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ちょっとした疑問特集

ここ何年か、N先生による
某カルチャースクールと某地域コミュニティの自主講座で源氏物語を受講させて頂いておりますが、
もともと持っていた疑問と、学んでいくうちに出てきた疑問はたくさん膨れ上がり、
でも、「カルチャー」という性格上、あまり細かいことは伺えないし・・・で、
思いついた疑問も、年のせいで忘れそうなので、一応、思い出すごとにラインアップしてみよう、と言うことにしました。

よって、脈絡はありません。
私の疑問と思いついたことをめもしておくだけ!



T.源氏物語の発生の仕方はいろいろ学説もバラバラなので、素人の出る幕ではないですが・・・
疑問として・・・・
これは連作短編集なのか?
あるいは、書き溜めた短編や中篇を寄せ集めて長編の形に直した物なのか?
連作短編集とするならば、多少の齟齬があっても、最初からある程度一つのテーマが決まっているはず。
寄せ集めて長編の形をとった物なら、源氏と紫上の二卵性主人公像の説明が出来ると思うのだけど。

U.一条天皇の詞として「この人は日本紀をこそよく読むべけれ」と言うのがあるけれど、
それは何をさして言うのか?
まず、一条天皇のスタンスとして、藤原氏の天皇としての言葉なのか、
天子としてのことばなのか?
さすれば、古代后妃のうち、特に皇后は内親王でなければならなかった、ということを指しているのか?
それはあわせて、作者紫式部が、外戚として暴威を振るう藤原氏に対する批判があったと認めてよいのか。
作中でも「源氏の皇后が二代続くことへの批判」という声がある、と書いている。
裏返せば、藤原氏から、そういう批判を受けるようなことを書いているわけである。
また、一条天皇に限って言えば、崩御に際して「讒臣、国を誤る」という道長への批判の言葉を遺していたという。
また、なんとしてもストレートに自分の皇子にさえ帝位を与えないように、
三条天皇に譲位したと言うことを考えても、この一条天皇のスタンスと、「日本紀をこそ」の意味は深い。

V.「秦の始皇帝と呂不韋の関係」と「冷泉帝と源氏との関係」について
その紫式部の史学知識だけれど、彼女は当然「史記」を読んでいたはずで、
そうすると、「秦の始皇帝と呂不韋の関係」と「冷泉帝と源氏との関係」について、影響はあったのだろうか。

これは、どこかで読んだ記憶だけで、執筆者の名前も記憶にないのだが、
「冷泉帝が、自分の出生の秘密を聞いたとき、悩みもせず、母・藤壺を糾弾する意識が全くないのはなぜだろう」
しかも実父と知った源氏に譲位しようとまで考えるのは不自然ではないか。
という疑問を投げかけている本がありました。
そこから、私に↑のような疑問が派生してきたのです。
ちょっと飛ぶけど、私が、「宇治十帖」を紫式部の作と認めにくい、と思うのは、その辺の理由もあるのです。
「宇治十帖」で、薫は自分の出生の秘密に懊悩します・・・まあ、表面的だけどね(^_^;
しかも、あの女三宮でさえ、不倫の罪の贖いに出家しますよね・・・まあ、六条御息所の悪霊の仕業、とも言うけど。
翻って藤壷が出家するのは、我が子を守るためですから、ね。
冷泉帝は子どもの頃、随分桐壺帝に愛されて、しかも自分も父帝として慕っていたはずなのに、
ホンマの父ちゃんは源氏ゃぁ〜。ほぅかぁ〜、ホナ源氏父ちゃん!!って感じで、
桐壺帝のこと忘れとる!!おっカシイ!!

そういえば始皇帝も呂不韋には死を賜ったけれど、
淫乱な母の趙姫に関しては一端は配流したけれど、人心掌握の必要性もあって都に戻し、
死んで後は帝太后の謚を送ったわけで・・・いずれの息子も、母親には甘いってことかね(^_^;

W.その桐壺帝と桐壺更衣を玄宗と楊貴妃に例えるけれど、
楊貴妃は、もともと、玄宗の息子の嫁だったわけで、それを
最愛の武恵妃を亡くして悄然としいていた玄宗が、武恵妃に瓜二つということで息子から取り上げたはずでしたね。
とすると、桐壺更衣は武恵妃であって、楊貴妃は藤壺ですよね。
しかも、父が息子の妻を取る、というのと、息子が父の妻を寝取るという逆転のシナリオになっている。
このへんの相関関係はどうなっとんのでしょ。

X.↑これに関連して、ですが
『源氏物語」と「長恨歌」の関連について、密接なように取りざたする向きもあるけれど
紫式部が「長恨歌」を文の一切に取り上げたのは、表現上の装飾だったのに、
当時の「長恨歌」人気が、恰も源氏物語が「長恨歌」を下敷きに書かれたようなもてはやし方をされたのではないか?

Y.藤壺の人間像として↑の始皇帝の母のような淫乱女ではないが、かなり政治的な女性ですよね。
一説には、一条天皇の母、詮子をモデルにしている、というでしょ。
藤壺はヒロインとしての色彩を強く帯びているけれど、時に偉く生々しい政権欲の強さをにじませる。
それは、紫式部の持つ政権欲の強さなのだろうか。
或いは、モデルと言われる藤原氏の女性の政権欲の強さを描いたものか?
だとすれば、かなり反・藤原なんじゃないか?

Z.歌のない女――葵上と弘徽殿大后という彼女たちは藤原氏のファーストレディ。
左右の大臣の娘で、后がね、しかも、それが本敵の役どころという所に・・・感じるものがある。
今時の解釈では、当時の后がねとして育てられていることに注目している説が多い。
弘徽殿大后の場合で言えば、そうして一族の浮沈を背負って後宮に乗り込むのだから、彼女の意思ではなく、
政治の振り子として動かざるを得ない、というのね。
まあ、村上帝の安子皇后や、公任の姉のこと考えれば、そんなものかも、とは思うけどね。
葵上は役どころとして冷たい女として早死せねばならない所があったわけですが・・・。

[.↑また、惟に関連してなんだけど『紫式部日記」というものの真実性は?
勿論、あることをありと書き、ないことを書いてわけではない!
でも、道長たちに読まれることを意識してはいるだろう、と思う。
彰子に関する礼賛の記事や、道長に関する愛らしい記事の真実性はあるんだろうか(^_^;

私は、紫式部と言う一筋縄ではいかないオバハンが、そうストレートに褒めまくっている所が怪しい、と思うんだけどね(^_^;
あ〜ら、彰子中宮様、素敵、素敵♪と書き
道長の大殿はなんて豪胆な男らしいお方〜ハート、ウルウルと書きながら、
横向いて、舌も出さずにシラーっしているように思うのは、怪傑おばさん頭巾の意地悪性だろうか(^_^;

\.ついでに私は召人論に反対、と言うのではなくて、疑問としてあるのは、
紫式部は「召人」と言うほど、道長に密着していたのかな?ってこと。

これもどこで読んだか忘れたけれど、
「当時の宮廷女房たちというのは、今で言えば高級クラブのホステスだ」
という説で、これは、やったね!と思ったな(^^)v
その線が一番近い、と思うのですよ。
政財界のお偉方を相手にするような高級クラブのホステスは、
損所そこらの学者連中より視野が広くて、タレントなど話術が巧い、趣味も多彩でウィットに飛んで
新聞記者よりニュースの分析力があって巧みに世渡りしていく壮だし。
で、まあ同伴出勤や、夜のお誘い、昼のお誘い、お客様のご要望にはおこたえます、という所(^_-)-☆

つまり、清少納言も紫式部も、和泉式部もセックスフリーの後宮=高級ホステスだったんじゃないか、と思うのですが?
道長が式部の局の戸をたたいたかどうか、あったななかったか、という問題じゃなくて、
そういうこともあったろうけど、フリーな関係のなかでの一こまで、取り立てて問題にするようなことじゃない、と思うのです。
問題にするべきは、紫式部が、そういう書き方をした、ということ。
あんなに反藤原的だと思うのに。
だから、後半は、道長にパージされて、まあ頸になったわけですよね。

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜
本編から離れちゃいましたが、時間が来たので、今日はここまで。
また思い出したら、書きます♪




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