5月8日(月)「吾妻鏡」第二 養和元年8月小13日〜寿永元年正月28日
筆者注―本文中の<>は細字、■は旧字体で出せない字、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。[?]は旧字体にあるのに、この紙上には出せない字、いずれも訳文中に当用漢字使用、読点と/を適宜入れました)
・・・とはいいますが、このところだいぶ横着になって、そのまま当用漢字があるものは当用漢字を使っていたりしますが、気が付けば訂正して現代文に当用漢字で当てていますm(__)m
このところ文中に 」 が出てきます。これは現代文なら段落というか、それ以上の「話し変わって」というような意味合いで、それまでに書かれていたところから大幅に場面転換する印だそうです。
<>の中に <。>が打たれている時は<>外に「。」句点を打つべきか、とか、あるいはこれは<>内の句点で済ませるべきか・・・悩んでいる所です。
五月は(@_@;)状態で欠席してしまいましたm(__)m
嗚呼!こんな時に限って、先生進んで下さるのですよ(^_^;第二巻最後まで言っちゃったそうです(^_^;どうして今回に限って、そんなパワー全開で行っちゃったんでしょうかネェ(^_^;
・・・って、書いて四月の記録を読みに行ってから気が付いた!前回の4月17日ってさ、具合悪くて一時限で早退してきたんだわ(^_^;んで〜、19日にお友達と総持寺とマソ廟を拝みに行くはずだったのに(ナント!日本人的無宗教(^_^;)、当日お友達が体調悪くて駄目になったんだけど、実は私もホッとしてしまったのでした〜m(__)m
なので、もし、あの日、先生があのまま絶好調を続けていたら、当然予定の8月29日迄は行っていたはずで・・・それなら、今月飛ばせば、このくらいもありかも(^_^;
よって、今月の読みは私の読みです。出来るだけ参考サイトの検索をして参りますが、
こういうときの神頼みで、「東鑑目録」さん、「吾妻鏡入門」さんをご参考にしてくださいませm(__)m
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○八月小 ○十三日 丁巳 藤原秀衡可令追討武衛也。平資永可追討木曽次郎義仲之由 宣下。是平氏之依申行也。 |
――八月小
――13日 丁巳(ていし)。藤原秀衡、武衛を追討せしむべき也。
――平の資永、木曽の次郎義仲を追討すべき之由 宣下す。
――是は平氏之申し行ふに依って也。
筆者の呟き・・・秀衡は1170年に鎮守府将軍、1181年に陸奥守に任ぜられて、この頃はかなり頼朝に対してライバル意識を持っていたと思われます。と思ったら、なにやら「寿永元年4月に頼朝が江ノ島で秀衡調伏の密議をした」という記事発見!!
おいおい〜〜ホントかよ〜?と、とにかく、こういう時は全編書き下してある↑「東鑑目録」さんに行って確かめてみる(^_^;ありましたよ!!いやぁ、ビックリだわぁ(^_^;まさか、そっくりそれを移してくる訳に行かんので、国史大系本から本文写しましたので(^_^;相変わらず読みは私流ですm(__)m
四月小 ○五日 乙巳。武衛令出腰越邊江嶋給。足利冠者。北条殿。仁田冠者。畠山次郎。下河邊庄司。同四郎。結城七郎。上総權介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文學上人。爲祈武衛御願。奉勸請大辨才天於此嶋。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事爲調伏鎮守府將軍藤原秀衡也<云々>。今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗澤邊。有牛追物。下河邊庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。 ――5日 乙巳(いつみ)。 ――武衛、腰越邊りの江嶋に出でしめ給ふ。足利の冠者・北条殿・仁田の冠者・畠山次郎・下河邊の庄司・同四郎・結城の七郎・上総權の介・足立右馬の允・土肥の次郎・宇佐美の平次・佐々木の太郎・同三郎・和田の小太郎・三浦の十郎・佐野の太郎等、御共に候ず。是は高雄の文學上人、武衛の御願を祈らんが爲、大辨才天を此の嶋に勸請奉る。供養法始行する之間、故を以って、監臨せしめ給ふ。密議す。此の事は鎮守府將軍藤原秀衡調伏の爲也と<云々>。今日、即ち鳥居を立てらる。其の後、還りしめ給ふ。金洗澤邊りに於いて、牛追物有り。下河邊庄司・和田小太郎・小山田三郎・愛甲三郎等、箭員有るに依って、各(おのおの)色皮紺絹等を賜る。 |
でー、これが載っていたサイトさんというのは・・・「AR3J-OKDことジェーオー」さんという一寸長いHNの方の「WELCOMおでんせ」というHPの「奥州藤原氏関係年表」こちらです。
さらに佐藤弘弥山と言う方の「義経伝説」というHPでは、「藤原秀衡の死」という項目で、件の「吾妻鏡」の記事と、前後の様子を掲載されています。
ところで、平資永って誰ですかネェ?と思っていたら、9月3日のところで「越後守資永<号城四郎。>」と出て来てなぁ〜んだ!!頼りない筆者では御座り間するm(__)m
○十五日 己未。鶴岳若宮遷宮。武衛參給<云々>。」今日。平氏但馬守經正朝臣。爲追討木曽冠者。進發北陸道<云々>。 |
――15日 己未(きび)
――鶴岳若宮遷宮。武衛參り給ふと<云々>。」
――今日、平氏の但馬の守經正朝臣、木曽冠者追討の爲、北陸道に進發すと<云々>。
・・・「經正」はご存知平経正!ハハハ・・・なんだそれは(^_^;経正は謡曲にもなり、「平家物語」でも、巻七には「経正都落」があります。
このリンク貼ったトコは、筆者の国文学研究資料館」連続講演「平家物語転読」メモです。
○十六日 庚申。中宮亮通盛朝臣。爲追討木曽冠者。又赴北陸道。伊勢守清綱。上総介忠清。舘太郎貞保發向東國。爲襲武衛也。 |
――16日 庚申(こうしん)
――中宮の亮通盛朝臣、木曽の冠者追討の爲、又、北陸道に赴く。
――伊勢の守清綱。上総の介忠清。舘太郎貞保、東國に發向す。武衛を襲わんが爲也。
・・・通盛のことは、↑同じく国文学研究資料館」の「平家物語転読」の講義メモに「小宰相のこと」に筆者の書いた駄文があります(^_^;
・・・伊勢の守清綱は藤原清綱、としかわかりません。ここにしか出てこないようです。清綱はたくさんいるんですけど・・・吉川弘文館の使いこなせない人名録では四人ほど(^_^;
・・・上総介忠清は平家の武士です。↑の人名録を辿ってみると、文治元年の5月十日に、加藤太光員の郎従に捕らえられた、という記事が見えるのと、その中間にいろいろありますが、最後には文治2年3月12日に、「関東御知行国々内乃貢未済庄」として「三ヶ国(下総・信濃・越後)庄々事」として、信濃の國の大穴庄という義清法師の旧領がリストアップされています。てぇことは、取り上げられたってことですよね(^^ゞ
・・・舘太郎貞保もここにしか出て着てないようです。
○廿六日 庚午。散位康信入道所進飛脚申云。今月一日。自福原歸洛。而去十六日。官軍等差東方發向。尤可被廻用意歟。 |
――26日 庚午(こうご)
――散位、康信入道、進むる所の飛脚、申して云く。
――今月一日、福原自り歸洛す。而るに去んぬる十六日、官軍等、東方を差して發向す。尤も用意廻らさるべき歟(か)。
・・・相変わらず、三善康信は京都の動静を逐一報告しています。これも乳母の輪ですねぇ〜(^_^;三善康信の母の姉は頼朝の乳母ですが・・・ビックリした!名前分からないんですって!!・・・どこかで、「あれぇ!比企の尼の妹」って見たんですけど・・・大体、三善康信の母が誰かわからないのかなぁ?そうすれば、その母の姉だってわかりますよねぇ(^_^;
治承四年6月19日の三善康信初登場の所に、先生の解説詳しく書いてましたm(__)m忘れてた!
あと、乳母についての面白い解説があったのが養和元年閏2月大7日でした。
○廿七日 辛未。澁谷庄司重國次男高重竭無貳忠節之上。依令感心操之隱便給。彼當知行澁谷下郷所濟乃貢等所被免除也。 |
――27日 辛未(しんび)
――澁谷の庄司重國の次男、高重、無貳の忠節を竭する之上、心操之隱便を感ぜしめ給ふに依って、彼の當知行澁谷下の郷、所濟の貢等、免除せらる所也。
・・・澁谷庄司重國といえば、治承四年8月26日の記事参照なのですが〜佐々木兄弟への愛に満ち満ちております(^^)心強い庇護者・・・まあ、佐々木のお父ちゃん秀義の妻の一人は重國の娘でもあるからですけど(^^ゞまあ、佐々木が婿になった事情だって大変なもので♪義理の孫たちにも慈愛豊かな人で、ウルウルさせられました。そんなこんなもあって、旗揚げ当時には平家方だったのを、源氏にトラバーユしてきた、というわりには、常に良い待遇を受けてます(^^)この度はまた、めでたくご次男さんの御忠義が認められて、所領の年貢が免除されたとか・・・(^^)vもともと、佐々木兄弟の定綱・盛綱・高綱の母は義朝の父為義女、つまり頼朝の伯母にあたるわけですけどね。そしたら、その佐々木兄弟を庇護下だけではなくて、醍醐の禅師全成まで匿ったんですって〜〜そっちは頼朝の異母弟です。まあ恩に着なくちゃ罰が当たりますよね(^^ゞ
○廿九日 癸酉。爲御願成就。於若宮并近國寺社。可令轉讀大般若仁王經等之旨被仰下。此内可令致長日御祈祷之所々在之。於鶴岳宮者。兼日被定其式。至伊豆筥根兩山者。今被仰之。註文者各一紙被送遣彼山<云々>。昌寛、奉行之 御祈祷次第事 毎月朔 大般若經一部 衆三十人 毎月朔 仁王講百座 衆十二人 長日 觀音品 衆百人五日一人充 四季 曼荼羅供 衆四人 右御祈祷註文如件 治承五年八月晦日 |
――29日 癸酉(きゆう)
――御願成就の爲、若宮、并びに近國の寺社に於いて、大般若・仁王經等の轉讀せしむべき之旨、仰せ下さる。
――此の内、長日、御祈祷之致せしむべき所々、之(これ)在り。
――鶴岳宮に於いて者(は)、兼日、其の式を定めらる。
――伊豆・筥根、兩山に至りて者(は)、今、之を仰せらる。
――註文者(は)、各(おのおの)一紙、彼の山に送り遣わさると<云々>。
――昌寛、之を奉行す。
御祈祷の次第の事 毎月朔(ついたち) 大般若經一部 衆三十人 毎月朔(ついたち) 仁王講百座 衆十二人 長日() 觀音品 衆百人五日一人充 四季() 曼荼羅供 衆四人 右、御祈祷註文、件の如し 治承五年八月晦日 |
「長日」というのは、タブン長期間という意味だろうと、と思ったのですが、ふと一昼夜ということもありかな?と思いついて辞書検索したらナント・・・こんなん出ました♪
「長日」 大辞泉・・・1 昼の時間の長い日。夏の日。2 長い日数。長時日。 大辞林・・・1 晩春から夏にかけての、昼の時間の長い日。 2 多くの日数。長時日。「―の御修法始めさせ給ふ/栄花(日蔭のかづら)」 |
ついでに「曼荼羅供」も分からなかったので辞書検索m(__)m
「曼荼羅供(まんだらく)」 大辞泉・・・真言宗の最高の法会の一。両界曼荼羅を掲げ、その諸尊を供養するもの。 大辞林・・・密教で、金剛・胎蔵の両部曼荼羅を掲げて、その諸尊を供養する法会(ほうえ)。 |
「四季」については、春夏秋冬ですよねえ・・・節季ごとという意味でいいのかな(^_^;
○九月大 ○三日 丙子。越後守資永<号城四郎。>任[来力]命。驅催當國軍士等。擬攻木曾冠者義仲之處。今朝頓滅。是蒙天譴歟。 從五位下行越後守平朝臣資永 城九郎資國男 母將軍三郎清原武衡女 養和元年八月十三日任叙 |
――9月大
――3日 丙子(へいし)。
――越後守資永<城四郎と号す。>勅命をじて、當國軍士等を驅け催す。
――木曾の冠者義仲を攻め擬す之處、今朝頓滅す。是は天譴(てんけん)を蒙る歟(か)。
從五位下行越後守平朝臣資永 城九郎資國男 母將軍三郎清原武衡女 養和元年八月十三日任叙 |
このへんは辞書検索音パレードm(__)mm(__)m
天譴(てんけん) 大辞泉・・・天帝のとがめ。天罰。 大辞林・・・天罰。 |
清原武衡については、後三年の役で、家衡とともに清衡・源義家の軍と争い、金沢柵で敗れ、殺された、というくらいですが、こちらは検索すればワンサカ出てきますので(^_^;・・・手抜きだ!!
○四日 丁丑。木曾冠者爲平家追討上洛。廻北陸道。而先陣根井太郎至越前國水津。与通盛朝臣從軍。已始合戰<云々>。 |
――4日 丁丑(ていちゅう)。
――木曾の冠者、平家追討に上洛の爲、北陸道を廻る。
――而るに先陣根井太郎、越前の國水津に至り、通盛朝臣の從軍与(と)、已に合戰を治むと<云々>。
このへんは、義仲が破竹の勢いで京に攻め上っていく過程ですね〜そういうトコ、吾妻鏡は冷たいのう(^^ゞ
○七日 庚辰。從五位下藤原俊綱<字足利太郎。>者。武藏守秀郷朝臣後胤。鎮守府將軍兼阿波守兼光六代孫。散位家綱男也。領掌數千町。爲郡内棟梁也。而去仁安年中。依或女性之凶害。得替下野國足利庄領主職。仍本家小松内府賜此所於新田冠者義重之間。俊綱令上洛愁申之時被返畢。自[傘の下を小に]以降。爲酬其恩。近年令属平家之上。嫡子又太郎忠綱同意三郎先生義廣。依此等事。不參武衛御方。武衛亦頻咎思食之間。仰和田次郎義茂。被下俊綱追討御書。三浦十郎義連。葛西三郎清重。宇佐美平次實政等被相副之。先義茂今日下向。 |
――7日 庚辰。
――從五位下藤原俊綱<字は足利の太郎。>者(は)、武藏の守秀郷の朝臣の後胤、鎮守府將軍兼阿波の守兼光の六代の孫、散位家綱が男也。
――數千町を領掌し、郡内の棟梁爲る也。
――而るに、去んぬる仁安年中、或る女性(にょしょう)之凶害に依って、下野の國足利の庄領主職を得替す。
――仍って、本家小松内府、此所を新田の冠者義重に賜る之間、俊綱は上洛せしめ、愁い申す之時、返され畢(おわんぬ)。尓自り以降、其の恩に酬いんが爲、近年、平家に属せしむる之上、嫡子又太郎忠綱は三郎先生義廣に同意し、此等の事に依って、武衛の御方には参らず。
――武衛は亦、頻りに咎め思食(おぼしめす)之間、和田の次郎義茂に仰せて、俊綱追討の御書を下さる。
――三浦十郎義連・葛西三郎清重・宇佐美平次實政等、之に相副えらる。
――先ず義茂、今日下向す。
・・・ふうん、「或る女性(にょしょう)之凶害に依って」ねぇ・・・つまりさ、自分に従わなかった侍女かなんかを殺してしまったとか?ですかねぇ
(^_^;足利氏は頼朝の相婿(政子の妹を妻にしている)義兼が有名ですが、そっちは八幡太郎義家の三男源義国(足利式部大夫)の方で新田氏と同流。こちらの藤原秀郷流足利氏は小山氏と同流。ともに足利を名乗るだけあって、今の足利市の地頭職を巡った対立もあったらしいですが〜、一応秀郷流足利氏としては、ここで滅亡するけれど傍流の阿曽沼氏などが源氏方について残った・・・はずです。
・・・和田の次郎義茂は和田義盛の弟。和田氏は三浦氏の傍流で、例の「和田合戦」の主役です。これが、例の「横浜吾妻鏡を読む会」の人名録でびっくりしたんですが、三浦義明の孫というのは覚えてましたけど、ヌァ〜ント、その義明の息子義宗が、玉という遊女に産ませたのが義盛なんだそうです。範頼(母は池田の遊女)といい、義平(母は橋本の遊女)といい・・・多いですねぇ(^^ゞ当時としては父親さえはっきりしていれば母親の家系が影響するのは嫡子(頼朝が嫡子になれたのは母の出自の爲!)だけなんですね(^^ゞもっとも、義平の母は三浦義明の娘という説もあって、義明の養女として義平を生んだのかも、という説が有ります。義平の一生無役で惨い生涯を考えると義明の実娘というのはちょっと考えにくいですよね(^_^;
○十三日 丙戌。和田次郎義茂飛脚自下野國參申云。義茂未到以前。俊綱專一者桐生六郎。爲顯隱忠。斬主人而籠深山。捜求之處。聞御使之由。始入來陣内。但於彼首者。稱可持參。不出渡之。何様可計沙汰哉<云々>。仰云。早可持參其首之旨。可令下知者。使者則馳皈<云々>。 |
――13日 丙戌(へいじゅつ)。
――和田の次郎義茂の飛脚、下野の國自り參り申して云く。
――義茂、未だ到らずの以前、俊綱專一とする者、桐生の六郎、隱れ忠を顯わさんが爲、主人を斬し、深山に籠ず。
――捜求する之處、御使い之由を聞き、始めて陣内に入り來たる。
――但し彼の首者(は)、持參すべしと稱し、之を出し渡さず。何様に計り沙汰すべき哉(や)と<云々>。
――仰せて云く。
――早く其の首を持參すべき之旨、下知せしむべし者(とてへり)。使者、則ち馳せ皈(かえ)ると<云々>。
○十六日 己丑。桐生六郎持參俊綱之首。先自武藏大路。立使者於梶原平三之許。申案内。而不被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越之旨被仰之。次依可被加實檢。見知俊綱面之者有之歟之由被尋仰。而只今於祗候衆者。不合眼之由申之。爰佐野七郎申云。下河邊四郎政義常遂對面<云々>。可被召之歟<云々>。仍召仰之間。政義遂實檢令歸參。申云。刎首之後。經日數之故。其面殊改雖令變。大略無相違<云々>。 |
――16日 己丑(きちゅう)。
――桐生の六郎、俊綱之首を持參す。
――先ず武藏大路自り、使者を梶原平三之許に立て、案内を申す。
――而るに、鎌倉中には入れられず、直に深澤を經て、腰越に向うべき之旨、之を仰せらる。
――次いで、實檢を加えらるべきに依り、俊綱の面を見知る之者、之有る歟之由、尋ね仰せらる。
――而して、只今、祗候の衆に於いて者(は)、合眼せざる之由、之を申す。
――爰に佐野の七郎、申して云く。
――下河邊の四郎政義、常に對面を遂ぐと<云々>。之を召さるべき歟と<云々>。
――仍って召し仰せる之間、政義、實檢を遂げ、歸參せしめて、申して云く。
――首を刎ねる之後、日數經る之故、其の面、殊に改め變わらしむと雖も、大略相違無しと<云々>。
・・・「首を刎ねる之後、日數經る之故」って、そんな首と対面させられる御家人たちも楽じゃないですよね(^_^;「大略相違無し」ってホントかな〜(^_^;そうそう腐敗防止に丹を塗るって、先月の腰越の注釈のところで教わったんでしたね。と、すると首の周りはマッカッカ(^_^;それでも人相分かるのでしょうか〜〜?
○十八日 辛卯。桐生六郎以梶原平三申云。依此賞。可列御家人<云々>。而誅譜第主人。造意之企。尤不當也。雖一旦不足賞翫。早可誅之由被仰。景時則梟俊綱首之傍訖。次俊綱遺領等事。有其沙汰。於所領者収公。至妻子等者。可令本宅資財安堵之由被定之。載其趣於御下文。被遣和田次郎之許<云々>。 仰下 和田次郎義茂所 不可罰雖爲俊綱之子息郎從、參向御方輩事 右。云子息兄弟。云郎從眷属。始桐生之者。於落參御方者。不可及殺害。又件黨類等妻子眷属并私宅等。不可取損亡之旨。所 被仰下「知」如件。 治承五年九月十八日 |
――18日 辛卯(しんぼう)
――桐生の六郎、梶原平三を以って申して云く。
――此の賞に依って、御家人に列すべしと<云々>。而るに譜第の主人を誅し、造意之企て、尤も不當也。一旦と雖も賞翫に足らず。早く誅すべき之由仰せらる。
――景時は、則ち俊綱の首之傍(かたわら)に梟し訖(おわんぬ)。
――次いで、俊綱遺領等の事、其の沙汰有り。
――所領に於いて者(は)収公す。
――妻子等に至りて者(は)、本宅資財安堵せしむべき之由、之を定めらる。
――其の趣きを御下文に戴き、和田の次郎之許に遣さると<云々>。
・・・戦に裏切りは付き物ですが、そのくせ武士は裏切りを嫌います。それなのに自分の都合で勧めて見たり・・・武士道とはカメレオンと見つけたり!!というわけで、裏切られて投降する者には返って情けが掛かるらしい(^_^;
仰せ下さる 和田の次郎義茂が所 俊綱之子息郎從爲ると雖も、御方に参向する輩、罰すべからざる事 右。子息兄弟と云い、郎從眷属と云い、桐生之者を始め、御方に落參するに於いては、殺害に及ぶべからず。又、件の黨類等、妻子眷属、并びに私宅等、取り損亡すべからず之旨、仰せ下さる所「知」件の如し。 治承五年九月十八日 |
・・・仰せ下さる所「知」件の如し・・・って頭注に「知、吉本无、當衍」とあり。「无」は「ブ・ム・な・い」。「衍」は「エン、はびこる・しく」
○廿七日 庚子(こうし)。民部<田口>大夫成良爲平家使。乱入伊豫國。而河野四郎以下在廳等依有異心。及合戰。河野頗雌伏。是無勢之故歟<云々>。 |
――27日 庚子 (こうし)
――民部<田口>大夫成良、平家の使い爲(と)して、伊豫の國に乱入す。
――而るに、河野の四郎以下の在廳等、異心有るに依って、合戰に及ぶ。
――河野、頗る雌伏す。是は無勢之故歟と<云々>。
・・・河野の四郎は河野通信。河野水軍て有名ですよねぇ。この(鎌倉)近くで言うと一遍上人は通信の孫なんですが・・・関係ないか(^_^;
○廿八日 辛丑。和田次郎義茂。自下野國歸參<云々>。 |
――28日 辛丑 (しんちゅう)
――和田の次郎義茂、下野の國自り歸參すと<云々>。
○十月小 ○三日 丙午。頭中將維盛朝臣爲襲東國赴城外<云々>。 |
――十月小
――3日 丙午(へいご)。
――頭中將維盛朝臣、東國を襲わんが爲、城外に赴くと<云々>
・・・維盛君!二枚目の名だけで全く戦の役に立たない男じゃあ!!と思っていたら、ついさっき、読んでいた永井路子さんの本では、理想化された重盛の末裔として、戦の血に汚されないように書かれているんじゃないか、というような・・・ムムム・・・そういう考え方もできるのか(^_^;ちょっと私としては納得できないのですが・・・(^_^;
○六日 己酉。以走湯山住侶禪■補鶴岳供僧并大般若經衆。給免田二町<在鶴岳西谷>御下文<云々>。又以玄信大法師。被加同職。於最勝講衆者。可従長日役之旨被仰<云々>。 定補 若宮長日大般若經供僧職事 大法師禪■ 右以人。爲大般若經供僧。長日・可令勤行之状・如件 治承五年十月六日 定補 若宮長日最勝講供僧職事 大法師玄信 右以人。爲最勝講衆。長日之役可令勤仕之状。所仰如件 治承五年十月六日 |
――6日 己酉
――走湯山住侶禪■を以って、鶴岳の供僧、并びに大般若經衆に補す。免田二町<鶴岳西谷に在り>御下文を給ふと<云々>。
――又、玄信大法師を以って、同職に加えらる。最勝講衆に於いて者(は)、長日の役に従ふべき之旨、仰せらると<云々>。
定補 若宮、長日の大般若經、供僧職の事 大法師禪■ 右の人を以って爲大般若經供僧と爲す。長日、勤行(ごんぎょう)せしむべき之状、件の如し 治承五年十月六日 |
定補 若宮、長日の最勝講、供僧職の事 大法師玄信 右の人を以って、最勝講衆と爲す。長日之役、勤仕せしむべき之状、仰せの所、件の如し 治承五年十月六日 |
・・・「禪■」の■は容の口を目に変える字、或いはウ冠の下に眷です。容でいいんだと思いますが・・・(^_^;
禪容(ぜんよう)か?禪眷(ぜんけん)か?・・・・ホントにこういう時は、講義サボった罰をしみじみ感じる(^_^;
○十二日 乙卯。以常陸國橘郷。令奉寄鹿嶋社。是依爲武家護持之神。殊有御信仰<云々>。 奉寄 鹿嶋社御領 在常陸國橘郷 右爲心願成就。所奉寄如件 治承五年十月日 源頼ー<敬白> |
――12日 乙卯(いつぼう)
――常陸の國、橘郷を以って、鹿嶋社に寄せ奉らしむ。
――是は、武家の護持之神爲るに依って、殊に御信仰有りと<云々>。
寄せ奉る 鹿嶋社御領 常陸の國、橘郷に在り 右、心願成就の爲、寄せ奉る所、件の如し 治承五年十月日 源頼ー<敬白> |
○廿日 癸亥。昨日。太神宮權禰宜度會光倫<号相鹿二郎太夫。>自本宮參著。是爲致御祈祷賜御願書也。今日武衛對面給。光倫申云。去月十九日。依平家之申行。爲東國歸往祈祷。任天慶之例。被奉金鎧於神宮。奉納以前。祭主親隆卿嫡男神祇少副定隆於伊勢國一志驛家頓滅。又件甲可被奉納事。同月十六日於京都有御沙汰。當于其日。本宮正殿棟木。蜂作巣。雀小[虫也]生子。就是等之恠。勘先蹤輕 朝憲危國土之凶臣。當此時可敗北之條。兼而無疑者。仰曰。去永暦元年出京之時。有夢想告之後。當宮御事。偈仰之思異于他。所願成弁者。必可寄進新御厨<云々>。 |
――20日 癸亥(きがい)
――昨日、太神宮、權の禰宜(ねぎ)度會光倫(わたらいみつとも)<相鹿の二郎大夫と号す。>本宮自り參著す。
――是は御祈祷を致さんが爲、御願書を賜る也。
――今日、武衛、對面し給ふ。
――光倫、申して云く。
――去んぬる月の十九日、平家之申し行ふに依って、東國歸往の祈祷を爲す。
――天慶之例(ためし)に任せて、金の鎧を神宮に奉らる。
――奉納の以前、祭主、親隆卿の嫡男・神祇少副定隆、伊勢國一志の驛家に於いて頓滅す。
――又、件の甲(かぶと?よろい?)奉納せらるべきの事、同月十六日、京都に於いて、御沙汰有り。
――其の日に當り、本宮正殿の棟木に、蜂の、巣を作り、雀・小[虫也]、子を生む。
――是等之恠(かい=怪?)に就いて、先蹤の勘を、朝憲を輕んじ、國土を危ぶむ之凶臣、此の時に當たり、敗北すべき之條、兼て疑い無し者(とてへり)。
――仰せて曰く。
――去んぬる永暦元年()出京之時、夢想の告げ有る之後、當宮の御事、偈仰之思い他に異なる。所願成弁者(てへれば)、必ず新御厨を寄進すべしと<云々>。
・・・「雀小[虫也]生子」ってのは、「東鑑目録」さんでは、「雀が小さい蛇の子を生む」と言うことになってました、が〜どうなんでしょうか、ねぇ(^_^;
朝憲 大辞泉・・・朝廷で定めたおきて。また、国を治める根本の法規。憲法。国憲 大辞林・・・1 国家を治める根本の法規。国憲。 2 朝廷で定めたおきて。 |
○十一月大 ○五日 丁丑。足利冠者義兼。源九郎義經。土肥二郎實平。土屋三郎宗遠。和田小太郎義盛等。爲防禦維盛朝臣。欲行向遠江國之處。佐々木源三秀能申云。件羽林。當時在近江國。下向不知其期。且十郎<行家>藏人張軍陣於尾張國。先可相支歟。各雖無楚忽。進發有何事哉<云々>。仍延引<云々>。 |
――十一月大
――5日 丁丑(ていちゅう)。
――足利の冠者義兼・源の九郎義經・土肥の二郎實平・土屋の三郎宗遠・和田の小太郎義盛等・維盛朝臣を防禦爲(せ)んと、遠江の國に行き向わんと欲する之處、佐々木の源三秀能、申して云く。
――件の羽林、當時、近江の國に在り。下向、其の期を知らず。且つ、十郎<行家>藏人、軍陣を尾張の國に張る。先ず相支うるべき歟。各(おのおの)楚忽無きと雖も、進發何事有る哉(や)と<云々>。仍って延引すと<云々>。
○十一日 癸未。加賀竪者參著。是故入道源三位卿一族也。而彼三品禪門近親埴生弥太郎盛兼。去年宇治合戰以後。蟄居于或所。潜欲參關東之處。九月廿一日。前右大將<宗盛卿>遣勇士擬生虜刻。忽以自殺。号件與力衆。搦取少納言宗綱畢。依爲親眤。同被捜求之間。失度參向<云々>。 |
――11日 癸未(きび)。
――加賀の竪者參著す。是は故入道源三位卿の一族也。而るに彼の三品禪門の近親、埴生の弥太郎盛兼、去んぬる年の宇治合戰以後、或所に蟄居す。
――潜かに關東に參らんと欲する之處、九月廿一日、前の右大將<宗盛卿>、勇士を遣わし、生虜りに擬(なぞら)えんとする刻(みぎり)、忽ち以って自殺す。
――件の与力衆を号し、少納言宗綱は搦め取り畢(おわんぬ)。
――親眤爲るに依って、同じく捜求せらるる之間、度(はからひ)を失い參向すと<云々>。
・・・「加賀の竪者」って誰?源三位頼政の一族なんですよね・・・仲綱は伊豆守なんだから、それ以外・・・明日聞けるかな(^_^;
・・・「九月廿一日」の日付が、「吾妻鏡入門」さんでは同じく「九月廿一日」なのですが、うちが活字を頂いてる「国文学研究資料館」(底本は、「国文学研究資料館蔵の寛永版本」)では五月二十一日になっており、「東鑑目録」さんも「振り仮名付き寛永版影印本」ですが国文研と同じく五月二十一日になってました。要するに国史大系本か寛永本か、ということなのでしょう。
今までにも、文章がいろいろ違っている、というのはたくさんありましたが、日付がこれほど違っているのは初めてで、ビ〜クリ!!
この「読み」にしても、読み方がどうこう、というより、明らかに返り点の位置が違っているんだろうな、という時が結構有ります。字も違っていたり・・・。
国文研から活字貰うのは、ちょっと忸怩たる所もありますが、一字ずつチェックできるのは大変ありがたいですm(__)m
でも、源氏なら写本とテキストの違いに一応印つけて、後から見れば分かるようにしてあるのですが、これは、ここでアップしてしまうので、テキストにチェック、というのは横着してしまいます!!せっかくなんだから、勿体無い与ネェ・・・と、自分でも思うんだけど(^_^;テキストが新しくなるついでに、やってみますかネェ・・・あら!脱線(^^ゞ
○廿一日 癸巳。中宮亮通盛朝臣。左馬頭行盛。自北國歸洛。但馬守經正朝臣逗留若狹國<云々>。 |
――21日 癸巳(きし)。
――中宮の亮通盛の朝臣・左馬の頭行盛、北國自り歸洛す。
――但馬の守經正の朝臣、若狹の國に逗留すと<云々>
○廿九日 辛丑。早河庄所領乃貢者。一向所被免除也。依殊御憐愍也。 |
――29日 辛丑(しんちゅう)
――早河の庄、所領乃貢者(みつぎは)、一向免除せらるる所也。殊に御憐愍に依って也。
・・・早河の庄の貢の免除って、例の武衛の乳母(養和元年2月大7日)の摩々の尼の件でしょうか(^^ゞ
一向 大辞泉・・・[副] (「一向に」の形で用いる) 1 全然。まったく。「何を言われても―に動じない」 2 (あとに打消しの語を伴って)ちっとも。少しも。「―に存じません」「服装には―に構わない」 3 ひたすら。いちずに。「その儀では候はず、―御一家の御上とこそ承り候へ」〈平家・二〉 4 いっそのこと。むしろ。「さもなくば―に時宗が首討って」〈浄・大磯虎〉 大辞林・・・[副] 1 (下に打ち消しの語を伴って)まるきり。少しも。「しかっても―こたえない」「―に驚かない」 2 全く。「―平気だ」「口が―に無調法な女であった/新世帯(秋声)」 3 ひたすらに。ひたむきに。「唯本願をたのみて―に称名すれば/一遍上人語録」 4 いっそのこと。むしろ。「―に重忠と刺し違へて死なんとは思ひしが/浄瑠璃・出世景清」 5 すべて。全部。「大小事―なんぢにこそ言ひ合はせしか/平家 10」 |
○十二月小 ○七日 己酉。御臺所御悩。仍營中上下群集。 |
――十二月小
――7日 己酉(きゆう)。
――御臺所御悩。仍って營中、上下群集す。
・・・ほぅ〜、政子の病気でそんなに大騒ぎになるのか〜って、これは頼家懐妊の時なのかな(^^ゞ頼家誕生は寿永元年(1182)の8月乃至9月だから、養和元年(1181)ですから、丁度懐妊か分かった頃ってことかな?これは、新旧の暦をちゃんと見なくちゃ駄目なんですよね(^_^;・・・で新旧の暦を対応させてくれるページに行って見たら、こんなに古いのは駄目でしたm(__)m
○十一日 癸丑。帥公日恵入滅。日來煩腹中。今夜則葬于山内邊。武衛御哀傷之余。自令向其荼毘所給。是園城寺律靜房日胤門弟。顯蜜兼学淨侶也。去五月。尋先師舊好令參向之間。有御歸依<云々>。 |
――11日 癸丑(きちゅう)。
――帥の公、日恵入滅す。日來(ひごろ)、腹中を煩ふ。
――今夜、則ち山内の邊りに葬る。
――武衛は、御哀傷之余り、自ら其の荼毘所に向かわしめ給ふ。
――是は園城寺、律靜房日胤の門弟。顯蜜・兼学の淨侶也。
――去んぬる五月、先師の舊好を尋ねて、參向せしむる之間、御歸依有りと<云々>。
・・・日恵は養和元年5月8日に、律靜房日胤の千日の所願を相承し終えて、遺命を守って鎌倉に下向してきたのでした。日胤自身も千葉常胤の息子ですから、頼朝にとっては、もう身内同然なんですね。おまけに頼朝は変に信心深いので、もう〜二重三重に「御哀傷之余り」となったのでしょう。おい、おい、その情けの一部でも血縁にかけてやれよ!と思うのは私だけ(^_^;まあ、この時代の血縁なんて、先生からも何度も言われているとおり、単なる一族というよりは、うかうかすると自分の地位を脅かす最強のライバルですからねぇ〜(^_^;
自分のために働いてくれる他人の方が大事かも〜(^^ゞ
・・・「腹中を煩ふ」というと大腸ガンとか、直腸ガン?まあ、これほど昔なら腸ねん転、ということも有りますよね。
。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜
というわけで、勝手にシンドバッド♪の読みは終わりですm(__)m
ご清聴感謝いたしますm(__)m
あー、次回六月はもう第三に入っちゃうのです!!はぁ〜溜息だ(´∧`)〜ハァー