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11月7日(木) 「国文学研究資料館連続講演・百人一首」井上宗雄立教大学名誉教授

第四回・百人一首の成立

今回は、百人一首の歌を、勅撰集に戻してみて、長い詞書が付いているモノを抜粋しました。
「詞書」―「万葉集」で言えば「題詞―だいし―」、「古今集」では「詞書―ことばがき―」、いずれも前書きです。作歌の時の状況を説明する文です。
「勅撰集」というのは、自分がいいと思って選んだ歌を天皇・上皇に奉る。その時「こういう状況で、こういう男(女)が、こういう歌を詠みましいございます」と選者の指示で前書きをつける。

@ 唐土にて月を見て、よみける     安倍仲麿
あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
   この歌は、昔、仲麿を、唐土に物習はしに遣はしたりけるに、数多の年を経て、え帰り申し聞こえざりけるを、この国より又使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、明州と言ふ所の海辺にて、かの国の人、餞別しけり。夜に成りて、月のいと面白くさし出でたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる。

<参考資料>として
土佐日記  承平五年(935)正月
――その月は海よりぞ出でける。これを見てぞ、仲麿の主、わが国にかかる歌をなん神世より神も詠むたび、今は上中下の人も、かう様に別れを惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時には詠むとて、詠めりける歌、
   青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
とぞ詠めりける。かの国人聞き知るまじく思ほれたれども、言のこころを男文字に様を書き出だして、ここの言葉伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞きえたりけむ、いと思ひの外になん愛でける。唐土とこの国とは言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心もおなじことにやあらん。

これは、「詞書」は短いが「左注」が長い。「左注」というのは、絶対こうだ、ということではなく、こういう説もある、ということです。或いは「詞書」にはこう書いてあるが、本当はこうである、というような別説。明州というのは上海の南、ニンポウのあたり。
「あまの原」はおおらかな感じの歌。「土佐日記」では、貫之が違うように書いてある。貫之は「古今集」の選者です。貫之が生みの状況に合わせて解説の為に変えた、と思われます。
「あまの原」も仲麿の歌かどうか?と言うのも疑問があります。
「あまの原ふりさけ見れば」というのは慣用句であり、「春日なる三笠の山」というのも慣用句。この歌は「万葉集」によくある慣用句を二つ繋げた歌。すぐできる歌―即興で。伝承歌ということも考えられる。仲麿伝説と結び合ってできたのではないか?と思われる。
定家は、貫之の「大和歌は他国の人にまで感銘を与える」という言葉(「土佐日記」での意見)に共感して書写した。

筆者の呟き――・この歌は偉く調子のいい歌で、どこかで聞いたような文句が並んでいて、すぐ覚えるけれど、すぐ間違う、というか替え歌になっちゃうのですよ。そうか、そう言えば慣用句を継ぎ足した歌なんだ!と今日納得♪全然気がつきませんでした(^^ゞそれにしても、貫之の「土佐日記」に別バージョンが載っていたなんて!!最近読んだばかりだったのに何を読んでいたのだ、私!!

付記―ぽんずさんの「ぽんずの中国歳時記」で、2003年9月に阿倍仲麻呂の歌を取り上げた時、この歌の中国語訳が載せていらっしゃいました。ご参考までに。

A古今集(前歌に続く)
   隠岐の国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、京なる人のもとに遣はしける   小野篁朝臣  承和五年(838)12月
わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよ海人のつり舟  

四艘の船を仕立てて遣唐使は出かけるが、全部が無事に帰ってくることは一度くらいしかなかった。篁は遣唐使をサボタージュして嵯峨天皇に隠岐の島に流されることになった。
隠岐の島に出航したのはどこからか?難波津の港からなら八十島というのは瀬戸内海の小さな島。瀬戸内海から外海へ。
境の港からであれば山陰線。「八十島かけて」は隠岐の島の周囲の島、ということになります。「山陽道か山陰道を経て千酌(ちくみ)(境港市の北)から外海へ。」というのは三田国文学の川村晃生論文、その他諸説がある。
篁に対する平安時代の人々の関心。余りにも優秀な学者だったので、死んでから閻魔大王の官僚になったという「篁伝説」がある。
「あまの原」「わたの原」を虚心坦懐に詠んだらどうなるか?

筆者の呟き――へぇ〜、この歌は、平安中期の官僚の気概のなさを挙げるのによく例に出されると思っていたのですけど・・・勿論それほど遣唐使というものが過酷な務めであるということも一緒に言われますけどね。歴史の先生によっては、この「優秀な人材」である小野篁が罪を得たことで、菅原道真が遣唐使廃止などという馬鹿なことを言い出した、と怒っていらした方もありました。確かにこの頃から中国と日本の差は遣隋使の頃ほどの差はなくなっていたかもしれないけれど、それでもやはり先進国と擬似先進国以上の差はあったでしょうね・・・(^^ゞ)

B古今集 巻一・春上
   初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程経て後に至れりければ、かの家の主、かく定かになむ宿りはあると、言ひ出だして侍ければ、そこに立てりける梅の花を折りて、よめる  貫之
ひとはいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

<参考資料>として
貫之集第九
むかしはせにまうづとてやどりたりし人の、久しうよらでいきたりければ、たまさかになむ人の家はあるといひだしけりしば、そこなりしむめの花ををりているとて
814 人はいさ心もしらず故郷の花ぞむかしのかににほひける
返し
815 花だにも同じ心に咲くものをうゑたる人の心しらなん
○「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」(劉希夷)の詩想と通ずる。(諸説)

「ひとはいさ」は「言い返す」歌。(御簾の)中から、外へ出してくる―つまり、女から男へ・・・生活の中のやりとり。相手の皮肉をやり返す面白さ。
当時の教養人の中では、中国の漢詩を思い出す。悠久の自然と人の世のはかなさの対比、といえる。

筆者の呟き――貫之の代表作でもあり、高野切れの代表作でもあり♪懐かしい作品です(^^)個人的感慨(^_^;)

C拾遺集 巻第14・恋四
   入道摂政(兼家)まかりたりけるに、門を遅く開けければ、立ちわびらひぬと言ひて入れて侍ければ  右大将道綱母
嘆きつゝ独寝る夜のあくる間はいかに久しき物とかは知る

秋山虔氏によれば、女性の文学は小野小町に始まる。「花の色はうつりにけりないたずらに我が身世にふるながめせしまに」の歌は、「ひとりの女の嘆き」から、当時の人々の嘆きに通じていた、と考える。
「蜻蛉日記」―日記と言っても散文で綴っていく歌物語。晩年に人生を振り返って「書くことによって創造的に回顧する」
「男の嘘を信じるのが女性の幸せ」という当時の常識に「男の跡をつけさせ(て現実を知)る」という、当時としては異常な行動をするヒロイン!!
「門を遅く開けければ」は「遅く+動詞=そうすべきなのにそうしなかった=あけなければならない時にあけなかった」
閨怨説・・・中国で言う「閨怨詩」物語の背景がわからなくても良い詩である。

筆者の呟き――・そうか!「男の嘘を信じるのが女性の幸せ」という当時の常識に反したというのは言われてみて納得。ただ、ただ嫉妬深い、とだけ考えていたんですけど(^_^;
私は嫉妬の大御所のように言われる六条御息所は好きなんだけれど、その六条御息所のモデルの一部になっている、と思われるこの人はあまり好きではありません。何故か?この人もプライドが高いゆえに悩み多くというか、思うようにならぬ自分の人生に歯がゆがって苦しんだ・・・といわれるけれど、この人のプライドって「私は美人だ」というだけでね・・・文才も勿論鼻にかけてはいるけれど、まず美貌のことですね。まあ、本朝三美人というのだから相当なものなんでしょうけれどなんだか浅はかに思えて致し方ない(^_^;だから、明石御方には相当するとは思いますが・・・しかし、明石はバカじゃないですから(^_^;それどころか、藤井貞和先生に言わせれば「源氏物語」中瑞一の聡明さ、ということになりますから。「随一」は藤壺も朝顔もいますからちょっと?ですけど、とにかく頭はいいですからねぇ。小の人の場合は、その文才に比較して、思慮がない、というかあまりにも愚かで・・・見ていて辛いですねぇ。)

D新古今集 巻16 雑上
   早くよりわらは友だちに侍ける人の、年ごろ経てゆきあひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきおひて帰り侍ければ 紫式部
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにしよはの月かげ

<参考資料>として
紫式部集
はやうよりわらはともだちなりし人に、としごろへてゆきあひたるが、ほのかにて、十月十日のほど、月にきほひてかへりにければ
一.めぐりあひて見しやそれともわかぬまにくもがくれにし夜はの月かげ
その人とほきところへいくなりけり、あきのはつる日きたるあかつき、むしのこゑあはれなり
二.なきよわるまがきのむしもとめがたきあきのわかれやかなしかるらむ(千載集 巻七離別478「遠所へまかりける人のまうできて、あかつき帰りけるに、九月尽日虫の音もあはれなりければ詠める」)

第五句は「月かげ」が元。江戸時代から「月かな」になつた。
「紫式部集」の第一番目の歌。十月の月は早く出て夜中には西に隠れてしまう。
受領の娘同士の交遊を描く。十月と七月と解釈によって違う。
単独で歌だけ詠むと意味が不詳。「月を惜しむ」とはわかるが、詞書を読まないと友とのことがわからない。

筆者の呟き――これ、「紫式部日記」の講演聞くまでは「恋の歌」だと思っていましたから(^_^;それどころか言うもハズカシ偉い勘違いもしていた!!大体「紫式部日記」には、この歌出てない・・・はず?で、私は「紫式部集」読んでませんでした。スミマセンm(__)mあの後あっちこっちかじり読みしましたが・・・完全制覇ではありません(^_^;)

E金葉集 雑上
    和泉式部保昌に具して丹後に侍りけるころ都に歌合侍けるに、小式部内侍歌よみにとられて侍けるを、定頼卿局のかたに詣で来て、歌はいかがせさせ給、丹後に人つかはしてけんや、使詣で来ずや、いかに心もとなくおぼすらん、などたはぶれて立ちけるを引きとゞめてよめる   小式部内侍
大江山いくのゝ道のとをければふみもまだみず天の橋立

<参考資料>として
○萩谷 朴著『平安朝歌合大成』より―小倉百人一首にも採られて、小式部内侍の代表作となったこの歌にまつわる説話は、極めて有名なものである。しかし、その伝説の根源となった歌合せが、何時、何処で、如何に行われたものであるかというと、全くわからない。
○「俊頼髄脳」(末尾の部分)
・・・内侍、御簾よりなから出でて、わずかに、直衣の袖をひかへて、この歌を詠みかけければ、いかにかかるやうはあるとて、ついゐて、この歌の返しせむとて、しばしは思ひけれど、え思ひ得ざりければ、ひきはり逃げにけり。これを思へば、心疾く詠めるもめでたし。

筆者の呟き――オヨヨ!!あれなんですか?ふみもまだみずって書いてある!!先生、「まだふみもみず」って読んでらっしゃいましたよね・・・てことはミスプリでしょうか(^_^;あの時気がつかなかったなぁ・・・今更問い合わせるつたって・・・「ふみもまだみず」じゃ掛詞にならんがね(^_^;)

大江山―酒天童子がいた大江山ではなく、京都から西へ行く笈の坂のこと。幾野~から丹後へ通じている。定頼がからかったものを、当意即妙に切り替えした。定頼は、再度切り替えすことができなかった。金葉集にとられたのは1126年以降。(小式部内侍は1025年没)
萩谷説は、1020年ごろの歌合せの折りに詠んだか。この歌の面白さについて、俊頼が「俊頼髄脳」に書いているが、その状況の面白さに、90年の間に説話になってしまった。そこで、俊頼が採った、という。これも詞書がないとわからない歌である。

F詞花集 巻第一 春
   一条院御時、奈良の八重桜を人のたてまつりて侍けるを、そのわり御前に侍ければ、そのはなをたまひて、歌よめとおほせられければよめる      伊勢大輔
いにしへの奈良のみやこの八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな

<参考資料>として
○伊勢大輔集(類従本)
女院上東の中宮と申しける時、内におはしまいしに、ならから僧都のやへ櫻を参らせたるに、今年のとりいれ人はいままゐりぞとて、紫式部のゆずりしに入道殿道長きかせたまひて、ただにはとりいれぬ物をとおほせられしかば
古へのならの都の八重櫻けふここのへに匂ひぬるかな
とのの御まへ殿上にとりいださせたまひて、かんだちめ君達ひきつれて、よろこびにおはしたりしに、院の御返し
ここのへに匂ふをみれば櫻がりかさねてきたる春かとぞ思ふ

伊勢大輔は和歌の名門の娘。彰子に仕えた。古への奈良と今日(京)九重(宮中)をうまく組み合わせてた。
道長と紫式部がうまく示し合わせて新参の女房の実力を試した。
深沢亨・清水好子氏らに言わせると、「紫式部は虐め型」。清水好子氏によれば、「“紫式部日記”は“召使根性”以外の何者でもない」。
詞書がなくても歌の意味がわかる。
E・Fは、「折りに合った歌」。王朝和歌の典型。遠慮はしない。場を白けされることが厳禁。雰囲気そのものが歌の生命。

筆者の呟き――この伊勢大輔は、第3回の講義で取り上げられていた「難波潟短き葦のふしの間も逢はでこのよを過ぐしてよとや」の伊勢とは当然違うんです(^^ゞ が〜、第3回をサボってnemoにレポート書かせたダメ母としては、ボーっと、あれ、伊勢ってのもいたよね〜伊勢大輔と同じ人だったけぇ?〜なんて、オバカなことがチラホラ(^_^;それを、たまたまその夜お出かけした後宮サイトの「垂簾」で「伊勢」が話題になっていたのを読んで、そのままぶつけちゃった(^_^;

>宇多天皇の寵を受けた伊勢ですが
ああ、三十六歌仙の伊勢は、百人一首の伊勢大輔とは違うんですね・・・私混同していました(^_^;――と書いたところ、後日

「伊勢・・・伊勢は三十六歌仙、伊勢大輔は中古三十六歌仙の一人です。
いやですね〜、似たな名前は。ついでに伊勢も百人一首に入ってましたよね。いやですね〜、似たな名前は。」というお返事を頂きました(^_^;冷や汗三斗♪
いやはや平身低頭・・・大体「百人一首」の講義受けに行って、およそのメンバーくらい頭に入れとけよって!スミマセンm(__)m第一、疑問感じた時点でパラパラテキストめくれば良かったのに!!)

G後拾遺集 雑一
    大納言行成物語などし侍けるに、内の御物忌に籠ればとて、急ぎ帰りてつとめて、鳥の声に催されてといひおこせて侍ければ、夜深かりける鳥の声は函谷関のことにやといひにつかはしたりけるを、立ち帰り、これは逢坂の関に侍りとあれば、詠み侍りける   清少納言
夜をこめて鳥のそらねにはかるともよに逢坂の関はゆるさじ

<参考資料>として〜(新大系・注)抜粋
○大納言行成 藤原行成
○函谷関 中国河南省北西部の交通の要衝。秦を逃れた孟嘗君が、鶏鳴を巧みに真似る食客の働きで関門をあけさせ、通過したという故事(史記・孟嘗君伝)によって著名。
○「小倉百人一首」で著名な、作者の機知を示した歌。行成は、「逢う坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにも開けて待つとか」と返歌している。

清少納言くらいの学者でなければ、歌の意味がわからない!!

筆者の呟き―・井上先生も清少納言はお嫌いなのでしょうか(^_^;私は好きなんですが(^o^)丿それにしても、この行成って、定子の母が高階氏出身の高階貴子〜「忘れじの行末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな」という歌で百人一首のメンバーになっている儀同三司母〜であるということで、定子にイチャモンつけながら、その定子のトイチハイチみたいな清少納言と噂があつたとかで・・・また、逆をいえば、そんな男と清少納言はなんでそうなっちゃったのか?!まあ男女の仲は藪の中♪ですが(^_-)でまぁ、紫式部が清少納言を嫌ったのは、そういう節操のないところだと言うんだけれど・・・どういうもんですか(^_^;
まあ、こういうやりとりを打々発矢とできるってぇのは、九重に人材多しと言えどもそうざらにはいないでしょうからねぇ(^^ゞ

H後拾遺集 恋三
    伊勢の斎宮わたりよりわぼりて侍りける人に忍びて通ひけることをおほやけにも聞こしめして、守り女などつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、よみ侍りける    左京大夫道雅
逢う坂は東路とこそ聞きしかど心づくしの関にぞありける
さかき葉のゆふしでかけしその神にをしかへしても似たるころかな
いまはたゞ思ひたえなんとばかりを人づてならでいふよしもがな
    またおなじ所に結び付けさせ侍ける
みちのくの緒絶えの橋やこれならんふみみふまずみ心まどはす

没落貴族にして破滅型の菅原道雅が三条帝の前斎宮に懸想したのを、帝の怒りに触れた。
詞書がなくても意味はわかるが、状況だけでは詞書がないと切羽詰った意味がわからない。

筆者――ここに「袋草紙」という参考資料が載ってまして、ちょつと長いので割愛しちゃったのですが、要するに、左京大夫道雅〜つまり菅原道雅「道雅三位」とありますが、大した歌詠みじゃなかったのに、斎宮との秘密の恋をしていた時だけは「歌ハ多秀逸也」ということでした(*^^*)恋は人間を変えるのだ♪おまけに、この恋の為に前斎宮は自ら尼になってしまうのです。前半生を斎宮として巫女生活を送り、僅かに知った恋の為に後半生を尼となる!!なんだかなぁ・・・(;_;))

I千載集 雑上
    二月ばかり、月明き夜、二条院にて人人あまた居明かして、物がたりなどし侍けるに、内侍周防寄り伏して枕もがなと忍びやかにいふを聞きて、大納言忠いゑこれを枕にとて腕を御簾の下よりさし入れて侍ければよみ侍ける   周防内侍
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそをしけれ 
といひ出して侍ければ、返しに詠める    大納言忠家
契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき

「かひな」と「かひなく(甲斐なく)をかける。
王朝風の和歌。春の夜の甘美な雰囲気が出ている。

筆者の呟き――この歌好きなんですよ♪でもこういうシチュエーションの歌とは思わなかったのです(^^ゞやはり、「あひ見ての・・・」の口かと思ってましたから・・・(^^)もっとも、あっちだっていかようにも意味が取れるそうですけど。これは大人の男女の恋愛ゲーム以前の社交の歌なのねん♪

J後拾遺集 雑一
    例ならずおはしまして、位など去らんとおぼしめしける頃、月の明りけるを御覧じて    三条院御製
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜はの月かな

<参考資料>として〜(新大系・注)抜粋
○三条院は眼病を患っていたことが大鏡などでよく知られているが、この歌を詠じた長和4年(1015)12月頃には風病にかかっていたか(小右記・長和4年12月9日条)
○栄華物語によれば「師走の十余日」の明るい月を見て「上の御局」(藤壺)で、「宮の御前」(中宮妍子)に対して詠んだ歌。
☆長和5年(1016)正月29日譲位。
☆中村康夫『栄華物語の基層』

三条天皇は体が弱い上に道長にも迫害されていた。
歌の意味としては(詞書がなくても)わかる。寒々とした悲劇的な天皇の歌とはわからない。

筆者の呟き――三条天皇は虚弱体質・藤原氏の天皇というに反して相当な反骨精神・反藤原(というよりは反道長か)精神に燃えた天皇であったらしいです。だから、道長もおおっぴらに反三条を表して、天皇の具合が悪いと喜んだという!!で、どうにもならないから、天皇も相当口惜しがったらしいです。間に入った中宮妍子は辛かったでしょうね(;_;)ちなみに彼女は道長の娘です。まあ、三条天皇には小一条院の母で糟糠の妻たる[女戎]子がいましたから、それだけでも辛い立場ではあったでしょうけど)

K千載集 雑上
     律師光覚維摩会の講師の請を申けるを、度々洩れにければ、法性寺入道前太政大臣に恨み申けるを、しめぢの原のと侍りけれども、又その年も洩れにければ、よみてつかはしける  藤原基俊
契りをきしさせもが露を命にてあはれことしの秋もいぬめり

<参考資料>として〜(新大系・注)抜粋
○律師光覚 作者の子。興福寺僧侶。
○維摩会 興福寺の維摩経購読の法会。10月10日から一週間行われる。この歌「九月尽日惜秋之志詩進殿下」(基俊集)と注あり。
○法性寺入道前太政大臣 藤原忠通

興福寺(藤原氏の氏寺)の維摩経の講師は今でも大変ですが、当時はもっと大変でした。法性寺入道前太政大臣―忠通にコネとして斡旋を頼んで承諾を取り付けてあったのに、蓋を開ければダメだったという。詞書がないとわからない。
定家としては、公任と基俊は(百人のうちに)入れなければならない歌人。

筆者の呟き――なんでも恋の歌か?と思う筆者としては、当然これも恋の歌だと思っておりました!!要するに「源氏」でいえば柏木バージョン♪けっこう色気のないうただったんですね(^_^;

L新古今集  雑下
    (題知らず   清輔朝臣)
ながらへば又このごろやしのばれん憂しと見し世ぞ今は恋しき     

<参考資料>として
○(新大系・注)抜粋
「三条内大臣いまた中将にておはしましける時」治承36人歌合。公教が中将であったのは大治五年(1130)四月から保延2年(1136)11月まで。
清輔集
いにしへおもひいてられるけるころ、三条内大臣いまた中将にておはしましける時つかはしける
新古 なからへは又このころやしのはれん うしとみし世そ今はこひしき
○三条大納言(実房)とする本がある。その場合保元3年(1158)ー仁安元年(1166)。実房12〜20歳。清輔55〜63歳。公教の場合28〜34歳、清輔27〜33歳。

清輔、1130〜1136年、30才前後〜親しいところに送った。60歳前後とすれば老成しすぎた歌だ。
この当時、述懐の歌は30才前後で詠んだ。定家は知っていたか・・・清輔集を知っていて、状況を把握して入れたのか、あるいは何歳の時かわからなくても入れたのか。ことさらに詞書抜きに「題しらず」として入れた。
短歌や俳句の場合、単独で評価するか、作られた状況を理解して評価するか、古くて新しい問題。
「五月雨や○○の山もみあきたり」という子規の俳句(寡聞にして知りません。スミマセン(^_^;))を、子規が病臥していることを知って評するか知らずに評するか。

筆者の呟き――ご存知清少納言のおとうちゃんです(^^) 「梨壷の五人」なんて宮中和歌所みたいな処に選抜された歌人で、後選集の選者にもなってます。でも、官位としては従五位上!憂しと思うことも多かったのでしょうか。清少納言が受領階級を見る眼ってかなり厳しい物があるじゃないですか。その辺と関連があるのかな・・・と漠然と考えていました(^_^;

M後鳥羽院御口伝
  定家は、さうなき物なり。さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさあさと思ひたりし上は、まして余人の哥、沙汰にも及ばず。やさしくもみもみとあるように見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。道に達したるさまなど殊勝なりき。哥見知りたるけしきゆゝしげなりき。たゞし引汲みの心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、理も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず。
惣じて彼の卿が哥存知の趣、いさゝかも事により折りによるといふ事なしるぬしにすきたるところなきによりて、我が哥なれども、自讃哥にあらざる〔を〕よしなどいへば、腹立の気色あり。先年に大内の花の盛り、昔の春の面影思ひいでられて、忍びてかの木の下にて男共の哥つかうまつりしに、定家左近中将にて詠じていはく、
としを経てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ」
―中略―
惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。たゞ、詞・姿の艶にやさしきを本躰とする間、その骨すぐれざらん初心の者まねばゞ、正躰なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつづけたれば、殊勝の物にてあれ。

<参考資料>として
○「定家が自己の価値基準を固持するのに急で、時宜・事宜の配慮を欠くことを故実違反として難じる」(田中裕)
○「歌の価値判定において、作歌事情を一切考慮しないことを批判する」(尼ヶ崎彬『花鳥の使』)

定家は、歌の評価に作家事情を考慮しない。「定家は表現されたことだけで評価する」
1232年(建仁3年)2月、定家花見の折り、
「としを経てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ」
左少将・左中将として、後鳥羽上皇の供をして花を見ている。御幸ー花は縁語。この自分の歌でさえ「折りに触れ事に依った歌を取ったのは気に食わない」と怒った。
後鳥羽上皇は、歌としては伝統としてそういうものではない。状況としてどう詠んだか、が大事。

定家は、公のハレの歌では「折りに触れ事により」を認めない。その定家が「詞書の有無でわからない歌」を百人一首に取り入れたのはなぜか?
井上先生は、「百人一首は息子の奥さんの実家の別荘に選んだ色紙に書いたもので、「全面的にハレの歌」というより「王朝的美しさ」のある歌を採りいれた、と考える。
これは「百人一首の“集”としての問題点」でもある。中世における百人一首の影響力ということを考えても主要。

筆者の呟き―実力が拮抗した者同士の対立というのはどの世界にもありがちなことです。ことに芸術上においては、その実力拮抗が、さらに互いの技を高めていくことが多いのですが、もう一つの側面として、そのライバルがいなくなる時、残された片方も一緒に死んだようになってしまうことです。これは芸術上のライバルの特色かもしれません。何故なら、ライバルとして目の敵にしながら、互いがその力を認め愛しているからだと思うのです。後鳥羽院と定家は身分的に大きな隔たりがありながら互いを終生のライバルとして対等以上に戦おうとしていたと思うのです。↑の後鳥羽院の口伝を見ると後鳥羽院が定家の横着さに舌打ちしながらもその才能を愛さずにはいられない、それをまた素直に表するつもりもない、というような一ひねり二ひねりした思いを感じます。定家はどうだったのでしょう。やたらに後鳥羽院に対して楯突いているような気もしますが、なんとなく、自分の歌がわかるのはこの俺自身とあいつくらいさ、と言っているようにも思うのです。だからこそ、よけいに自分の歌をわかっているような顔をされると面白くなかったのでしょうね・・・私はそんな気がします。


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