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2004年
去年は、いろいろつ疾風怒涛の年でもあって、「源氏店」の更新がたった一回しか出来ませんでした。ゆえに、今年はまじめに、と思っていたのですが・・・年明け早々にメニエル氏病の発作を起こしたりして前途多難(^_^;
春には、母との同居も始まりそうだし・・・ますます前途多難で・・・(^_^;
まあ・・・ボチボチと♪

01月30日

実は「源氏物語」の第一回で取り上げてしまったのは「伊周」だったのですが、自分の予定としては、まず光源氏のモデルの一番としては、世間的に見ても「在原業平」か「源融」であろう、というところで、その辺から攻めたかったのすが。。。
それと、どうしても、ここまで来ると「源氏物語」の成立話を避けて通れないと思うんですよ。

私は、円地文子氏の「源氏物語私見」から、スタートしていて、円地氏は、「私は源氏物語の作者が単数であろうと、複数であろうとかまわないと思う。」「今在る源氏物語についてまるこど受け入れたい」・・・それは、モデル考としては考えるところもあるが、成立の過程にしても今、円地氏が手にする源氏物語を源氏物語として受け入れる、という意味であると受け取っていました。で、それには、まったくそのとおりであると、今も考えています。

なぜなら、「源氏物語」の原作というのはないんですから(^_^;今日、私たちが「本文(ほんもん)」とか、「原文」と言っているものだって、みんな写本というわけです。1030年頃ですか、「更級日記」の作者・菅原孝標女が手にして「后の位もいかにしかまし」と飛び上がった源氏物語五十餘帖というのも、五十帖餘、と言う意味なのか五十四帖という字の当て字なのかさだかでないそうです(^_^;五十四帖だったとしても、今のままの五十四条かどうかも当てにならない!!はぁ〜?つまり、今の「帚木」の巻の中に「空蝉」や「夕顔」が吸収されていて、別に「輝く日宮」の巻があるとかね・・・いろいろ説はあるそうなのです(^_^;

まず、草稿があって決定稿があって更に一条帝に奉った清書版があったらしい、ということもあります。その草稿かが道長に勝手に持ち出された、というのも式部自身の日記に見えます。写本の折の善意の書き違え、恣意的な変質を考慮すれば堂考えても原作は藪の中です。

代々の研究者たちが「源氏物語成立の謎」を追及し、そして放棄している!!あの玉上琢彌大先生までが!!・・・だけでなく、阿部秋生という、武田宗俊氏にあれだけの研究成果(紫上・玉鬘系統のあれこれを発表)を挙げさせた大元の大先生までがね源氏の成立研究をやぁ〜めた♪と放棄してしまいました!!なせだぁ〜?

ねえ、これって、これこそが、源氏物語成立の謎より大きな謎だとは思いませんか?もう〜、こうなったら、知りたくなるでしょう(^_^;
彼らはあれほど完成度の高い(素人のおばさんが考えると、よくできてるなぁ!!と感心するよ(^^ゞ)謎解きを放棄してしまったのか。当然学者生命をかけて研究し、発表したものでしょ。しかも、それが学会に一大センセーションを起こしているのに!!反対派?の岡崎義恵という大先生までがなぜだ?と、不思議がってましたよ(^^ゞ

大体・・・「源氏物語研究者」って研究してるってより、結局、なんだ、あんたもファンじゃないの♪って部類が多いですよね(^_^;どこかのサイトの「源氏関係の本の紹介」欄で、管理人氏のコメントとして、「要するに源氏の研究者は単に源氏フリークだということがわかる」というような一説があって、そうだ、そうだ、と納得した覚があります。・・・ということで知りたい病の好奇心の強〜いおばさんとしては、かじりたい!!

まあ、今の段階では、書くほどかじってもいないので、少しづつ・・・。というわけで、モデル考に入ります。

というわけで 業平くん、君だ!!

これは、保立道久氏(今や東大史料編纂所の教授です!!)の「平安王朝」によくまとまっていたので、そこから、適宜ピックアップして、まとめさせていただきました。

「源氏物語」の注釈書といえば、という「河海抄」や「紫明抄」など・・・その他にも光源氏といえば、在原業平とすぐ出てくるように対句のような存在として名前が挙がるのが「在原業平」であります。
なぜか?名代のプレイボーイ、と言うこともありますが、実は彼も父を「阿保親王」という親王宣下もしっかり受けた皇子の息子であります。しかも、平安王朝を開いた桓武天皇の曾孫にもあたる、れっきとした王族なのです。そしてももうひとつ、「伊勢物語」にも取り上げられた数々の恋物語・・・中でも、清和帝の后たる高子との若き日の恋、伊勢斎宮恬子とのタブーを犯した恋ですが・・・。これ微妙に政治的な恋なのですネェ(^_^;高子との恋は、当然高子が清和帝入内前の色恋沙汰ではありますが、これが、一筋縄でもいかなかったのは、当時の藤原氏一族内の勢力争い、主導権争いに王族がタッチして、業平くんは、一方の藤原氏一族にかなり深入りしていた模様なのです。(惟喬親王―藤原良相―清和天皇を仲介する立場だったそうです)

これも少し複雑なのですが、王権には直系が望ましいということは大前提としてあるのですが、有力な兄弟が居た場合、手っ取り早い例を挙げれば、壬申の乱の天智帝と天武帝の場合でしょう。兄の天智は勿論大統治者ですが、弟の天武はそれを越える大統治者としての才能があった。とすると、大友皇子などは太刀打ちできないわけです。それがあの時代では壬申の乱になって大友が敗れて落ち着いたのですが、平安王朝でも、規模やレベルは違っても、似たような小競り合い(武力ということでなく)あったのです。そこで皇統迭立という兄弟交代で皇統を継ごう、という窮余の策がなされます。最初はいいんですよ・・・麗しい兄弟愛の世界でね・・・しかし、すぐその綻びは出てきます。今だって言うではありませんか・・・兄弟は他人の始まり♪それぞれに成人して家庭を持てば、兄弟よりは自分の妻子が可愛くて当たり前、ちっともおかしなことではありません。大昔の天皇だとて、自分の子が可愛くて当たり前、愛する妻の実家が、ああしてくれ、こうしてくれ、と言うのには弱いでしょう。当然のことながら、迭立なんて撤回したくなるのは自然の成り行きです。

というわけで、業平くんの恋物語には、素直に燃え上がれない側面もありますが、とにかく、高子ちゃんと恬子ちゃんとの恋愛沙汰は、プレイボーイ業平くんの勲章とはなりました。かつ実に昇進の障害ともならなかったのです。確かに高子との恋愛事件は、「業平東下り」の原因ともなり、これまた「光源氏須磨流謫」モデルにも挙げられますが、その東下りから帰って、伊勢に勅使として下り、恬子との事件を起こす。恬子は斎宮でありながら身篭って、一児師尚(もろひさ)を生み、それを苦慮した当時の伊勢権守高階峯緒によって引き取られて高階氏を名乗った、と言います。で・・・これが実は一条帝の中宮定子の母高階貴子の実家なのです。で、定子が中宮となる時に、藤原行成が、この一件を言い立てて、定子に難癖をつけて・・・と言います。なんたって行成は、道長の子飼いの忠犬ハチ公でありますからして・・・で、それなのに、定子の忠犬ハチ公たる清少納言とこの行成が親しかったというので、紫式部は清少納言を軽蔑していた、とか、定子事件に絡んで高階氏が失墜したかにみえて、実は平安末期には隆盛を極めたとか・・・いろいろあるのですが、言い出すときりがなくて、自分でもどこに行っちゃうかわからないので、これはこれでおしまいm(__)m

ついでながら、公式の記録「続日本後紀」では、業平君は、仁明帝嘉祥二年(849)に、25歳で無位から從五位下に任じられ、その後の「三代実録」で清和帝の貞観四年(862)に、正六位上から從五位上に昇進させられているのだそうです。ちなみに高子ちゃんが清和天皇に入内するのはその四年後の貞観八年(866)だそうです。で、この時の業平くんは38歳、そこでこういう記事が

つまり、二十歳代で一度殿上人になった彼は、いつか地下に落とされ、その後改めて正六位上から昇進しなおした、と言う事実がここに伺われるのです。
この暗黒の13年間に、一体彼の身の上に何が起こったのでしょう。
      ――中村真一郎氏は「グラフィック版伊勢物語」(世界文化社)の解説より


で、その後の業平くんは、清和天皇の皇太子陽成天皇の蔵人頭になります。陽成の母は高子です!!しかし、実は、若かりし頃、業平は清和帝の取り巻き連中の有力メンバーであり、↑の政治的グループであったわけです。そのあたりは平安時代の貴族たちの勢力分け・グループ分けの難解さを痛切に感じます。
で、この「蔵人頭」というのは、「頭中将」の呼び方でも記憶にあるとおり、大変な役どころなのです。

蔵人頭の任期を無事に勤めあげれば、業平には公卿への道が待っており、高子にとって、業平が陽成の後見者としてもっとも信頼にたる貴族であったことは疑いない。しかし、業平は翌880年(元慶四年)5月に死去してしまう。56歳。
    つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを  (在原業平、『伊勢物語』)
(保立道久著「平安王朝」岩波新書より)

なぁ〜んてこったい!!と思いません(^_^;まあ、56歳といえば、当時の貴族としては、当たり前の年なんでしょうが・・・まあ若い頃道楽しすぎて、無為な年を過ごしすぎた・・・と言うこともあるのでしょう。蔵人頭についた年が遅すぎだ、とはいえますよね。いくら、諸事情があっても官位昇進は順調だった、と言ったところで、55歳で蔵人頭というのは遅すぎた、と言えるでしょう。「源氏物語」は物語として昇進が早すぎるとしても、源氏自身は「雨夜の品定め」の折には17歳で既に中将になっており、そのとき頭中将として描かれた左大臣の息子(葵上の兄)も、25〜26歳くらいで蔵人どころの長官になっているわけですからね。
ちなみに、源氏は一応、「幻」の巻で52歳、その2〜3年後に「雲隠」で死にますから享年としては同じ位なんでしょうか。道長は62歳。それにしてもねぇ・・・。やはり「長生きも芸のうち」・・・政治家も長生きしなくちゃどうにもならないということですかねぇ。

ということで、業平くんだけでは光源氏のモデルとしては役不足(^_^;そこで、融くん・伊周くん、そして、権力者の成功者としての道長くんが取り上げられるのでしょう(^^)
それにしても、モデルはあくまでモデルです。その人物そのままを写した訳ではありません。究極的には「光源氏は紫式部の創造した人物」ということは、抑えておかなくてはいけませんよね。

ところで、この保立氏の「平安王朝」の本にも「源氏物語」に関する下りがありまして、それは大変興味深い示唆があります。

 周知のように『源氏物語』は、「桐壺帝」の息子=「冷泉帝」が実は光源氏と桐壺帝の中宮藤壺との間に生まれた皇子であるという、王権にとっては、極めて危険な虚構を筋道として、王家の歴史を語った物語である。
 『源氏物語』の語りの時代は、ふつうは「延喜・天暦時代」に設定されているが、歴史学の立場からすると、むしろ平安時代の貴族は、このような破倫な関係の神話を、九世紀、とくに清和・陽成王朝の時代相の中に置いていた可能性が高い。のちに一条天皇が、紫式部について、「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ」と述べたというのは有名な話であるが、日本紀(『六国史』)の時代とは、まさに九世紀を意味していたのではないだろうか。(保立道久著「平安王朝」岩波新書より)

ということで、我々が、ふつう、醍醐・村上帝の後宮を「源氏物語」の時代と想定しているのに微妙な影を投げかけてくるのです。実際業平・融をモデルと考えるなら、それも一論ですし、現実には、そこまで遡って、時代設定でさえ作者が想定した時代なのです。
「いずれのおんときにか・・・」なるほど、どの天皇様の御世であったのか・・・作者のうまい時代設定ではあったのですねぇ(^^)






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