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2013年

7月25日(木)

最近は、年に1〜2回更新すればいいほうで恐縮しておりますm( )m

でもさ、今日は、源氏のセミナーで良いことがあったんですよ(^^)

まあ、日記の方でも書いてますが、
カルチャーの方のセミナーはずっと、続けて受講しています♪
個人の方が主宰していらっしゃるほうは、今年の初めに退会してしまいました。

やはり遠くて、体力がもたない(^_^;
オバサンより、年長の方が新幹線やら、なにやら使って、ずっと遠くから通っていらっしゃる方もおありなんですけどね(^_^;

でも、やはり、気力・体力・交通アクセスの問題ですよね(^_^;
1・2・3月、4月の始め頃まで、オバサン自身も、かなり体調不良でしたから(^_^;

で、まあ、乗り換えも二回(バス→東海道線→京浜東北)、一時間で行かれる、という
カルチャーのほうは細々と続けています。

そのカルチャーで、今日は朗読の当番?に当たっていたのです。
最近は、一回のご講義分を一人で読む、というパターンが定着してしまって、ちょっとくらいしんどくても頑張っていかないと、
他の受講者の方にご迷惑がかかるのですよ〜(^_^;

つまりさ、皆さん、自分の朗読当番の時は、その分をちゃんと朗読できるように練習していらっしゃるのですよ(^^ゞ
それで、また、どんどん、皆様方上手になっていらっしゃって!!

去年、先生の地元の勉強会の方たちが、朗読会をなさってたのです。
本ちゃんの演出家まで、先生のお顔で招聘して、大盛況のうちに終わった!
というお話が、なんとなくこっちのカルチャーの皆様方に火をつけたのですかねぇ(^_^;
今は、もう、先生が激賞するほど、皆様、巧みに朗読なさるんですよ!!!!

というわけで、怖いもの知らずで、勝手気ままに読んでいたオバサンも、致し方なく?
前回くらいから、朗読の当番近くなると練習を始めていたのです(^^ゞ
というのも、オバサンは、わりと読むことは苦にしない!
但し、元々早口の所に持ってきて、感情過多の人なのですね。
自分のペースで読めば、オットット!というくらい早い(^_^;
で〜、ゆっくり読むと、気分が入り込みすぎて、泣く!

まあ、悲しい場面でなければ泣くまではないけど、とにかく、おかしいも怖いも、憎いも好きも、すぐ感情が声に出るタイプで・・・(^_^;
子供達が、小さい時も、「スイミー」とか「スーホの白い馬」なんて、教科書読んでさえ、もう泣きまくりで、
子供達にドン引きされてた!!
ということで、うちの子供たちは、親に絵本を読んでもらった、なんてことはありませんでした(^_^;

そんなオバサンでさんなので、適当な速さで感情過多にならぬよう、今回は20回以上練習して行った、と思う♪
と、先輩に嘯いたのですが、後でカウントしてみたら、どう数えても20回は読めない(^_^;
まあ、前回から2週間しか空いてないんだから(^_^;
でも、それくらい頑張った!!
ことに、最近は唾液がの出が少なくてお医者様に相談したくらいですから、突っかかるとみっともないし、
皆様も聞きにくいでしょう(^_^;
まあ、それは無事に終わったのでヤレヤレでしたm( )m


で〜、帰り!
ヌァ〜ント!途中から、先生と二人で、駅まで帰る事に!!
お茶飲みに行く方たちと、お別れのご挨拶して(オバサンは、一寸早く帰りたいワケアリ)から、
カルチャーの地元駅まで、大体2分、
ホームで電車待ちで3分、
電車の乗って、乗換駅まで3分(^^ゞ
さあ、この8分くらいで、年来の疑問をお聞きできるか?
聞いてもいいのか?悪いのか?ってのもあるよね(^_^;
一寸、生意気な質問だから・・・でも、ついに聞いてしまいました!!!!

2012年04月03日 オバサン版「紫式部の恋」

っていうのを我が日記に書いたんですけどね(^_^;
その「慶慈保胤ではだめですか〜?」と言うことについて(^_^;

2012年7月14日のご講義後のお茶会では、

紫式部の初恋の人のことで、
「非公式にも誰の名前も挙がってないんですか?」と、伺ったら、それは本当に無いそうです(^_^;
先生方も、誰か絶対いるはずだとお考えのようですが・・・。

ってことだったのです。

それが・・・今日たまたま、ご講義の時間が一寸余って、「夢の浮橋」の終わり方についての中絶説やら、最終説やらのお話が出てました。

先生は、

俗世では、太上天皇という最高位を極め、六条院という大邸宅を造営した最高の成功者である源氏が、
正妻に裏切られ、なかなか出家も出来ぬまま、愛する紫上に先立たれ、
ようよう出家はしたと思われるが、嵯峨野で孤独な生涯を終えたと暗示されている。
さらに、浮舟は出家したといっても、寺に入ったわけでもなく、まだ俗世の中にいて、薫の文を見たり、母親のことを考えて揺れている。
どちらも、仏教では救われていない。
これは、仏教全盛の当時の社会に真っ向から対抗する気持ちがあったのではないか。

というようなお話をなさってました。

それに引っ掛けて、この貴重な8分間に、
紫式部と慶慈保胤とは関係なかったんでしょうか?と切り出したんですよ。
そしたら、「それはあったでしょうねぇ。」と言下に(^^)
「具平親王のサロンでもありますから、当然仏教の教えには彼の影響があったと思います。」

まあ、これだけなら、単なる指導者かもしれないとね言うことでしょ。
でも、さ、そのニュアンスねぇ・・・あり、とも言わず、なしとも言わぬ(*^^*)

で、この時とばかりに続けて聞いたんだわ(^_^;
保胤は為時よりも年上ですけど、式部は保胤が出家した二年後に越後に行ってるんですね、って!
そしたら、「そうですか、二年後ですか」と仰って
「みんな、紫式部は、為時が学問の指導をしたと簡単に言いますが、そんな単純なものではないでしょうね。
あれだけの仏教の知識というのは、誰かよほどの指導者がいたと考えていいでしょう」って(*^^*)
「もっと具平サロンのことを調べなくてはいけないと思いますよ。」

紫式部は相当のファザコンですよね、というのも申し上げました(^^ゞ
先生も、そこはニコニコでうなずいていらっしゃいましたけど、肯定も否定もなし、というところですか。

勿論、先生は紫式部と慶慈保胤が男女の仲にあったとおっしゃっているわけではないんですよ!!
そんなこと、いろんな研究者が研究していても、↑紫式部の恋人は不明ってことなんですからね。
でも、一応、そういうニュアンスで伺って、全否定されたわけじゃない!ってことは大きい\(^^)/
オバサン、舞い上がっちゃって〜☆\(^^)/☆

まあ、またこれで、なんじゃらかんじゃら源氏続けていくことが出来そうです(^^ゞ

・・・そうそう、これね、先生無言だったでしょ。

これは、丁度、電車に乗るタイミングで、そのままになってしまったので、
座席にお着きになってから「為時が学問の指導」になっちゃいましたから、一寸気になりました。

私も「2年後」ってのだけが頭を占めていたので、その点も気になったので、家に帰って確認したら、
保胤が1002年に死んで、その「2年後」に上東門院に出仕したんですよ。
もっとも、1004年(寛弘元年)出仕は先生の説で普通は寛弘2年説・3年説というのが多いんですね。

で〜、オバサンは、保胤がどうかなってから「二年後」に紫式部がどうかなった、
だけが頭にちらついていていて、越後下向と混同しちゃったわけでしたm( )m
ま、1001年には、新婚の夫宣孝が死んでますから、初恋の人の死よりは、そっちのほうが大事でしょうからね(^_^;
と、思いつつ、ダンナが死んで、ふっと見回せば、初恋?の人も亡くなっていった、って考えると寂寥感が増すよね(^^ゞ
その時の死の重みはどちらが重いか、と言うことでなくて、どちらが式部の内面により大きな影響力を与えたか?
ってこともあるかも・・・ねぇ(^_^;

先生にも、申し訳ない聞き方をしてしまいましたm( )m
それにしても、(まだ強気!)、とにかく、慶慈保胤からの影響が、あったことは考える余地のあることだ!
という程度には受け取っていいんじゃない?!

それだって、ド素人のオバサンが思いついたことにしたら\(^^)/♪

もひとつ、追加。
これは先生が、いつも紫式部の漢学の素養について、仰ることですけれどもね。

紫式部が彰子中宮に、白楽天の、よりにもよって「楽府」を進講したのはなぜか?
中宮の漢学の素養のためということだけなら、「琵琶行」とか、女性に相応しい優雅哀愁に満ちたものがいくらでもあるはずで、
それを、社会的な内容、あるいは反体制とも思える庶民の生活を歌った「楽府」を進講するというのは、
紫式部は何を考えていたのだろうか?

「楽府」の内容は、オバサンは、「売炭翁」くらいしか知りませんが、
これは、たまたまン十年前の<nhkの漢詩講座で取り上げたんですよね♪
それを巧く聞けたわけ。
でも、そういうところで取り上げるくらい有名な作品です。内容的には、

唐の白居易の「新楽府(しんがふ)」の一編。
宮中の役人が市場に出向き、炭売りの老人の炭をただ同然で買い上げる当時の陋習(ろうしゆう)を諷喩(ふうゆ)した詩。」
by三省堂・大辞林

まあ、この手の社会風刺・反体制的な詩が多いんだそうです。「楽府」の中身って。

こういうのを、為政者側の彰子中宮に進講するってのは、ね・・・それなりに意味を感じるでしょ(^^ゞ
「だから晩年には、道長からパージされちゃうでしょ」というのが、先生の常のお言葉です。
彰子中宮って人自身が、父親と反りがあわなくて、
政敵(と言うほどにも無いけど道長の小姑的存在)の小野宮実資がお気に入りだったそうです。
今日も、それを仰ってました(^^)

もっとも、意地悪婆さんのオバサンから言えば、道長と彰子中宮と、巧く役柄を振り分けて、
政敵の懐柔策をしていたんだと思ったり・・・ハハハ・・・素直じゃない(^_^;

え〜、話を戻して、だからさ、ここで具平親王サロンのアレコレが影響しているのではないか、ということで。
まあ、先生としては、保胤と式部がどうこう、というよりは、具平サロン全体が紫式部にどう関わるか?
源氏の世界にどう影を落としているか?ってことなんでしょうけどね(^^ゞ

秋には、別口で紫式部の生涯についての単発講座があるんだけど・・・どうするかな(^_^;
ってか、↑これ、8分間(実際は5分くらい!)で聞いてきたんですよ!!!!!
一個目の乗換駅で、電車下りる時には、もう先生にお別れのご挨拶てか、もう体力落ちて、出たついでが出来なくなりました、
なんて話していたんだもの(^^ゞ









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