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2月20日(木) 「中世の史料を読む(三) 鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』第二回


筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用)

〇廿八日壬寅。晴。二所御精進始。奉幣御使武蔵守朝直。
〇二月大
〇乙巳。雨降。奥州令参二所給。
〇三日。丙午。晴。 武州為奉幣御使進発二所。
〇四日。丁未。霽。巳尅。 右馬助親家宿所失火。右近大夫将監時定亭。安東籐内左衛門尉家 片時為灰燼。
〇六日。己酉。晴。奥州自二所帰着。
〇八日。辛亥。霽。辰刻武州自二所帰参。

―28日 壬寅(じんいん)。晴。二所御精進始めなり。奉幣の御使は武蔵の守朝直。
―2月大
―2日 乙巳(おつみ)。雨降る。奥州二所に参らしめ給う。
―3日 丙午(へいご)。晴。武州奉幣の御使として二所に進発す。
―4日 丁未(ていみ)。霽。 巳の刻。右馬の助親家の宿所失火し、右近大夫将監時定の亭・安東籐内左衛門の尉の家、片時に灰燼と為す。
―6日 己酉(きゆう)。晴。 奥州二所より帰着す。
―8日 辛亥(しんがい)。霽。 辰の刻武州二所より帰参す。
―「二所詣で」というのは伊豆山権現・箱根権現という二箇所の権現さま、頼朝が伊豆に流されていた時からバックアップしていたところです。「権現」というのは、仏教の仏が仮に日本の神として現れた、という本地垂迹説ですね。で、この伊豆山権現と箱根権現に三島権現が加わるのですが、これを二所と言って、大事にしていた。これに本来なら将軍が参拝するのですが、陸奥の守北条重時が代参として出発したと言う。

〇十二日。乙夘。晴。去正月二十六日大宮院御着帯之由。自京都被申之。又同二十八日近衛大殿若君御元服。御名字基平<云々>。 <>内は小字

―12日 乙夘(いつぼう)。晴。去んぬる正月二十六日大宮院御着帯の由、京都よりこれを申さる。また同二十八日近衛大殿の若君御元服。御名字基平としかじか。
―「大宮院」というのは西園寺実氏の第一女で藤原[女吉]子。「きちこ」と読むのか「きちし」と読むのか1225〜1295年。後嵯峨天皇の中宮です。京都の公家の間では九条家と近衛家がはりあっていましたが、その間に割って入ったのが西園寺家です。
―「近衛大殿」というのは関白近衛兼経、その若君が元服して御名字、名前は基平と言う。母は九条道家女仁子。「ひとこ」と読むんでしょうか。この時代、偉い人ほど若くして元服します。基平は1246年生まれなので、この年9歳で元服して、しかも上皇御所で元服しています。そして、翌年10歳で参議。それだけでなく44人の先輩を抜いて権中納言になります。更に3年後の1257年九人抜きで権大納言。更に13歳で内大臣・20歳で左大臣・23歳で関白・氏の長者になり、その翌年23歳の内に疫痢で死んでしまいました。
―こうした京都の情報が克明に鎌倉に伝わるのは宗尊親王が宮将軍としていることが大きいです。

〇廿日。〇亥。今日評定。若宮別当僧正給六波羅大慈院<云々>。

―20日 〇亥(きがい)。今日評定。若宮の別当僧正六波羅の大慈院を給わるとしかじか。
―「評定」というのは閣議です。評定衆による閣議です。(筆者注―「評定衆」というのは執権とともに政所に列して諸事を評定し公事に預かった者―広辞苑より)
―「若宮別当僧正」というのは、八幡宮の別当隆弁という僧侶です。鎌倉の仏教界を長年にわたって牛耳った僧侶です。

〇廿四日。丁夘。晴 。酉刻<結城>前上野介従五位下藤原朝臣朝光法師<法名日阿>卒。<年八十七。> <>内は小字

―24日 丁夘(ていぼう)。晴。酉の刻(朝6時ごろ)前の上野の介従五位の下藤原朝臣結城朝光法師(法名日阿)卒す(年八十七)。
―「結城」というのは、小さいながら小山党、今の栃木県の小山市のあたりの小山党の一族で、鎌倉幕府に力があった長老です。

〇三月小
〇七日。庚辰。天晴。 相州撰能書。日来被書写大般若経。今日於鶴岡宮寺被遂供養。 導師別当僧正<云々>。即僧正参籠。令轉讀之。又如意寺造營勸進事。 相州以下令奉加給之。去月二十八日。於評定有其沙汰。

―三月小
―7日 庚辰(こうしん)。天晴。 相州能書を撰び、日来(ひごろ)大般若経を書写せらる。今日鶴岡宮寺に於いて供養を遂げしむ。 導師は別当僧正としかじか。即ち僧正参籠しこれを転読せしむとしかじか。また如意寺造営勧進の事、 相州以下奉加せしめ給う。去る月二十八日評定に於いてその沙汰有りとしかじか。
―「如意寺」というのは京都市左京区にあった天台宗の寺院で、山科近くの如意が岳に大寺院がありました。円城寺三井寺の分院として建立されたが古くなったので修復したいと京都から言ってきて、其の相談に隆弁が上洛したと、「吾妻鏡」の建長5年10月2日の分にかかれています。それが12月28日に鎌倉にかえってきたんですね。

〇十二日。乙酉。善波太郎入道の子息又次郎被召加小侍所衆。依別仰也。為景頼奉行。相觸奉行人<云々>。

―12日 乙酉(いつゆう)。善波の太郎入道の子息又次郎小侍所の衆に召し加えらる。別の仰せに依ってなり。景頼 の奉行として奉行人に相触れるとしかじか。
―「善波の太郎入道の子息又次郎」と言う名前はここだけしか出てこないので詳細はわかりません。「善波(ぜんぱ)」というのは、埼玉県にある知名なので、そのあたりの武士かとも思われます。

〇十六日。己丑。掃部助<實時>之母儀卒去<云々>。
〇廿日。〇巳。小侍所事。可令陸奥[方尓]四郎時茂奉行之由。被仰下之。陸奥掃部助 重服之程也。

―16日 己丑(きちゅう)。掃部の助實時の母儀卒去すと。
―20日 〇巳 (きみ)。小侍所の事、陸奥の彌四郎時茂奉行せしむべきの由、これを仰せ下さる。陸奥掃部の助重服の程なり。
―北条重時の母は天野政景女です。で、その母が亡くなって、「重服」重い喪に服すんです。父母は一年間。「軽服」というのもあります。その喪に服している間、陸奥の彌四郎時茂がこれを代行する。

〇廿四日。丁酉。晴。 戌刻二星合<金木相並八寸所。金北木南。>
〇廿六日。己亥。霽 。金木変事。廣資朝臣申消由。始犯消雨後遊犯。(二十五日)。 家説雖出現為消<云々>。傍輩等不同之。出羽前司行義・和泉前司行方等為奉行申之。
〇廿九日。 壬寅。晴。 二星合変可被行御祈祷之由。被仰下政所。天地災変前大膳亮為親朝臣。三万六千神前陰陽大允晴茂朝臣。属星陰陽少允晴宗等也。

―24日 丁酉(ていゆう)。晴。戌の刻(午後8時ごろ)、二星合す(金木相並ぶこと八寸の所。金は北、木は南)。
―26日 己亥(きがい)。霽。 金木変の事、廣資朝臣消するの由を申す。始め犯消、雨の後遊犯(ゆうはん)(二十五日)。 家説に出現すと雖も消を為すとしかじか。傍輩等これに同ぜず。出羽の前司行義・和泉の前司行方等奉行としてこれを申す。
―29日 壬寅(じんいん)。晴。 二星合の変御祈祷を行わるべきの由、政所に仰せ下さる。天地災変は前の大膳の亮為親朝臣、三万六千神(じん)は前の陰陽大允(たいいん)晴茂朝臣、属星陰陽少允(しょういん)晴宗等なり。
―「犯消」とか「遊犯」というのは天文用語と思われますのでよくわかりません。
―「二星合す」というから、二つの星が合う、其の距離が8寸と言いますから24センチ。まあ、見ているほうの間隔でしょう。しかし、それほど近づくということは、いいことか悪いことか。
―「三万六千神」というのは、日々の神様一年分360の百倍祀ると太平だとする思想です。
―「属星(ぞくしょう)」というのはそれぞれの年によって星の廻りの違いで運勢が変わることてす。其の反対が「本命」で、生まれながらに持っている運勢。

〇四月小
〇四日。丙午。晴。巳刻以後雨降。亥尅依殊御願被行天地災変祭。為親朝臣奉仕之。御使安藝右近大夫重親。祭文草前大内記茂範朝臣。清書厳恵法印。甚雨日被行祭事不可然由。雖有令申之輩。當院御在位之時、寛元三年三月北遊御祭。良光朝臣奉仕之日。雖甚雨有沙汰。被遂行之<云々>。
〇十八日。庚申。 聖福寺鎮守諸神々殿上棟。所謂 神験 武内 平野 稲荷 住吉 鹿嶋 諏訪 伊豆 箱根 三嶋 富士 夷社等<云々>。是惣関東長久。別為相州両賢息々災延命也。 仍以彼兄弟両人名字。被模寺号<云々>。去十二日有事始<云々>。相模国大庭御厨之内所被卜其地所也。若宮別当僧正大勧進<云々>。

―4日 丙午(へいご)。晴。巳の刻(午前十時)以後雨降る。亥の尅殊なるは御願に依りて、天地災変祭を行わる。為親朝臣これを奉仕す。御使は安藝右近大夫重親、祭文の草は前の大内記茂範朝臣、清書は厳恵法印なり。甚雨の日祭を 行わるる事然るべからざるの由、申せしむの輩有りと雖も、当院御在位の時、寛元三 年三月北遊御祭、良光朝臣奉仕するの日、甚雨と雖も沙汰有り。これを遂行せらると云々。
―18日 庚申(こうしん)。聖福寺(しょうふくじ)鎮守諸神の神殿上棟。所謂、神験(しんけん)・武内・平野・稲荷・住吉・鹿嶋・諏方・伊豆・箱根・三嶋・富士(浅間神社)・夷社(えびすしゃ)等と。これ惣て関東長久、別して相州(時頼)両賢息(りょうけんそく)の息災延命 の為なり(時頼の二人の息子の健康を祈った)。仍(この)彼の兄弟両人の名字を以て、寺号に模せらると云々。去んぬる十二日事始有りと。相模の国大庭(今の藤沢の大庭)御厨の内その地を卜する所なり。若宮別当僧正大勧進と。
― 聖福寺は、極楽寺の奥に「正福寺」として残っています。聖福寺の「聖」は字が違いますが時宗の幼名「正寿丸」から。「福」は宗政の幼名「福寿丸」から取っています。本当は、時宗の上に時輔という兄がいますが、これは母親の身分が低いので(嫡子に数えられない・筆者注)、そういう兄を庶兄といいます。
―御厨之内は伊勢神宮の荘園のことです。もともと、伊勢神宮の食料を生産していた農地ということから御厨という呼び方ができたようで、それを(聖福寺の)領地として勧進した。

〇廿七日。己巳。 鎌倉中雑人并非御家人之輩不従奉行人成敗事。殊可有誡沙汰有事。被定其法。仰政所<云々>。

―27日 己巳(きし) 鎌倉中の雑人並びに非御家人の輩、奉行人の成敗に従わざる事、殊に誡め(いましめ)の沙汰有るべき事その法を定められ、政所に仰せらると云々。
このころ、既に幕府の言うことを聞かない者達が出てきた、ということです。そのためにそれを取り締まる法律ができた、ということです。

〇廿九日。辛未。 評定。西國庄公地頭等所務事有其沙汰。是本地頭所務者。可依往昔之由緒。故追先規之例。可令止新儀非法。新地頭者被定率法之上。其外全可停止濫吹也者。存此趣可加下知之由。即被相触五方引付<云々>。又唐船事有沙汰。被定其員数。即今日被施行之。
 唐船者。五艘之外不可置之。速可令破却。
     建長六年四月廿九日     勧湛
                         實綱
                         寂阿
           筑前の前司殿
           大田民部大夫殿

―29日 辛未(しんみ) 評定。西国の庄、公の地頭等所務の事その沙汰有り。これは本地頭の所務は、往昔の由緒に依るべし。故に先規の例を追い、新儀の非法を止めしむべきなり。新地頭は率法に定 めらるるの上は、その外全く濫吹を停止すべきなりてえり。この趣を存じ下知を加うべきの由、即ち五方引付に相触れらると。また唐船の事沙汰有り。その員数を定めら る。即ち今日これを施行せらる。 唐船は、五艘の外これを置くべからず。速やかに破却せしむべし。
     建長六年四月二十九日     勧湛 (かんたん)
                         實綱 (じっこう)
                         寂阿 (じゃくあ)
   筑前の前司殿
   大田民部大夫殿
―本地頭・新地頭というのは、承久の変を境にそれ以前からの地頭を本地頭といい、承久の変で功があって地頭に任命された者を新地頭といいます。で、その新地頭ももともとのやり方に従って治めなさい、ということで、この頃幕府の統制が緩んでいたことを示しています。(本地頭は本補地頭、新地頭は新補地頭といいますねぇ―筆者注
―「五方引付」というのは、引付衆の勤務のグループ分けで、「五方引付」は五日に一度の勤務。他に「三方引付」というのがあって、これは三日に一度、引付の業務につく、ということです。
引付衆―評定衆を補佐して訴訟の審理及び記録その他の公事を掌った者―広辞苑)
―「唐船」というのはね日本から中国に交易に出かける船で、当時のブランド品を満載していました。交易は大変な富をもたらしますから北条氏の目を潜っていろいろの御家人がやっていた。
―「速やかに破却せしむべし」法令の対象は、(宛名を見ると)大宰府から出る船でしょう。
北条氏は各港町を抑えて、港町のある所に大きな所領を持っていました。秋田の十三港(とさみなと)などは、代官として安藤一族を置いたりしました。

―「也者〜てへり」がありました。吾妻鏡は「云々」「てへれば(てへり〜者)」「畢んぬ(おわんぬ)」を抑えれば、そんなに難しいところはありません。



筆者の呟き――どうも時間に終われるせいか、話に広がりがないのですよ(^_^;ここ、もう少し話突っ込んで、とか思うところで来ないのねぇ・・・(^_^;そしたら、今日、この講義には大学生も参加しています、と先生がおっしゃつたら、帰りがけに、どこかのおじさんたちが、
「大学生も来てるのか、どうりで甘いと思った」と話しているのを聞いちゃった(^^ゞ
私もそう思っていた物で、妙に納得♪
そうかと思うと、おばさん二人連れは、「寒いわねぇ・・・帰りに一杯やってこうか」って、あなた、3時半ですよ!!まあ、4時近くにはなっていたけどさ(^_^;
まあ、そんなこんなで・・・第二回は終わりです。とにかく、これ自分で読めと言われたらしんどいから、先導者がいるということはありがたいですけどね・・・まあ、社会科の復習にもなるし(^_^;




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