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日 月 表

(吾妻鏡の目次を兼ねて日程表?を作りました。)

治承四年


文中の内容 登場人物など
袖書 「袖書」というのは、各将軍の時代の
周囲の政情・政権リスト。
安徳天皇/攝政近衛基通/後鳥羽天皇
攝政藤原師家/攝政九条兼実/關白近衛基通
土御門天皇/攝政近衛基通/征夷大将軍源頼朝
4月
09日
源頼政申下以仁王令旨催諸源氏――
入道源三位頼政/平相国禪門<清盛>
27日 行家伝令旨于頼朝――高倉宮令旨。
今日到-著于前武衛「將軍」伊豆國北條館
八条院蔵人行家/前右衛門督信頼
5月大
10日
下河邊庄司行平進使者於武衛。 下河邊庄司行平
15日 以仁王土佐配流宣下 上卿三条大納言<實房>/職事
蔵人右小弁行隆/検非違使兼綱・光長/長兵衛尉信連
16日 池中納言(頼盛)が入道相国の使いとして
精兵を率い八條御所に参り、若宮を取り奉り
六波羅に帰る。
宮御息若宮<八条院女房三位局盛章女之腹/
池中納言(頼盛)/
19日 以仁王入三井寺給
23日 井寺衆徒等搆城深溝。可追討平氏之由。 ここから☆
24日 入道三品中山堂、并山庄等焼亡。
26日 宮令赴南都御。三井寺無勢之間。依令
恃奈良御也。三位入道一族并寺衆徒等
候御共。
27日 官兵等焼拂宇治御室戸是三井寺衆徒依搆
城郭也
6月小
19日
散位康信使者參著于北條也。武衛於閑所
對面給使者申<云々>。
去月廿六日。高倉宮有御事之後。
請彼令旨源氏等。皆以可被追討之旨。
有其沙汰。君者正統也。
22日 康清歸洛武衛遣委細御書
24日 入道源三品敗北之後。可被追討國々源氏
條。
27日 三浦次郎義澄。〈義明二男〉。千葉六郎大
夫胤頼〈常胤六男〉。等參向北條。
日来は番役に依りて在京する所なり。
武衛は件の両人に対面し給ふ。
御閑談刻(とき)を移す。他人これを
聞かず。
7月大
05日
昨日遣御書。被召走湯山住侶文陽房覺淵。 君は、忝なくも八幡大菩薩の氏人、法
華八軸持つ者なり。八幡太郎の遺跡を
稟け、旧の如く東八ヶ国の勇士を相従
え、八逆の凶徒、八條入道相国一族を
退治せしめ給うの條、掌裡にあり
10日 藤九郎盛長申云 波多野の右馬の允義常・山内首藤瀧口
の三郎経俊等は、曽って以て恩喚に応
ぜず。剰え(あまつさえ)條々の過言
を吐くと云々。
23日 有佐伯昌助者。是筑前國住吉社神官也。 住吉の小大夫昌長は武衛に初参す。
また永江の蔵人大中臣頼隆同じく初参
す。この両人は源家の奉為(おんため)
兼日陰徳を顕わすの上、各々神職を募
るの間、御祈祷の事を仰せられんが為、
門下の祇侯(しこう)を聴(ゆる)さし
め給うと。
8月小
02日
相摸國住人大庭三郎景親以下
04日 散位平兼隆〈前廷尉号山木判官〉者。伊豆
國流人也。
06日 召邦道。昌長等於御前有卜筮。
09日 有近江國住人佐々木源三秀義者。
10日 秀義以嫡男佐々木太郎定綱。
11日 定綱爲父秀義使。參著北條。
12日 可被征兼隆事。以來十七日。
13日 定綱申明暁可歸畢之由。武衛雖令留之給。
19日 兼隆親戚史大夫知親。在當國蒲屋御厨。
20日 三浦介義明一族已下。兼日雖有進奉輩。
于今遅參。
22日 浦次郎義澄。同十郎義連。
23日 武衛相率北條殿父子。盛長。茂光。實平以
下三百騎。陣于相摸國石橋山給。
24日 武衛陣于椙山内堀口邊給。
25日 大庭三郎景親爲塞武衛前途分軍兵。關固
方々之衢。
26日 武藏國畠山次郎重忠。且爲報平氏重恩。 義明云く、
吾は源家累代の家人として、幸いにも
その貴種再興の秋に逢うなり。
盍(けだし)これを喜ばざらんや。保つ
所すでに八旬有余なり。餘算を計る
に幾ばくならず。今老命を武衛に投げ
うち、子孫の勲功に募らんと欲す。
27日 三浦介義明<年八十九>。爲河越太郎重
頼。江戸太郎重長等。被討取。
北條殿。同四郎主。岡崎四郎義實。近藤七
國平等。自土肥郷岩浦令乗船。又指房州
解纜
。而於海上並舟船。相逢于三浦之輩。
28日 光員。廉景兄弟。於駿河國大岡牧各相逢。
武衛。自土肥眞名鶴崎乗船。赴安房國
方給。
實平仰土肥住人貞恒。粧小舟
<云々>。
自此所。以土肥彌太郎遠平爲御使。
被進御臺所御方。被申別離以
29日 武衛。相具實平。掉扁舟令著于安房國平
北郡獵嶋給。
9月
01日
武衛可有渡御于上総介廣常許之由被仰合。 安西三郎景益者。御幼稚之當初。
殊奉昵近者也。
02日 御臺所自伊豆山遷秋戸郷給。 政子は「武衛の安否を知り奉らず」
03日 景親乍爲源家譜代御家人。
04日 安西三郎景益依給御書。
05日 有御參洲崎明神。
06日 晩に及び、義盛帰参す。 千葉の介常胤と談ずるの後参上すべき
07日 源氏木曽冠者義仲主者。
08日 北條殿爲使節。進發甲斐國給。
09日 盛長自千葉歸參申云。 常胤、感涙眼を遮り、言語の覃(たん)
ずる所に非ざるなり。
10日 甲斐國源氏武田太郎信義。
11日 武衛、安房の国、丸の御厨を巡見し給ふ
12日 神田(しんでん)を洲崎宮に寄せ奉りしめ給う
13日 安房の国を出で、上総の国に赴かしめ給ふ。 従ふ所の精兵、三百餘騎に及ぶ。
14日 下総國、千田の庄、領家判官代、親政は、刑部郷
忠盛朝
15日 武田の太郎信義、一條の次郎忠頼已下、
信濃國中の凶徒を討ち得て、去んぬる夜、
甲斐國に歸り逸見山に宿す。
17日 廣常の参入を待たず、下総國に向わしめ給ふ
19日 上総權介廣常、当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・
廰北の輩等を催具し、二萬騎を率い、隅田河の邊り
に参上す。
武衛は、頗る彼の遅参を瞋り、敢えて以て許容の氣無し。
20日 土屋の三郎宗遠御使いとして甲斐の国に向かう
22日 左近少將惟盛朝臣、源家を襲わんとして、東國に
進發せんと欲するの間、攝政家御馬を遣わさる。
24日 北條殿并びに甲斐國の源氏等、逸見山を去り、
石禾の御厩に
28日 御使いを遣わし、江戸の太郎重長を召さる。
29日 従い奉る所の軍兵は、當參已に二万七千余騎なり。
30日 新田大炊助(おおいのすけ)源義重入道<法名上西>、
東國未だ一揆せざるの時に臨み、故陸奥守<義家>が
嫡孫を以て、自立の志を插む(さしはさむ)の間、
十月小
01日
甲斐國源氏等、精兵を相具し、競い來たるの由、駿河國
02日 武衛、常胤・廣常等の舟楫(しゅうしょう)に相乗し、大井・
隅田の両河を濟す。
精兵三万餘騎に及び、武藏國に赴く。
03日 千葉介常胤嚴命を含み、子息郎從等を上総國に遣す。
04日 畠山の次郎重忠、長井の渡に參會す。
05日 武藏國の諸雑事等、在廳官人并びに諸郡司等に仰せ、
沙汰致さしむべき之旨、
江戸太郎重長也に仰せ付けらるる所也。
06日 相摸國に著御(ちゃくぎょ)す。畠山の次郎重忠先陣を爲
07日 先ず鶴岡 八幡宮に遥拜し奉り給ふ。次いで監て故左典
厩之亀谷御舊跡に臨み給ふ
08日 足立右馬允遠元、日者勞り(いたわり)有る之上、最前召に
應じ、參上する之間、
09日 大庭の平太景義、奉行として、御亭の作事を始めらる。
11日 御臺所鎌倉に入御す。景義之を迎え奉る。
12日 祖宗を崇めんが為、小林郷の北山に点じ宮廟を搆え
(かまえ)、鶴岡宮をこの所に遷し奉らる。
専光坊を以て暫く別當職と爲し、景義を執行宮寺の
事とせしむ
13日 木曾の冠者義仲、亡父義賢主の芳躅を尋ね、信濃の国を
出て上野の国に入る。・・
14日 武田・安田の人々、并びに春田路(はるたじ)を經て、
鉢田の邊に到る。
15日 武衛始めて鎌倉の御亭に入御す。
16日 武衛の御願として、鶴岡若宮に於いて、長日の勤行を始
めらる。
「鎮護國家三部經」というのは
法華経・仁王經・金光明最勝王經の三点。
17日 波多野右馬允義常を誅せんが為、軍士を遣わさるるの處、
18日 大庭三郎景親平家の陣に加わらんと為し、一千騎を伴ひ
発向せんと欲するの處、
前の武衛二十万騎精兵を引率して、足柄を越え給ふ
19日 伊東の次郎祐親法師、小松羽林に属かんが爲、船を伊豆
の國鯉名の泊に浮べ、海上を廻らんと擬するの間、
天野の籐内遠景これを窺い得て、生虜らしむ。
20日 武衛は駿河の國、賀嶋(かしま)に到らしめ給ふ
21日 小松の羽林を追攻せんが爲、上洛すべきの由、士率等に
命ぜらる
23日 相摸の國府に著き給ふ
25日 松田の御亭に入御す。・
26日 大庭の平太景義の囚人、河村の三郎義秀、斬罪に行ふ
べき由
27日 常陸國を進發し給ふ 是は佐竹冠者秀義を追討せんが爲也
11月大
02日
今日、小松の少將惟盛朝臣以下、平將、功無くして入洛
すと
04日 武衛は常陸の國府に著き給ふ 佐竹は、權威、境外に及び、郎從、國中に滿つ
05日 實平・宗遠等、使者を武衛に進め、申
06日 廣常、秀義の逃亡之跡に入り、城壁を燒拂す。
07日 廣常以下の士率、御旅舘に歸參し、合戰次第、
及び秀義の逐電、城郭放火等の事を申す。
軍兵之中、熊谷次郎直實・平山武者所季重、
殊に勲功有り。
08日 秀義が領所の常陸の國、奥七郡・并びに太田・糟田・
酒出等の所々、收公さる
10日 武藏國丸子の庄を以って、葛西の三郎清重に賜る。
12日 武藏國に到り、荻野の五郎俊重、斬罪せらる。
14日 土肥の次郎實平、武藏の國内寺社に向ふ。
15日 武藏の國威光寺は、源家數代の御祈祷所爲るに依り、 院主の僧、増圓、相承之僧坊・寺領、元の如く
之を奉免せらると<云々>。
17日 鎌倉に還著せしめ給ふ。
今日、曽我の太郎祐信、厚免を蒙る。
19日 武藏の國長尾寺は、武衛の舎弟の禪師全成に、
避(しゃ)に奉らる
20日 大庭の平太景義は、右馬允(うまのじょう)義常之子息
相具し參上し、厚免を望む。
26日 山内の瀧口三郎經俊、斬罪に處せらるべき之由、内々其
の沙汰有り。
彼の老母<武衛の御乳母也>。
12月小
01日
左兵衛督平知盛卿、數千の官兵を率いて近江國に下向し、
源氏、山本の前兵衛尉義經、同弟柏木冠者義兼等と合戰す
02日 藏人頭重衡朝臣、淡路守清房、肥後守貞能等、
東國を指して發向す
04日 阿闍梨定兼、召に依り、上総國より鎌倉に參上す。
10日 山本の兵衛尉義經鎌倉に參著す。土肥二郎を以って
案内を啓して云はく
11日 平相國禪閤、重衡朝臣を園城寺に遣わし、
寺院衆徒と合戦を遂ぐ
12日 前の武衛「將軍」新造の御亭に御移徙之儀有り。 ○景義、奉行爲して
○上総權介廣常之宅より、新亭に入御す
14日 武藏の國の住人、多く以って、本知行の地主職、本の如く
執行すべき之由、下知を蒙る
16日 鶴岡若宮に鳥居を立てらる。
19日 右馬の允橘の公長、鎌倉に參著す。子息橘の太公忠・
橘次公成を相具す。
20日 新造の御に於いて、三浦介義澄、[土完]飯を献ず。
22日 新田大炊助入道上西、召しに依り參上す 而るに左右無く、鎌倉中に入るべからざる之旨、
24日 木曽冠者義仲、上野國を避け、信濃の國に赴く
25日 石橋合戰之刻、巖窟に納めらるる所之小像正觀音、 専光房弟子僧、閼伽桶之中に安んじ奉り之を捧持す。
26日 佐々木五郎義清、囚人爲として兄盛綱に召し預けらるる。 是は早河合戰之時、澁谷の庄司に属し、殊に射奉る
之故也。
28日 出雲の時澤、雑色の長爲るべし之旨仰らる。
朝夕祗候する雑色等、數有ると雖も、征伐之際、時澤之功、
他に異なるの故、彼の職に抽補せらると<云々>



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