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10月26日(日)

「源氏物語国際フォーラムT」
千年の古典、『源氏物語』

また、ちょっと風邪がぶり返してきた?とは思いながら、とにかく行くぞ!
の気合で行って来ました\(^^)/
ま、おかげで、月曜日は寝倒しましたけど(^_^;

これは、京都の「源氏物語国際フォーラム」に先立つ東京でのイベントでした。

京都は3日かかりの泊り込みでスゲェー源氏漬け!という感じですが、
やはり、東京には冷たいのぅ(^_^;
それでも、秋山(虔)先生はじめ、
ドナルド・キーン先生が講演なさると言うことで\(^^)/

でー、今回は講演するほうに回った
国文研館長の伊井春樹先生と司会者に回った語り部且つ大阪芸大教授の平野啓子先生♪
こちらはもう、相手変われど主変わらず!!
やっぱり、そう言っちゃなんだが、今は伊井先生なのかねぇ(^^ゞ
例の新発見という大沢本の持ち主も、伊井先生の所に相談持ち込んだそうだし・・・(^_^;

それに、今回はニコル・クーリジ・ルーマニエールさんという、美術史専攻の、
セインズべリー日本芸術研究所所長で東大客員教授という先生。

それと、私、過分にして存じ上げなかったのですが芳賀徹という東大名誉教授の先生m(__)m
この方が面白くて、ねぇ〜!!
世界的視野から超江戸前の日本文学論を展開して素敵でした\(^^)/
大ファンになっちゃった(*^-^*)

というわけで、秋山虔先生のご挨拶(今日は講演では無いのです(^_^;)から。

挨拶・秋山虔

この会は11月1・2・3日の国際フォーラムに先立つものですが、
「源氏物語千年委員会」の呼びかけ人として、2006年11月に、
その「呼びかけ人の最初の集まり」があった時には、今年、これ程の反響があるとは思わなかった。

私は国文学の人間であるが、国文学者の間では研究が盛んでも、
研究が細分化しすぎて研究者相互の交流は難しい。
ということは、統一的な成果に結びつきにくい。

「源氏物語」がいかに優れた文学か!
我々を魅了するのはなぜか?
ということより、
源氏の細分化しすぎた研究、研究は自閉して日常に結びつかない、
という国文学者の問題。

(今回こうして、)内外の研究者が一同に介して源氏とは何か、を考える、
国文学の自閉を取り除こう、という、
「源氏物語千年委員会」の熱心な活動があった。
ドナルド・キーンさん、瀬戸内寂聴さんはじめ、皆さんが文化運動を強力に推進してくれた。

「イベントカレンダー」を見ていただくと、今年、全国で「源氏千年紀」の色々な行事がわかる。
こんなにたくさんあって、漏れているものもある。
素晴らしい関心の高まりです。
源氏関係の書籍も、新聞・月刊誌は勿論、週刊誌までも源氏特集をしている。
上野栄子さんという九州の高校教師の方が、「源氏物語」の口語訳を自費出版していた。
そういう、研究者でない人が精魂込めて口語訳をするという。

全く、源氏に関係なさそうな人が私に声をかけてくる。
そんなことは予想が出来なかった!

寛弘五年の「紫式部日記」に名が出てきた、ということだけでなく、
紫式部という女性によって書かれたということは凄い事だ。
11世紀の東アジアの文化を吸収した日本。
それ以後の日本人の美意識の元になった。
我々の生活の基礎から源氏に縛り上げられている。
日本の古典に目を向ける、(ということは)、人間はどう生きてきたか、どう生きていくのか、
(ということである)。

13世紀の初めの日本の物語の最初の批評紙として「無名草子」があるが、
これは俊成の娘が書いた、という。
(そこで)、源氏物語が創られたのは奇跡である!これは人間の技ではない!と、
「仏に申し請いたる験とこそ思ひつれ」
と言っている。

それを、京都の3日間で論じ合う。
今日は、それに先立って、三人の先生に論じ合ってもらう。

ドナルド・キーン先生は、
「源氏物語」との出会いを通じて、日本文学の新しい取り組み方を開発してくれた。
芳賀先生は、
国際的視野で日本文学を見る。
伊井先生は、
「源氏物語」の研究者として、研究史・享受史の第一人者です。



注:源氏千年紀よびかけ人
秋山虔/梅原猛/瀬戸内寂聴/千玄室/ドナルド・キーン/芳賀徹/村井康彦/冷泉貴美子

というわけで、講演者ということではなかったのですが、
やはり、秋山先生が演壇にお立ちになれば、それなりに、ね(^^)

それにしても、お元気ですよね・・・84歳です。
秋山先生も偉くなりすぎて、みんなが敬して遠巻きにしてしまうから、寂しそうです、
なんてことを伺ったことがありますが、
やはり、「源氏の細分化しすぎた研究、研究は自閉して日常に結びつかない」
なんてことは、みんな思っていても口に出来ない・・・それを言えるのも秋山先生だからでしょ(^_^;

というわけで、講演の最初の講師は芳賀徹先生でした。
この先生は、ホント!お名前も知らなくて、前夜に慌てて検索したんですm(__)m
そしたら、美術系の先生で、東大の名誉教授であると同時に京都造形大学名誉学長なんですって。
でー、岡崎市美術博物館の館長までされている、という。
一寸見、熊倉功夫先生に似てます。ほ〜んと!私、最初あれ?っと思ったもの(^^ゞ
親戚だったら、笑っちゃう(^_^;


基調講演 芳賀徹 源氏物語千年紀委員会よびかけ人

「千年紀事業全体の概要と源氏物語の価値」

私は国文学の専門家ではなく、呼びかけ人ということになって、
「源氏物語」も慌てて読み始めて、まだ読了していない。
今日も、新参者で緊張している。

今、横浜美術館で「源氏物語1000年」の展覧会が開かれ、屏風・画帖・日記などが展示されている。
私も行ってきて、享受史の広がりがよくわかった。
明治以降の近代の画家たちの源氏絵などもあった。
寺崎広業が描いた紫式部の肖像が若くて可愛い、珍しい絵だ。
国宝の源氏物語絵巻を模写しているものもあった。

また、京都文化博物館では、「読む、見る、遊ぶ源氏」という切り口で、
貴族のみならず、武士のみならず、庶民の中にまで浸透している源氏を知った。
(源氏物語関連のものを)小さい頃から見慣れて日常生活の中に深く入り込んでいる。

昔のお姫様が嫁入り道具にした小さな字で書かれた小さな巻子本が、
漆塗りの綺麗な箱に入っている。
巻ごとに書かれているから、短い巻は細くて、若菜のような長い巻きはこんなに太い。
貝合せ、双六・・・色々なものがあった。
京都博物館は、春には国宝を集めた展示で、道長の国宝の御堂關白日記や、
屏風、それから岩佐又兵衛の絵などが展示されていた。

今まで見え隠れして、見たくても見られなかった源氏物語が一斉に水面に顔を出した。
「源氏物語千年紀」には一千くらいの登録があり、実際は1000〜3000近くのイベントがある。
源氏を冠したせんべいや酒など、商売にも結びついている。

11月1・2・3・4日の4日間は、
竹西寛子先生、現代の作家・評論家として、「源氏物語」をどう受け取るか、
どう生かしていくか、を講演する。

平川祐弘先生は、アーサー・ウェイリーの研究者で、
ウエイリーは、英文学の伝統を背負いながら、源氏物語を我が物(イギリスのもの)とした。
ウェイリーは、
プルーストの「失われた時を求めて」(が同時期に発表されたことから)と
比較しながら論じられた。

ロイヤル・タイラーは、ドナルド・キーンさんの愛弟子。
アーサー・ウェイリーの10年後にサイデンステッカーが訳し、
サイデンステッカーから10年後の訳をした。
英文学のきめ細かさが、ウェイリーとも、サイデンステッカーとも違う。

これらの方たちを含め、30人近くの研究者たちが「自分たちの源氏物語」を語る。
20ヶ国語以上の訳がある。
先ほど言った、士農工商という縦の広がりから各国へ、という横の広がりだ。

「源氏物語」が35歳前後のパットしない女性、少々イケズでもある、
「枕草子」の清少納言はパッとしている女性。
(「源氏物語」は)そういう女性によって書かれた。
夫から聞いた女の話、彰子の宮廷に入った後は、その宮廷で見る女性。
現実観察から、自分のイマジネーションを膨らませた。

一条天皇は文芸がわかる素晴らしい天皇だった。
これほど知的水準が高かったサロンはない!
定子には清少納言、彰子には紫式部、
和泉式部はどちらにも仕えたし、赤染衛門もいた。
歌が届く、上の句が。そうすると、すぐ下の句をつけて返す。
公任が清少納言に届ける、もうその場でつけて返す、という。
ヨーロッパの宮廷で17〜8世紀になってもできない。

「やまとことば」「ひらがな」で書けば、(「源氏物語」は)3000枚の原稿。
「ひらがな」は、10世紀初めの「古今集」の辺りから始まり、
150年位の間に女文字として発展してきた。

漢詩・漢文にはこういう表現はできない。
白楽天の詩はみんなが愛誦していた。
しかし、これでは女たちの柔らかな心の動きを表せない。
喜び・哀しみ・おののき・嫉妬・・・。

文詞の発展・宮廷の発展・紫式部の成長・・・それらが「源氏物語」に結実していった。
普遍性を持った文学。
人の有為転変を詳しく書いてある。
千年前の人間の心の動きが、美しい言葉でしなやかに。
男女の恋の成立から展開が、自然の中に織り成しあって描かれている。

1008年を(世界史の中で)輪切りにすると、こんな文芸者はいなかった!
中国で言えば、先ほどの白楽天や杜甫・李白がいたとしても、
中国では恋愛は邪道。
男女の愛は文学に相応しいものではなかった。
(中国における)文学は政治!
日本の文学は全て、殆ど半分以上は恋の歌!
万葉集・古今集・竹取などの物語は夫婦の愛をも越える男女の愛が描かれる。

「奥の細道」などは一寸違うが、その時代に西鶴の「好色一代男」があり、
種彦の「偽紫田舎源氏」も出てくる。

夏目漱石は「不倫姦通小説ばかりだ」と言ってもいい。
「三四郎」は違うが「明暗」「行人」「それから」・・・みんなそうでしょ。
その基調を作ったのは「源氏物語」

中国では、宋代〜明代に「佳人の奇跡」というようなものはあるが、
18世紀の「紅楼夢」まで恋愛はない。

ヨーロッパは、11世紀に「ロランの歌」があるが、これは「平家物語」のような勇雄詩の物語。
イタリアのダンテの「神曲」は13世紀。イタリア語で書かれた最初の小説といわれる。
ベアトリーチェに恋をして煉獄を彷徨う話。
アメリカは何もなくて、ロシアは真っ暗。

日本はませている特殊な国。
12歳で元服した源氏がすぐ結婚をする。
「夕顔」は宮中で生まれ育った源氏にしては珍しい体験。
夕顔自身も三位の中納言の娘で貴族ではあるけれど零落している。
乳母の病気を見舞いに行った時知り合って、ある時、その夕顔を連れ出して古い邸に行く。

(ここで、「夕顔」本文と、アーサー・ウェイリーの訳文の解釈が入りました。)
たとしへなく静かなる昨夜の空をながめたまひて、奥の方は暗くものむつかしと、女は思ひたれば、
端の簾を上げて、添ひ臥したまへり。夕ばえを見かはして、女も、かかるありさまを思ひのほかに
あやしきここちはしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆくけしき、いとらうたし。―中略―
宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、「己がいとめでたしと
見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かくことなることなき人を、率ておはして時めかしたまふこそ、
いとめざましくつらけれ」とて―後略―

部屋の奥のほうは暗くて怖いと思うので端の簾をあげて、源氏の傍に寄り添っている。
夕ばえを見かはして」は夕明かりに浮かぶお互いの顔を見交わして、夕映えを浴びて美しく映っている。
アーサーウエイリーは、この情景をしっかり頭に描いて訳している。

It was an evening of marvellous stillness. Genji sat watching the sky.
The lady found the inner room where she was sitting depressingly dark and gloomy.

女は自分が座っている部屋の奥が暗くて陰気だと思う。

ここで平野啓子さんに、この部分を朗読してもらいます。

(というわけで、平野先生の朗読が入ったのですが、
↑件の「」の六条御息所(と、思われる枕上の女)の台詞を、あまりにオドロオドロしく、
真に迫って朗読なさったので、
芳賀先生が、お〜!と一瞬声をお挙げになりました\(^^)/)

(朗読が終わって)
素晴らしい朗読でしたね。
昔は、お姫様が絵巻を見ながら、待女が読むのを聞いていた。
丁度、今のようです。

「源氏物語」それ自体深い価値を持っていて、
アーサー・ウェイリーなどの卓抜な訳を以って世界に広まった。
源氏物語の原文も勿論、読んで見て、
アーサー・ウェイリーの英訳も読んで見る、ということもしてみたらいいと思います。



最後はちょっと、バタバタでしたが、
平野先生の六条御息所にビックリなさったところは、大変ウブウブしくて、お可愛らしい先生でした♪
それと、ほんの一ページに満たない所ですが、
アーサー・ウェイリーの訳文の資料を頂けたのは、大変ラッキーでした(^^)
(サイデンステッカー(「賢木」)もロイヤル・タイラー(「賢木」)も、ちょっとずつですがありました!!)

まあ、すんなり読んで意味が分かるほどの英語上手じゃありませんけど、
やはり、どんな感じ、くらいはわかって嬉しかったです(^^)v


この後、いよいよ、ドナルド・キーン先生です。


ドナルド・キーン
「源氏物語とわたし」

1940年昭和15年のヨーロッパの戦争は、私の人生の中で一番暗い時代。
フランス・ノルウェー・ベルギーが、ドイツのナチに占領された。
秋からロンドン空爆があり、次がアメリカか?という時代。
タイムズ・スクエアの、古い売れ残りのような本を扱っている店で、
上下二冊の「源氏物語」が非常に安かった。

家で読み始めて、自分の世界でない所に連れて行ってくれた。
平和的な処、殺し合いがない。

「源氏物語」の世界へ逃げ込んだ。
私の文化は違う世界。
人間は何の為に生きていたか?

大学三年生18歳の時、西洋文化を深く、広く修めた。
古代ギリシア語も覚えていた。
美を創るためだ。
(それまで)東洋に文化があるか?などと考えたこともない。
子供の頃読んだ未知の世界ということ。
フランス・オランダ・日本・・・(みんな遠い存在、ということだったか(^_^;
日本について思い浮かぶのと、美人・傘・屏風・・・そういうもの。
俳句も知らなかった。

登場人物は、私に理解できた。違和感はなかった。
翻訳はアーサー・ウェイリー。美しい英語として最高の言葉。
(今、思うと)誤りが二箇所ありました。
え?間違いはどこ?)

(ウェイリーは、)本居宣長の注釈書を大英博物館で見た。
「宇治十帖」金子元臣
↑これは、金子元臣の「宇治十帖」の解説を読んだ、ということでしたか?

私はウェイリー先生の崇拝者!
第二のウェイリーになりたかった!


ウェイリー先生は、日本に一度も来たことはなかった
(日本の)景色を見たことも、食べ物を食べた事もなかったでしょう。
日本の家に椅子があったと思っていただろう。
お姫様が床に座っているのは想像ができなかった。ヨーロッパでは床に座ることは考えられない。
脇息は長椅子にしてしまった。
(ハアー!これが二箇所の間違いですか(^_^;)

私もその誤りが分からなかった。
ウエイリー先生は、なぜ日本に行きませんか?と聞くと、
「今の日本は平安時代ではないからです」と答えました。
先生は、日本の現代の姿を知っていたのでしょう。


私は、家庭教師に日本語を習っていた。
「さいた、さいた、さくらがさいた」という日本の小学校の本を使って。
戦争になって、海軍の日本語学校へ志願した。
「源氏物語」を原文で読もうとおもった。
ハワイ大学に行って、「源氏物語」を原文で読みたい、と言った。
先生は、原文で読んだことはなかったけれど、
3〜4人の海軍将校が源氏の原文を読み始めた。
かなり日本語が流暢になっていたのに、原文で読むのは大変だった。
かなり絶望に近い状態で「桐壺」の巻を読んだ。

コロンビア大学で、早稲田の 角田柳作先生から「須磨」「明石」を学んだ。

サイデンステッカーは、ウエイリーの誤りに気づいて、ウェイリーより忠実に訳した。
サイデンステッカーは現代のアメリカ英語で、
ウェイリーは20世紀初めの英国貴族の英語に及ばないところがある。

ウェイリーは、和歌は会話の中に入れてしまった。

サイデンステッカーは和歌は独立させている。
脚注は殆どない。
また、(個人の)名前を全て英訳した。(例として、「浮舟」をFloatingBoatとかねぇ(^_^;

タイラーは、アメリカ英語と英語の中間位のところで訳している。
注が多くて学問的。

私が訳さなかったのは、
@難しい!
A私はウェイリーの崇拝者!
他の訳者はウェイリーと親しくなかった。だから、誤りを指摘できた。
サイデンステッカーやタイラーがエベレストの頂上に登りたい、という気持ちはわかる。

「紫式部日記」を読むと、物語を読む人、聞く人が多かったことがわかる。
1008年、一条天皇の前で「源氏物語」を聞いたという。
(↑ここ、ちょっと日本語がおかしかったです(^_^;
たぶん、「一条帝が、女房に朗読させたのを聴いた」という意味ですよね。ご愛嬌です。)


この人は日本史に詳しい、と言われた。
その当時、男性は女性が書いたものを読むことはなかったし、
仮名で書いたものを(読ませて)聞くこともなかった。
(それが、)天皇が聞いた、ということで、宮廷全般に広まった。

道長は写本をさせた。
写本というのは、書写させる者を雇う、ということ。
紙も筆も墨も・・・お金がかかる。

天皇が聞いてから、12年位たった頃、田舎にいた若い女性が「源氏物語」を読んだ。
彼女は「源氏物語」を現実のような事だと思って読んだ。
彼女は浮舟に憧れ、浮舟になりたかった。
13歳〜30歳まで、「源氏」を読む以外のことはしなかった。
宣長は「もののあはれ」の文学として読んでいた。
仏教学者たちは、存在しないもののことを書いた為に(紫式部は)地獄に落ちた(と言った)。
江戸の儒学者は「源氏」は不道徳だといったが、
熊沢蕃山だけは、「源氏は勧善懲悪だ」と弁護した。

「源氏」は、どの時代の人でも理解できる。
しかし、その理解の仕方が違う。
民族性・年代・・・。
今の各国語訳は、アーサー・ウェイリーの英訳から、イタリア語・ロシア語・・・。

「源氏物語」の中で一番好きな所は「野宮」。
能も「野宮」が好き。
六条御息所大好き!

「源氏」は、世界の古典文学になっている。
三人の訳、ウエイリー・ステッカー・タイラーの訳は毎年各二万部ずつ売れる。
日本文学を研究することになっていったきっかとなった「源氏物語」に感謝している。



でー、ここで、司会者の平野先生から、
「モンゴル大統領からの感謝状が、キーン先生に届いています。
モンゴル語で源氏物語の訳を始めたジャンガル・サイハン氏が届けて下さいました。」
ということで、
「日本を理解するきっかけになった」という感謝状!日本語で書かれていたそうです。
キーン先生も、
「モンゴル語に訳されているのは知りませんでした。」ということにも
「感謝状が日本語で書かれていた」ということにも「ビックリしました」
そうです(*^-^*)

いやぁ、キーン先生って可愛い方です。
それと、ウエイリー先生に対する尊敬の念も大変なんですが、
角田柳作先生に対する尊敬も大変なもので、
ご自分の恩師が、日本で無名だという事を大変残念がって、わざわざ、角田先生に関する著書を書かれて、
そのおかけで、角田先生のご功績も知られるようになったのだそうです!!
文字通り「仰げば尊しわが師の恩」てことですよね。
そういうキーン先生に大尊敬m(__)m


さて、国文研館長の伊井先生ですが・・・ここんとこ、何を見ても源氏といえば、伊井先生!!

伊井春樹
「これからの源氏物語研究」

千年も読まれ続ける作品は稀有な事。
これまで、どう読まれてきたか?
これからどう読まれて行くのか?
その読者の一人として、我らの責務として、
これから千年後「源氏」はどう読まれて行くのか?
言葉は生きている。
現代も行き続けている。

「KY=空気が読めない」という言葉があった。
現代国語辞典を作るとしたら、
「地頭(ぢあたま)」カツラをかぶらない頭。or学歴に関係ないもともとの頭。
「家電(いえでん)」今は、電話といえば携帯なので、家にある電話をわざわざ「家電」という。
その携帯電話を「ケータイ」という。
若い女性が「よさのってる」という。
与謝野晶子の「乱れ髪」から、髪が乱れている、ということを言うらしい。

与謝野晶子といえば、熱心な源氏の読者であったが、源氏を時代に繋げた人。
資料を用意しました。

「源氏物語を伝えた人々―与謝野晶子の源氏物語現代語訳の背景―」
(与謝野晶子と小林一三の年譜があります)
小林一三は明治6年1月3日に生まれたから一三という名前になった。
箕面有馬電気鉄道という電鉄会社を作り、その電車を走らせたところに遊園地を作れば、
お客さんがその電車に乗って行くだろう、と考えた。
宝塚少女歌劇団を作った人でもある。
国務大臣なども勤めた。

一三は生涯茶人で、戦争中も茶会記をつけ、茶会を催す事を楽しみにした。
茶会を催す、ということは美術と深い関わりを持つことでもある。
その一三の旧宅が池田山という所にあり、今、逸翁美術館としている。
逸翁というのは、一三の号。

晶子は明治11年12月7日、堺市に生まれた。
家は商家で、鳳志よ(しよ)と名づけられた。
明治34年、23歳の時に上京して与謝野鉄幹の家に押しかけ女房になった。

与謝野鉄幹は、明治22年頃から、「短歌革新」を謳って大変な人気。
今では「短歌革新」と言えば正岡子規。
晶子の「乱れ髪」は大爆発の人気で、生活の資なども晶子が稼ぐ。
家で古典の講義などをした。今のカルチャースクールの奔り。
そこで「源氏物語」などを取り上げた。
鉄幹は「万葉集」
明治44年、鉄幹がヨーロッパに遊学のため、その費用捻出のため
「百首屏風」というのを創った。
その屏風を一三に買ってもらおう、ということ。(資料小林宛の手紙文@あり)

大正元年、百日間で源氏の現代語訳「新訳源氏物語」四巻を上梓。
この序文を森鴎外が書いた!

たった百日で仕上げたというのは大変なことではあるが、やはり不満な所も多かったと見えて、
大正6〜7年、着々と次の源氏口語訳の準備をしていた。
そして、完成後、勤務先の文化学院に預けていた所、
大正13年9月、関東大震災で全て消失してしまった。
ガッカリもしたろうが、そこで諦めることなく、再々チャレンジ、三度目の訳にとりかかる。

昭和13年「新々訳源氏物語」6巻を上梓。
谷崎は昭和14年。

大正6〜7年の、その再チャレンジをしていた頃、
大正8年12月、「源氏物語礼賛歌(54首)」を完成。
その翌年大正9年1月、小林一三に出した手紙があり。(資料小林宛の手紙文Aあり)
「(源氏物語礼賛歌を詠んだので)お手許へとヾめさせ給へとて差し上げ候」
「(その歌は)活字にはいたさず候」
と、言いながら、54首を巻物にして百巻売り出す!
大正11年1月の「明星」にも掲載している。

晶子には晶子の事情があったのだろう。
一三への手紙には、よろしければ屏風にでも仕立てて欲しい、と言う事も書いてあったけれど、
一三は、屏風には仕立てず、色紙のまま、それでも大切に保存してあったる

小林一三は、
益田孝・・・鈍翁という、29歳で三井物産を立ち上げた三井家の大番頭、
日経新聞の前身も立てた(本日は日経主催で、日経ホールで講演♪)
生涯で数千回の茶会をしたという人物。
御殿山の邸には七つの茶室があったという、そういう人物。

明治の企業人たちのお茶人グループの人たち、
お茶席で、
美術品・文化的な話・企業の話など・・・を交わしていた、
その益田鈍翁の弟子筋。

与謝野自身の「源氏」の朗読の声がありますのでお聞きいただきます。

うひゃぁ!!凄い!!今日来てよかった\(^^)/」

(後↓で伊井先生も仰ってましたが、
@早口で、A関西のイントネーションで、B切れ目があまりない(ちょっとダラダラと言う感じ)、)


かなり年をとっている、関西のイントネーション、早口です。

その「源氏物語礼賛歌」54首を読み、屏風に仕立てたい、という晶子の気持ちは、
上田秋成の故事による。

1734年、上田秋成は大阪で出生。
一時失明する時期があり、回復はしたが、元通りの視力は取り戻せなかった。
その失明していた時期に、妻が「源氏物語」を朗読し、その折一巻こどに歌を詠んだ。
その歌を、妻が短冊に留め、後に屏風に仕上げた。
「源氏物語54条54首の歌」
その屏風を一三が持っていて、晶子に見せたのだろう。
これに晶子が刺激されて、自分も!と思う。

小林一三は、晶子・鉄幹に金銭的援助をしていたものと思われる。

大正8年、秋成の短冊屏風を見た為に書いた歌。
これは一三の為に詠んだ・・・「あなた様だけに!」と書きながら、
アチコチに残っている!
活字にするつもりはない、自分が死んだら、出来れば屏風に(仕立てて欲しい)、
と望んでいたが、今もまだ短冊のまま逸翁美術館に保存されている。

この大正8年は二回目の源氏訳にチャレンジしている時。しかし、二年後に焼失。


「大沢本」のことを話さなければならない。

明治40年、小杉榲邨(こすぎすぎむら)が、
「大澤清臣の甥の菅二(すがじ)が源氏物語45帖を持っていた」のを発見した。
それから30年後に、池田亀鑑氏が見たが、全部は見られなかった。
その後行方不明となり、現在の持ち主からの依頼で研究していた。

室町末期の写本であると思われる。

(室町期には)
堺在住の「そうちん(字がわかりません・・・宗珍かな・・・(^_^;)」という、
「源氏物語」の書写人として有名な人物がいる。
生涯のうちに源氏を23回も書写して、24回目の「朝顔の巻」で亡くなった、という。

今日の我々は千年後に、(「源氏物語」を)どう持ち続けていられるか?
世界の人々はどう理解しているか?
古典は色恋だけでは無い!
54帖の中に人の哀しみ、喜び、嫉妬・・・様々な生き方が描かれている。


ウーム!とうとう仰いましたネェ(^^)
うちの先生も同じことおっしゃいますの(*^-^*)
マスコミ受けする伊井先生も、やっぱり学者さんとして、
本来、源氏のアバンチュールばっかり取り上げているのを、内心苦々しく思ってらっしゃるのでしょう(^_^;

寂聴さんとご一緒の時などは知らん振りして、にこやかに別の話し方をなさるでのでしょうけどね(^_^;

でも、寂聴さんだって、本気で「源氏物語が色恋だけ」だとは思っているんじゃないですよ〜!!
まあ、刺激的な言葉を使いすぎるかも知れませんけど、ね(^_^;

やはり、裾野を広げたい、と思う気持ちが強くて、
刺激的な言葉も、分かり安すぎる表現も出てくるのでしょう。
でも、それで、裾野から登れば源氏本体の魅力で、絶対虜になるという自信があるからだと思うのですよ(^^)

まあ、人それぞれの源氏物語ですから。
えっ?私?私は、源氏はかなり教育書=育児書として役立ちました(^^ゞ
後、政治の教科書ね♪
あの時代の何もしない、平安貴族のドロドロした政治家ぶりは、何もしない分面白いテキストでしたよ(^^)


でー、講演は、ここで終了。
パネルディスカッションになります!!
ここから、
ニコル・クーリジ・ルーマニエール
(セインズベリー日本芸術研究所所長・東大人文学科文化資源学研究専攻客員教授)

が参加されました。

パネルディスカッション
芳賀徹
ドナルド・キーン
伊井春樹
ニコル・クーリジ・ルーマニエール
司会:平野啓子


平野――ニコル先生が「源氏物語」を知ったきっかけを伺います。

ニコル――もともと美術史が専門で焼物から入った。
「源氏」は資料として(視野に)入っていた。
原本は英語。様々な要素がある。
考古学の勉強で東博で焼物を見る。桃山時代の茶碗「橋姫」という銘の志野の茶碗。
「源氏物語」を読まなければならない。

平野――焼物以外で勉強というと。

ニコル――先ほど、伊井先生が「KY」と仰っていたが、私は「EY」・・・絵を読む、です。
日本の文化は絵だけでなく「見る」
「もののあはれ」を「感じる」。
(香りを)嗅ぐ。
小袖・振袖・漆・香道・茶の湯・嫁入り道具・・・様々な処と生活空間の中で源氏が入り込んでいる。
美術館に行くと、(フランスでも)ガラスがあってモノが離れる。
それでも空間の中で源氏を想像することが出来、感じる事が出きる。

平野――美術品の中に広まっている現象は世界にどう広まっているか?

ニコル――絵画と言うと、私のヨーロッパの話になるが、
1930年代(この年代の数字が残っているだけで何をおっしゃったかメモ本文が無いm(__)m)
17世紀〜、欧州、源氏の絵、焼物は様々な要素で入ってきた。
18世紀〜、アメリカ、源氏の絵はとても人気。
どこの美術館に行っても源氏関係のものがある。
フランスのアルザスのどんな小さな村に行っても源氏関係の作品がある。
彼らは「源氏物語」をよく知らなくても、いい絵だと知っている。
日本は伝来の王国である(芳賀説)。
源氏香の文様はたくさん出回っているが、みんな、中国の占いと思っていたりする。
海外は、物語より先に絵が入っている。

平野――「源氏物語」の敬語・主語がよく分からないが、(朗読の折は)一度憶えると忘れない。
難しくはあるが、原文の持つ力を感じる。

伊井――金田一春彦さんが、平安時代の音韻を復元し観世弘子(関弘子)さんが語ったテープがある。
「自ずからメロディーがある」と言う。「源氏物語」は語る世界。
読んでいるうちに自分の肉体・心に入っている。
皆さんにお知らせすることがある。

@与謝野晶子の「源氏礼賛歌」は、大正13年、「新々訳源氏物語」の巻末に54首の歌が入っている。
A国文研は立川に移転して、立川駅から徒歩20分くらいだが、現在、
「源氏物語千年の輝き」展を開催している。重文を含めて、今月中の開催。
B「源氏香」というのは、五本の縦線を使って52種類の組合せ香を作り源氏の巻の名を当てはめた。
一番最初の桐壺と最期の夢の浮橋はない。
室町時代から始まった。
平安時代から香はあった。甘葛(あまづら)で練って、一年間水辺に埋めて作った。
今あるのは、一寸違う。

平野――「訳の広がり方」について。原文から〜、或いは訳文から〜。

芳賀――ソウルで、寂聴さんの現代語訳から研究者が韓国語に訳し、
それを韓国の詩人が読みやすい韓国語にした。
アーサー・ウェイリーの英訳を日本語訳しているものもある。
なぜ、あの時代に、大英博物館に勤めたと言っても、中国語や日本語に関心を持って、
独学で語学を修めて訳したのか?

ニコルさんのお話で、絵から入った、というのも、我々も明治の時代など、
言葉は分からないまま絵を見て、聖書・ギリシア・ローマの神話などを知った。
目から入る、というのは異文化へのアプローチとして普遍的。

やはり、その国を理解するには、文学などは、できればその国の言語で読むこと。
その国の政治経済は好きでなくとも、
その国の民族が生み出した文化を理解していれば、
裏切られることはない!

「源氏物語」は、これから、日本が世界に乗り出していく時、
「源氏」を知っている人は、日本を裏切らない。
あの文学の中の「もののあはれ」という感覚を理解できていれば世界の平和に寄与する事になる。
決して、人間は世界の中心にいて、世界を支配しているものではない。

平野――キーン先生は、訳もしたし、原文も読んでいる。

キーン――Cambridgeに行った。
ウエイリー先生は、どうして東洋に目を向けたか?
それでいて、とうとう日本に一度も行った事が無い。なぜですか、と伺うと。
「平安朝の日本なら喜んで行きます」
ウエイリー先生が一番遠くまで行ったのはイスタンブール!
冬になるとスイス。
ウエイリー先生は難しい人でした。
日常的なことは何も話しません。

ウエイリー先生は、私にとても親しかった。
17世紀初めの頃の(文学の)翻訳、「ドン・キホーテ」「モンテスキュー」などをした。
誤訳があっても構わない!
古典となっている。
ウエイリー先生は、「たいしょう大乗経」を読んでいた。
日本に関係ない。

ウエイリー先生の翻訳のやり方は、
一つの言葉を色々研究して、それを理解したと言う段階で、
日本語の原文を見ないで英語で書く。
途中で日本語の翻訳を止めてしまった。
良い物は全部訳し終えた、と言った。
ウエイリー先生は一番よい物を終えたのだと。
私が近松門左衛門を挙げたが反応がなかった。

平野――英語は主語が必ずある。

キーン――日本文学は生き生きした表現がある。
たぶん、そう喋ったままであろう。一番日本語らしい日本語。
訳し方としては、一番難しい!
逐語訳は全く読めない!!

一番最初の訳は末松謙澄
彼は政治経済に興味があったはずだが、
彼はタブン、Cambridgeに留学中に、
「あなたの国のシェークスピアは誰ですか?」と、聞かれたのではないか。
彼の英語力では、「源氏物語」の訳は無理だった。
正確かもしれないが面白くない。
少しでも、外国語を覚える力がある人は、二ヶ月で日本語をマスターできる。

平野――過去〜現代までの読み継がれ方。
 
伊井――道長邸で読まれていたのは確実。
彰子の出産があり、寛弘五年、1008年の11月1日、五十日の祝いの席で、
公任が言った「このわたりに若紫やそぶらう」。
11月17日、源氏を書写したものを持って宮中に還る。
受領階級の女房たちが読んでいる。
孝標女が、その1008年に生まれて、孝標女も今年生誕千年です。
その百年後くらい、平安末期になると、もう読めなくなって、注釈書が出た。
平徳子は、既に「源氏物語絵巻」を持っていた。
徳子が持っていた「源氏物語絵巻」は鎌倉将軍の持ち物になる。
どんどん注釈書が増える。
「白紙文集」の引用、お経の言葉の中味からの引用・・・引用が多い。
尼僧のぎょくえいは、「源氏物語」を読もうとするが、注釈書が難しくて読めない!
そこで梗概書が出る。
江戸時代は、注釈書・梗概書が多く発行された。

俊成は「源氏見ぬ歌詠みは遺恨のことなり。」と言った。
日野富子は、自分が政治を見るとき、一條兼良が「源氏」を講釈して、
女性が政治を執る時の典拠にする。藤壺や弘徽殿の例。
徳川家康は、秀頼を滅ぼした直後、二条城に入った時、中院通村が、「初音」の講義をする。
家康も朗読をする・・・低い野太い声だったという。
・・・様々な手段として読みまれる。
江戸時代の女大学「女は嫉妬すべからず」・・・「紫上は妬んではいない」という説。

読み継がれたところに多様な読み方をするようになる。
・・・能・デザイン・ミュージカル・日本酒・饅頭・・・源氏力!

平野――「源氏」に登場する女性について。

ニコル――「女性の立場」は、とても重要な質問。
紫式部は女性で、女性としての立場でこれを書いている。
同時代のヨーロッパの女性を見てみると、身分の高い人を比較しても、
(日本の女性の方が)恵まれていると思う。
@自分の財産を持つこともでき、
A教育を受けることも出来
B名前は残っていないが
C女性のセンス・髪・衣装・・・自分で力を持っていたと思う。

女性が自分でこういう物語を書くというのは大変な事。
しかも書いていて、同時代の人に評価されている。

芳賀――キーンさんが、末松謙澄のことを仰ったが、
ヨーロッパにおける女性文学は
19世紀のジェーン・オースティンを待つしかない。

サイデンステッカーは、
ジェーン・オースティンは、物語の展開に合せて自然を語る、と言った。
「源氏」は自然の展開に合せて物語を語る。
雲が輝く・月の影がさす・光がさす・・・それに応じて(人物・物事・物語が)動く。

(自然描写は)バルザックにもスタンダールにもない。
ラファイエット夫人の「クレープの奥方」だが、あれには自然描写が無いことで有名。
やはりプルーストの小説である!

平野――京都文化博物館の展示の中で、写本があり、見ていた親子連れの会話で、
お母さんが、子供に問いかけた言葉
「ほら、コピーがなかった時代には、一つづつ手で写して行ったんや。
今なら写して残したい本てあるか?」
それを聞いてドキッとした。
凄い、普通の親子の会話ではないな、と思った。

芳賀――川端康成なら・・・三島はちょっと・・・。

伊井――松平楽翁(定信)は七回書写している。記録も残している。
池田亀鑑先生は、30才から源氏を書写する。
息子の為に米子からお父さんが出てきて「源氏物語」を写したと言う。
そのおかげで、
昭和17年と昭和28年に、「源氏物語大成」を完成した。」
(↑これ変ですよね(^_^;池田先生が自分で写したんじゃなくて、お父さんが写したの?
まあ、お父さんがアシスタントとして、ってことですか?)


私も写してみたいと思う。

平野――筆ですか?

伊井――鉛筆で。

ニコル――美術史的な意味から言えば、言葉と絵の組合せがとても大事!
もともとひらがなで書いている「源氏」は文字を見るだけで意味がある。
絵を見ながら「源氏」(の朗読を)を聞く、ということが、最初にあったはず。

伊井――学生時代から、源氏を読み続けていて、特別な事ではないので、
今年千年でも、それでせ終わるわけではなく、来年も続いている。
古典は今も生きている。

芳賀――11月1日は一番大きなイベント、「The Classic`s Day古典の日」で、
古典を読むことによって、我らの精神の襞を多くする、厚くする。
日本の古典に触れる事によって、日本語の貧しさを回復しなくてはならない。
「久方の〜」と一首読むだけで心が豊かになる。
国を挙げてやらなければならない。

キーン――日本の国史大学・国文大学で教えたが、日本人は一人もいない。
韓国人・中国人と西洋人が少し。
ナントカしなければいけない!
就職できないから日本文学はやらないと言ったら、日本はどうなりますか?
一人でも多く、古典の必要を感じなければ。
私は86歳で、そんなにたくさんの衝撃は受けなくてすみそうだが、
それにしても、私はもう少し明るい未来を見たい。


でー、最後の締めくくりは、平野先生の「御法」の朗読でした。
先日と同じ源氏・紫上・明石女御の三人の唱和のところでした。
やはり節をつけて朗読なさいました♪
それが前回はとってもスムースに朗読なさったのでしたが、
今回は一寸チョンボで朗読しなおしました(^_^;

ムム一寸残念(^_^;

というより、前回聞いていた方は、
「あー、あれはとても素敵だったのに」と、分かってくださるからいいのですが、
今回初めて聞いた方たちが、
あんな節つけるからだ!などと言ったら残念だナァ・・・と思いました(^_^;

それにしても、やはり節つけて歌を読むって難しいのですね・・・私にはやはり無理かな(^_^;

終わればあたりはもう真っ暗です。
ロビーで、11月の1・2・3日の京都の講演会の参加受付をしてました・・・いいなぁ、
と横目で見ながら、東京駅へひた走ります・・・地下鉄に乗るより時間的には早いですから♪

まあ、東京に隔週で二連荘させてもらっただけでも幸せですが(^^)
11月九日に、横須賀芸術劇場で、これも「源氏物語千年紀」事業として、
「平安王朝への誘い」があります。
そちらにも行かせていただくつもりなので・・・まあ、我慢m(__)m





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