインたち」では、田中澄江氏と

田中―男と女の関係で、男のほうがたいへん格が上のとき、女のあり方がとても微妙なんですね。心ではうれしいと思っても、すぐにはうれしいような顔ができない。それは、本当にプライドが高いということなんだろうと思いますけど、そういう女性は、やっぱり見てて気持ちいいですよ。

円地―明石の上なんかはその典型でしょうね。表立っては、けっして見せない。
田中―つまり、はしたないことをしない。
円地―どこまでも、紫の上を立てててね。あっちは源氏の正妻ですから。

田中―そういう心遣いは、現代では少ないんじゃないんですか。愛人が本妻に電話したり(笑)。
円地―あまりお目にかかりませんね。
田中―まあ、なにしろあらわですからね。でも、『源氏物語』には、教養的な意味があるんでしょうか。男と女はかくあらまほしき、というような。
円地―あの時分はどうだったかしらね。

田中―明石の上の出たり入ったりと言いますか、身の処し方はほどほどですね。
円地―源氏のところへきてからでもね。

田中―紫の上と会うと、両方が素晴らしい方だと思って、尊敬しあったりしますでしょう。
円地―だけど、明石の上は紫の上が御輩車など賜って帰るところをみると、やっぱり自分とは身分が違う、と思うんですね。

瀬戸内寂聴氏も若い頃は、明石御方がごひいきで、晴美時代の「私の好きな古典の女たち」というエッセイの中で、
――私は『源氏物語』を読んだ少女の頃から、なぜか明石上に惹かれました。紫の上に決して劣らない美しさと聡明さと魅力を持っていながら、父親が風変わりで身分が低いというだけで、そんなにひかえめに暮らさなければならない明石上がいじらしく思われたのかもしれません。その分、私は紫の上が好きになれませんでした。よくも明石の可愛い姫君まで奪ったみのだと憎らしかったのです。大人になって読み直しても、やはりなぜか私は明石びいきでした。
――中略――はじめの頃は、まるで高貴な女のように気どっていると、源氏に反発心をおこさせていた明石の誇り高さや高雅な振る舞いが、六条院という堂々とした晴れ舞台の上では、その違和感もなく、しっくりととけこんだことに源氏は気づかないのでしょう。明石上が変わったのではありません。明石上が、今こそあるべき場所をようやく得たのだといえましょう。
――明石御方ファンのオーソドックスな意見の代表のような文ですが、その晴美さんも寂聴氏となると、こうなります。

瀬戸内寂聴対談集「十人十色『源氏』はおもしろい」で、氷室冴子氏との対談では
瀬戸内―私は最初、明石上が好きだったんだけど、今はそれほどではない。
氷室―なぜですか。
瀬戸内―明石上は、京都に来るまではなかなかいいんですよ。京都に来てからは嵯峨に住まわされて、光源氏が来るのは二週間に一回でしょ。あれじゃ、可哀そうよね。若いのに。(笑)おまけに子供も取られて可哀そうなんだけど、子供が出世していくにつれて、自分より子供の出世に関心がいっちゃう。そのためには、紫上ともつきあったり、誰とでもうまくやっていこうとする。そういう女って小憎らしいじゃない。
同じ意味で藤壺も嫌いなの―後略―
 氷室―なるほど、明石上といい藤壺といい、女の人が自分以外の、たとえば子供のためにとか、そういう生き方をしちゃいけないんですね。自分が好きな男のためとか、自分の欲望とかののために生きてる女の人が、いいわけですね。
瀬戸内―そうよ。母性愛を強調したら、もう鼻についちゃうの。私は悪い母でございますから。(笑)
――中略――
氷室―前略―先ほどの明石上ですけど、私はどこがいいのか全然わからないんです。
瀬戸内―彼女は常に自分の身分の低さにコンプレックスをもっていたんですよ。そのコンプレックスに打ち勝つために、教養を身につける。その才能で光源氏の心をしっかりと捉える。つまり聡明な女なんです。私は聡明さにあこがれたことがあつて、その頃に好きだったの。

氷室―ある種のサクセス・ストーリーと言った感じもありますね。
瀬戸内―上昇志向があってね。ただそれが露骨じゃなくて控えめなんですよ。私自分が控えめじゃないから感心したの(笑)。

学問的な考察の上では、東大教授・藤井貞和氏が「源氏物語入門」の中で、「明石の君 歌の挫折」として、
前略――京にのこしてきた家妻(候補)の女性と、異郷的な明石の地でめぐりあう女性と、ふたりの女性の間に張られた磁場のようなもののあいだをこそ源氏は一方から一方へじりじりと移動し、また帰還はその逆方向をたどる。家妻が厳重な物忌みをしていれば、夫はいつか復帰するというのが古代信仰で、源氏は、京の紫の上からの、その信仰的な磁場の引力によって、ついに中央に復活することができるのだろう(ちなみに誤解のないようにあえて一言すれば、藤壺の引力はすでにうしなわれている、ほとんど――)。
明石の君はたしかに、『源氏物語』随一の、将来を深慮する聡明きわまりない女性である。――として、章を超えて、明石御方の歌から、考察し「作家は、明石の君を、物語中の大きな歌人としてえがくために惜しげもなく秀歌を詠ませている。」と結論づけています。更に――
明石の君は、藤壺とともに、源氏の君にとって運命の女性として位置付けられる。
(明石の君にかよいそめても愛情は京に残して来た紫上のほうにより多い。紫上は決して運命的な女性でない。恋しい女性であった。)
明石の君は、紫上と二極をなして張り合う構想で『源氏物語』のなかに置かれてゆく。
(紫上はしっとするひととしてある。明石の君はそれをしてはならない。嫉妬とは日本神話に徴してみると嫡妻だけにゆるされた特権的心情であろうか。)(*筆者注*六条御息所が藤壺に対して嫉妬しないのもこういう意味合いがあるのでしょうかねぇ・・・?)
明石の歌は、この美しい女子を生んだことで、それを武器に徹底的に源氏にすがりついてゆく。
<()内は別の章の藤井氏の考察を、対応する文に付けたもの>

――と数々の歌から考察した後に、住吉詣での歌の贈答を最後に
――うたはおわった。明石の君はこののち、うたを贈答するのにしても、会話的、散文的機能の勝った、凡庸な歌しか作らない。歌人明石の君は歌の無力のかなたへいかに生き延びていくか、興味が尽きない。
――と結ばれています。

さて、私も最初はそれほど、明石御方を嫌いではありませんでした。しかし大堰の邸に移り住んだあたりから嫌味な振舞いが目に付きだしたのです。
まず、大堰に邸を構えるということ。これはもともと母である明石の尼君の祖父の中務卿の邸であって無人のまま放置してあったところを修理させて入ったのですが、これは六条院入居前の一大デモンストレーションだったわけです。つまり、私はただの受領の娘ではありませんよ、元をたどれば宮家に繋がる血筋を持って、更にこれだけの邸を自分の邸として持っているのですよ、という意味でです。これはかなり、嫌味でしょう?
それに調子に乗った源氏が、近くの源氏別邸にいるときに使いのものに与えるかずけものをわざわざ大堰の明石邸までとりにやる、源氏としては、ちょっとした試しのような気分もあったでしょうし、寂聴氏に言わせると「これは明石上をすでに情人あつかいではなく、こんな家庭的な相談もする妻扱いにしているのだよ、という源氏の計算も読み取れる。」と言うことなのですが、結局は明石の物持ち振りを当てにしているところもあるのだと感じられます。

そして、後朝の別れの折には悲しすぎて起き上がれない、というポーズ ! それはね。六条御息所ならわかりますよ。でも、あの住吉詣で、御座船から様子を見て、ちゃんと一歩退いて海上で一夜を明かし、翌日の日柄のよいのを確かめて住吉詣でを果たして帰る、という沈着冷静な明石御方が空々しい、とは思いませんか ? このあたりから、明石御方のプライドというのが怪しくなってくるのです。
最初、明石の初登場で、源氏に返歌もしなかったのは、確かに「田舎娘と侮って馬鹿にしてもらいますまい」という気負いがあって、なかなかの者だったのですが、それ以降「明石御方のプライド」というのは自分自身の意思によるブライドではなく「上臈はこうあるべき」という似非プライドのように思えてならないのです。

だからこそ、「藤裏葉」で、明石姫の入内の後に、紫上に輩車が許されても、身分が違うんだからと納得してしまうし(まぁ、確かにそうなんだけれど、葛藤がまるでないですからね。)「若菜・上」では明石姫の目前で紫上を褒めちぎられても、何もいえない。

また、「若菜・下」の「女樂」での衣装。「柳の織物の細長、萌黄にやあらむ、小袿きて、うすものの裳のはかなげなる引きかけて、ことさら卑下したれど、けはひ思ひなしも心にくくあなづらはしからず。」とありますが、ここも謙虚を売り物にしているようで嫌味なところです。既にこの時は、明石姫(この時は明石女御)は実母の存在を知っているわけです。それが、たとえ、高価な織物でも、女房めかしたコスチュームで交じっているところを見れば悲しくは思わないでしょうか ? 一体、明石御方の謙虚さは、自分がいかに謙虚にしているかということを他人に見せるための謙虚さで、自分の心から出る謙虚さとは違うような気がするのは、私の僻目でしょうか。

それで、これが、一番明石御方を嫌いになった最大の理由なのですが、この源氏のノー天気な紫上礼賛がひとしきり終わった後で、源氏が、「―前略―(明石御方が実母顔でしゃしゃり出ないのを)万の事なのめに目安くなれば、いとなむ思ひなく嬉しき。―後略」とついでのように誉めれば、「さりや、よくこそ卑下しにけり。」と内心ひとりごつ。さらに源氏が立ち去った後で、
「さも、いとやむごとなき御心ざしのみまさねめるかな。げにはた、人より殊に、かくしも具し給へるこそめでたけけれ。宮の御方、うはべの御かしづきのみめでたくて、渡り給ふこともえなのめならざめるは、かたじけなきわざなめりかし。同じ筋にはおはすれど、今ひときは心苦しく」と、しりうごち聞こえ給ふにつけても、わが宿世はいとたけくぞ覚え給ひける。
これ、最初読んだときは、原文からでははっきりしないけれど、と玉上先生の訳を確かめる、あきれる、嫌な奴だ、というところだったでしょうか、ニュアンスに誤りあり、と思ったくらいでした。それから円地氏の訳を読んでも、ああ、同じだ ! あたりまえですけれど・・・ショックでしたね、明石御方って、なんて嫌味な女だ ! と思いましたもの。人(この場合女三宮)の不幸に比べて我が身の幸福を喜ぶなんて最低 ! 陰険 ! だからこそ、実母と知った後でも、明石姫は紫上の方になついているのですよ。

まあ、これは、紫式部が、ついつい己の本性を現してしまったのだろうと思いますけれど、とにかく大変に後味の悪いモノローグでした。大体私は先に書いているように、紫式部は明石御方にかなり自分を投影していると思っていましたが、今までは、こういう暗い本音を上手に隠していたのですよ。それが、なんでここでオープンにしてしまったのでしょう。

それに、源氏の明石に対する情熱も、あの「初音」の一夜がピークであっさりと冷めているように思います。明石姫の入内に際しても、紫上から、姫の世話役に明石御方を推薦されると、渡りに船と喜んで押し付けてしまう。姫の世話役として宮中に入ったら、めったなことでは自由が利かないわけです。勿論顔を合わせるぐらいはできるでしょうが、めったなことをしたなら、それこそ明石姫に傷がつきますから。それでも、世話役に、と喜んでしてしまう。おまけに「名残のセレモニー」もなしに ! あの「初音」の頃の執心ぶりは何処に行ったのでしょう。玉鬘にトチ狂っていたときさえ、紫上から、「さりとも、明石のなみには、たち並べえ給はざらまし」と言われるくらいだったのに。
「初音」の元旦の夜は、もう、たとえ紫上が怒っても泊まろう、というつもりで、わざと最後に明石御方を訪ねるのですよ。それくらいの気負いがあったはずなのになぜだ ! ? そればかりではなく、もはや、「若菜・上」の紫上礼賛ノー天気版の折には、もはや、明石御方とは男女の仲ではない雰囲気すらあります。それどころか、もう明石御方は明石姫の乳母代わりとでも言いたいような。

源氏をこんな気分にさせているのは何なのでしょう。それをとくのは、やはり、大堰の邸だと思うのです。
私は、はじめ、先にも書いたとおり、あれは財力を誇る明石のデモンストレーションだと思っていました。ところが、ある時、AERA別冊「源氏物語がわかる」を読み返していて、今まで読み落としていたところを発見したのです。それは白百合大学講師・今井久代氏の「正妻との格差に苦しむシンデレラの現実」という章で、紫上のシンデレラストーリーに潜む現実のシンデレラの悲哀について述べたものですが、その後半部分に、「『召人』の屈辱を拒んだ明石君」という章があり、「明石君が頑として光源氏の元へ行くことを拒否し、光源氏が通う形で夫婦関係を始めた(明石)のは、身分から言って、召人扱いを避けられない明石君の、ぎりぎりの抵抗であったのである。」という記述がありました。

ええっ !? っと思うでしょ ? ああ、それで大堰の邸ね、と納得はしたのです。しかし、まぁ、明石での事の始めはそうであったとしても、子供が生まれて、源氏からいたわりの手紙も何度も来て、守り刀も乳母も源氏がわざわざ京から送っているのだし、決して召人扱いの様子はないではありませんか。それなのになぜだ ? と考えれば、明石御方は源氏など頭から信用してはいないのです。最初から最後まで、明石御方は源氏を信じたりしてはいなかったのです。思えば「源氏物語」の登場人物中随一といわれるほどの聡明さ(藤井貞和氏)を誇る明石御方でした。源氏ごとき何するものぞ、という気概をお持ちだったのでしょう。確かに初手の頃には恋しいとも懐かしいとも思い、紫上に叶わぬ身分を恨めしくも思ったでしょう。しかし、それらの思いがどれほどのものかと思えるほどの目標が目に見えたとき、明石御方は女を、源氏を、捨てたのだと思います。
そして、できうる限り「上衆めかしく」、「よくこそ卑下し」て勤めたのでしょう。明石御方にしてみれば、あてにならない源氏の愛情ひとつを頼みにして、自分を「めざまし」と見ている紫上がとんでもないお間抜けに見えたかもしれません。
そういえば、「野分」の朝、源氏が起居している紫上の春の御殿以外では、六条院の女君たちが、夕べの嵐の怖さにいまだに何事も手につかないという有様なのに、明石御方のところだけは、家司の姿も見えず、下仕えの人々がさっさと倒れた草木の手入れを始め、女主人は逍遥と琴をもてあそび、源氏が見舞いに訪れれば、くつろいだ形をさっと改める余裕ぶりで、立派に自立していらっしゃいます。

それが、なんとはなしにいつか源氏にも感じられてうとうとしく、とはいはないまでも、隔てをおくような気分になっていったのではないでしょうか。

「伊勢の御息所にようおぼえたり」と言われたけれど、確かに六条御息所も自立した女性でした。しかし、彼女には真の貴婦人として自ずからなる真のプライドがありました。そして、さらに、そのプライドをも自ら踏みにじってしまうほどの熱い、熱い情念が煮えたぎっていました。明石御方には、熱い情念を感じることはできません。あるのは必要上のプライドを顕示する頭脳と、自らの野望を着実に推し進めていく緻密な計算と冷静な行動力です。はっきり言って、六条御息所が好きな私としては、こんな計算高い女と御息所とを似ているとは言われたくありません。たとえ、明石一族の一篇の物語の主人公としても、です。

そして、紫上の死後、やっと明石御方の許を訪れたと思ったら、散々紫上の思い出話をした挙句、「『かくても明かしつべき夜を』と思しながら、帰り給ふを、女もものあはれに思ふべし。」と、泊まりもせず帰る源氏をどんな眼差しで送り出したのでしょう。もはや、明石御方にとって源氏は過去にすがる哀れな老人でしかないのでしょう。

宇治十帖の展開を含めて、「源氏物語」を明石一族の栄達の物語、という人もいるそうですが、果たして、これで明石御方は幸せだったでしょうか ? いや、明石御方ご自身は「わが宿世はいとたけし」と思っていらっしゃったでしょう。しかし、果たして、読者の女性たちは明石御方のような生き方をしたい、と思うでしょうか。少なくとも私は、真っ平ごめんこうむります。





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