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11月01日(土)光源氏モデル考――「伊周」

↑というほど大げさな物ではないのですが、例のN先生のカルチャースクール講座を受講した時、その折のお話の中で、自分の意見を書いて置いた所を載せておきたいと思いましたので。

丁度、お能で「融」をやったところでもあるし、伊周・融・道長など光源氏のモデル、と言われた人たちに一寸触れてみたい、と思いました。
まだ、「源氏物語」自体のエッセイも中途半端なのですが・・・(^_^;

光源氏のモデルとしては、この三人のほかにも、村上天皇(この帝は桐壺帝にも擬せられていたりする)だとか、本当に諸説あるのですが、結局は、当時の様々な貴公子のイメージの寄せ集め、だとは思うのです。ですから、その人たちをチョコチョコと取り上げていこうか、と思います。

N先生は、物語中の登場人物を一人として悪くはおっしゃいませんが、この時、伊周を偉く買っていらっしゃる口ぶりだったのです。
伊周は藤原伊周。「枕草子」でも主要人物である貴族ですが、というより、手っ取り早くは、「定子の兄」です(^^ゞ
「枕草子」を読んでいても、弟の隆家のほうは颯爽としていてかっこいい♪と思いますが、伊周〜総領の甚六じゃなぁい(^^ゞという感じでした。花山天皇襲撃事件だったてねぇ・・・バカかお前!!みたいな気分が残りますし・・・まあ、けしかけたのは隆家ですけど(^_^;配流になったら、定子の御殿に逃げ込んでいじましいったらありゃしない!!そのおかげで、定子もショック受けて落飾しちゃうし・・・もう!!
それに隆家は早々に宮廷に復帰して、いつのまにやら三条天皇の近臣にもなっているし・・・敦康親王を立太子させて、その後見を隆家に、という世間の期待も大きかった、と大鏡にあるらしいし(・・・読んでませんm(__)m保立道久「平安王朝」より)。

というわけで――伊周卿復権のこと!!―「藤原道長」北山茂夫著・岩波新書より

実は、↑の記事で書いた通り、私は伊周を大分舐めておりました(^_^;
でも、あのN先生が大変ご推奨なので、色々考えまして・・・そういえば伊周の才能を褒めた文を読んだ記憶もうっすら出できました。それでとにかく内にあるものを当たったところありました(^^ゞ それが皮肉なことに「藤原道長」(北山茂夫著・岩波新書)というわけです。

それに寄れば、

21歳の伊周は994年のある夜遅くまで一条天皇(15歳)に漢籍について講義を続けて、暁に及び、「上の御前の柱に寄りかからせ給ひて、すこし眠らせ給ふ」という状況であったらしい。(『枕草子』第313段)―中略―(道長は)才ばしる伊周の詩作のうまさを見聞して大いに刺激されて、自らもそれに励んだかもしれない。伊周を抜きにしては、この時代とその前後の道長の歩みはまともにとらえられないであろう。

と言うのです。フーム!道長にそうまで思い込ませるほどの逸材だったのかしらねぇ・・・と反省。大体、「枕草子」にそんな風に書いてあったことが印象に無かった!!もう一度「枕草子」をちゃんと読まなければなりませんかね(^_^; で、続きですが・・・
1004年(寛弘元年)の道長の宇治の雅会に権中納言として隆家が招かれていたこと、詩作をして『本朝麗藻』に採られていることがあり、さらに伊周が、その少し前に寂照(儒門の人・大江定基)との詩作の贈答があり、

道長はこの詩に和する作をなし伊周に贈った。かれも左大臣に応えて一篇をものして送り届けた。天皇も道長の詩篇を見て、御製を道長に与えた。そこで今度は道長が御製に和した詩を一条に捧げた。詩を介して伊周、道長、そして一条の間に一つのやや親密なふれあいがあった。

1005年(寛弘五年)の一月には伊周の息子が元服し昇殿が許された事を祝って道長から馬が送ったとのこと。二月には伊周自身の席次が大臣の下、大納言の上(准大臣―大臣に任ずべきところ闕官がない時、しばらくつけておく地位)の詔を賜り翌月三月26日には昇殿を許されたそうです。そして、その三日後に道長邸に招かれて、作文の会となった折、当日のテーマの「花落春帰路」という詩を作り、それ以後の宮廷社会での反応は―

春帰りて駐まらず禁じ難きを惜しむ、
花落ちて粉々雲路深し、
地に委ちては正に応に景(日の光)に随ひて去るべく、
風に任せては便ちこれ蹤(あしあと)をおいて尋ぬ、
枝空しく嶺徼りて霞(ゆうやけ)は色を消し、
粧脆く渓閑かにして鳥は音に入る、
年月推選して齢漸く老い、
余生只恩(一条天皇の恩)を憶ふの心あるのみ。

小野宮実資はその席にはいませんでしたが藤原俊賢が書簡を届け、「昨日の作文、外帥(伊周)の詩毎句感あり、満座涙を拭へり、」とのこと。また次の日実資を訪れた前越前守藤原尚賢が「外帥の詩述懐あり、上下涕泣、主人(道長)感嘆す」と告げた由、双方実資の「小右記」に書かれているそうです。この時伊周32歳。官位としては復権を遂げつつあったとしても、現実の政権には程遠く昔日の光輝く日々を思えば、何を思ってこの詩を作ったのでしょうか。
また、「道長は、作文の席で、公卿達の伊周への同情が意外に強いのに驚きを感じ」とありました。

なんとなく「絵合」を連想させる一事ではあります。あの時、源氏は留めの一巻ともいうべき、須磨・明石流謫の絵日記を取り出し満場の袖を絞らせたのでした。伊周のこの詩文にはそれを髣髴とさせる物があります。
伊周は政治家としては実際にはあまり優秀でなかったとしても、少なくも詩人としてはやはりなかなかの人だったのでしょう。ただそれだからこそ文才を政治的な才能と勘違いするようなところもあったのかもしれない、とは思いました。

しかし、いずれにしても、ここで伊周の才能再発見が出来て大変有意義でした。

ちなみに寛弘7年(1010年)、伊周は、儀同三司(ぎとうさんし―本来は中国の位階で、一位のことだが、三人の大臣に順ずる待遇を受ける意で用いた)の称号のまま、ついに勢力回復を果たせず37歳で死去しました。実は、この死についても1009年に彰子と敦成親王を呪詛したという事件の黒幕として、その正月に正二位に叙せられたばかりの伊周が擬せられて、朝廷への参入が停止され、4ヵ月後に解除されるがその身に覚えのない嫌疑を受けたという打撃で、憤死同然の死であったようです。

そうそう、私のごヒイキの隆家は、何時の間にやら三条天皇の側近になっていて、一条天皇が、敦康親王を東宮に立てることを諦めた時、「(一条天皇ん対して)あはれの人非人や、とこそ申さまほしくこそありしか」と述懐した(保立道久著「平安王朝」)そうで、同じ兄弟でもこんなに違うのですねぇ(^^ゞ

で、結局は、隆家自身も眼病を患って、その医薬を入手するために、自ら求めて太宰の権の帥になったのだそうです。なんだかなぁ・・・(^_^;

後日談・・・先生が、某カルチャーセンターでの講義で「道長は伊周を嫌っていたけれと、弟の隆家のことは大変可愛がるんですね。この人は大変豪胆なので、その辺が気があったのでしょう。出雲に流すんですけど一年で呼び戻して、権中納言、権中納言と可愛がります」とおっしゃったんですよ(^^)
ん〜?そうですか?勿論豪胆なところは非常に道長と共通している、と私も思いますが・・・。だってさ、隆家は三条天皇の側近になって、道網まで巻き込んで道長に対抗したというじゃないですか(^_^;
それに引き換え、伊周なんて、牙を抜かれた虎で↑いいように懐柔されて軽く扱われているような気がしますけど・・・挙句に、またあんな憤死状態で殺されたといってもいい訳だし(^_^;・・・と思って、先生とエレベーターでご一緒になったのを幸い質問(^^ゞ
「伊周は道長に嫌われてましたか?」って。「一条天皇と道長と伊周と三人で詩の交換をしたといいますが」「伊周の息子が昇殿を許された時に馬を送ったりしましたが」とかね(^_^;
そうしましたら「それは定子が死んでからでしょ。定子は孕んでましたから、やはり定子が死ぬまでは油断できない。伊周は若いのに偉くなりすぎたんですね」とのことでした。
ん〜、隆家のところまでは聞けませんでしたけど・・・そうかなぁ(^_^;伊周なんて道長にしたら赤子同然で相手にもしてもらえない、と私は思っているわけで・・・そんなに嫌われるほど対等に扱ってもらっていたのかな(^_^;と思うのですよ。そういう意味では隆家は相手にしてもらえる程度の豪胆さはあったと思うし、当時の貴族社会の一部に敦康親王を立てて隆家に後見をさせれば、という雰囲気があった、ということは、隆家こそ嫌われていいはずだと思うのですが・・・。





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