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8月6日(火)

前回、慶慈保胤のことで、ウジャウジャ書きましたけど、
ついでに、去年の8月27日に書いた「水鳥の水の下の足使い」について。

@

ところで、「素人のオバサンの勝手な考え」ついでに、
前回の、同窓会セミナーの時、書き落としたんですけど、
「紫式部日記」の水鳥の水下の足掻きですけどね・・・あれさ、
いつも思うんですが、山上憶良の、「貧窮問答歌」の反歌の、
「世の中を憂しとやさしと思えども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」を受けていないかな?

当時としては、古今集が断然のバイブルで、後は、古今六帖とかね、拾遺集もあるか・・・。
でも大体そのあたりなんですよ〜。
とても「万葉集」というのは出てこないんだけど・・・オバサンは、なんとなく、
紫式部なら、万葉集は当然読んでいたと思うし、それなら、ありうる話じゃない?
それとも↑みたいなことで、やはり、専門家も当然気がついているけど、取るに足りないこととして無視されているのかな?

って書いたのですが。

それに、拘っているのは、うちの先生の仰る、
「紫式部は、なぜ彰子中宮に“楽府”を進講したのか?」ってこと。

それをとくのがね、私は「水鳥の水の下の足使い」だと思うんですよ(^_^;
↑この言い方は、北村薫さんの、本(たぶん、“円紫さんと私”シリーズで言ってらっしゃった、と思う)からですm( )m

元は、「紫式部日記」にある文です。

寛弘五年(1008)敦成親王誕生で、一条天皇が道長の土御門邸に行幸することになります。
その前後にある文二つ。

まず、その月10月初頭、行幸前の準備に沸き立っている土御門邸の一角で、

A
・・・あけたてば、うちながめて、水鳥どもの思ふことなげに遊びあへるを見る。
水鳥を 水の上とや よそに見む われも浮きたる 世をすぐしつつ
かれも、さこそ、心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかんなり、と思ひよそへらる。


それと、まあ、二次的にもう一文、行幸当日10月16日、

B
御輿むかへたてまつる船楽、いとおもしろし。寄するを見れば、駕輿丁の、さる身の程ながら、階よりのぼりて、
いとくるしげにうつぶしふせる、なにのことごとなる、高きまじらひも、身のほどかぎりあるに、いとやすげなしかしと見る。

って感慨を持つ所ですね。

それと、


うちの先生は、「楽府進講」の他にも、
同じく「紫式部日記」に書かれている、
土御門邸行幸の際に、天皇の御輿をかつぐ賀與丁の大変さを書いていることを仰るんですね。
(それがB□)
一条天皇は、彰子中宮の生んだ皇子を見るために、道長の邸、土御門邸に行幸するんです。
天皇が臣下の家を、訪問するんだから、こりゃあ、大変なことですよ!!
一代の名誉・・・この夜、天皇がお帰りになった後、道長は酔い泣きするくらいだからね!!
賀與丁といえば地下人ということで、まあ、生まれが違えば、人種が違う!いや、地下人は人間扱いされないくらいの時代ですからね。

まして、道長邸の、彰子中宮の周りにいる人たちは、女房といっても、彰子の従姉妹・ハトコくらいのセレブ級です。
集まっている客達も、道長の政敵といってもいいような、当代キッテの名士ばっかりなわけ。
まあ、既に牙を抜かれている元・政敵なんだけどさ(^_^;

そういう晴れの日に土御門邸の人々は、もう興奮の渦で、天皇の御輿を担ぐ人々(駕輿丁)のことなどに目を留めることは無いでしょ(^_^;
紫式部や、周りの女房・家司など、一応、中級だろうとなんだろうと、貴族の列に列した家に生まれた人たちなわけです。

それを、紫式部は、大変そうだなぁ・・・でも、私達だって、ちっとも変わりはないわ、と呟くわけ。
これをなぜだ?と、先生は仰るんです。
つまり、そういう視点を持っている、ということを、なぜだ?ということですよ。

で〜、私は、「水鳥の水の下の足使い」が第一のキーワードだと思っています。
そして、そこに付随する・・・あるいは発展する感慨としての駕輿丁への共感?!と考えたわけです。


紫式部って、決して良い人じゃありません。
まあ、当時の貴族が概ねそうなんだけどね(^^ゞ
今の時代の「いい人・悪い人」って感覚は通じないんです。

「源氏」の中で、「あはれ、あはれ」って、「あはれ」を強調しているようなのは、
あくまでも、本居宣長の言う「もののあはれ」・・・つまり、「情趣がある!」という意味の「あはれ」ですからねぇ〜。
人を見て、あるいは、ものを見て、「可哀想」とか「気の毒」と言うのではないですから。

意地悪だし、落ちぶれた者に対して、彰子中宮が止めるのに、手ひどい仕打ちを面白がってしたり、
虎の衣を借りるように、摂関家の人間であるかのように別家を舌打ちするようなことを言ってるし、
そのくせ、実家が身分のある同僚にはホイホイしたり・・・まあ、嫌な女ですよ。
でも、確かに社会的な視点はある!
それはどこから生まれたのか?

と、いうことで、私は、どうしても、「飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」に行き着いてしまうのね(^^ゞ

当時は、って言うのは、↑の@□の「オバサンの勝手な考え」中で書いたとおり。
まず、村上天皇の時代には、「万葉集」は、当時の人にとっても既に読めないものになっていた!!
そのために、「万葉集解読の研究者」を集め手作ったのが、例の「梨壺の和歌所」で、
その集められた研究者が「梨壺の五人」という人達です。

まあ、これはウィキのリンクですけど、私も、うちの「万葉集を読む」って、セミナーの記事で、一寸書いてます(^^ゞ
第一回だけでは、先生の調子になれなくてちょっとわかりづらいかも、ですけどm( )m
第二回の方が、前回のまとめもあって、こちらも先生の癖を飲み込んでいてわかりやすいかもね(^_^;


嗚呼!また脱線(^_^;

で〜、その読めなかった万葉集が、「梨壺の五人」のおかげで、少しずつ読めるようになった!
それは何時頃からだろうか?ってことです。

↑の第二回の「古今和歌六帖」の解説で、私は

C
「古今和歌六帖」

10世紀終わりごろ、990年代、と思われる頃、「古今和歌六帖」というものが編纂された。
全歌、約4500首(収録)のうち、万葉集〜1000首、古今集〜700首、新古今〜400首、拾遺集〜250首という、
万葉時代から平安中期流布した歌を集めた・・・いわゆるアンソロジーですか(^^ゞ
と、思ったら↓では次のようにおっしゃってます。
「万葉集研究史」の最古の意識を感じる集で、古点・次点・新点と、300年かかって一応の読みが完成された、
と言っていいものだそうです。
でも、江戸時代、賀茂真淵も本居宣長も蒲池正純も、万葉集の研究はしても、「古今和歌六帖」というのはシランフリ。
近代になって、今井義純氏は、肝心の「古今和歌六帖」の研究が不十分だと嘆いている、そうです。

と、書いたんですけど、紫式部が、彰子中宮のところに出仕したのが寛弘元年か?2年か?3年か?(1004〜6年の間)ですね。
で、「楽府」を進講したのが、「紫式部日記」に書かれている、

D
をととしの夏ごろより、楽府といふ書二巻をぞ、しどけながら、教へたてきこえさせてはべる

という記事が、寛弘6年(1009年)のものとすれば、この、「おととし」は寛弘4年(1007年)のなるわけです。
ということは、古今六帖の私のセミナーメモが正しければ、ある程度の万葉歌は読めていたわけですが(^_^;
(日文研のサイトに行くと「古今六帖」の和歌が収録されていますが、憶良は入ってないのです!)

というわけで、当時、山上憶良の「貧窮問答歌」が読まれた、ということはわかりません(^_^;
しかも、内容的に当時の貴族向きの歌じゃないでしょ(^_^;

その↑、読める状態になっていたとしても、紫式部が、関心を持ったか?
憶良の歌は貴族的でも雅でもないですからね。

ところが、紫式部の曽祖父に藤原兼輔という人がいます。
通称、堤中納言。
「堤中納言物語」の作者とされる貴族で、「三十六歌仙」の一人です。
で、この人の和歌に、
「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」ってのがあるんです。
(ちなみに、清少納言の祖父の清原深養父が、似たような「子を思ふ歌」を読んでいて、そっちはあまり有名じゃないのね(^_^;
以前、新聞で、こんなところにも、紫式部と清少納言の戦いがあった、みたいなコラムで読んだのですが、検索しても出てきません(^_^;)


これが、さ、一寸趣は違うけど、山上憶良が、
「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(803)」ってのに似ているんじゃないかと思うのですね。
当時として、子供への愛を歌う、親子の愛を歌うって・・・かなり珍しいんですよ・・・平安後期以降はけっこうありますが(^_^;
でまた、当時というより、今の歌壇でも、同じ題で歌を詠んだりする題詠、あるいは本歌取りとか、は
歌の読み方としての当たり前の作歌法ですよね。

紫式部は兼輔を大変尊敬していたようですし、その尊敬する祖父が、憶良のこの歌から触発されて、詠んでいたとすれば、
必ずや、その元の万葉集、ひいては山上憶良に関心を持ったと思うのですね。

と、すれば、もう、これは社会への窓になるでしょぅね!!
「貧窮問答歌」だけでなく、憶良の歌には、他の綺麗な歌にはない、弱者の悲しみが満ちています。

「世の中を憂しとやさしと思えども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」と詠まれた歌を読んだ時、
式部は、鳥だって飛びたてるものばかりではない、と思ったこともあったのではないか?
飛べないまま、水の上に優雅に泳いでいる水鳥の、その下の水をかく苦しさを知ってしまった。
それを知ってしまった式部は、さらに
駕余丁の苦しそうな表情にも、自分達にも通じる苦しさを見てしまった。
・・・のではなかろうか(^_^;と思うのです。
それらが、合わさって、社会派という「楽府」の進講になったのではないか、と思いますが・・・オバサンの妄想ですかね(^^ゞ

ついでに、
山上憶良は、「万葉集に仏教ありや」などという研究のなかで、
「万葉集自体には、仏教思想の受容は微弱であり、その中での憶良の仏教思想との出会いの意味は深かった。」
というのですよ。
別冊国文学の「万葉集必携」という中で村山出さんという研究者が書いてました。

なんでも、思いつきで結び付けちゃいかん!ですが、やっぱり・・・結び付けたくなるのは素人の無責任ですかね(^_^;


・・・追伸?・・・

見つけたぞ!!
これが、検索むしても出てこない!新聞の切り抜きファイルも出てこないしさ!
だけど、以前、うちの源氏の親分のところに書き込んだ記憶があったのですねぇ(*^^*)
それで、そのころの記憶を辿って、親分のトコに書き込んだメモをひっくり返していたら出てきた!!
いや、そこのサイトは、なかなかの源氏ファンが集まっていて、アレコレ書き込むと、
またアレコレとレスしてくださって、とても勉強になってたんです(^^)
なので、自分が書いた書き込みに、いろんなことを教えてくださったレスなどをメモしていたの(*^^*)

えっとね、01年5月26日の朝日新聞の夕刊に、情報科学の竹田教授(大学名か書いてない!!)
という方が、
「源氏の和歌のCD−ROM化をして、その過程で人の気づかない引用を拾い出した。
コンピューターのお手柄!」ということで手出ていたようです。
私が書き込んだのは、
「皆さん新聞をお読みになりましたか?」てなことで、
「藤原兼輔の後撰集収録の和歌が、清原深養父の『人を思ふ心は闇にあらねども雲居にのみも鳴き渡るかな』
という古今集収録の和歌を元に作られた」
ということでした。
ふーむ!そういうことか・・・メモが不完全でよくわからないけど、深養父の和歌がわかったのは収穫でしたv(^^)

それで、親分やソコに集まっていた源氏ファンの方たちがいろいろそれについて教えてくださったのですね(*^^*)
あの頃は楽しかったなぁ\(^^)/
親分もママになって子育てとお仕事と二束の草鞋でおいそがしそうで、いわゆる源氏のBBSはなくなっちゃったし
メンバーの方たちも、結婚したり、大学卒業したりで・・・涙。

もっとも、そういうオバサンもいろいろあって、なかなか続かないものねぇ(^_^;



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