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10月27日(水) 「女三宮−1」女三宮と言う人

前回はまたも脱線風で困り者ですが、ま、それが私の特徴だからね!というところで。
「女三宮」をヒロインにした、あるいは「女三宮」を意識した芝居ってけっこうあるのです。
お人形のようなお姫様が、そのまま周囲のお膳立てで身分だけは高い男の人形妻になって、身分違いの若者と出遭って、その情熱にほだされて、始めて人間としての生き方に目覚める、っていうような調子で、
人間復活のドラマとして作り易いと言う事もあるのでしょうか。
考えようによっては「人形の家」の「ノラ」にも擬するところがあるのかも・・・というほど、意志的なお姫様ではないですが。
小幡欣治のまんま「女三宮」というのが代表ですかね。

どちらにしても、最初は全くのお姫様!
それに、紫上の子どもの頃(初めて見たころは十歳)にくらべても、十三〜四歳の女三宮は幼く頼りないかんじで、現時自身の感想として、
「姫宮は、げにまだいと小さく、かたなりにおはするうちにも、いといはけなき気色して、ひたみちに若び給へり。」
「かの紫のゆかり尋ね取り給へりし折り思し出るに、かれはざれて言ふかひありしを、これはいといはけなくのみ見え給へば、『よかめり。憎げに押したちたる事などはあるまじかめり』と思すものから、いと余り物の栄えなき御様かなねと見たて奉り給ふ。」というわけです。
勝手なものですよね、男って!
紫上がこれを聞いたら、なんというか!「だからいったじゃないの!」とはいわないだろうけれど。
「私って者はね、特別、別製、特注の極上仕上げ!わかったか!バカヤロウ!」なんてことも言わないでしょうが、いいたいですよね。
かたや、女三宮か聞いたら「ふぅーん、それでぇ・・・」ってところでしょ。暖簾に腕押し、糠に釘!

柏木に踏み込まれた時も、拒もうと思えば拒めた、というよりは、柏木自身、そんなことまで考えられず、「あはれとだに宣はせば、それを承りてまかでなむ」と言うておるのにじゃよ、あんまり、女三宮が「いとさばかり気高う恥づかしげにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見え給ふ御けはひ」で逆上して「さかしく思ひしづむる心もうせて」ついにもののまぎれとはなりにけってしまうのだ!

でも、ソンナ人だからこそやはり女性陣にも、ほっとけんわぁ、なんしとんねん、あぁみておれん、という応援団が出てくるのですなァ。

寂聴氏は「私は長い間『源氏物語』を読んでいて、女三宮は、いつでも、紫上に比較され、劣った人として書かれているので、軽率で、思慮の浅い、字も下手で、会話も気のきかない魅力のない女、というように思いこんでいました。けれども、この頃になって、私の女三宮感が変わってきて、女三宮の無邪気さやおおらかさや、人を疑うことを知らない不用意さが、とても可愛らしく美しくさえ思われてくるようになりました。」
(昭和57年発行の「私の好きな古典の女たち」より)

そんなに、言い切っちゃっていいのかなぁ、とは思うのですが、確かにこういう女性、身分が高いだけで、それにつりあった自覚が無てって言う人は結構いて、現実には気の毒な場合もあるにはあるのですが・・・

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