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2012年

04月03日

オバサン版「紫式部の恋」


去年の、近藤富枝著「紫式部の恋」を受けて、オバサン版「紫式部の恋」をアップしたかったのですが・・・
何かと色々ありまして・・・(^_^;

えーっと、まず、ですね・・・。
オバサンは紫式部があまり好きではありません。
「源氏物語」は好きですけどね。
だから、「紫式部日記」をカルチャーでやったときにも、式部の心象風景というのはあまり関心なくて、
もっぱら、道長の当時の姿勢(施政じゃないですよ、政治なんてしてなかったんだから)ばかり興味を持ってました。

なので、紫式部については、あまり調べよう、とか、書こう、とか言う気がしなかったのですよ(^_^;
でも、やっぱり、源氏をやっていると、どうしても、じゃあ、その著者についてどういう考え方をしているか、
ということも、一応まとめておいたほうがいいかな・・・と、思いました。

そのきっかけになったのが、↑の近藤富枝さんの「紫式部の恋」です。

実は、自分としては、漠然と紫式部の恋人ってか、初恋の人像ってのは、漠然と思い浮かべていたんですね〜♪
だって、宣孝との結婚が初婚としては、ちょっと遅すぎるでしょ(^_^;
それに関しては、ちょっと源氏とか「紫式部日記」読んでいる人たちは、同じようなこと考えているんだけど、
「結婚」は最初も最期も無くあれが初めてだ!という人もいらっしゃるし、
それでも、何人かの恋人はいたとしても、「結婚」としては初婚、とか、
「結婚」は若いときにしたかもしれないが、記録に残るほどの長いものではなかった、とか
色々あるんですね。

でー、オバサンとしては、
まず、@紫式部って、かなりのファザコンですよね。
あの時代、子供が父方で育てられるってことも珍しいし、学問の手ほどきもしてもらって、
いい年して親父の赴任先まで着いていってると。
(まあ、これは「越前」=紙の産地っての大きいとおもってますが)
それと、やはり、源氏の中で「明石の君」の書き方ですね。
結局明石は、子供を捨てて父の方を取ってしまったでしょ。
けっこう、みんな明石が子供と引き離されて可哀想!という言い方をしますが、
あれは、引き離されたのではありませんからね。
あの時、明石が、絶対この子は離しません!と突っぱねればそれまでなんです!!
親父は源氏だって一目置く大富豪なんだから。
ただ、身分として、受領の娘に生ませた子ということで、日陰とは言えなくとも後宮政治に参加は出来なかっただろう、ということです。
つまり、そのために明石は〜父親明石入道の大望を果たすために子を捨てたんです。
とすると、明石にとって、一番大事なのは、子供でも、ましてや源氏でもなく、「おとうさま」ですよね。
この書き方が、あー!紫式部本当にファザコンだったんだなぁ、と思った駄目押しです。

Aしかも、あれだけの教養を25〜6才になるまでにつけていた、
なんてことを諸々考えますと・・・
かなり学識豊かな年上の恋人がいたんじゃないか〜?と、漠然と考えていたんですね。
つまり、式部がしっちゃきに教養つけなくちゃ!と思い込むほど、見上げる相手!!
当然、そのへんの青二才ではなくて、親父の為時とおっつかずくらいの年齢の・・・と。
ま、それと、有島武雄の「通夜の客」で、「大人になったら浮気をしようね」と、
遊び人の魅力的な男性に言われた一言を、ずっと心に秘めて、その男性を愛し続けたヒロインのこと。
及び、
丹羽文雄の「晩秋」と言う小説で、「四十も年上の人に恋をするとは思いませんでした」ってヒロインのことば。
なんてものが、わりと心に残っていて、それが紫式部に、なんとなく合致したんですね。

でも、悲しいかな浅学非才・無知・無教養のオバサンは、
あんまり具体的な名前を挙げられなくて・・・知らん振り決め込んでいたのです(^_^;

ところが・・・十年くらい前? 北村薫さんの「六の宮の姫君」を読んで、
はっと思ったのは「慶滋保胤」!!!!
いや、噂では聞いていた!平安時代屈指の才子!
芥川は、その才子ぶりに皮肉を込めていたように北村氏は書いていらっしゃいましたが、
オバサンは、こりゃあいいぞ!と思ったのですよ(^^)
933年位(これより数年後というので934〜8年くらい)の生まれなので、
949年生まれの為時よりも10歳以上年長です。
970年〜978年生まれという紫式部にしたら40位年上!!
でもさ、昨今の年の差婚なんてことより、けっこう昔から、お爺さんに惹かれる若い女というのがいたんですよね(^^ゞ

とはいえ、別に何の証拠も無い!

でも、紫式部って、よく言われる漢文学だけじゃなく、宗教(当時のことですから浄土宗)にも詳しい!
ってことは、「日本往生極楽記」なんかを著した慶滋保胤なんて、ピッタシカンカン!と思い込んでしまったのでしたm( )m
そう、まさに思い込んでしまったんですよ〜!!

ただ、紫式部と保胤の接点が無いのですね〜!
当時の貴族社会なんて狭いもんだから、為時と保胤は知り合いであったろう、と思うのですね。
でも、紫式部ってか、娘っ子は、みんな家の中で籠の鳥ですから(^_^;
紫式部の娘時代の話といえば、みんな女の子のお友達との交流ばかり(^^ゞ
それでも、当時の中級貴族のお姫さん同士としては、なかなか華やかな社交状態だったくらいのようです。

そしたら、今度の近藤富枝さん!!
近藤氏は式部の相手に具平親王を模したりしていらっしゃいましたがね。
その「紫式部の恋」の中で、
保胤が具平親王の侍講であることが書かれていました(^^)
後で見たら、自分で取っていウィキのコピーにも書いてあった(^_^;
ヒョエ〜!
おぅ!保胤氏は具平親王のトコに出入りしていたんですか?!
そりゃあ、そうだよね、当代一の才子ならば・・・やったぁ!!

紫式部は「式部」の候名(さぶらいな)から、
為時が式部の大丞だった頃どこかに出仕したことがある、ということが言われています。
そのどこかが、為時が家司も勤めたのではないか?という具平親王の邸ではないかと言われてます。

為時の兄為頼は、もっと具平親王に信頼されていたらしく、為頼の息子は伊祐は、具平親王の庶子・頼成を養子にしたりしています(^^ゞ
近藤氏は、はっきりとは書かないまでも、その庶子の母は式部と考えてもいいんじゃない?くらいの書き方をなさってますがね(^_^;
そこまでは、飛躍しすぎ!と、オバサンは思うんだけど、
でー、近藤先生の説を飛躍しすぎ、と言っといて恐縮ですが、
オバサンとしては、その具平親王のお邸で、当代切っての才子振りを発揮して、
具平親王に色々講釈している保胤にゾッコン参ってしまった!!と思うのです(^^ゞ

極端に頭の良い女の子で、そう美人でもない子って、大体、そういうシチュエーションに弱いもの(^^ゞ
そこに、「通夜の客」と「晩秋」のヒロインたち。こっちは二人とも美女ですが(^_^;
で〜、この方にお教えを受けるにふさわしい女にならなくては!と、学問に励む!!
っての・・・無理ですか(^_^;

いつかは、先生にお聞きしてみたいけど、
たぶん、先生としては、「四十も年の離れた男性に、いくらなんでも・・・」と、仰りそうです(^_^;

まあ、世間様はそれでもいいの(^_-)-☆
私は、私で、式部の恋人、見〜つけた♪と、ひとりこっそり、ニンマリします(*^^*)



――☆―☆――


本当は、「紫式部の恋」や「六の宮の姫君」などの本文なども少し写して、
あと、保胤や為頼のこと、何より式部の娘時代のことを書いて
もう少し詳しくまとめたかったのですが、ちょっと眼の調子が悪いので、備忘録程度になりました。



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