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6月6日(木) インターミッションG 観世流能楽「夕顔―山之端之出」

鎌倉能舞台で「夕顔」を見てきました。当然「源氏物語」からの古典能です。インターミッションFで、寂聴氏が「『源氏物語』の名場面というのは、全部古典能に入っているんです。」と新作能の執筆で嘆いていらした、あれですね。
私は、「葵上」しか拝見したことがないのですが、最近、時々お邪魔しているソフィアンズ・カフェというサイトの管理人さんが、鎌倉能舞台の関係者で「夕顔」が上演されるということ、解説付きでもあり、普段あまり出ない「山之端之出」という演出方法だと言うことで、拝見してきました。

解説はKさん。ぬぁ〜んと!この方、我が母校の先生でいらっしゃるらしい(^_^;「学部」の方機関誌に「鏡像と心像 −『源氏物語』の引歌について− K坂N男」とお書きになつていらっしゃる!!へぇ〜、知りませんでした。ごめんなさいm(__)m
大体の観客が「源氏物語」の概要を先刻承知、と言う呈での解説です。

ちょっと、ボソボソとお話しになるので聞き取れないところもあったし、脈絡が繋がらない―原稿がない?―ところもあったり、また私としてはちょつと受け入れがたい解釈だなぁと思う処もありました。でも、とにかく、そういうことを考えていらっしゃる「専門家」がいるということで、後の記録のために。聞き取れなかった部分と先生が省略しちゃったような部分は(筆者のこうであったろうと言う単語を補足しながら)以下―

「夕顔」は「源氏物語」の四番目の巻です。大体物語を書き始めて、ある段階で(冒頭の)「桐壺」を置いた。(夕顔は)「帚木」の後半から「空蝉」にかけて出てきます。「帚木」という巻は、雨の夜に若い男たちが集まって女性の噂話をする、そういう話です。そこで頭中将が、自分との間に子まで生した女性が、第一夫人のことを恐れて行方不明になってしまったと話します。これが夕顔です。この夕顔と言う女性はもうひとり、そこに「帚木」に出てくる空蝉という女性と裏表なんですね。第三番目に「空蝉」というそれほど長くもなく、たいした身分の女性でもないものをなぜ独立させ登場させたか、といえば、(「夕顔」との)対比のためです。当時は光に憧れて見上げる人ばかりだった。光自身もいい気になってあちこち出歩いていた時期です。その中で、空蝉は、光に憧れの気持ちはあって、一度だけは受け入れてしまったが、後は逃げるんですね。空蝉は自分の人妻ということを強く意識している。その倫理意識から二度と近づけないんです。(その人妻の倫理意識と言う)もっとも個性的な空蝉の行動を確立させたいために「空蝉」の巻を独立させた。
その反対の性格を与えられたのが「夕顔」です。
夕顔は夫、頭中将という光の親友で親戚にも当たる、そういう夫と子どもまである。一夫多妻の時代で家柄の一番良い家の娘が第一夫人になって、夫と同じ家に住みます。その他の妻達は自分の家で、夫が通ってくるのを待つ。そういう夫を待つ身でありながら、白い夕顔の花を乗せるのに白い扇を用意させている。その時夕顔が住んでいるのは、その頭中将の一番家柄の良い妻、これは右大臣の娘で、将来は、頭中将とこの妻との一人娘が女御にも立つのですが、その妻が一夫多妻の時代なんだからいいわよ、と思えばいいのに、自分以外の妻は許せない、と脅迫してきたので、怖がって隠れ住むんです。その隠れ家に移る前の仮住まいだから、五条あたりの小さな家です。だから隣に誰が住んでいるとか、誰が尋ねてきたかと言うことがすぐわかつてしまう。隣にきたのは光で、自分の家の垣根に咲いている夕顔をきれいだと思っている、きっともらいにくるわ、そしたらこの扇に載せてやりましょう、と準備している、そういう女性です。夕顔の白い花を乗せるのに白い扇を用意するような趣味の良い女なら、きっと扇には歌くらい書いてあるだろう、と光は考える。夕顔は日暮れに咲く花だから、もう、あたりは暗くて、扇に書いてある字は読めないんです。それを後から読むと、あなたは光の君じゃないんですか、と言う意味の歌が書かれていて、思いがけないところに思いがけない女性がいるものだと思う。
光も頭中将が(「帚木」で)話していたことに思い当たるけれど、その女性に惹かれていく。夕顔の方も夫を持つ身、子を持つ身、ということを忘れて源氏に惹かれていく。(人妻としての倫理意識のために光から逃れようとする)空蝉に対して正反対の性格の女性が「源氏物語」のはじめに描かれている。

人間は誰でも「空蝉的」な部分と「夕顔的」な部分を併せ持っている。それを極端に書き分けたのは、短編としての独立させたものだから。紫上のようにバランスのとれた性格を持つ人たちは長編物語のヒロインです。バランスを崩している空蝉や夕顔は長編の主人公にはなれない。で、また個性のハッキリしている女性のほうが能にしやすい。桐壺や紫上は―最近は紫上を主人公にした能が出来たが、たいした話題にはならなかった―能のヒロインに向かない。

それで、光は五条の夕顔の家に何度か通うのですが、何分にも狭くて小さい、外の声も筒抜けになるような家で寛げない、というので、「某の院」という古い邸に夕顔を連れ出します。そこで、夕顔は幸福の絶頂で取り殺されてしまいます。
それは六条御息所という大変身分の高い女性、教養もあって、趣味もよくて、先の東宮の未亡人です。この女性に取り殺されてしまう。もともと、光は六条御息所のもとに通っています。でも、その身分も教養も高い女性を放っておいて、こんな身分の低い女性を連れ出して、と六条御息所は怒ります。怒るけれど嗜み深くて、言葉に出すことができない、そうすると、溜まりに溜まった思い、魂が体を離れて夕顔のところにいつて取り殺してしまいます。
その幸福の絶頂で取り殺された夕顔の無念・残念さを描きます。
「現実」の姿と「幻」の姿―「夢幻能」の魅力です。

――ということでした。
はぁ、夕顔と空蝉の対比ねぇ・・・そんなこと考えたことなかったなぁ・・・(^_^;
なんで、あそこに空蝉を置いたのか?私は、藤壺との対比というように考えていましたけどね。つまり、玉蔓系の挿話として考えれば、人妻を犯す、と言う意味で、藤壺との「書かれていない部分」を補い、また、身分は高くても何度も(実際は二度?)受け入れてしまった藤壺に対して、はじめのことは事故と思い定め、自分の残り香のような思い出を美しく残した受領階級の女性として空蝉を描いた、と考えているのです。
また、夕顔については、六条御息所の華麗さと恐ろしさ、哀れさを際立たせるためのものではないか、と思っています。例の私のお気に入り「六条邸朝帰りの段」は、この「夕顔」の巻にあるのです。私としては、「夕顔」の巻の主人公は、六条御息所とさえ思えるのです。
ただ、この先生のおっしゃる「空蝉と夕顔の対比」というのも、納得は出来ないながら、なるほど、そういう考え方もありなのね、と思わざるを得ません。

それと、これも「バランスのとれた性格を持つ人たちは長編物語のヒロインです。バランスを崩している空蝉や夕顔は長編の主人公にはなれない。」というのは、納得してしまいますね。で、また「個性のハッキリしている女性のほうが能にしやすい」というのは、そりゃあそうだ、と大納得。六条御息所にしてから「葵上」の主役ですからね。あれくらい、バランスを欠いたヒロインはいませんから(^_^;)
ふーむ、「私の源氏物語」で考えること増えちゃいましたねぇ・・・(^_^;

で、肝心のお能ですが、よかったです。詳しくは観覧記の方に。







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