前ページへ/表紙へ

2月13日 (木) 「中世の史料を読む(三) 鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』第一回

「吾妻鑑」の講演会に行って来ました。
漢文は嫌いではありませんが、あんな「日本的な」漢文だらけの本は、ちょっと自分では読みにくいですから、手引きしてくれる人がいないと、なかなか読めません(^_^;
あ、「日本的な」漢文ですから、読みやすい、ということでなら、断然読みやすいです(^^ゞ白文でも、殆ど行けます・・・ただ、漢字ばっかり並んでいるのがウンザリということと、巻によると人名がずらずら並んでいるばかり、奉納品の目録がずらずら羅列されているというところなどがしんどいのです。
でも、結局、何時誰が何をどうした・・・と言う記録で、その記録の意味することは何か?と紐解いていくことが主眼なので、自分だけでは読みづらい、ということなんです(^_^;
というわけで、面白かったです(^^)

ただ、北条氏に都合よく書かれている、という部分が多い、というのが「吾妻鏡」の通り相場で(「栄華物語」が道長サイドに立っている、というのと同じ)、資料的にはちょっと下がる、と言われています。
でも、やはり、それもどの部分がどういう意図で北条氏に都合よく書かれているか、ということも大事なポイントなのでしょう。
おばさんには、そこまで読みきれないので、やはり先生がいて下さると面白くなります♪
去年の「鎌倉」をテーマにした講演会で、永井路子さんと安西篤子さんが、「『吾妻鏡』も資料的価値に疑問がある、などと言わないで、楽しく読んでください」とおっしゃっていたのが、納得できました(^^)

で、まあ、第一回は、テキストの説明から。



「吾妻鏡」というのは、鎌倉幕府の記録でして、52巻からなります。
14年度は、前期に巻43の建長5年の分をやりまして、後半は続きということで、巻44建長6年の分ということになります。

「テキスト」の裏表紙に蘭渓道隆(大覚禅師)の坐像が刷り込まれています。この人は、中国から渡来して宋朝純粋禅という禅宗を日本に伝えました。中国・博多・京都・鎌倉と来て、鎌倉で北条時頼の帰依を得て、建長寺という臨済宗の寺を建立して、今年で750年目に当たります。

建長5年、建長寺の創建に際し、初代住職となりますが、蒙古襲来の折にスパイと疑われて甲斐の国に蟄居しました。しかし、後年、戻されて、今度は円覚寺を建立します。(筆者注―えっ?円覚寺さんは、無学祖元じゃなかったっけ?)この像は常楽寺という、北条泰時が母を弔うために建長3年に建立した寺に安置されています。「阿波船の御堂」というので有名な寺です。この像は、77.7センチ、等身大のもので、室町時代の作です。中国には絹布にかかれた像もありますが、これは知られていません。

甲寅  建長六年
乙夘  闕帖

「乙夘(いつぼう)闕帖」というのは、幕府87年の記録の内12年間の欠帖がありますが、その一つです。

筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用)


建長6年 甲寅 正月小〇一日乙亥。朝雪。聊散。巳尅属霽。今日[土宛]。相州御沙汰。土御門宰相中将上御簾。


――建長6年 甲寅(こういん)――年は、建長何年という言い方と十干十二支を組み合わせて言う言い方があります。
建長6年は1254年、建長寺が創建されて次の年の元旦です。
――「月」は大と小があるのはご存知ですね。小は29日、大は30日。その年によって一月は何日あるか違います。それと閏月というものがあって、この年(建長6年)は一月小・2月大・三月小・五月が大で閏五月というのがあつたんですね。

――〇一日、乙亥(いつがい)。今日[土宛](相州御沙汰)。土御門宰相中将上御簾。(筆者注―[土宛の字は異体字で出せない)
――朝起きると雪が舞っていた。巳の刻(10時ごろ)になつて晴れてきた。今日[土宛](おおばん)の振る舞いがあった。
――[土宛](おおばん)というのは、鎌倉の武士達が将軍に対していろいろのご馳走をした(筆者注―接待?)。
――将軍というのは、この時代京から来た公家です(筆者注―宮将軍て言いませんでした?)。宗尊親王(むねたかしんのう)と言います。
――相州というのは、相模の国守、つまり執権です。北条時頼です。
――土御門というのは土御門顕方。土御門通親という高階栄子と連携して鎌倉幕府と対抗した貴族の息子です。
――「上御簾」(御簾をあぐ)、将軍の座の御簾を上げる役です。(筆者注―だからさ、この役に睨まれると将軍に面会させてもらえなかったのですよね。そのために単に御簾を上げるはずの役が偉い権力を持ってしまって問題になった、というはずなのですが・・・常識ということで省かれたのでしょうか?)

筆者注―後に有力御家人達の将軍家への献上品の目録がゾロゾロ並ぶのですが、これは、殆ど読みだけでした。ので、そのまま読み方と送り仮名を入れてしまいます。)

御劔(みつるぎ―太刀献上)     前右馬権頭(さきのうまのごんのかみ)――北条政村(後の執権)
御調度(みちょうど―将軍家の調度用意)   武蔵守朝直(むさしのかみともなお)――北条朝直
御行騰(おんぬかばき―鞍の上に敷くぬか履き) 尾張前司時章(おわりのぜんじときあきら)・下野前司泰綱(しもつけのぜんじやすつな)
一御馬(いちのおんうま) 遠江六郎教時(とおとおみのろくろうののりとき) 同七郎時基(おなじく、しちろうのときもと)
二御馬(にのおんうま)  薩摩七郎左衛門尉祐能(さつまのしちろうのさえもんのじょうすけよし) 同九郎祐朝 (おなじく くろうすけとも)
三御馬(さんのおんうま) 遠江次郎左衛門尉光盛(とおとおみのじろうのさえもんのじょうみつもり) 同十郎頼連(おなじくじゅうろうのよりつら)
四御馬(よんのおんうま) 三村新左衛門尉時親(みつむらのしん、さえもんのじょうときちか) 同三郎兵衛尉(おなじくさぶろうひょうえのじょう)
五御馬(ごのおんうま)  北條六郎時定(ほうじょうのろくろうときさだ) 工藤次郎左衛門尉高光 (くどうのじろうさえもんのじょうたかみつ) 


[土宛](おおばん)以後。有将軍家御行始儀。申一尅入御相州御亭。御引出物如例。中務権大輔家氏持参。御劔。砂金。羽。御馬。
供奉人 布衣下括り
名簿省略

[土宛](おおばん)以後、おなり始めの儀あり、さるのいってん、相州御亭に入御す。
――御行始というのは、将軍の正月の一番最初のお出かけです。
――相州御亭とは相模の国守の邸、つまり執権邸です。将軍は若宮の御所にいますから、そこから執権邸まで、皆がお供をして出かけるわけです。そこで、また執権からの贈り物が例のごとく出て。
――なかつかさのごんのだいぶいえもちが持参した、と。太刀・砂金・羽、羽というのは矢につける羽です。おんうま。
――供奉人―ぐぶにん―将軍に従って御行始に供する、(布衣下括り)
筆者注―午餐会の後大勢、列を連ねて、若宮御所から執権邸まで大名行列をするわけですね(^_^;次から、同じような記述が並びますので、ちょっと横着して□の中に書き入れます。)

〇二日丙子。晴。[土宛]。 左馬頭入道沙汰。
御劔    武蔵守朝直
御調度   尾張前司時章
御行騰沓  和泉前司行方
一御馬   上総三郎満氏       太平太郎左衛門の尉
二御馬   梶原右衛門太郎景綱   同三郎景茂
三御馬   筑前次郎左衛門尉行頼  同三郎行實
四御馬   遠江十郎頼連        同七郎泰連
五御馬   上野三郎國氏        日記三郎


〇三日丁丑。陰。[土宛] 。奥州御沙汰。
御劔は尾張の前司時章、
御調度は掃部の助實時、
御行騰沓は下野前司泰綱。
一御馬 遠江六郎教時                            同七郎時基
二御馬 出雲五郎左衛門尉宣時                      同次郎時光
三御馬 波多野小次郎定経                         同兵衛次郎定康
四御馬 筑後次郎太郎重家                         同小次郎知家
五御馬 陸奥弥四郎時茂(弥=[方尓]、むつのいやしろうときもち)  鹿島田左衛門尉惟光

この二日目と三日目は、大変意義のあるところす。二日目の左馬頭入道というのは、足利義氏です。三日目の奥州というのは北条重時、後に極楽寺を建てたことから、極楽寺殿と呼ばれますが、時の連署です。
将軍を迎えた正月の公式行事の二日目に執権と連署の間で[土宛](おおばん)をする足利氏の地位の高さが良くわかります。
北条時政は、たいした家でもなかったのに、たまたま政子が頼朝の妻になったことで力を得た。そのため、有力武士と婚姻を結んで勢力を維持しようとした。足利義氏の父・義兼は足利市近辺の荘園を持つ、新田氏と同じ系統の家でしたが、時政の娘、政子の妹を妻にしました。義氏も泰時の娘を妻にしています。そういうわけで、足利氏は鎌倉幕府の中でも強力な地位があった。

〇四日戊寅。被撰 御的射手。而兼日領状輩内。薩摩十郎。出羽七郎。武田五 郎七郎。桑原平内等申障。其外十一人。二五度射之。
一番 渋谷六郎                  佐々宇左衛門三郎
二番 佐貫七郎                  松岡小三郎
三番 諏方四郎兵衛尉              海野矢四郎
四番 周枳兵衛四郎(すきのひょうえの―)  勅使河原小三郎
五番 南條左衛門四郎              布施三郎
六番 秩父弥五郎(弥=[方尓]、ちちぶのいやごろう)

――四日戊寅(ぼいん)。御的始めの射手を選ばれた。かねてから承っていた者のうち、薩摩十郎。出羽七郎。武田五 郎七郎。桑原平内等は障りがあつて出られない。その他11人の者が二回づつ五度射た(二度つづ五度の的を射た)。
筆者注―わぁ!!「二五度射之」は、自分で読めば10回射た、という風にしか読まなかったでしょう(^_^;こういうのは聞いてみなくちゃわっからない♪)

〇七日辛巳。 来十日。将軍家可依有御参鶴岡八幡宮。今日供奉人被廻散状。是以 [土宛]之間出仕輩之中。所被選定也云々。
〇十日甲申。晴。 西風烈。卯一点浜風早町辺焼亡。至名越山王堂。人家数百宇災。 日出以後火止。焼死者数十人。依彼穢。今日将軍家御神拝延引云々。
〇十六日庚寅。於御所有御的始。先度申障射手等猶被召出之。十人。二五 度射之。
一番 武田五郎七郎政平          渋谷六郎盛重
二番 海野矢四郎助氏            平嶋弥五郎助経
三番 布施三郎行忠              周枳兵衛四郎頼泰
四番 佐々宇左衛門三郎光高        佐貫七郎廣胤
五番 多賀谷彌五郎重茂           横溝七郎五郎忠光 (よこみぞのしちろうごろうただみつ)

――七日辛巳(しんみ)。将軍が、十日の日に鶴岡八幡宮に参詣することになった。[土宛]を何日も続けて、源氏の将軍なら新年早々に参詣するところですが、公家の将軍ですから、十日にもなってから、参詣することになったんです。
――十日甲申(こうしん)。で、その十日の日は西風が激しく吹いて、午前6時ごろ、浜風早町辺りから名越山王堂にいたるまで人家数百軒が焼亡した。焼死者は数十人も出た。この穢れによって、将軍家の鶴岡八幡宮参詣は延びた。
――十六日庚寅(こういん)。御所において御的始めがあった。こないだのはリハーサルだったんですね。今回が本番で、先日障りを申し立てた射手が猶召し出だされた。10人が「二五度の矢」を射た。

次は読んだだけでした。筆者注)

〇廿二日丙申。霽。 将軍家御参鶴岡八幡宮。(22日、へいしん、将軍家参鶴岡八幡宮に参詣す)
行列
前駈      能登右近大夫仲時         安藝の前司親光    
        長井判官代泰茂
御車 (将軍家が乗る車の護衛)
        後藤壱岐新左衛門尉基頼     式部兵衛太郎光政   
        大須賀左衛門四郎          小野寺新左衛門尉行道 
        梶原右衛門太郎景綱        薩摩十郎祐廣
        武藤次郎兵衛尉頼泰        武藤七郎兼頼     
        加藤左衛門三郎景経         足立左衛門四郎    
        肥後彌籐次 (ひごのいやとうじ)
  以上著直垂帯劔、候御車左右。
御劔役人  前右馬権頭政村
御調度役  武藤左衛門尉景頼
御後      尾張前司時章/武蔵/守朝直/陸奥掃部助實時/ 相模右近大夫将監時定/越後右馬助時親/遠江六郎教時 /
        陸奥彌四郎時茂/中務権大輔家氏/足利次郎兼氏/ 上総三郎通氏/佐渡前司基綱/出羽前司行義
        小山出羽の前司長村/上野前司泰国/下野の前司泰綱 /和泉の前司行方/伊賀前司時家/大隅前司忠時/
        壱岐守基政/参河前司頼氏/大須賀次郎左衛門尉胤氏/ 彌次郎左衛門尉親盛/狩野五郎左衛門尉為廣/ 
        伊藤八郎左衛門尉祐光/ 小野寺次郎左衛門尉道時/壱岐次郎左衛門尉家氏/長次右衛門尉 /長雅楽左衛門尉            善右衛門尉康長/彌善太左衛門尉康義/ 和泉次郎左衛門尉行章/紀伊次郎左衛門尉為経/加地七郎左衛門の尉氏綱

筆者注―このあと、28日からの記録になって、「二所詣で」の解説になるのですが、途中で切れてしまったので、第二回分と一緒にします。)

筆者注―☆☆☆―
先生の解説で、常楽寺が、イマイチ良く理解できなかったので、検索にかけてみましたが、なかなか出てきません。で、
臨済宗建長寺派 相澤山廣徳寺 http://www5.ocn.ne.jp/~koutoku/ というお寺のHPで、ようやく、それらしいものをみつけました。ついで、といってはなんですが、「臨済宗とは」という説明もありましたので、そのまま頂いてまいりました。
建長寺・円覚寺などはYHOOなどでも十分検索できます。

臨済宗とは…
 臨済宗は、いうまでもなく禅宗の一派です。禅宗は中国で起こり、発展し、やがて我が国に伝来します。我が国に伝わった禅宗には、臨済宗の他に曹洞宗、黄檗宗があります。
 禅宗は、お釈迦様から28代目の祖師であります菩提達磨大師が、六世紀にお釈迦様の正法をインドから中国に伝えられ、嵩山少林寺で面壁9年の座禅修行され「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の宗旨を標榜され、初められ宗派であります。また、達磨大師より6代目のの祖師に慧能大鑑禅師(六祖大師)が現れ、南宗禅を唱え大い宗風を広げられました。更に慧能大鑑禅師のもとより南嶽懐譲禅師、青原行思禅師の二大弟子現れ、数代を経るうちに、雲門宗、?仰宗、法眼宗、曹洞宗、そして臨済宗の五つの宗派に分かれました。また、臨済宗は楊岐派と黄龍派の二派に分かれ、総称して五家七宗と呼ばれています。
 臨済宗は、禅宗五家の一派であり、達磨大師から数えて11代目の祖師である臨済義玄禅師を宗祖と仰ぐ宗派です。この臨済禅師の言葉に「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ」とあります。臨済宗の宗旨は、私たちに本来そなわる、この一無位の真人を自覚し「本来の自己」に目覚めることです。
 我が国に禅がもたらされたのは、鎌倉・室町時代です。渡来した禅は、46伝・24流あったいわれていますが、臨済宗に建長寺派、円覚寺派や妙心寺派など、14の大本山がある由来は、この禅宗伝来の因縁によるものです。
 
大本山建長寺とは…
 建長寺は、正式には「巨福山・建長興国禅寺」といいます。鎌倉時代、時の執権北条時頼公が発願し、宋より寛元四年(1246)来朝し鎌倉常楽寺に住していた蘭渓道隆(大覚禅師)を開山に迎えて建長五年(1253)に創建されました。創建当時から建長寺は、五山の第一位となるべくして建立されたもので建武元年(1334)に一度は第四位になりましたが、暦応四年(1341)、足利尊氏は第一位に戻しています。また、至徳三年(1386)、足利義満が五山十刹の位次を定めたときも、鎌倉第一位となり、京都第一位の天竜寺と対等な立場に置かれています。
 明治時代、時の政府の廃仏毀釈政策の影響で一時衰徴したが、明治九年に臨済宗各派がそれぞれ独立すると建長寺も大本山建長寺派と公称するようになりました。

2003年3月16日付記
後日、常楽寺も含めて、鎌倉と北条氏の良いサイトを発見しました。
鎌倉の歴史,史跡,花の散策ガイド 「鎌倉ぶらぶら」というところです。「泰時の墓」の写真も載っていました(^^)
http://www.kamakura-burabura.com/


次ページへ/表紙へ