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9月22日(土)

国文学研究資料館立川移転記念事業講演会・シンポジウム

来年2008年は「源氏物語」成立一千年、ということで、
いろいろ記念行事が企画されているそうです。
これはまた大本の国文研の立川移転にからめての大事業でした。

まず、レジュメをもらってぶっ飛んだ!!
綺麗・美麗・豪華(*^-^*)

A4サイズのファイル(紙バサミタイプ)になっていて、国文研の美麗機関紙は勿論、
今日の資料数枚(源氏の相関図、年立て、加賀美氏の朗読部分の本文)と、
源氏がらみのイベントのリーフレットも入ってます。
でー、このファイルがですねぇ、上質紙というよりは写真紙のようなツルツルピカピカ紙です。
し・か・も!源氏の絵巻(土佐派のだと思う)の写真が三葉ほどプリントされてます(*^-^*)
あ!鉛筆付き!!あのアンケート用紙についてくるミニサイズですけど。
コスト掛かってます\(^^)/

ナンタッチ後援がスゲ〜ノよ!!
文部科学省は当たり前、立川市も当然、
でー、NHK、朝日新聞社、潟Wャパンエフエムネットワーク、
且v文閣出版、學灯社、NPO日本朗読文化協会、源氏物語千年紀委員会

でー、本日のプログラム!

開会挨拶  鈴木淳(国文研副館長)
基調講演  大岡信/岡野弘彦/丸谷才一/加賀美幸子
シンポジウム  講演講師&司会伊井春樹(国文研館長)
閉会の辞  伊井春樹(国文研館長)

でー、鈴木副館長が挨拶して、そしたら、スケジュールにない立川市長が挨拶するって(^_^;
なんでも9月12日に選挙で当選して市長になりたてだそうで。
それはまあいいんだけど、国文研の正式名称は間違えるし、
暑いからまだまだクールビズでいいんだけど・・・今日は、みんなスーツにネクタイなので浮いてるよ!!
でも、この挨拶のおかげで、国文研の新建物のできる所は立川基地の後地、と言うのが分かったし、
他にも自治大学校や、国の研究機関があわせて10機関もそこに集まる、というのも分かりました。
フゥン!立川基地の後地だったのねぇ(^^ゞ

大岡信氏は「近江の君にといて」お話なさることになってました。
それが、口切の一言が、
「今日は渋滞に巻き込まれて三時間もかかってしまいました。だから、話そうと思ったことを忘れてしまいました。」
アララ?!でもこの時は、ジョークだと思っていたのですね、みんな(^^)


大岡信氏
「近江の君について」


「近江の君」というのは、源氏の中では小さなパートです。
頭の中将という源氏のライバルの娘ですが、道化者の位置に置かれている。
長編的小説の所に短編的味わいを持つ。
千年も昔の物語の中に、いくつかの短編を含む、というのが「源氏物語」の偉大な所です。
上品なパートもあれば、時々滑稽極まる下品な部門もある、というのが「源氏物語」全体を複雑にする効果を上げています。
これがも千年前の日本で書かれたということは大変なことです。

近江の君が滑稽な役割を果たす。
近江の君と同時期に登場する玉鬘。
「源氏」の中で大きな役割を占める女主人公に玉蔓がいます。
近江の君は玉蔓に敵対するような役割を持っているけれど、
近江の君が滑稽な役割を果たすと、だんだん自分がバカにされていることがわかって
近江の君自身がイライラする。

始めは荒っぽく登場して、滑稽でバカバカしくて、最後に哀れである。
源氏の大河の流れの一環としてよく出来ている。

近江の君は庶民としての劣っている女性です。
しかし教養がある振りをして頑張る、そこが滑稽でしかも哀れ。

弘徽殿の女御に仕えるようになる(ん?)と、女御に当てて手紙を書くが、
相手が辟易するような手紙・・・自分の知っている枕詞をずらずら並べる手紙で意味を成さない。
相手ー女御は返事に困って代作させるけれど、
代作の女房もいい加減な歌を返す。

「ひたちなるするがの海のすまの浦に波立ち出でよ箱崎の松」というのです。
常陸、駿河、須磨、箱崎は九州ですよね・・・日本全国です。

近江の君は返歌をもらって喜ぶ。滑稽で可愛いけれど哀れな女。
父親の頭中将でさえ困惑してしまう。
親兄弟からさえ嘲笑される人が源氏物語の中に出てくる。
「源氏物語」の中には、こういう「点」を打ったところがあって長編を引き締める役割をしている。
こういう形で長編の源氏を引き締めるのは素晴らしい。

玉蔓は田舎で育てられた頭中将の娘。天真爛漫な山出しの女性として振舞っている(え?そうか?)。
それに対して、近江の君は滑稽で哀れで涙を催す所もある。
たった二章であるが大変な存在感を持つ。
千年前という時間差を感じさせない。

これ以後の物語で、源氏を超えるものはない!
時間を越えて新しい。

二時間半、車に揺られて頭の中がボーッとなってしまった。
何を話すの?
後は丸谷さんと岡野さんが話すから。



と、さっさと引っ込んでしまわれました(^_^;
30分の予定が20分くらい?!

岡野弘彦先生も慌てたでしょうネェ!!
大体、講演は伸びるものなのに、時間早くなっちゃって(^_^;
でも、「大岡先生からお時間を頂いたので」などと、巧く取り繕ってお始めになりました。

あー!私、HNを「近江の君」にしようと思ったくらいなので、当然、うちの源氏店でも扱わせていただいとります♪
よろしければ、どうぞゴヒイキにm(__)m



岡野弘彦氏
「『いろごのみ』の女神と光る源氏―神話から物語へ―」


「源氏物語」というと、飛びぬけた素晴らしい男性の主人公を連想するが、
読んでいると、女性が多様性を持って生き生きと生きている物語です。
源氏をあれほど素晴らしく感じさせるのは、周囲の女性の素晴らしさであり、
それは、源氏以前、遥か古代から、「日本の物語と歌」は、遡るほど女性は素晴らしかった。

源氏物語を、江戸時代に情熱を持って愛した本居宣長は、
「源氏物語は、もののあはれ一つに尽きぬべし」と言った。
「もののあはれ」と言うだけでは簡潔すぎるけれど、
「哀れ深い歌を詠む『もののあはれ』」
「歌を綴って書き続けていくのも『もののあはれ』」

私の師の折口信夫のその先生の、そのまた師である三矢重松という先生は、
國學院大學の教授で最後の国文学者といわれた人ですが、
「(「源氏物語」は)『大和魂』を知らせてくれる」と言っていました。

折口信夫は
「『もののあはれ』という言葉は、その言葉の中に溢れるほどの思いを込めて言っているので、一口には言い表せない」

私(岡野先生)は、
「いろごのみの道徳を説いている物語」だと思います。
「いろごのみ」というのは、日本人の基本的な性格で、
今使っている漢字の「色好み」ではなく、ひらがなのままで考えてください。
漢字の「色好み」は「好色」とされて、源氏物語は好色・淫乱の物語、と言われてしまった。

しかし、折口信夫は
「源氏物語は好色物語ではない。
『いろ・このみ』という古代からの言葉で考えなければならない」

「いろ」は男性の理想とする女性、女性の理想とする男性を意味します。
「いろせ」は理想的な男性・夫・男兄弟
「いろも」は理想的な女性・妻・女きょうだい
「いろね」「いろと」・・・たくさんありますがみんな「いろ」というのはそういう理想の異性です。
(古代でも)母を同じくする男兄弟・女きょうだいは結婚できない、と言われるが、
神話の世界では初めて世の中に生まれたのはきょうだいで、そのきょうだいが婚姻する。

「このむ」という意味には、第一に「好き・心を寄せる」の前に「選択する」の意味があります。
古代大和言葉の一番古い意味で考えれば、
理想的な異性を選び出す→「いろ・このみ」である。
いざなぎ・いざなみ・・・此の世に初めて出現して男性・女性の役割を果たした。
それ以前は、一人で生まれ一人で消滅してしまう。

「いざ」は、「いざいざ」と言って、相手を誘う言葉です。
いざなみ(女神)は「あなみやしおとこよ(あー、素晴らしい男性よ)」と呼びかけ、
いざなぎ(男神)は「あなみやしえおとめを(あー、素晴らしい女性よ)」と応える。

ここで、嫁ぎの業を「おみなの(先に言へるはよからず)」と言う。
古代も聖なる乙女が神の祀りごとを聞いて、夫や男兄弟が現実の政を行う。
記録に残る7〜8世紀には男社会・男性優位の視線や思考で記録された。
いろんな国の古代神話の中にも、男性から問いかけるものが多い。
(しかし)古代の祀りの場では女性に主導権があった。

源氏物語を読んでいると女性の立場が強い。

天皇家は枝分かれして(賜姓)源氏となる。これが男源氏の物語。
(天皇家の)女性は内親王として、降嫁して、左大臣家に降嫁したのが大宮、
天皇に入内したのが藤壺、式部卿の娘が紫上、この女源氏の物語が、
(男源氏の物語と)交差しながら長編となる。
「源氏物語」の持っている意味は「古代からの神話から続いている『いろ・このみ』の伝統」である。

王氏に対して藤原氏、これは奈良時代以降発展してきた家。
六条御息所はある大臣の娘で東宮の妃になって、秋好中宮を産む。
秋好中宮は斎宮にもなる。
激しい嫉妬で、葵上・紫上という源氏にとって大事な女性に祟る。
自分自身では恥ずかしいと思っていることも、自分の心を乗り越えて葵上の所に行く。

紫式部はどこからこの六条御息所を描いたか?
古代のいざなみの母神を連想すれば理解できるのではないか。
「魂のありよう」ということ。
唐才(からざえ)を学んだ。
大和魂の遊び(戦争時代の大和魂ではなく)、魂を生き生きさせる。
日本人の生き方。
千年の源氏を、更に古代に遡って考える、ということです。




最後のあたり、おかしいと思いません?
テレビの収録を見ればわかるかしら(^_^;
天皇家に対して藤原氏、で、その代表で六条御息所なのかしら?
でー、そこへいざなみの母神は突然?強引?すぎますよねぇ(^_^;
私のメモが抜けてるような気もしますが・・・。
「紫式部はどこからこの六条御息所を描いたか?」というのは、みんなそれぞれに考えることでしょうが。
「唐才(からざえ)を学んだ」というのとは関係ないんじゃないでしょうか。
いずれにしても、「唐才(からざえ)を学んだ」紫式部が、
「日本紀をこそよく読むべけれ」と言われるまでに日本の歴史・神話を読み込んでいたのは確実でしょうが。
また、それらを元に紫式部独自の皇国史観や人生観を以って書き上げたものではあるのでしょうけど。

先生も時間が迫って、慌てたのかな?
なんだか支離滅裂のような気がします。

折口信夫についてはここ
三矢重松についてはここ
両方とも、今話題?のウィキペデイアですが・・・勿論、間違ったことも書かれているかもしれませんけど、
それを承知で使うと便利ですm(__)m

後、「女源氏物語」については、うちの源氏店で、私も一寸ご紹介しております。
更に、六条御息所については、2000年一年中かけて、やたらに書きまくりましたので、
よろしかったらこちらからm(__)m




丸谷才一氏
「昭和が発見したもの」


二十世紀は戦争と革命の世紀。

二つの世界大戦。イタリアのエチオピア侵略。朝鮮戦争。湾岸戦争。冷戦というのも。
百年のうちに1920年代の十年しか平和はなかった!

1618年(三十年戦争)から74年間の死者は○○人
1937年以降の対中国戦争の死者は○○人
(この二つの○○人の数字は聞きそびれましたm(__)m)
これに比べれば、ナポレオン戦争後の19世紀の普仏戦争(死者15万人)などは、まことに少ない。

1914(第一次世界大戦)は、正に大量殺戮の始まりの時代だと言える。
戦争と革命の死者、ナチスの虐殺、ロシア共産党とコミンテルンの総括・・・20世紀は大量殺戮の時代。
1億8000万人の死者が出た。
これは、19世紀最後の年、20世紀始まる前の1999年の世界人口の一割以上になる。

「20世紀は『人間は極めて残酷な状態でも生きていける』ということを教えた」という学者もいる。

19世紀後半の科学技術の発展、
1850年に、鋼鉄の生産は八万トン、それが、ニッケル製鋼の発見によって増加し
1863年、電気分解によって、アルミニウムが発見され更に急上昇、
1900年には2800万トンとなった。

1903年、ライト兄弟の飛行機発明があり、飛行機はアルミニウムで製造する。
20世紀はこの時点で始まる。
1943年、ハンブルク市の全滅
1945年、東京大空襲、広島・長崎の原爆という、物量戦争。
それまでの戦争とは違う大量破壊の時代となった。

1806年、ナポレオンはイエナの大戦で1500発の砲弾で勝利したが、
第一次世界大戦では、フランスは20万発の砲弾を製造した。
19世紀と20世紀の戦争の違い。
アイザイア・バーリンは「この20世紀アイザイア・バーリンはヨーロッパにとって恐ろしい時代」
ルネ・デュポンは「20世紀は虐殺と戦争の世紀」
ウィリアム・ホールディー「今世紀は人類にとってむごたらしい時代」

ピーター・ケイというユダヤ人の歴史学者は
「暗澹たる20世紀が、ほんのわずかな光ることの一つはモーツァルトの全てを、
それにふさわしい栄光の地位におしあげたこと」

19世紀は、ロマン的で偽善的、厳かなことを尊ぶ時代。
ベートーベンの時代で、モーツァルトは影が薄かった。
モーツァルトは典雅で宮廷的な音楽であり、「コシファントツテ」などは軽々しく淫蕩だといわれた。
20世紀は直前の19世紀に対しての反動が生じた。

ヘルマン・へッセは、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」について、
「人間について作られた完全な最後のもの」

文学に対してはシェイクスピア、音楽に対してはモーッアルト、
20世紀が凶悪であるからこそ(もてはやされた)!

1937年(昭和12)、日中戦争の始まり、ソ連の大出兵の頃、
私は生まれて初めてモーツァルトを聞き、
「政治的現実というものが、こんなに醜悪で、
そのくせげいじゅつというものがこれほど美しい!
途方にくれるほどの困った現実」であった。


丸谷氏の生まれ
1925(大14)年、丸谷氏は生まれた。


1931年9月19日というのは日付を記憶している最初のこと。6歳の子供だった。
私は、藤沢周平の「舟坂藩」のモデルの町鶴岡の医者の息子に生まれた。
(今は、藤沢周平の、舟坂藩のモデルの町、というと直ぐ分かってもらえて便利である。)
その日、私は、祖母に連れられて呉服屋に行った。
戦争が始まった、という号外が配られて満州事変勃発の第一報を知った。

生まれつき、平和主義の、軍人嫌いの、男の子が、日本の昭和十年代を生きるのは大変なこと。
戦後も大変だったし、私にとっての昭和は嫌な時代。
戦前も戦後も、昭和は暗かった!
その中にわずかな光明があったとすれば、源氏物語を華やかに称えたこと

昭和以前は無視、蔑視したり、或いはわざと知らない振りをされた。
三矢重松という国文学者は、折口信夫の師で、先程の岡野先生は折口信夫の弟子だから
孫弟子になる。
山形県鶴岡で私と同郷の国文学者で、その三矢重松が、
「価なき珠をいだきて知らざりしたとひおぼゆる日の本の人」
という歌を詠んだ。
折口信夫が詠んだ祝詞は近代の傑作。
日本人が源氏物語を持ちながら、その真価を知らない!
源氏物語は国文学者の中では圧倒的な位置を占めていたが、
社会の中では貶められていた。

その理由というのが、江戸の儒学者たちの言い分で、皇子が帝の妃と密通して子を成した、
ということ、そしてその子がてんのうになる、ということは怪しからん、という。
本居宣長の一生は、この誤った考えと闘うための一生。

文学作品を倫理的に見るほど幼稚な文学観、その代表が源氏物語の否定。

中国人は、儒教のせいで恋愛というものを軽んじている。
日本の歌人の代表作は殆ど恋歌と四季の歌。
その四季の歌にも恋にからむ歌が多く、その他の雑・釋経も恋愛が関わる物が多い。
漢詩の名作選―唐詩選・三体詩(さんていし)―に恋の歌は殆ど無い。
夫婦の愛情を読んだものもごく少ないし、淡彩である。
詩経(儒教)以前には恋愛の歌が多いが、儒學者は君臣の忠義の歌に読み替えてしまう。
今の中国でも恋愛感情を否定―咎めるべき物非難されるべきもの―としている。

魯迅は現代小説を始めたといわれる文学者だが、
その「阿Q正伝」の阿Qが、村中から攻撃される原因は、恋人に付文をしたということ。
中国古典では、唯一「紅楼夢」のみが恋愛を扱った。
これは清朝時代のもので、満州族の文学である。
日本人が是非詠まなくてはならないものではない!

江戸時代の儒学者の攻撃を国文学者が防御した。
明治時代にも同様。森鴎外・夏目漱石も冷淡である。
森鴎外は源氏は悪文だといい、漱石も問題にしていない。
尾崎紅葉だけは源氏を読んで、触発されて「多情多恨」を書いた。
この時代、西鶴は、淡島寒月によって発見され、有名であった。

息子が天皇の妃に通じて生まれた子が天皇になる―日本が嫌うパターン。
昭和八年に舞台化しようとしたが警視庁が潰した。
坂東蓑助が中心となってばんじょうやえいいち(立教大学独文化科)が書き、
前売り一万枚を売り切ってあったのに、警視庁から「国体を乱すものだ」と禁じた。
「源氏物語劇化上演禁止事件」という。

国体、国体、なんでも国体とこだわった。
昭和の源氏の位置。

ところが、イギリスのアーサー・ウェイリーが、この人は語学の天才で文学的感受性が鋭い。
この彼が、日本や中国の東洋の詩の高さを教えた。
1910年から、スコットの訳でプルーストの「失われた時を求めて」が英訳されて、
当時の若い文学者の精神が洗練されていて、その影響もあった。
C.P.スノーが、
「1920年代の終わりに近い頃、英米の文学好きの若い人たちは、
アーサー・ウェイリーの源氏物語を熱狂的に受け入れていた」と言った。

プルーストと紫式部には共通する資質があつた。
源氏物語には、20世紀のヨーロッパ文学に共通するモダニズムがあつた。

アーサー・ウェイリーの英訳本の源氏物語を、
昭和初年に正宗白鳥―自然主義文学―が英語で呼んで絶賛した。
そこで、中央公論社の嶋中勇作が源氏物語現代語訳を谷崎潤一郎に依頼。
初期は「皇統の乱れ」をぼかす。
ここで、源氏は古典!昭和の日本文学の大古典と認められた。

1960年代、全世界的な性の解放が起こり、
「チャタレー夫人の恋人」「ユリシーズ」など性を扱った文学の解禁が起こった。
モダニズム文学が全世界的に認められた。
世界文学を支配。

その後、源氏物語に貢献した
中村真一郎・円地文子・竹西寛子・寂聴・サイデンステッカー・ドナルド・キーン
これらの人たちの尽力は大きかった。

源氏物語の文はとても綺麗だ!ということも、
千年前の文学を現代の読者たちがこんなに楽しんでいるということは、
世界的にも珍しい!源氏物語の持続性、ということだ。



20世紀の解説から始まったのにはビックリでしたが、なるほど、源氏物語の有為転変を語るには、
江戸の儒教道徳と、明治以降のその影響、
更に昭和の軍国主義下の硬直した文学観を語らなければならないのですよね(^_^;

谷崎潤一郎は、生涯で三度源氏の現代語訳をしていますが、
要するに、三度しなければ、自由な思想の中での現代語訳が出来なかったのでしょうね。
特に最初の現代語訳の時は、
どうも山田孝雄(よしお)という政府御用の国文学者の大先生のご機嫌をかなり気にかけていたようです。

文中の外国人の学者・文学者の名前で「?」と言うのは、筆者が聞き誤ったせいですm(__)m



加賀美幸子氏
「わたしにとっての源氏物語」

―朗読を含む―



源氏に向き合って生きた女性の生き方、光にどう向き合うか。
(学者ではない)私たちは、難しいことを考えないで『まず近づく』という所から。
まず読む、どこからでもよい、と思う・・・まず、自分の好きな人の所から読む。

みなさんは、まずどんな所から源氏物語にお入りになりましたか?
与謝野源氏などの現代語訳から入る方もいらつしゃるでしょうし、『あさきゆめみし』から入られた方もいらっしゃるでしょう。
源氏物語に出てくる誰が好き、彼が好きという所から、源氏に親しみを感じる方もいらっしゃると思います。

私は、こういうのは恥ずかしい(とおっしゃったのかな)文学少女(と、仰るのに遠慮がちでした♪)でありましたので、
割と早い頃から源氏を読んでいました。

私は、ことばを以って生活して行こう、と考えてアナウンサーになりました。
専門家のお話も伺える仕事につくことが出来ました。

NHKの古典文学の番組の諸々に関わることが多く、文学者の方たちとも直にお話することが出来ます。
寂聴・渡辺淳一・橋本治・・・・みんな源氏を語りながら自分の愛の話になりました!

それで、たまたま寂聴さんに「(私)は花散里が好きです」と申し上げたら
「おとなしいだけよ」とバッサリ切られて、ショック!
でも、
鎌倉時代の注釈書の『無名草子』でも『好ましきは花散里』と言われています。

須磨に赴く前に、『光るの中に“花散る”という言葉を出して、将来を暗示しているのでは無いでしょうか。


NHKに入って、まず、最初に「女性手帳」という番組を三年間させていただきました。
中村真一郎・池田弥三郎さんという方たちから毎日一時間、一週間くらい。
まだ円地文子さんの現代語訳ができていなかった頃です。
素晴らしい講義を受けていたと思います。

それから、「古典への招待」を18年間。
「古典講読」で一年間を通じて「紫式部日記」を通読しました。
つまらない所も飛ばさずに読む、という経験をしました。
「和泉式部日記」も全部、「更級日記むも「枕草子」も全部読みました。
その中の、「更級日記」の孝標娘に心を寄せる気持ちは、皆様もよくお分かりになると思います。

(というところで「更級日記」の朗読がありました)

源氏物語「紫上の終焉」御法巻の朗読)
これは、国宝源氏物語絵巻に描かれている場面です。
登場人物は、光源氏と紫上、そして、紫上が育てた明石女御です。
行く人と見送る人の心の風景を乱れる萩に象徴しています。
自然と見る人の心の深さを描いています。

今日の講演の前に伊井館長とお話しをしたら、
「タチアナ(ってタチアナ・デリューシナ氏?)さん―ロシア人で日本文学を紹介している研究者ですが、
タチアナさんによると、『日本人は』自然に中に人の心が入り込んでいる。
ロシアでは、人間は自然の上に立っている、と翻訳していると(ここ聞きそこないm(__)m)


寂聴さんは
「描かれていないから私たちは想像する。

匹目鉤鼻もああいう単純化した顔だからこそ想像を膨らますことができる。」

寂聴さんは「書かない所がよい」
「○○(自分のメモが読めない(;_;))は、もっと克明に書かなくてはならないもの」

明石女御は明石君という女性が産んだ子ですが、明石君の身分が低いために
紫上に託すことになります。

(源氏物語「双葉の松」薄雲巻朗読)

(「紫式部日記」朗読・・・例の『清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人』という所ですが、
このあたりになると、大変時間がつまってきていて解説は少なくて、
時間を仕事とする加賀美さんは大変気になさって
朗読のみ?いや、何か話し聞いたんだけどナァ)


(まとめとして)どんな形でも「近づく」ということを大事にして欲しい。
(ということでしたかね(^_^;)


シンポジウム
パネラー/大岡信・岡野弘彦・丸谷才一・加賀美幸子
司会/伊井春樹

(敬称略)



伊井――寛弘五年(1008)5月、「紫式部日記」の中に書かれた冊子というのは、源氏物語だという。
勿論、それ以前に出来たいたはず。
院政期から鎌倉・室町・江戸時代を経て、源氏の享受ジャンルを辿ると大変広い。
受講者の方たちからの質問と、各先生の「千年目の源氏物語」をどう受け止めるか、ということをお聞きしていきたい。

伊井→大岡

大岡先生は、「折々の歌」(一般の詩歌も含めて)で、毎日一編ずつ取り上げていらっしゃったが、
大岡先生と源氏物語の関わりはどのようなものが?

大岡――僕は(源氏物語を)専門にやっていたわけではないから。(と、ニベも無い(^_^;)
伊井――選歌なさりながら、源氏を考えられることは?
大岡――ありません。そういうことを考えていたら選考できません。
(そりゃあそうだ、という意味か会場も笑うし、伊井先生も苦笑なさってる気がします。
こんなこと聞くのかな?それほど質問が少なかったのでしょうか(^_^;)


伊井→岡野

伊井――「源氏物語」と「紫のゆかり」の関連について。
岡野――若紫・紫上・紫式部ということで紫なんでしょうか。(えー!違うでしょ!!と私は疑問(^_^;)
古代の神話など、自分たちが
(源氏は文学史上)大きな物語の転換の時期であった。
宇治十帖を読まなくてもわかる。
光源氏や紫上が生きた時代は古代的おおらかさが大きく転換する時期に、
あの物語が出来ている、ということで大きな意義を持っている。
(ここの文、私のメモが間違っていなければ支離滅裂です(^_^;)

伊井――周囲の女性が輝いているからこそ光源氏が輝く、ということでしたが。
岡野――丸谷さんの話にもあったが、女性が輝いている時代が良い時代である。
戦争には男性が行くのだが、女性がじーっと待っているる
万葉集も恋の虚構の歌を歌っている。男性は旅先でそれを聞いて感動を感じることができる。
(どう考えても、これは無理があると思いません?↑こういう時代をいい時代とは言わないよ(^_^;
丸谷先生の言う「女性が輝く時代」というのと、この岡野先生の言う「女性が輝く時代」というのは意味が違うと思うけど(^_^;
岡野先生が言う女性は助成でしょう(^_^;)


伊井→丸谷

伊井――大野(晋)先生との対談集もあり「輝く陽の宮」の著作もある丸谷先生に、
「夢の浮橋」が唐突に終わっていることについて、丸谷先生ご自身の今後のご予定は、
と言う質問が有りました。

丸谷――ありません。(と、これもニベも無い!・・・でー、一呼吸あって、ちょっと悪いと思ったのか)
「夢の浮橋」の終わりについて、前に書いたことがある。ナンテ書いたかな。
最後に「・・・とぞ」とあるが、「・・・とぞ」と「・・・と、本にありけるとぞ」と、二種あり、
「〜と本にあるそうだ」で行くとすると、御女中(!!)が、
「源氏物語」に書いてあることを噂話として語る、というパターンで、
「これは噂話だ」ということがはっきりする。
そこが「夢の浮橋」のビョウビョウとした終わり方が一噌強められた、と書いたような・・・
そのことはその辺でいいでしょう。
(これで会場は揺れましたね(^^ゞ)

伊井――源氏物語をテーマにした本は?
丸谷――「輝く日宮」を書きました。アレで終わり。


伊井→加賀美

伊井――当時の女房たちは、どんな姿勢で読んでいたのか?
私たちは、どう読んで行ったらよいのだろうか。
加賀美――当時は紙は大事で、手元に置いてみんなが読めたわけではない。
読んでいるのを聞いているだけで伝わっていく。
言葉の力であるる
どう読んでもよい。その人の自然の読み方で、気持ちのままで読めばよいと思うる

伊井――源氏からどうメッセージを受け取るか。
加々美――いろんな大変なことのあった時代でも、大きな自然があった。
言葉は言葉だけで存在しない。心と内容が伴わないと。
(源氏物語の中の)歌にこもる思い、説明しすぎていない。
地の文に書かれていないことも簡潔に述べられている。


。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜

伊井――タチアナさんの説明・ウェイリーのことが出ましたが、
2001年のロイヤル・タイラーの翻訳もあり、
中国語で四種類
フランスのシュベールさんの翻訳
イタリアでは「初音」まで翻訳が進んでいる。
来年春にはトルコ語の翻訳が出来るそうで、
チェコ語で四冊のうち三冊が完成している。

伊井→大岡

伊井――日本文学の中心は韻文と書かれているが、韻文と散文の関わりは。
大岡――日本文学は、明らかに和歌を中心に発達してきた。
韻文精神が日本文学の根幹であるる
現代短歌・俳句・詩も歌謡も・・・歌謡は韻文だが、散文的要素も多い。
歌謡は日本文学の中では親しまれているが文学史上では重んじられていない。
もう少し読んで欲しい。
歌謡によって日本文学が豊かになっている面も多い。
「折々の歌」では意図的に取り上げたこともあるる


伊井→岡野

伊井――古今集の言霊について。
岡野――和歌が圧倒的に大事にせられ、その周辺の歌謡が少し寂しい。
しかし、源氏の中には「神楽」や「催馬楽」が引かれている。
あれだけたくさんの引き歌が織り込まれたその作者と、
同様に理解することの出来た読者がいたことが羨ましい。
(そうそうこれはホントにそう思います。何の作品でも創造する側と受容する側の力量が差があって
ど゜ちらにとっても不幸です。詠み手も詠み手、読み手も読み手なんだよね♪)

岡野――語りと歌、という違った形が人の心に迫ってくることも源氏物語の魅力である。
我々は少し活字文化に慣れすぎて、声に出して読むということが恥ずかしいと言う風潮ができてしまった。
肉声を以って生き生きと響かせる、ということも大事。
清少納言に非常に厳しかった紫式部だが、歌人としては和泉が圧倒的に優れていると評価したが、
物語の中の各場面で、あれだけ時宜にあった歌を詠んでいる歌人としての才能は、やはり只者ではない。

伊井――岡野先生は「源氏の朗読会」を午後一時から五時までやっていらっしゃるそうですが。
岡野――物語が向こうから立ってくる。
ある時、「葵巻き」を読んで、五時に終わって外に出たら、薄暮の中、六条御息所の魂が飛んでくるようで、
ゾッとしたこともあった。


伊井→丸谷

伊井――明治などには、新聞なども声を出して読んでいる。
三矢先生と同じ鶴岡のご出身と言うが、どうして日本文學に目覚めたか。

丸谷――中学1〜2生の時に、姉が使っていた日本文学の傑作選があつた。
日本文学のさわりを全体的に読んで、一番惹かれたのは新古今だった。
新古今は難しいし、注は不完全である。
全くわからないんだが、それでも、これが一番凄いんだ、とはわかった。
大学は英文科から国学院の英語教師になった。
その頃、岩波の古典文学大系の万葉集と新古今を買って読んだら
注が自分の気持ちにピッタリ来るもので、よく理解できた。
国学院の教授のさとうけんぞうさんに質問したりして読んだ。

その頃、筑摩書房から「ことばの○○(自分の字が読めない!)」を書かないか、といわれた。

明治以来の新古今論では、
小島良夫さんの「新古今は言葉の韻の作品」
異本新古今集の折口の「女房の文学から隠者の文学へ」
明治の新古今論としては二代傑作。

折口信夫の全集を全部読んだ。
その日本文学・古今・新古今は、それを理解するためには、
日本文学を全部読まなければならない。
僕が専攻していた20世紀の英米文学のモダニズムと基本的に同じ。


伊井→加賀美

伊井――明石君と姫との別れ、朗読のこと。
加賀美――声に出すと分かり安い。
読み方に上手下手はない。
歌は響き―息遣いである。息が入ると、作者はどう歌っているのかわかる。
読みあうと、その人、その人で違う。
「近づき方」を考える。どんな近づき方でもいい。
今と年齢が違うと言っても、三十代の女性が書いた物である。


伊井――最後に「千年の源氏物語」について各先生のお言葉を。

大岡――直ぐ横にあると思っているので、千年と考えたことは無い。
歌人である久保田篤信

岡野――一千年と言う記念は、年月が積もれば自然にやってくることだが、
こういうことを契機にして、その物語の中に生きている人の追体験をさせてもらう。
千年前のことを考えることによって、未来を考えることができる。

丸谷――小説家としての立場で言うと、
@構成――筋がしっかりしていて、納得が行って面白い
A文体――いちいち書いてある文章が巧みであるる
この二つを備えているのがいい小説。
ふつうの小説はなかなかそれを備えていない。

詩というものがあって、なぜ詩が素晴らしいかというと、レトリック(言い回し)がよい。
単なるレトリックということではなく、論理的なことが背骨にしっかりあって、
レトリック、そして音調がいい。
音調とは音楽、我々が気持ちいいと思うのは、最高のレトリックと音楽を味わう時。

レトリックと音楽とを両方持っているべきなのに、両方持っていなくてもいい、と言うのが近代小説。
長編小説の模範を千年前から持っていることは素晴らしい。
日本人がしなくてはならないことは、源氏を読むこと。
特に「若菜〜柏木」までを読む。
現代語訳でも英文でもよい。
それを傍らに置いて原文を読む。
千年前の原文を読むのは日本文学好きだけが許されている特権である。

加賀美――千年経った今、日本はどうなつたのか?
振り返って読むのではなく、今を読み解くためのメッセージを受け取りたい。





えー、終わりました!普通に終わって、4時50分の予定だったんですが、
「放送局の人間」と仰る加賀美さんが大変時間を気にして、
ご自分の言いたいことなどはしょっていらしたようですが、もう5時過ぎてます!!
伊井先生の「閉会の辞」は失礼ながらカットして、
このへんは、テレビ放映で聞けば良いや、と、そこは現金なもので飛びだました(^^ゞ
しっかりトイレに飛び込んで、駅まで走ります(^_^;

西国立駅に着いたら、タッチの差で出てしまいました(^_^;
嗚呼ーーーー頑張って走ったのに、次の電車までにゾクゾクと帰りの人たちが集まって、オーマイガッ!!

でも、まあ、ナントカ座れて55分、川崎につきました(^^ゞ
これなら、武蔵小杉で乗り換えて、東急で横浜に出た方がよかったんですかネェ(^_^;

それにしても、長い長い旅が終わって、地元について、お弁当買って、
家について、とにかくお弁当を食べられる準備をして、
家族に先に食べていてもらい、その間にザットシャワーを浴びて、テーブルの前に座ったら、
もう何もしたくない!
主婦が学ぶって大変だわぁ(;_;)

というわけで・・・まあ、とにかくNHKの放映を待って、聞き損った名前などチェックしたいと思います。

。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜
あのね、立川移転記念、ということで、立川市の方は、立川公民館なんてすぐわかると思うのですよ。
でも、オバサン始め、かなり広範囲に古典ファンの受講生が集まっていたと思います。
オバサンが西国立駅で降りた時には、
西国立駅?立川公民館は立川駅から徒歩13分、「西国立駅」から徒歩7分なんです。
だから、西国立駅が便利、と思うでしょ。

と・こ・ろ・が!西国立駅って、もう〜、ローカルな駅でね(^_^;
いやぁ・・・参った(^_^;
あっちでも、こっちでも「立川公民館はどこですか」と聞くグループがいっぱい!
そのへんに、たまたまクラブ帰りみたいな高校生がいて、それぞれのグループに親切に教えてましたけど、
国文研の立て看板は勿論、案内の人もいないのです(^_^;

まあ、オバサンもその人たちと一緒に行けばよかったんだけど、
何しろ家を出たのは10時過ぎころで、その前にご飯食べたんですから、もうお昼時なのですよ(^_^;
腹が減っては戦は出来ぬ!と、その駅前のパン屋さんがカフェテリア式の喫茶とランチしていたから、
とにかくそこでランチして、とやっていたら、丁度誰もいなくなってしまいました。

とにかく、聞いたように歩き始めたら、もう一人同じ年か、もう少し上かな・・・という位の女性がいらっしゃって、
「あなたも立川公民館?」と、お聞きになるので、「そうです」とお答えしたら、
「お分かりになります?」と、又聞いていらっしゃるので、「全然ですが、まあ大きい通りに出てみようと思って」と言うと、
「私、今駅まで戻ってシツコク聞いてきましたから、たぶん大丈夫だと思います。ご一緒に行きましょう」
と言って下さったので、渡りに船♪でご一緒しました。

その方は川崎からおいでになったそうですが、やはり、この辺は不案内だし、
ネットもしないから、私のような簡単なデフォルメ地図さえない!というわけで、
国文研の手際の悪さを嘆いていらっしゃいました。
しかも、朝問い合わせに国文研に電話したら誰も出なかったそうで、
「何か問い合わせがあるなんて、考えても見ないんでしょうね、留守番を置こうナンテ発想が無いんですよ」
とお怒りでした!!

私も同感、同感!!
立川公民館のアクセス地図は、全く役に立たない!!
周辺の雰囲気がわかればまた違うのかもしれないけれど、
とにかく公民館の最寄り駅に立て看板一つ無い、というのはいかがな物か(^_^;
お葬式の矢印も当てにならないけど、せめてそれくらいの親切心はあってもいいと思いますよ(;_;)

だって・・・あれだけの人数の人たちがゾロゾロあっちで聞き、こっちで聞き、で
この細い道から信号渡ってまたちょっと住宅街の道路みたいなのを通って大通りに出て、
と、聞いて行き着くのは大変そう(^_^;
いっそ、遠い方の立川駅で降りればタクシーということも出来たんだな、
と「下衆の知恵は後から出る」と言う奴です(^_^;

しかも、私のように遠くから来る人たちは、現地に食事の施設があるかどうか、
丁度お昼の時間帯ですからね。
まあ、「みんな立川駅から来るんだろ」という思い込みがあったのかもしれませんが、
せっかくのホワイエのコーヒー・ショップもあったんだから・・・まあ混雑で、
とてもとても皆様どうぞ!とは言えないでしょうけど(^^ゞ



国文研の皆様、素晴らしい講演会をありがとうございましたm(__)m
でもまた、この運営方法はもうすこし反省の余地がありそうですよ!!
まあ、来年は立川で新しい施設のホールでやることになるのでしょうが、
もう少し、行き易い方法を考えてくださいませ。

みんながネットで検索して、マピオン出して行ける、ランチの場所も分かってます、
というわけには行きませんから、ね(^^)



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