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7月27日(金)

源氏物語の成り立ちは・・・

来年は源氏物語成立一千年ということで、いろいろのイベントがあるようですが・・・
ホントは「源氏物語の成立」っていつ?と聞かれるとわからない、というのが本当らしいです。
その「わからない」というのは、執筆時期が長期に亘るから、とか、断続的だから、と言うことではなく、
本当に何時から書き始めていつ書き終わったのかがわからないのですって。

でも、まあ、「紫式部日記」の寛弘五年(1008年)の御冊子作りの記事と、
例の公任の「このあたりに若紫やさぶらふ」という台詞?から考えて
(これも寛弘五年の「敦成親王誕生の五十日の祝い」に於いて)ですが、
このあたりまでには、
今の「源氏物語」の殆どが完成していたのだろう、と
2008年が一千年!ということになっらしい、とのことでした。(うちの源氏の先生のお話)

まあ、一千年ともなれば、その程度の誤差はどうってことないですしねえ・・・そうか?(^^ゞ

でー、私も無い知識を搾り出して、その成り立ちは・・・と考えることも有り・・・
自分が何を考えているかと言う記録を残しておこうと・・・だって、もう次から次へ忘れていくのだよ(^_^;
若?!年性痴呆症というのが他人事ではない、怖い話です。

はい。オバサンの考える「源氏物語」の成り立ち、としては・・・
紫式部は――今井源衛先生の仰る「香子」と言う名前の真偽も定かでは無いそうですが――
けっこう小さな頃から、それこそ万の文反故の裏などに、何くれとなく心に浮かぶよしなしごとなどを書き付けてはいたでしょう。
でー、それが小さな思い付きの物語になるのも、後々のことを考えるとありがちなことだと思います。

これが、清少納言の性格だと、ムム?物語には結びつきにくいかも・・・同じ才女といい、
文才といっても、その質は違いますものね。
和泉式部にしても同様に、三才女それなりの才能の質があります。

で、ここでは、紫式部に話を絞って考えてみると、
@ まず、極若いうちから、小さな物語を書き始めた、と考えていいと思います。
ただ、彼女の才能というだけでなく、才女の常として、頭の中で殆どの組み立てて、頭の中のノートに書きとめ、
紙の上に実際の文字として書き綴るにはかなりの推敲が加えられていたと思います。
勿論、紙が貴重品だった時代でもあるけれど、性格としての問題です。
今の時代の作家連中でも、紙に一文字書いて破り、二文字書いて破り、と言う人もいるし、
書き始めるときには凡その流れが出来ていて、枝葉末節の推敲をする人もいる、
頭の中で組み立ても文章も完成して、書き始めたときには一気呵成に書き上げるという
池波正太郎氏のような作家もいるわけです。
まあ、紫式部は池波正太郎に近いタイプだと思うのですよ。

A それと、幼友達など交換日記のように見せあったりしたことはあったろうか?というのはチョイ疑問なのですが、
「紫式部日記」には、里居のころの同好の友と疎遠になった嘆きも書かれているのでいたかもしれませんねぇ。
同好の友といっても、今風の「文学の志」を持った友、と言うようなことでなくて、ですね。
それは散文か詩文か、と言う疑問もあるし、一寸深めの単に歌詠み仲間ということもあります。

B それと、ですね・・・私が不思議と思うのは、
あんなに漢籍が得意な式部なのに、漢詩を和風に書き換えたような物ってないのですかね?
これは私が不勉強だから知らないだけかもしれませんけれど(^_^;
まあ、ちょっとした疑問特集の中で、
その紫式部の史学知識だけれど、彼女は当然「史記」を読んでいたはずで、
そうすると、「秦の始皇帝と呂不韋の関係」と「冷泉帝と源氏との関係」について、影響はあったのだろうか。
なんて書いたんですが・・・。
まずその前段階として、漢籍の和風化のような物語が見えない、ということは散逸してしまったのか、
或いは彼女の頭の中でのみ完結してしまったものか。
勿論「源氏物語」の中に収束したものもあったでしょう・・・有名なのは李白だっけ?・・・「白髪嫗」
式部は断然白楽天びいきですけど。

C とにかく、「源氏物語」に先行する物語はあった、というのは、「源氏店」でも何度か書いてる我が持論です(^_^;
もっとも、持論たって、中学生の頃読んだ
山本健吉先生の本からの刷り込みが多かった!と、あの時わかって愕然としたんだけど(^_^;

でー、その小品(のいくつか)が外にこぼれ出たのはいつごろからか?
これは「越前」というキーワードが大きいと思う。
つまり、それまで紙背文書などにしか書かれていなかったものが、越前と言う和紙の里で、
初めて自分の冊子になるような白い紙を手に入れることが出来たからではないか?
そして、それはそれまでの彼女の「女子供の手遊び」から、
大きく作家としての第一歩を踏み出す始めになったのではないか?

D さらにそれが、式部の父爲時の文人の人脈を経て、
(その妻や娘たちへの土産代わりなどとして贈られたか)、最初は話の種にでも、という程のことで流れて行き、
いや、これは?!という意外なおどろきをと面白さで関心を呼び、
逆に男社会から逆行するパターンで女社会の中に浸透して行ったのではないか?
そうでなければ、道長の下に、彼女の噂が届くことは、もっと迂遠な道のりを辿ったのではないか・・・
つまり、彼女の死後とか、ね(^_^;

勿論夫宣時の存在も見逃すことは出来ませんよ〜♪
彼は、枕草子にも取り上げられる稀代の洒落モノで、優秀な官吏としての一面と豪放磊落な好きモノとしての面も有り、
既に何人かの妻妾も子もあり、年若い妻の思いがけない文才を喜んで、
「モノ書く年若い妻」の才能を自慢していたことが「紫式部日記」にも見えます♪

つまり、父爲時が式部の文才を外に出さなくても、宣時サイドから・・・遅かれ早かれ式部の物語のいくつかは
男社会の中から出ていくことになったと思われます。
そして、それは、道長の目に留まる所まで届いたに違いない、と私は考えているのですが(^^ゞ

そこからは一般に言われるような、宣時の死後、
彰子サロンの箔付けのような、彰子自身の侍講のような形で、道長からの強力なアプローチがあったと思われます。

E それにしても、「式部は宣孝の死後直ちにペンを取ることなど出来たのか?」
というのが、うちの先生のお考えになっている疑問でして、
「何方に聞いても、夫の死後にものを書くなどという気にはならない、と仰いますよ」とのことでした。
しかし、「モノ書く性」を持った人間が、、まして女が、喜怒哀楽をどう処理していくかと考えれば、
他にどんな手段があるのでしょうか?
これはただ書くしか無いのである、ただひたすら書くことに没頭するしかない、と私は思うのですが・・・。

「葵の巻」で、葵上の産後、源氏が参内するために出かけようとして、葵上が
「常よりは目とどめて見出して臥し給へり」とい表現は、それだけで
明日も続くはずであった夫婦の日常の断裂のあっけなさ、残酷さは、
宣孝の死後、
ある朝いつもどおりににこやかに出かけて、そのまま不帰の人となった夫へのオマージュではないか、
と考えられるのでは無いでしょうか。
(このへん、丁度・源氏店「歌の無い女たち―葵上と弘徽殿大后―」を参考にして頂ければと思います)

葵上と弘徽殿大后という左右の大臣の娘たちだけが「源氏物語」上に歌を持たない女であるということを考えれば、
このあたりは娘時代〜寡婦となった直後くらいの作だと考えています。

少なくとも「若紫」を見つけてのシンデレラ・ストーリーを組み立てるのは、かなり初期のことでは無いか?
又、后妃の不義密通、皇統の乱れを省みないというある意味怖いもの知らずのプロットの組み立ては、
娘時代り才気煥発の頃、
しかも、何人かの男を通わせた後の事ではないかと考えています。

F 少なくとも公任に「このあたりに若紫やさぶらふ」と呼びかけられた時↑、
寛弘五年(1008年)の敦成親王の五十日の祝宴の頃には、「源氏物語」は、
宮廷内においても、かなりの流布をしていたのであるから相当に書き進み、
しかも、「若菜」にまでは至らぬ時期までのところと考えられます。
なせ゜「若菜」に至らぬか?といえば、
「若紫」という呼びかけには、まだ初々しい紫上であるはずだから、と考えられるからです。


・・・・
というわけで、またで舌足らずなのですが、今考えていることだけ、ねm(__)m


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