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11月18日(月) 「古都鎌倉で歴史を語り文学を語り尽くす」第四回

中世の女性

「K女」の創立百周年記念事業の2002度連続講演会も今日で終わりというのに、あまりパッとしなくてねぇ・・・今日は途中退席者が多かったですよぉ〜(^_^;
「中世の女性」といわれて、誰をやるのかな・・・?と思って、まあ大体、鎌倉側から言えば政子、京都からなら式子内親王、中間で阿仏尼あたり・・・と思っていて、個人的には、今聞きに行ってるもう一つの連続講演と絡めて式子内親王をやってもらえればいいなぁ、と思っていたら、思いがけなく「阿野廉子」!!
阿野廉子というのは、地味ですけど面白い存在でもあって、ちょっと期待したんですけど、お話がねぇ・・・あまりお上手ではない様で、本題に入る頃、私は意識を失ってました(^_^;

また今日はこの連続講演のコーデイネーターをしてくださった安西篤子さんが、トリの講演者として、「とはずがたり」をお取り上げになったのですが、こちらも、お話は・・・ねぇ(^_^;
で、また、いつもは鼎談!ということで、男性講師がどなたか・・・というより、大学の先生がお入りになっていたのですが、今回は、それもなし!小石氏と安西氏お二人の対談で、話がうまく盛り上がらない〜広がらないのですよ。

でも、興味深かったことは、お二人ともに、後宮のことをお話しになる時には、「みなさん、『源氏物語』でごぞんじでしょうけど」と繰り返しておっしゃるのですよ。参加者は特別古典に詳しい方ばかりではない。まあ、興味のない方はいらしてないでしょうが、「鎌倉学セミナー」と銘打っている講演ですし、男性も多いし、まあ、それだけ源氏ブームだった、ということなんですけどね。瀬戸内寂聴氏が
「外人記者クラブの講演で呼ばれたときに、世界から集まった記者や編集者・カメラマン達に、『源氏物語』の話をしようとすると、大学を出たインテリや社会的地位の高い人でも『源氏物語』を知らない、と言われて、大変恥ずかしい思いをしました。」とおっしゃっていらしたのが、昔年の感があります。

ただ、よかったのは関弘子氏の朗読!この方は「源氏物語」の当時の朗読の仕方を復元なさった、ということで有名なのですが、いやぁ、今日の朗読も素晴らしいものでした。この読み方は、当時のままかどうか・・・?まあ、詳しくは・・・後出。
ということで、本日のプログラムは・・・

講演T. 後醍醐天皇をめぐる女性たち  作家 小石房子
講演U. 「とはずがたり」について     作家 安西篤子
朗読    「とはずかだり」          俳優 関 弘子
対談    「後宮の女性」 小石房子・安西篤子


講演T.後醍醐天皇をめぐる女性たち  作家 小石房子

私は、もともと児童文学をやっておりまして、「阿野廉子(筆者注・安西氏も小石氏も“あのれんし”と発音していらっしゃいましたね。私は“あののかどこ”と憶えていたんですが)」と出会いましたのは、国連の国際婦人年に南原幹夫氏からの推薦で女性史を始めるようになってからです。私たちは戦争世代として男尊女卑の社会通念の時代に育ちました。「男は頭、女は手足」というわけです。それが、戦後になって民主憲法の時代になってもたいして変わらない。これはおかしい、と「戦争に関わった100人の女性」という女性の人物史を書きました。そこで前田家の豪姫を書きまして石川県に調査に行きましたが、そこで、豪姫の念持仏のお厨子の扉に「波と舟」が描かれてあるのを見ました。豪姫の夫宇喜田秀家は関が原の西軍の副将ですから、八丈島に流されたんですね。息子二人と一緒に。それで、八丈島に行かなくちゃ、と行きましたら、「八丈島流人命名伝」というのがありまして、1200人の流人のことが記されているんです。
で、その八丈島に行く途中に隠岐の島がありまして、そこに「阿野廉子」がいたんです。

後醍醐天皇というのは宋学などを学んでイデオロギーを持っている天皇で王政復古を目指していました。
当時、政治の実権は鎌倉にあって執権がみている。朝廷は院政の時代で、上皇・法皇が持明院統。大覚寺統に分かれて院政を強いていました。で、後醍醐天皇はこの時代に「正中の変」という第一回目のクーデターを起こして、隠岐に流されます。そこに阿野廉子も一緒に付いて行ったんです。後醍醐天皇と言う方は、皇子・皇女を生んだ女性だけで20人、子どもを産まない女性まで含めたら何人になるかと歴代天皇の中でも、大変女性の数が多いのですが、その女性たちも政治的な意味を持つ女性が多いんです。中宮の禧子は西園寺実兼の娘で、家から盗み出した、ということになっていますが、これも「関東申次」という父親の役割から、父親と手を結ぶ為に禧子を手に入れたんです。

廉子はその禧子の入内に伴い、伯父の養女となって、内侍として出仕したんです。当時は典侍(内侍のすけ)になるのは二位か三位の大納言の娘だったんです。みなさん「源氏物語」などでご存じでしょうが、四位・五位までの清涼殿に上ることが許された人が殿上人で、四位・五位までの(普通の)公卿が諸大夫、その娘が上臈です。宮中にはその下に女需がいて、こちらは下臈です。
廉子の父の阿野公廉というのは、中級貴族でそのままでは内侍にあがれなかったんです。そこで、禧子のおつきの侍女から後醍醐天皇の目に留まって、恒良・成良・義良の三人の親王とふたりの皇女を生みます。この三人目の義良親王が後村上天皇になります。

後醍醐天皇が、正中の変でお気に流されると、ついて行く者は極僅かです。一生都に戻れないかもしれないんですから・・・。男性はゆきふさと・・・女性は廉子と大納言の局、小宰相・・・
聞き取れない―筆者・注 このあたりで、意識失いました。この後用堂尼の話に展開していったらしい。用堂尼は、後醍醐天皇の皇女・母は基時朝臣女で異母兄護良親王の菩提を弔う為に東慶寺に来たという。)

資料 天皇系図

     |-宗尊親王―――惟康親王
     |(六代将軍)    (七代将軍)  
     |                       |-93・後伏見
     |          |―92・伏見(東宮)―| 
     |(持明院統)  |            |-95・花園
後嵯峨――89・後深草―――久明親王――――守邦親王
     |          |              (九代将軍)
     |          |―遊義門院 
     |                   
     |(大覚寺統)           |-94・後二条
     |‐90・亀山―――91・後宇多―| 
                         |―96・後醍醐
     |-性助法親王 (御室) 
資料 阿野廉子(1301〜1359)
下の年表で殆ど網羅されている。
特筆すべきは、後醍醐天皇隠岐脱出の折、廉子が自分の侍女の出産を見舞うと監視の武士を欺いて輿を出させ、その中に天皇を隠して脱出させたという。それにより、彼女は後醍醐天皇復帰後、足利尊氏・新田義貞・楠正成らと同等の、いやそれ以上の功を認められて准三后の宣下をうける。その後、足利尊氏とはかり、護良親王失脚の原因を作ったといわれている。墓所は河内の観心寺。『新葉和歌集』に数種の歌が入集。
資料 阿野廉子と用堂尼の略年譜 小石房子氏作成のものにちょっとアレンジ

正安 3 1301 廉子誕生。父は阿野公廉(きんかど)
文保 2 1318 後醍醐天皇即位 (31歳)
元応10 1319 中宮禧子の入内に伴い廉子内侍となる。 (19歳) 洞院公賢の養女となって出仕。
正中 1 1324 正中の変
正中 2 1325 廉子(25歳)、 恒良(つねよし)親王出産。
嘉暦 1 1326 廉子(26歳)、 成良(なりよし)親王出産。
嘉暦 3 1328 廉子(28歳)、 義良(のりよし)親王出産。
元弘 1 1331 廉子従三位に叙せらる。
元弘 2 1332 3月、元弘の乱により後醍醐天皇(45歳)は隠岐に流され、廉子(32歳)も同行。
元弘 3 1333 2月、隠岐脱出。6月建武の親政始まる。祥子内親王(廉子の長女)斎宮となる。
           中宮禧子薨去。(禧子は、後醍醐配流の折り中宮位剥奪。皇子はなく、後に光厳天皇妃となる懽子内親王のみ)
建武 1 1334 1月、恒良親王立太子。
           11月、護良親王、鎌倉に流される。
建武 2 1335 廉子(35歳)准三后となる。
           7月、護良親王殺される。
建武 3 1336 8月、北朝の光明天皇即位。
           10月、成良親王、北朝の皇太子となる。
           12月、後醍醐天皇、吉野に移る。
建武 4 1337 3月、尊良親王、金ヶ崎で自害。
延元 3 1338 4月、恒良親王毒殺。その20日後、成良親王も毒殺。
(暦応1)
延元 4 1339 3月、義良親王立太子。
(暦応2)      8月 後醍醐天皇崩御。義良親王即位、後村上天皇となる。廉子39歳。
正平 6 1351 12月、廉子、新待賢門院の女院号を受ける。
(観応2)
正平12 1357 9月、廉子落飾。
(延文2)
正平14 1359 4月29日、廉子死去59歳。
(延文4)
応永 3 1396 8月8日、用堂尼入寂。(用堂尼は、兄護良親王の菩提を弔う為、東慶寺に入り五世住職となつたが、生年月日・入山の日・享年も不明。)
 ( )は北朝暦。
資料
後醍醐天皇の后と御子(17男15女)
○中宮禧子(西園寺実兼女・後京極院)――-懽子内親王(斎宮・光厳天皇妃・宣政門院)

○贈従三位為子(藤原為世女)――――――尊良親王 (金ヶ崎にて自害) 
                         |―-尊澄親王 (天台座主)
                         |―-瓊子内親王
○遊義門院一条(三木実俊卿女)―――――世良親王 (大宰府)
                         |―静尊法親王 (聖護院)
                         |―皇女
○准后廉子(阿野公廉女・洞院公賢養女)―-恒良親王 (足利氏に毒殺さる)
        ・新待賢門院)        |―成良親王 (足利氏に毒殺さる)
                         |―義良親王 (後村上天皇)
                         |―祥子内親王
                         |―惟子内親王
○源 親子(北畠師親女)――――――――-護良親王 (鎌倉にて殺害)
                         |―皇子
                         |―妣子内親王
○少納言内侍(隆資卿女)――――――――僧奐真 (醍醐宮)
○少将内侍――――――――――――――聖助法親王 (聖護院)
○権大納言三位局(藤原為道女)―――――法仁法親王 (仁和寺・早世)
                         |―懐良親王 (阿蘇宮)
                         |―皇女
○従二位守子(後山本左大臣女)―――――玄円法親王 (一乗院・早世)
○中納言典侍親子(宗親女)―――――――満良親王
○亀山院皇女―――――――――――――恒性
○昭訓門院近衛――――――――――――知良王
○遊義門院左衛門督局(為忠女)―――――皇女
○後宇多院権中納言局―――――――――皇女
○基時朝臣女―――――――――――――皇女 (松ヶ岡東慶寺五世住職用堂尼)
○民部卿局――――――――――――――皇女 (関白基嗣公室・離別)
○一品実子(山科左大臣女)―――――――皇女
○大納言局(実雄公女)―――――――――皇女
○坊門局―――――――――――――――皇女
○後室町院――――――――――――――皇女
『本朝皇胤紹運録』を参考に小石房子氏作成



講演U. 「とはずがたり」について  作家 安西篤子/朗読・関 弘子

「とはずかたり」は後醍醐天皇の時代から少し遡ります。後醍醐の中宮は、後深草院の愛人二条の恋人だと言われた西園寺実兼の娘です。後深草院というのは、後嵯峨天皇の次男で、亀山院という弟がいます。後嵯峨天皇の長男は宗尊親王といいますが、六代鎌倉将軍になって、幼くしてなくなってしまいます。そこで、後深草院が皇位に就くのですが、どうも小さい時から、足が立たなかった、とか健康でないころがあって、弟の亀山院に屈折した感情を持っていたらしい。

平安初期は宮廷才女が輩出されて、「物語文学―フィクション」や「日記(にき)文学―ノンフィクション」が隆盛しますが、「とはずがたり」は、その日記文学―ノンフィクションの系統です。日記文学と言っても、毎日あったことを毎日書くというのではなくて、自分の半生を振り返る、ということです。
この本は、わりと最近まで、知られていませんでした。というのも、宮内庁書稜部で長いこと秘匿されていたからです。戦後やっと、もう出しても大丈夫かということで、やっと最近出されて、知られるようになりました。もっとも、読んでみると宮内庁が秘匿していたのはもっともで、宮廷のなんといいますか、セックスの話、勿論それだけではないんですが、そういうことが赤裸々に書かれています。

主人公であり作者の二条は、母は大納言典侍(だいなごんのすけ)という、これは父親が大納言で宮仕えに出ると、そう呼ばれます。父親が大納言久我雅忠です。母の大納言典侍は、後深草院の乳母で、まあ当時乳母というのは、天皇にセックスもおしえたりしたんです。天皇というのは、子孫を残すことが大事な仕事ですから、なるべく早くそういう能力を持って子どもを作ることが大事だったのです。
で、そういう乳母であり、後深草院の初恋の人、という立場で、久我雅忠と結婚します。雅忠の方も、当然それを知っていて、かえって天皇との絆が深い事を喜んでいます。ですから、母の大納言典侍が早く死んでしまって、二条が子どもの時から宮中で育てられる、ということも、将来はそういう約束で、喜んで差し出します。

二条が14歳ころ・・・本によって12歳と書いてあったり、14歳と書いてあるものもありますが、そのころ、「源氏物語」で若紫が、源氏の妻にされるのも14歳ころです。そのころというのは当時の女性の結婚適齢期だったのでしょう。女性の地位が低かった、男性の弄び者にならなければ生きていけない時代でした。このごろ、瀬戸内さんが、もうみんな強姦よ、とおっしゃってますが、二条も始めはそういうことで、後深草院に無理やり「物にされちゃう(筆者注・“!!”)」んですね。そうして、二条は後深草院の「おもいもの」になります。中宮・后妃ということではなく、ですね。

みなさん「源氏物語」などでよくご存じでしょうが、女御というのは大臣以上の娘が入内する時、更衣というのは大納言の娘です。「源氏物語」の中で、桐壺帝が桐壷更衣の死後「女御とさえ呼ばせなかった」と嘆いて、贈三位としますが、それでも、女御とはよばれないんです。二条は大納言の娘ですから、もともと女御にはなれませんが、彼女は非常にプライドが高い。これは久我家が、王氏(わかんどおり)の一族で、雅忠は大納言ですが、その父・二条の祖父(通光)は左大臣、そのまた父曽祖父(通親)は太政大臣でした。雅忠もわりと早く死んでしまったので、大臣になれなかったのですが、あのまま生きていれば大臣になったでしょうから。そういうことで、プライドが高い。彼女が「源氏物語」に拘るのも、そういうことからです。大体、「蜻蛉日記」の作者なども本朝三美人といわれて非常にプライドが高かった。彼女も兼家と結婚して、美しい娘を産んで入内させて、后妃の母としてときめきたかったのに、結局道綱のようなさえない息子しか生まれなかったので、非常にガッカリしますね。当時としては、みんな、そういう望みを持って入内するわけで、そこで、二条も後深草に可愛がられて皇子を産みますが幼くして死んでしまう。後深草の中宮に憎まれて宮廷を追い出されたりして、まあ、挫折し、その挫折によって「とはずがたり」を生んだんです。私たちにとってはその挫折がありがたかったわけですが・・・いい物語を読めたということで。

そこで、父雅忠が早世します。二条自身の身分・地位はありません。ただ、後深草院に可愛がられはしますけど、その可愛がられ方も、後深草院から、・・・ちょつと不思議な可愛がられ方というか・・・。そういう不思議な後深草院の宮廷で、後深草院の中宮東二条院に憎まれて宮廷を追い出されます。これは、ちょっと不思議なのですが、資料にもありますが、二条は東の御方という女性、これも後深草院の女御の一人ですが、年も近かったこともあって二条と仲がいいんです。それが子供(伏見天皇)も生んでいるのに、東二条院から憎まれてはいないんですね。二条が母子二代に亘って後深草院に愛されていることへの憎悪と、それに「とはずがたり」を読んでいくと、二条という人の性質にも問題がありますよね。後深草院の(他の女性との)恋の手引きをさせられたり、自分を他の男に押し付けられたり、随分軽く見られています。
で、この物語の素晴らしいところは、そういう宮廷の愛欲というか、を書いていることではなくて、前半はそういう、宮廷の乱れを書いて、後半では、出家して旅をする、その時折々の正直な気持ちがいいんですね。

でも、この時代、鎌倉は北条時宗の時代です。テレビでもやってましたが蒙古襲来の時代ですが、(彼らの)念頭にあるのは「源氏物語」なんですね。「源氏物語」が成立したのは1007年といわれています。「とはずがたり」は1324年の成立ということですから、およそ300年前の話です。その300年前の話に夢中になって、元寇の時代なのに宮中では恋愛ごっこをしているんです。多少危機感を持っていたのは亀山院くらいで、九州に行くと、亀山院の(銅?)像が、今も九大の庭に残っているそうですが、元寇のとき、亀山院が血書を奉って、蒙古撃退を祈った、というんで亀山院の銅像が残っています。

資料
「とはずがたり」巻一より  朗読 関 弘子

当然、二条本人は、これを書いている頃―40歳ころでしょう、「若紫」を思い描いていたんですね。
今の時代、300年前というと、元禄時代です。私達が元禄時代を面白いと思うことはあっても、私達があの時代に生きたいと思うことはないですよね。
衣装についても、こんなに克明に覚えていたのか、というほど丁寧に書いています。当時、衣装というのは大変なものだったのです。

平安時代から、大貴族には娘を競って入内させ、天皇の子供を産ませて自分が外戚と成るという目標があった。そのために準備する、娘の嫁入りみたいなものですから、嫁入りよりもっと大変で、道具・衣装は大変でしたけど、娘につける女房を選ぶことも大変でした。粒よりの良い女房、綺麗で・・・常盤御前などはそういう時に選ばれたミス京都みたいなものです。家柄がよくて、今は落ちぶれているいい娘に、話し相手になるだけでいいから、とかいって女房にする。こういう女房が上臈女房としてついている。それで、娘の衣装だけでなく、そういう(娘に)付いている女房の衣装も作らなくちゃ成らないわけです。大貴族同士の結婚になれば婿の衣装も作ります。まだ木綿などがあまりない頃で、上等なのは絹、その下は麻です。綿も絹から作ります。ウールはありません。金持ちは、絹をたくさん重ねて、その間に綿を挟んでいました。ご褒美・お礼は衣装です。時には自分の着ていたものを脱いで与えたりしました。
「とはずがたり」にも衣装自慢がよく書いてあります。二条自身も非常にこだわっりがあったし、衣装は手に入りにくかったんです。

資料
「とはずがたり」巻二より 粥杖騒動   朗読 関 弘子

「粥杖騒動」は、二条にとって「宮中の花」の時代です。先ほども言った東の御方という女性と仲良くて、この人は、いいところの娘で後深草の子供も産んでいるんですが、おとなしい性格だったらしくて、二条とも仲がよかった。
粥杖騒動というのは、そこに在る通り、七草粥を炊いた燃えさしの薪で、女性の腰をたたくと男の子が生まれるということて゛、二条と東の御方がたくさんたたかれる、そこで仕返しをするんですが、上皇をたたいたりしたら、そのままではすまない。その罪を贖わなくちゃ成らない、ということで、その親戚達がお詫びの宴会をしたり、上皇に贈り物をしたりするんです。このときは、二条の母方の四条家・父方の久我家の親戚がそういう面倒をみてくれて、二条には大変な面目になりました。

この後、二条の身持ちが・・・・(筆者注・聞こえませんでした。問題になって行った・・・、ということかな?)
二条は、最初「とはずがたり」の中で「雪の曙」と呼んでいる西園寺実兼と結婚します。当時の結婚というのは、三日続けて女性の下に通わなければ正式な結婚とは言われなかったんですね。ですから「源氏物語」の中でも、匂宮が宇治まで三日続けて通うことに大変な苦労をして通いますね。女性のほうも、三日続けて通ってこなければ遊びだった、ということに成りますから大変な思いで待っています。
当時、西園寺家は上昇機運に乗っているし、二条も待っているんですが、その三日目の晩に後深草院に宮中に連れて行かれてしまう。そういうことで正式な関係にならないんです。で、父も早世してしまう。
それでも、後深草院の子供を産むんですが死んでしまいます。

後深草院も父の後嵯峨院の命令で弟の亀山天皇に譲位するんですが、院政と言うのは父と子の関係で、兄弟で院政ということはないんです。そこで、亀山天皇が自分の子供の後宇多天皇に譲位すると後深草院は憤懣やるかたないんですね。それを北条時頼が同情して、宇多天皇から、後深草院の子供の伏見天皇が立つことになりました。
筆者注―二条の愛人西園寺実兼は、「後深草院の近臣となって順調に昇進し」と資料にあるが、冒頭にも言うとおり、彼は関東申次の職にもあつたのですよ。つまり、後深草が「雪の曙」との情事をけしかけた、というのは、「関東申次」としての彼の北条氏への働きかけを期待していた、と考えるのはうがちすぎだろうか(^_^;))

性助法親王というのは、後深草院・亀山院とは異母弟にあたります。宗教者が愛欲に苦しむ姿は凄惨な場面です。

しかし、二条はよほど体が丈夫なのかすぐ身ごもります。実兼との子供は実兼の正室が引き取って出世します。性助法親王との子供も生まれますが、手離してしまいます。その懐妊中にも関白になった実兼と会います。後深草院も愛情はあるのでしょうが、それがだんだん嫉妬になって行くんです。
で、この時代に「源氏物語」の「女楽」の真似なんでしょうねぇ、二条は琵琶が上手だっらしく明石上の琵琶の座についているのですが、オジサンから、そこはうちの娘が座るところだ、と追われて、怒って宮廷を飛び出してしまうんですね。それからまた1288年、今度は「三条」といして出仕するのですが、その名前が気に入らないと、また飛び出してしまう。

筆者注・うちの源氏店の明石の項で「女楽」のことを取り上げた時、「とはずがたり」では、二条が身分の低い明石の役を振り当てられて、怒って飛び出した、と、どこからか引用したのですが・・・まあ、どちらにしても、怒って飛び出したわけですけど)

1289年ころ出家します。出家は貧しいのですが、それを気にしている様子もあまりないですねぇ。親の形見までお布施に出す、ということもあったようですが。好奇心も旺盛で、宮将軍が廃されて京都に帰るというと、その行列を身に飛び出して行ったり・・・。
このころは「西行」を目指していた。「源氏物語」から「西行」へ。「お参り」ということと、「歌がうまい」ということで、どこに行っても大事にはされたらしいです。随分遠くまで、この時代に女性一人で旅をしています。地図が出ていますけど、北は善光寺から、西は厳島まで・・・(筆者注・「事実性に問題が残る」という解説突きで、足摺岬にまで印が付いている
「歌」としては、昔からの歌を上手に習って、破綻のない歌を詠んだといえます。「いい歌を詠んだ」ということが通行手形の替わりになって、比較的いい旅をすることができた、といえます。

資料
「とはずがたり」巻四 二条鎌倉入り  朗読 関 弘子


――筆者の呟き

関弘子氏の朗読については、「源氏物語」がつとに有名で、一度は伺いたいと思っておりました。今回も、絶好のチャンス!と期待していたのですが、ちょつと咽の調子が悪かったらしく、途中一度凄いむせ方をなさって大変御気の毒でした。それに、凄い絶好調!!と言う感じで、すっかり、物語の中に浸っていた分、大変ガッカリも致しました(;_;)
しかし、言葉が躍るというか、朗読というのはこういうものなのでしょうか?!本を読んでいるのではありません!!言葉を語っているのです。これも、その時代の話法なのでしょうか?
「源氏物語」は、あの書かれた時代の話し方で読んでいらっしゃるそうです。私は一度も聞いたことがないのですが、たまさか、主人が聞きまして、あれは読むほうも大変だけど、聞くほうも大変だねぇ、と申しておりました。
謡のようなものなのか?とも考えましたけれど・・・そういえば、関氏は声楽家のお母様の下で育ち、観世寿夫さんに嫁がれたのです。あの観世寿夫さん!!だからこそ、当時の音感で読めるのかもしれません。
この「とはずがたり」も、「梅」は[ume]ではなく[mme]なのです。「生まれる」も[mmareru]と言う読み方です。「れる」はもしかして[―reru]と読んでいるのではないかもしれません。そこまでは聞き取れませんでしたm(__)m
しかし、凄いものです。やはり、一度は「源氏―」の朗読を伺いたいものだと、切に思いました。

対談  安西篤子 小石房子

安西――私は随分歴史の中の女性を書きましたが、阿野廉子は意識的に避けました。こういう後宮の女性たちは男性から愛されて力を持って行く。作者としてはある程度感情移入をしなければ書けないんですね。こういう廉子という人がいかに後醍醐天皇を支えたか、という。ただ愛されるだけでは、後醍醐天皇もあそこまでできなかったし、廉子もねぇ・・・。
小石先生は後醍醐天皇をどう思いますか?お好きですか?
小石――後醍醐天皇・・・好きですか、と聞かれれば・・・好きではないです。独裁者と言うか・・・。
倒幕を志した天皇が四人いるんです。みんな「後」と言う字がつくんですけれども・・・野心家で反骨精神に富んで、勉強もしている。豪まいな人たちです。この人たちには応援の女性がついているんです。
    後白河天皇―これは兵を挙げなかった。丹後の局という女性が、近臣の未亡人ですが、ついていました。
    後鳥羽上皇―承久の変で、隠岐に流されました。卿の局という、これは乳母ですが、ついていました。
    後醍醐天皇が、廉子ですね。
    後水尾天皇―中宮は東福門院の徳川和子なんですが、反幕の気持ちを持っていながら手を挙げることはできなかった。
安西――隠岐では後鳥羽上皇の人気が高いんですね。
小石――ええ、17年も流されてましたから・・・皆さん、島の方たちは「ごとばんさん、ごとばんさん」て言うんですよ。
安西――17年ですか・・・後醍醐天皇は11ヶ月で逃げられたのに!?まあ、名和氏がね・・・。
小石――あれは名和長年が逃がしたんですよ。
安西――村上水軍の一族ですね。そういう意味では運もよかった。
小石――その時、阿野廉子が自分の輿に乗せて逃がしたと。それで、6月に後醍醐天皇が京都に戻ると、その隣に廉子もいたという・・・○○(聞き取れず)によると清隆は逃げた後醍醐天皇を追いかける、そうすると阿野廉子のことは気が付かなかった!?
安西――でも、追いつかなかったんですね・。
小石――しょうせん(商船or小船?)に隠したと「太平記」に書かれています。
安西――あれ程の信念・意志を貫いたのだから、ああいう立場の人からすると大きい人だったのでしょうね。子供を生んだ女性だけで20人以上・・?
小石――よくよく見ると政治色が強いんです。中宮の禧子は家から盗み出した、ということになっていますが、これも「関東申次」という父親と手を結ぶ為に禧子を利用したんでしょうし、護良親王などは北朝方なんです。(筆者注・護良親王の母は北畠師房女
護良親王の世話をした南の御方というのは(筆者注・すみません、聞き取れなかった(^_^;)
安西――大塔の宮の土牢は入って見ようとしたんですけど神社の方に止められました。
小石――東海道を通らずに甲府のほうを通って、雛鶴神社に隠れてお産をしたと言う伝説がありまして。
安西――女性は戦乱の中でもお産をしなければならない!かなり気が強くなければ生きていかれない。戦乱の中でも出産し、子育てしなければならない。あの廉子が支えたのはわかるけれど、外の女性との間はどうだったんでしょう?
小石――後宮三千の中ですから・・・
安西――廉子自身も相当我慢しなくちゃならないでしょうね。自信もあったでしょうが・・・あちこちつまみ食いされてもねぇ・・・。
小石――廉子というのは実父が中級公卿ですから、それが養女になって宮仕えに出たんですから、相当上昇志向が強いですよ。
安西――主人の娘に仕えて、下克上みたいなもので愛人になって。女房として仕えるというのは、天皇に愛されて皇子を産んで・・・。
二条もそうですよね。でも、二条は帝に育てられて皇子も生んだ。廉子なんて内侍からですから遠いじゃないですか。二条は欲ないんですよね。
私、廉子というのは、持統天皇と似ていると思うんです。どうしてこんなに出世できたか、というと建武の中興があったからです。持統天皇の場合も吉野にただ一人ついて行ったんですね。壬申の乱で天武天皇が独裁を進める下で左右の大臣をおかずに皇后が支える、ということになった。
小石――廉子の出自がよければ女帝になった、と思います。まだこの時代には女帝は禁止されていなかったんです。前は悪女・悪女と言われていましたが、ちっとも悪女ではないです。
安西――隠岐にも一緒に行ってますよね。天武も吉野に落ちるときは持統も一緒に行ってます。そういう時いっしょと言うのは・・・不遇の時にね・・・
小石――ですから、外の后妃たちは太刀打ちできない。
安西――身分が高くない、というところが幸いしたんでしょう。
小石――男性でも下から積み上げた人の方が強い!
安西――ただ後醍醐天皇に気に入られているだけではなく、他の人に文句を言わせない。二条のように誇り高いだけではだめです。
小石――二条と廉子ではやりたいことが違っていたと思います。
安西――そうです。そうです。
小石――時代も100年くらい違っていますが・・・

安西――廉子という名前ですが、お父さんの公廉から、ですね。このころの女性の名前は幼名と言うのはあったでしょうが、お父さんやお兄さんが出世したり、何かおめでたいことがあった時に初めて名前がつくんです。大体お父さんの名前の一字をもらうことが多い。
北の政所のネネも位をもらう時「寧子」と名乗りました。
たぶん、帝からも「レンシ」と呼ばれていたんでしょうね。
テレビを見ているとき気になりませんか?普通は前田殿とか利家殿なんて呼び合いませんでしょ?二位殿とか、官位を呼び合うものですよね・・・私気になってしまって・・・みんなにわかりやすく、というと仕方ないんでしょうけどね。
先ほどの二条河原の落書は面白かったです。
小石――どこで言われたかわからないのですが、あれは男尊女卑の内容ですよね。(筆者注・はぁ〜ん、私がぐっすり眠っている間に阿野廉子のところで、「落書」の話が出たようです(^_^;))
安西――優等生と言われれたのが面白い。今なら田中さんじゃなくて、川口さん・中山さん(^^)ああいう可愛い人が中央官庁に入って、男の人たちから認められるというのが嬉しい。
小石――今までもいたかもしれないですけど、男の人たちから認められなかったり
安西――そういう意味でもいい時代です。東慶寺の用堂尼が後醍醐天皇の子供だとは・・・大体東慶寺というと天秀尼ということになっていて・・・護良親王とは兄妹なんですね・・・
小石――鎌倉宮なども東慶寺が管轄していたと言うこともあったんです。
安西――そのころから後醍醐天皇の子供だということはわかっていたんですか。
小石――東慶寺が紫衣になったのもそのためです。
安西――天秀尼という人で「駆け込み寺」が確立したんですね。
小石――「駆け込み寺」も三年というのが長い、というので「足掛け」になりまして二年でよくなったんですね。

安西――「元明女帝」お話がでましたので、「女帝」のお話しを・・・「皇室典範」に触れて頂いても結構です。
小石――「女帝」を書き始めたのは勧められたのですが、女帝の恋愛とか、母としての愛とか・・・そんな書き方で、「天下を統べる帝」として書かれたものがないんです。持統帝→斉明→推古と遡って、出版社にも言われて三部作にしたんです。
「皇室典範」では女帝は禁止されていたんです。雅子様のご懐妊で「女帝解禁」しようという論議が起きました。女帝を禁じたのは明治政府なんです。女帝は古代に二人・奈良時代三人・江戸時代二人いるんですが、その理由と言うのが女帝は中継ぎ、富国強兵であるから、というんです。今、男女平等で平和憲法の時代で、男女半数づづある。女帝でもおかしくないですよ。ライフワークとしてやって行きます。
安西――中継ぎなんて言ったって、推古・持統は相当な実績があります。
小石――元明帝も中継ぎとか、不比等の飾り物なんて書かれていますが、調べてみると最後が凄い。
葬儀をしてはいけない、茨を燃して自分を焼きなさい、飾りをしてはいけない、延臣なども休んではいけない、墓も石の墓標一本だけでよい、・・・厳しい遺言の為、本当に何もしなかったんです。一時本当に一本の墓標だけだったので、それが朽ちてしまってわからなくなっちゃったのです。今は大きな陵がありますが。
安西――それは人民を労わって?
小石――平城京を造りましたね。藤原京から14年しか経っていなくて大変だったんですね。人民は疲弊して、病気も出て大変だったんです。女帝は中継ぎと言えないんじゃない、と。
安西――そういう運動している人はいるんでしょうか?
小石――それがいないんですよ〜!!これは女性の人権の問題じゃないでしょうか?天皇制がいい、悪いじゃなくて、今現に天皇がいらっしゃるんですから。
安西――女帝を見ると、だんな様の後を継いだ方ばかりでなく、内親王からの方もいらっしゃいますね。でも、そういう方たちは結婚してないではしよ・・・寂しいと言うか・・・
小石――婿取りだっていいと思うんですけど・・・皇統が男のほうに流れると言うんですけど婿養子にすればいいんでス。
安西――イギリスみたいにねえ
小石――女帝解禁の論が出て呼ばれても、男性グループばかりなんです。戦時中は間違った歴史を教わって、戦後は何にも教わらない、なんて!!いいことも悪いことも知らなくてはいけない。どうぞ皆さん論議してください。

安西――最後に後醍醐天皇に戻りますけど、阿野廉子は新待賢門院になったわけてすが、皇子三人が足利氏に毒殺されている。三人目が後村上天皇で、天皇の母になるわけですね。廉子は上昇志向があったというと望は達成された。帝はこれぐらい多く皇子皇女があると、父も冷たい。
小石――廉子は観心寺(筆者注・聞き違いでしょうか・・・?後に正成の菩提寺と言われているのですが、正成の菩提寺は相国寺のはず)というところに葬られるんですが、私の行った時は崩れ落ちそうでした。楠正成の首塚もある楠家の菩提寺なんですが。後村上帝の墓所はちゃんとしているのに。やっぱり悪女という噂が祟ったのでしょうか?
安西――宮内庁はちゃんとしないんですか?正式の中宮でないから、ということかしら?
小石――明証天皇と言う天皇の遺品が山科のじゅうぜん寺というお寺にたくさん残っているんですが、宮内庁はシランフリです。泉涌寺にも男帝の肖像はたくさんあるのに女帝はない。
安西――当時のことですから、高貴な女性は顔を見せてはいけない、ということもあったかもしれませんね。
小石――ああ、そういうこともあるんでしょうかねぇ・・・?
安西――そういうことかどうか・・・「百人一首」でも顔を見せなくて、後ろ向きです。でも、後ろ向きにでもね。今日はどうもありがとうございました。

参考
名和長年 
名和長年(?〜1336)は,隠岐に流された後醍醐天皇が脱出するのを助けた伯耆国(島根県)の武将。楠木正成や新田義貞と並び,戦前は誰もが知っていた忠臣であった。延元元年(1336)の京都合戦で足利尊氏軍に敗れ戦死。戦死の地は資料によって大宮と三条猪熊の二説があり、同じ忠臣とされた楠正成や新田義貞は江戸時代から戦死の地に碑が立てられていたが,長年は戦死した場所が長く不明であった。現在は調査の結果、上京区大宮通一条下る梨木町がその地であるという結論を出し,碑を建立。

南の御方と雛鶴神社
雛鶴神社とは、雛鶴姫(南の御方の俗称)を祀った神社のこと。雛鶴姫は、南北朝時代、建武二年(1335年)7月、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良(もりよし)親王が、鎌倉で悲運な最期を遂げたとき、親王の首級を抱いて逃れたという。雛鶴姫は、その時、すでに親王の児を身籠もっており、秋山村のはずれで出産したが、まもなく母子共々亡くなられたという伝説がある。また、その20年後、護良親王の王子、綴連(つづれの)王が、戦乱の中を亡命して、この地に来られ、村民の話に不思議な因縁を感じ、村に住み着いて73歳の天寿を全うした。そこで村では、護良親王、雛鶴姫、綴連王を神に祀り、雛鶴神社を創建したという。


鎌女から、このままでの掲載は一寸難しい、と言われてから、新しい切り口で書き直したい、と探していますがー・・・


「とはずがたり」を追っかけてネット内をフラフラしている時に、面白い人発見!!
有鄰堂で出している「有鄰」という広報誌で、「ツベタナ・クリステワ」と言う人の特集をしています。
彼女は1954年のブルガリア生まれで、モスクワ大学で日本文学を専攻し「とはずがたり」に出逢います。
モスクワ大学の、日本文学の古典文学の先生から「あなたにぴったりのテーマと作品がありますよ。」と声をかけられ、研究室に行くと、『とはずがたり』のことを教えていただいたのだそうです。彼女自身のエッセイなのでしょうか、その辺の軌跡がよく語られています。
プリントアウトしたらA4で四枚ですから、かなりの分量です。

それが、大学卒業後、1980年、日本の大学に留学した時、「とはずがたり」を勉強していると言うと、「やめた方がいい。 源氏にしなさい。」という親切なる忠告ばかり!!
ツベタナさんは、「冷たい水を浴びせられたかのような気持ちになりました。」 ということでした。
「どうやら当時、『とはずがたり』はまだあまり人気がなかったようです。」・・・・ウーム、↑でも書いているとおり、日本人にさえ長く知らされなかった物語です。仕方ないと、いえば仕方ないのですが(^_^;
「 悔しくて、空しくて、二条ではなく、私自身が無視されているかのような感じでした。」
でも、「熱心な支持者もいました。 そのうちの一人、当時、国文学研究資料館教授の福田秀一先生のご指導のもとに、大学時代に始めた翻訳の仕事を進めることができました。 」というわけで、ツベタナさんの「とはずがたり」は日の目を見たのです♪

ところが、一年間の留学を終えてブルガリアに戻れば、まだ 日本学科もなく、古典文学どころか現代文学の翻訳も二つしかなかったという状態でした。出馬したくとも取り扱ってくれる出版社もありません。様々な苦労を重ねて、理解ある編集者と出会い、ようやく出版にこぎつけたのだそうです。反響は予想を超えて(其のあたりの詳しいお話は当該サイト「有鄰」を御覧下さい)
「まず、誰からも決まって最初に聞かされた言葉は、『あなたの二条に感動した。』ということでした。 感動しすぎて『とはずがたり』の続きを書いた人さえいました。」とも書かれていました。・・・わっかるなぁ(^^ゞ大体その次に二条はあなたの実体験?と来るんだけど・・・余分なお話でしたm(__)m

その後、「万葉集」「古今集」などを手がけて、「枕草子」のブルガリア語訳も成し遂げられています。こちらも四万部のベストセラーになったそうですが、「 しかし、二つの作品の読者層には興味深い差異が現れました。 『枕草子』が『とはずがたり』より歓迎され、抜群に高い評価を得たのは、詩人、画家、演出家など芸術作品を造っている人たちからでした。」ということで、
ツベタナさんは「読者から大事なことを教えてもらいました。 『枕草子』は創造過程の快楽を覚えさせてくれることで、読者の想像力と創造力に働きかけているのです。 これこそ、感動の根源なのではないでしょうか。」と言っています。

これを読んで、ますます「とはずがたり」をちゃんとやりたくなったり、それにしては、もう既に凄いサイトがあるので、アハやめておこう、ということになったり・・・・大体、この文章自体日の目を見ることがあるのかな、と思ったり(^_^;
だってねこの講義録全体を書き直すのは大変なんですよ!!

まあ、これは私の講義ノートということで、ね(^^)v






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