3月14日(月)「吾妻鏡」第一 治承四年 10月22日〜10月日
筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていますm(__)m
このところ文中に 」 が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。
今日は「平家物語」と「義経記」の資料を頂きました。
丁度、義経が登場する所ですが、先生が、別の講演会で義経についてお話しすることになったそうで、その資料をご用意なさったという事でした。大学の方をおやめになる、というのが知れ渡ったら、講演以来がやたらに来て、お断りするのに大変だそうです(^^ゞ
(吾妻鏡の)どこのお教室に行っても大学の方を退職します、というと拍手喝さいになるそうで、先生も苦笑い(^_^;まあ、仕方ないですよねえ。こないだも書いたけど、皆様、先生の健康第一に考えるとそういうことになるわけで〜(^^ゞ
先生ご自身も、時間が出来たら、屋外教室もなさりたいそうですし・・・そのへんはおばさんは微妙ですが(^^ゞ
というわけで最初はまず「義経記」の解説から・・・。
○廿一日 庚子。 爲追攻小松羽林。被命可上洛之由於士率等。而常胤。義澄。廣常等諫申云。常陸國佐竹太郎義政。并同冠者秀義等。乍相率數百軍兵。未帰伏。就中。秀義父四郎隆義。當時從平家在京。其外驕者猶多境内。然者。先平東夷之後。可至關西<云々>。依之令遷宿黄瀬河給。以安田三郎義定爲守護遠江國被差遣。以武田太郎信義。所被置駿河國也。」今日弱冠一人。彳御旅舘之砌。稱可奉謁鎌倉殿之由。實平。宗遠。義實等恠之。不能執啓。移尅之處。武衛自令聞此事給。思年齡之程。奥州九郎歟。早可有御對面者。仍實平請彼人。果而義經主也。即參進御前。■談往事。催懐舊之涙。就中。白河院御宇永保三年九月。曾祖陸奥守源朝臣<義家>。於奥州。与將軍三郎武衡。同四郎家衡等遂合戰。于時左兵衛尉義光候京都。傳聞此事。辭朝廷警衛之當官。解置弦袋於殿上。潜下向奥州。加于兄軍陣之後。忽被亡敵訖。今來臨尤恊彼佳例之由。被感仰<云々>。此主者。去平治二年正月。於襁褓之内。逢父喪之後。依繼父一條大藏卿<長成>。之扶持。爲出家登山鞍馬。至成人之時。頻催會稽之思。手自加首服。恃秀衡之猛勢。下向于奥州。歴多年也。而今傳聞武衛被遂宿望之由。欲進發之處。秀衡強抑留之間。密々遁出彼舘首途。秀衡失悋惜之術。追而奉付繼信忠信兄弟之勇士<云々>。秉燭之程御湯殿。令詣三嶋社給。御祈願已成就。偏依明神冥助之由。御信仰之餘。點當國内。奉寄神領給。則於寳前。令書御寄進状給。其詞云。 伊豆國御園 河原谷 長崎 可早奉免敷地三嶋大明神 右。件御園者。爲御祈祷安堵公平。所寄進如件 治承四年十月廿一日 源朝臣 |
――21日 庚子(こうし)。
――小松の羽林を追攻せんが爲、上洛すべきの由、士率等に命ぜらる。
――而るに、常胤・義澄・廣常等諫め申して云く。・・・維盛を追って京都に攻め上ろうとする頼朝に対して反対する関東武士。
――常陸國佐竹太郎義政、并びに同冠者秀義等、數百の軍兵を相率いながら、未だ帰伏せず。・・・常陸佐竹氏はまだ帰服していない。
――就中。秀義父四郎隆義は、當時平家に従いて在京す。・・・まして、秀義は京都にいる、というんです。
――其の外、驕者(きょうしゃ)猶、境内に多し。
――然者(しからば)、先ず、東夷を平ぐるの後、關西に至るべしと<云々>。
――之に依りて、黄瀬河に遷り宿せしめ給ふ。・・・この後鎌倉に帰ってきて、初めて関東の主となります。
1181年10月21日のこの記事から以後、中央と相対して幕府を創ろうとする。
1189年奥州征伐
1192年鎌倉幕府成立。「If・・・」頼朝が京都に行っていれば駄目になっていたかもしれない?武士団の纏まりとなる後継者が育っていたか?
――安田の三郎義定を以って、守護として遠江國に差遣さる。・・・安田の三郎義定も甲斐源氏
――武田太郎信義を以って、駿河國に置さしむる所也。・・・武田太郎信義は平家の一条氏になっていく。(と聞こえたのですが・・・意味分かりませんよね(^_^;)
――今日弱冠一人、御旅舘之砌に彳み(たたずみ)、鎌倉殿に謁し奉るべきの由稱す。・・・さあ、義経が出て来ましたよ。「弱冠」この時21歳、頼朝は33歳でした。鎌倉殿に会いたいと言いますが・・・(と、昨夜の大河の義経話♪先生としては、多分皆さんご覧なっていて、あれこれ史実とドラマの真偽比べになりそうだと、ご覧になる事にしたそうです(^^ゞで〜、その評定は・・・なかなか面白いですね、とのことでした♪)
――實平、宗遠、義實等、之を恠み(あやしみ)、執り啓す(とりもうす)ことあたわず。・・・土肥實平・土屋宗遠・岡崎義實、みんな頼朝の側近たちですから、そんなこと言っても、どこの誰だかわからないから怪しんで入れてもらえないんですね。
――尅(とき)を移す之處、武衛は自ら此事を聞きしめ給ふ。・・・時が経って、頼朝が自分でこの事を聞いて、
――年齡之程を思ふに、奥州の九郎歟。早く御對面あるべきと者(てへり)。・・・年の頃を聞くと、奥州の九郎か?と思い当たった。そこで早く逢いたい、と言う事になり
――仍って、實平は彼人を請ず。・・・實平が招き入れた。
――果して義經主也。・・・やっぱり、義経だ!ということになります。
――即ち、御前に參進し、互いに往事を談じ、懐舊之涙を催す。・・・頼朝の御前に進んで、互いに昔話(来し方ということですかね)をして、「懐舊之涙」といいますが、初対面です。
――就中(なかんづく)、白河院の御宇(ぎょう)、永保三年九月。・・・ことに
――曾祖陸奥守源朝臣<義家>、奥州に於いて、將軍三郎武衡・同四郎家衡等と合戰を遂ぐ。・・・祖先の源義家が、「奥州後三年の役」で清原氏と戦った時、
――時に、左兵衛尉義光京都に候じ、此の事を傳え聞き、朝廷警衛之當官を辭し、弦袋(つるぶくろ)を殿上に解き置き、潜かに奥州に下向し、兄の軍陣に加ふる之後、忽ちに、敵を亡され訖(おわんぬ)。・・・、京都の左兵衛尉として、朝廷警衛に付いていた弟の新羅三郎義光が、この事を伝え聞いて、「弦袋(つるぶくろ)を殿上に解き置き」というのは、左兵衛尉が腰につけている弓矢の弦を入れる袋です。、密かに奥州に下向した。そして兄の軍陣に参加するや、たちまちに敵を滅ぼした、というんです。
――今の來臨は、尤も彼の佳例に協う(かなう)之由、感じ仰せらると<云々>。・・・そして、今のこの義経が頼朝の許に来たと言う事は、大変、この佳例―吉例に適う、と感激した。
この「後三年の役」というのは、清原一族の反乱です。新羅三郎義光は兵衛府の侍を辞して義家の応援に駆けつけた。この時石清水八幡の分社を鶴ヶ岡に建て、八幡太郎は祀られて神になった。今義経が頼朝の許に来たのはこの例に適うと喜んだんです。
――此の主者(ぬしは)、去んぬる平治二年正、襁褓(きょぅほ)の内において、父を喪ふ(うしなう)に逢ひて之後、繼父一條大藏卿<長成>の扶持に依り、出家爲として鞍馬に登山す。
――成人之時に至り、頻りに會稽之思催し、手自ら首服を加ふ。
――秀衡之猛勢を恃み(たのみ)、奥州に下向し、多年を歴る(へる)也。
――而しに、今、武衛、宿望を遂げらる之由傳へ聞き、進發せんと欲するの處、秀衡、強ち(あながち)に抑留之間、密々に彼の舘(たち)を遁れ出で、首途(かどで)す。
――秀衡は悋惜(りんしゃく)之術(すべ)を失ひ、追って繼信忠信の兄弟之勇士を付け奉ると<云々>。
当時の勢力は京都に清盛・後白河法皇があり、鎌倉に頼朝、そして奥州にこの秀衡がいて日本の政治が分かれていました。
――秉燭(てんしょく)之程、御湯殿ありて、三嶋社に詣でしめ給ふ。・・・「御湯殿ありて」、お風呂に入る、ということではなくて、湯浴みして、ということです。(うん、斎戒沐浴ということで・・・筆者の呟き)
――御祈願、已に成就す。・・・これは「富士河の合戦」の勝利と、義経に会ったことも含みます。(この次点では、頼朝も素直に嬉しかったんでしょうねぇ(^^)・・・筆者の呟き)
――偏へに、明神の冥助(妙所)に依る之由。
――御信仰之餘り、當國の内を點じて、神領に寄せ奉り給ふ。
――則ち寳前に於いて、御寄進状を書きしめ給ふ。其詞云。
伊豆國の御園(みその) 河原谷(かわらたに) 長崎(ながさき) 早く敷地を三嶋大明神に奉免すべし 右。件の御園は、御祈祷安堵公平の爲、寄進する所件の如し 治承四年十月廿一日 源朝臣 |
――伊豆の國の御園・河原谷とも、田方郡という所、長崎は韮山です。これは寄進状としては特異なパターンで、検討の余地ありです。
○廿二日 辛丑。飯田五郎家義持參平氏家人伊藤武者次郎首。申合戰次第并子息太郎討死之由。昨日依御神拜事。故不參之由<云々>。武衛被感仰家義云。本朝無雙之勇士也。於石橋乍相伴景親<大庭三郎>。戰景親奉遁訖。今又竭此勲功。末代不可有如此類者。諸人無異心<云々>。 |
――22日 辛丑(しんちゅう)。飯田五郎家義、平氏の家人伊藤武者次郎首を持参し、合戰の次第并びに子息太郎の討死之由を申すと<云々>。・・・飯田の五郎家義が、富士河の合戦で討ち取った伊藤次郎の首を持参して、息子の太郎の討ち死にの報告をした。
――昨日、御神拜の事に依り、故(ことさら)に、不參之由と<云々>。・・・昨日は神事があるのでわざと来なかった、と言います。
――武衛は家義に感じ仰せて云く。・・・武衛は殊更に感動して仰せて言うには
――本朝無雙之勇士也。石橋に於いて、<大庭三郎>景親に相い伴いながら、景親と戦い遁し奉り訖。今又此の勲功を竭す(つくす)。末代に此類有るべからざる如しと者(てへれば)、諸人異心無しと<云々>。・・・(飯田五郎家義)は、双びなき勇士だ。石橋山では、大庭景親と一緒に平家方で戦っていたのが、頼朝を助けて、頼朝が落とした数珠を拾って届けてくれたんですね。そこで、末代に比類なき侍だと言ったところが、みんな反対する者はいなかった。
飯田の五郎は、横浜市泉区下飯田町東泉寺に供養寺があります。石橋山の合戦で頼朝を助ける。正治二年の景時追放事件の時は、駿河の国狐ヶ崎(きつねがさき)の合戦で、次男を亡くす、という記事があります。飯田城址というのはドリームランド北にある富士塚城址です。
(この辺では、まだ家業創世記の一枚岩なんですね・・・まあ上總廣常とか、諸源氏の思惑などはあるだろうけど・・・ただ、北條氏というのはこの辺りで、ドノテイドノ重みがあったんでしょうネェ・・・筆者の疑惑(^_^;)
(そうそう飯田五郎家義ですが、東鑑さんのほうでは家能になっています。これは底本の違いですね・・・後の武将達はどうなってんでしょう(^^ゞ)
○廿三日 壬寅。著于相摸國府給。始被行勲功賞。北條殿。及信義。義定。常胤。義澄。廣常。義盛。實平。盛長。宗遠。義實。親光。定綱。經高。盛綱。高綱。景光。遠景。景義。祐茂。行房。景員入道。實政。家秀。家義以下。或安堵本領。或令浴新恩。亦義澄爲三浦介。行平如元可爲下河邊庄司之由被仰<云々>。大庭三郎景親。遂以爲降人。參此所。即被召預上総權介廣常。長尾新五・爲宗召預岡崎四郎義實。同新六定景被召預義澄。河村三郎義秀被收公河村郷。被預景義。又瀧口三郎經俊召放山内庄。被召預實平。此外石橋合戰餘黨、雖有數輩。及刑法之者。僅十之一歟<云々>。 |
――23日 壬寅(じんいん)。
――相摸の國府に著き給ふ。・・・頼朝は京に上りたかったが相模武士団に止められて戻ってきた、ということで、この国府は大磯です。
――始めて勲功賞を行はる。・・・初めての勲功!権力発動ということです。
――北條殿・及信義・義定・常胤・義澄・廣常・義盛・實平・盛長・宗遠・義實・親光・定綱・經高・盛綱・高綱・景光・遠景・景義・祐茂・行房・景員入道・實政・家秀・家義以下。或いは本領を安堵し、或令いは新恩に浴せしむ。・・・本領安堵と、「新恩」というのは新しい土地を与えた、ということで、頼朝が持っていた土地や、ここまでの戦いで得た土地です。
――亦、義澄は三浦介として、行平は元の如く下河邊庄司爲るべき之由仰せらると<云々>。・・・元の通りの本領安堵です。
――大庭の三郎景親は、遂に以って降人として此所に参ず。・・・大庭の三郎景親が降参してきました。以下いろいろな武将が投降してきて、頼朝の有力武将たちに預けられますが、それぞれで明暗を分けます。
――即ち上総權介廣常に召し預けらる。
――長尾の新五・爲宗は岡崎四郎義實に召し預く。
――同新六定景は義澄に召し預けらる。・・・長尾氏は頼朝が東大寺の落慶法要に列した時、供をしています。養和元年七月五日に「長尾新六蒙厚免」の記事があります。
――河村三郎義秀は河村郷を收公され、景義に預けらる。・・・
――又、瀧口三郎經俊、山内庄を召し放ち、實平に召し預けらる。
――此の外、石橋合戰の餘黨(よとう)、數輩有りと雖も、刑法及ぶ之者、僅かに十之一歟と<云々>。・・・大変温情ある沙汰をしたと言う事です。
○廿五日 甲辰。入御松田御亭。此所。中村庄司奉仰。日來所加修理也。侍廿五ヶ間萱葺屋也<云々>。 |
――25日 甲辰 (こうしん)
――松田の御亭に入御す。・・・新しく作っていた頼朝の館が出来て、そこに入った。
――この所、中村庄司仰せを奉り、日来修理を加ふる所なり。・・・中村の庄司に言いつけて修理をさせていた所です。
――侍廿五ヶ間、萱葺きの屋(いえ)なりと<云々>。
・・・ここはちょつと聞き落としましたが、「吾妻鏡入門」の加藤塾さんでは「25間の」と成っていました。
○廿六日 乙巳。大庭平太景義囚人河村三郎義秀。可行斬罪由。被仰含<云々>。今日於固瀬河邊景親梟首。弟五郎景久者。志猶在平家之間。潜上洛<云々>。 |
――26日 乙巳 (いつみ)
――大庭の平太景義の囚人、河村の三郎義秀、斬罪に行ふべき由仰せ含めらると<云々>。・・・この「河村の三郎斬罪」というのは誤記か?という疑問があります。というのは、建久元年八月十六日の流鏑馬に人手が不足した時、大庭は預かっていた河村を出すんです。そして、河村は大変な腕前を示して以後赦免された、という記述があります。
――今日、固瀬河の邊りに於いて景親梟首す。・・・
――弟五郎景久は、志猶平家に有るの間、潛かに上洛すと<云々>。
・・・俣野の五郎はこの時(1180)姿を消して、建久6年(1195)11月15日、相模國大庭御厨の俣野の郷に大日堂があり、この御堂は「故」俣野景久が信仰していた、と言う記事があります。その間の記事が「吾妻鑑」には見られないけれど、「平家物語」の中に書かれています。本日配布資料。「平家物語」巻七「篠原合戦(1183)」の中に記事が見えます。
一とせ石橋の合戦の時、兵衛佐殿射たてまっし者共都へ逃げのぼって、平家の方にぞ候ひける。むねとの者には俣野五郎景久・長井斉藤別當實盛・伊東九郎祐氏・浮巣三郎重親・真下四郎重直、是等はしばらく戦のあらんまでやすまんとて―中略・酒盛りをして無聊をかこつうちに實盛が、関東では源氏が盛んなようだから、今から義仲の所へ行こうか、と言い出す―その中に俣野五郎すヽみ出て申けるは、「我らはさすが東國では皆人にしられて名のあるものでこそあれ、吉についてあなたへまいり、こなたへまいらふ事も見苦しかるべし。人をばしりまいらせず、景久にをいては平家の御方にていかにもならう」ど申しければ―中略・すると、実は實盛は、みんなの心を試すために言い出したことで、自分はもう今度の戦で討死にする覚悟を決めて、二度と都へ戻らぬと大臣(宗盛)にも告げてある、というのです―みな人この儀にぞ同じける。さればその約束をたがへじとぞや、当座にありし者共、一人も残らず北国にて皆死にけるこそむざんなれ。――「平家物語」巻七「篠原合戦」より |
。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜
ここに書いていいのかな、とも思うのですが・・・今回はちょっとしたハプニングがありました。
受講生の中で、心筋梗塞の発作を起こされた方がいらっしゃつて、丁度最前列で先生の目の前で倒れたのです。そのため処置も早くてよかったのですが、救急車が来たところで、落ち着かれたようでした。で、教室がエレベーターのない三階の会議室なのです。階段も狭くて急だし・・・だからかどうか、歩いていらっしゃったのです!!救急隊員に両腕支えられて、それでもフラフラしているのに、「大丈夫です、皆様ご心配掛けてごめんなさい」と、おしゃったのですが・・・顔色が真っ白!今思い出してもゾッとするくらい、怖い!!私はドアの傍の席だったので、ホントにまともに見てしまった!!
私が翌日メニエルの発作を起こしたのは、このアクシデントのせいもあると思っています。勿論お大事になさって欲しいですが、こういうときは、おとなしく担架で運ばれてくださいませ。まだ目に残って時々クラクラっとします。