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8月21日(土) 「朝顔斎院」

花散里の後、何を書こうかという想いと、六条御息所と紫上を書きたい気持ちが揺ら揺らして、
どうにもまとまりが付かなくなってしまいました。
やはり、ヒロインとしての紫上は源氏と一緒に最後に書くべきなのだろう、とも考え、
また、六条御息所も「私の源氏物語」としては集大成という感じで彼女を語りたい、とも思い、
私としては、あまり好きではない明石上についても、「空蝉」のところで、比較として一緒くたに取り上げて、それで終わりにしようと思っていたのに、やはり、物語全編でのタチバを考えれば、
無視するわけにはいかないか、ともあいなりまして・・・
ひとまずは、「朝顔斎院」のお話でも・・・なんか、無責任やなぁ

「朝顔斎院」が、そんなに、重要な位置にいるとは、あまり考えたことはありませんでした。
私としては源氏の幼なじみで、源氏に対してそれなりの好意は持っているが、大変理知的な女性で
源氏の色仕掛けも通じなかった唯一の女性!くらいしか印象がなかったのです。、
それも、皇女は婚姻しないという当時の常識でいえば、源氏物語では、皇女がやたらに婚姻していて
「本当はどうなんじゃぁ?」とききたいところでしたから、やつとあたりまえの皇女が出てきたというところで
全く、景色の女君そのものでした。今でも、分類すれば、「景色の女君」ではあるのです。
もっとも、内親王といっても、親王の娘ですから孫王というらしく、嫡出系嫡男の孫までは皇子(皇女)様でいいらしいからですけれど。
それにしても、適齢期の内親王がいない、ということで、齋院に立ったわけですから、当然内親王の宣下はあったはずで、だからこそ、朝顔の宮という尊称で呼ばれているのでしょう。
(これに関しては先の東宮と六条御息所との娘である後の秋好中宮にもてはまる、と思います。)

それゆえにこそ、俗に言う、(源氏が)「見上げる女性」として、六条御息所・藤壷亡き後、その責を全うできるのは
彼女しかいないわけで、そういわれればってところなのです。
まぁ、源氏だとて、どの程度、朝顔斎院に本気だったのでしょう。大事な女だとは思っていたでしょう。

加茂の斎院当時の朝顔に「昔を今に」と源氏が詠みかけたことから、
円地文子氏なども、「源氏物語私見」の中で
「若い源氏と若い朝顔との間に、恋愛というには淡淡しいとしても何かの交渉があったとみてもよいのではあるまいか。」と書いています。
折りに触れ、例えば正妻「葵上」が亡くなったときなどは、
「慰めを求める手紙を送り、朝顔もそれにふさわしい返事を送ったりしている。
こういう風にある隔たりを置きながら折々あわれを語り合わす女友達として此の方が必要なのだと源氏が思ったりするのは、
朝顔という人柄をやっぱり、藤壷や六条御息所に亜ぐ位高い恋人の一人に数えていることだと思う。」ような気持ちはあったでしょう。

でも、本気で「正妻」に迎えるほどには思っていたのではないのではないでしょうか。
既に、この頃には、明石姫は紫上の手許に引き取られているのです。ということは、当然将来的には紫上を母として入内させることを考えてした処置だったわけです。
今、ここで、「朝顔斎院」が「斎院」を辞職して自由の身となっていたとしても、世間的に「源氏の正妻」として期待される雰囲気があったとしても、「斎院」を勤めた皇女の婚姻がたやすく通るものかどうか。
それは「斎宮」を勤めた「秋好中宮」の入内にもいえることだったのですが、「秋好中宮」の場合は、まあ、入内であるわけですから別として、源氏は一応臣籍ですから降嫁というかたちになるわけで、いくら、時代の寵児としても、そういうことが許されるのか、どうか。そして明石姫の処遇。
そう、この時の源氏の地位は従一位で、太政大臣にはなっていないので、左大臣というところだったか(内大臣になったあと、左右どちらの大臣になったとも記載なし不詳なのですが、)、柏木が衛門督で更衣腹とはいえ皇女をもらったことを考えれば不足はないのですが・・・。
また、後に準太政天皇という位を得ることも、これは皇籍なのか臣籍なのか、女三宮に対する扱い方(降嫁の際車から抱き下ろす、という作法をする)など、やはり臣籍なのだろう、と私は考えていますが、それは後日。

「正妻」でなくとも父を親王にもつ「第一の女君」であるならば、「正妻同様」であるけれど、
父を親王に持つ「正妻」が出現したときはどうなるか?
しかも、同じ「親王」を父に持つといっても、既に2代前の帝の親王と先帝の親王とでは比重が違うらしい。このへん、源氏物語の中でも、はっきりとは書いていないし、正式史料として見ているわけではないのですが、俗に言う「三代続く分限無し」というのは、皇室にもあてはまることで、ナントイツテモ、「今上-今帝」が一番、先帝、先先帝となれば、まして、今帝の直系でなければ親王の、内親王の、といっても軽くなるようです。で、その親が亡くなるととたんに勢力がおちるという非常の掟というか、当時の常識があり、さらに嫡子と庶子の違い。「若菜・上」で、朱雀院が女三宮を源氏に託そうと考えるとき「式部卿の親王の女おほしたてけむやうに」と言われるところに、紫上の庶子の立場が現れています。それは側室ではないけれど正妻でもない、「正妻同様」という不確かな地位、そこに断然たる正妻の地位を主張できる朝顔の宮という女性が現れた時、ただ、救いは朝顔宮の父・桃園式部卿宮が既に亡くなっていることで、これはまあ、あてにならなくとも、実父が生きている紫上はまだ恵まれているわけで・・・ああ、ややこしい!

そういうことも踏まえて、「朝顔」を正妻に迎える気があったかどうか、ということです。
要するに、例の如くね靡かぬ女にシッチャキになっただけ、「朝顔」のほうも、
つねのおんやまひならむ、六条御息所ほどのひとも、かかるやまひにこそつらかりし憂き目をこそみたまひぬ、われは・・・とて、折々の御消息のいらえのみ細やかにはしたれども、ついに相見ゆることなく御髪をこそ下ろし給ふ。てなとこですか

それにしても、またまた、寂聴氏のおことばですが、
「私はどうもこの女性がつかみきれなくて好きになれない。聡明に身を持すことは結構だけれど、
物語の中で源氏がこれほど惚れ込むだけの魅力を紫式部はもうひとつ書ききっていないと思う。」

そうそう、だから、私も「景色の女君」の中に置きっぱなしにしてるんですが、どうも、おかしとてうち笑ませ給ひぬとて、当の「朝顔斎院」がいっているようにも思うのです。

ま、紫上にやきもちを焼かせる場を受け持っただけ、という役割の女君だった、といえばいいのでしょうか。



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