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2月23日(日) 古文書解読講座 「五人組前書」を読む―講師川鍋定男(神奈川大学)

皆さんが前回勉強したところを見せていただきましたが、大変難しいのを勉強されたようで、今回はそれに比べると随分楽だと思います。
今日は二回目のグジャグシャに連なった字に比べると大変きれいで読みやすい文書です。
しかし、これは、当時の子ども達の手習いに使ったものです!!
これは、オリジナルの「五人組前書」という文書から、興味の湧きそうなところを抜粋した物(よくみえませんが講座のテキストのはじめのページを写真にしてみました)で、本物は50か条〜80か条というものもあります。



筆者注―「五人組」というのは、封建体制を維持するために、江戸幕府が、庶民の相互監視を目的として作らせた隣組組織です。
広辞苑によれば――)

五人組――江戸幕府が村村の百姓、町々の地主・家主に命じて作らせた隣保組織。近隣の五戸を一組とし、火災・盗賊・浮浪人・キリシタン宗徒等の取り締まり、また婚姻・貸借・出願等の立会いと連印の義務、及び納税・犯罪の連帯責任を負わせたもの。
五人組帳―五人組に関する法令を前書きに列記し(五人組帳前書)、村役人以下各五人組員が連名連印して、違背無き旨を誓約した帳簿。

T・何時頃から読み書きができたのか

で先ほどの当時の子ども達が、これを手本に使っていた、ということですが、寺子屋で、どの程度の文字を覚えたか、手元に配布されている変体仮名の一覧表がありますが、これを全部覚えていたわけではないだろう、と考えられます。良く使う文字を中心に覚えていた、と考えられます。(ちょっと安心♪)

まず、親が「いろは」くらいを教えていただろう、とかんがえられます。信州などの雪国では、冬の間、親が藁仕事などしている時、囲炉裏の傍で火箸で灰の中に字を書いて教える。小林一茶の句の中にもそういう情景を読んだ句があります。親も江戸時代前半頃には字が読めなかったと思いますが、江戸時代半ばを過ぎると、字が読めないと生活できなくなります。

どの程度の字が読めたか?というと、瀧澤馬琴の日記というのがありまして、そこには、失明して、本を読めなくなったので、下男や下女に読ませるんだけれど、読めない字が多くて困る、と嘆いています。下働きの者達でもある程度は読めるようになっていた、ということが推測されます。
幕末、外国人が日本に来て、庶民の小さな女の子が、そこいらに座って本を読んでいるのを見て驚きました。まあね本といっても黄表紙の類、漫画に家が生えたような物でしょうが、とにかく本を読んでいる!庶民の子が!
中国・韓国の研究者は、江戸時代の農民が残した文書に驚きますむ。中国の世界では農民が読み書きできることはないですから。
江戸時代半ば過ぎ、日本はある程度読み書きができないと商売できない。商人は節季ごとに請求書を出さなくてはならない、大工はいくらで、どういう工事を請け負うか契約書を書かなくてはならない、水車小屋に雇われている物でさえ、だれがどれだけ水車を使ったかという帳付けが必要になってきた、ということですね。
ことに、農家では、長男は農業を継げばいいからよいが、次・三男には、もう土地は分けられなくなっている、というと外に出ていかなくてはならない。そこで、読み書きを覚えさせ外に出す、ということが行われるようになります。

世界の研究者の間でも、一般庶民はどの程度読めたか、ということが研究されます。
江戸時代半ばを過ぎると村内で選挙が行われるようになり、これを「入れ札」といいますが、それを見ると、やっと書いた、という程度の文字の入れ札が残っています。
私達は楷書から習うけれど、昔は行書から習った。@に御家流をそのまま真似て習うわけです。Aに真書(楷書)です。Bに草書を習います。だから、楷書を読める人は少なかったのではないか、と思います。
木版刷りなどを見ると行書で、仮名も読みづらいです。
手本を真似て書き方・読み方を同時に学んでいた物と思います。

U.本文解説

一 従 公儀前之被出候御法度御ヶ条之趣堅相守可申候事 

―公儀より前々仰せ出だされ候ご法度 御ヶ条の趣 堅く相守り候べき事
―「村」を単位に年貢を納めさせる―(名主に責任を持たす)→五人組みを作らせて互いに監視しあう、ということです。
―江戸時代は多くの法令を農民に向かって発します。
―これは何故か?というと、「兵農分離」です。戦国時代までは同じ土地に武士も農民も一緒に住んでいた。
それが天守閣を持った城を作り、その周りに武士が住み町人を集めるようになって、農村に残された農民を支配するために法令が出されました。
―五人組前書も法令の一つと考えてよい、と思います。
―江戸時代、幕府は藩に、藩は農民に法令を出しました。幕府から農民に直接、という場合もあり、旗本から、ということもあります。
この法令は裁判権も含んでいます。

一 常々親に孝行仕主従禮儀を正し夫婦相宜しく兄第親類中能く相續仕万端実躰にもと津き各家業大切に可致候事

―常々親に孝行仕り 主従礼儀を正し 夫婦相宜しく 兄弟親類仲良く相続仕り 万端実体にもとづき 各家業大切に致すべく候事
―こういう項目が、江戸時代半ばを過ぎた頃になって出てきます。親孝行の徳目が出てきたのは現代に近い状況からで、それは家族形態の変化からです。
―それまでの家族形態といえば、兄弟が結婚しても、同じ敷地内に家を建てたりして一緒に暮らす、という家族形態だったわけですね。
それが、分家として独立するようになつた。それまでの家族形態が破壊されてくる。そうすると親を大切にしなくなる、という風潮が出てきた、ということです。
―少し前之長崎の判例集では、親子の争いで、子どもが親不孝をして島流しになったり、処刑されたりしています。寛文のころに7〜8例見られます。
―江戸時代は、今と違って人権がなんだ、というものはありません。簡単に殺してしまいます。親を苛めると子どもを処刑します。
―長崎だけでなく、米沢藩の記録にも見られます。農民・町人だけでなく、武士にも記録があります。
―一般的に親孝行を大事にする「徳目」が見られるのは、日本の儒教の独特なところです。儒教道徳の内から「孝」を取り上げて親孝行を奨励するのは、こういうこと(親を虐待するということ?)が起こってきて、逆に取り上げられるようにらなつたのです。中国の「孝」は祖先を祀り子を成して将来を繁栄させる、というもので、「親孝行」ではないんです。
―いつから、親孝行が定着してきたか、というと、江戸時代後半からです。江戸時代後半に、有力な農民は「家訓」などに「親孝行」を言っています。江戸時代前半にも有力な町民の残した「自伝」に親孝行に付いての記述があります。
―それには「母が弟ばかりを偏愛して、自分は嫌われて育った。何とかして母に気に入られようと、ガンをかけたり、伊勢や日光にお参りに言って願った」という記録があります。
―江戸時代には、親孝行に褒美を出す、ということもありました。全国から親孝行の事例を集めて、寛政の改革の松平定信の時代には、「孝義録」というものを作ったりしました。子どもは不幸で構わない、身を捨てて親孝行をする、ということが勧められたのです。
―そうすると、子どもの無い人はどうするか?城下町には夫婦二人で長屋住まいという人たちもいるわけです。その連れ合いが先に死んで子どもも無い一人暮らしで病気になってしまう、当然生活に困るわけですが、こういう史料も無いのですが、甲州に一件だけ資料がありまして、それによると
―甲州の地方都市で、夫に死別した子の無い老女の場合、五人組が面倒を見たが、本人から遠慮の申し出があり、相談の結果、五人組が金を出し合い隣村の寺に預けることになつた、という証文が残っています。
―どれくらいの例があつたかは不明ですが、これに似たような例はあったと思われます。これを見てわかるのは、「寺」が「老人ホーム」の役割を果たしていた、ということ。住職は医師も兼ねていることもあった、ということです。

一 五人組之儀家並向寄次第五軒宛組合子共店借地借寺社門前下人等に至迄諸事吟味仕悪事無之様に可仕候事

―五人組の儀 家並み向こうより 五件づづ組み合い 子供店借地借寺社門前下人等に至まで諸事吟味仕り 悪事是無きように仕るべく候事
―五人組の組み方です。
―現代でも、日本人は隣近所を気にする国民です。世間体がいい、悪いとよく言いますね。戦国時代にも下のほうから周りを気にする気分があった。それをうまく利用した江戸幕府が作ったものです。
―日本にはどこに行っても「村社会」がありますが、中国や韓国にはありません。
―中国や韓国には「集落」はあっても「村社会」はないんです。中国や韓国では、血の繋がり、親や兄弟・親類の言うことを大変気にして大事にします。隣近所の目を気にする「村社会」は日本だけです。
―「五人組成立」という時期ははっきりわかっていません。「寛永4年」くらいに事例があることはあります。その前に「十人組み」というのがあった、という記録はあります。これは京都の町の「十人組み」とは違います。しかし、村方ではありません。近江の国の琵琶湖あたりにお上から言われた物でなく独自にできた「七人組」というのも記録にはあります。

一 忽而大酒不可仕若酒に酔悪事出来候者品により五人組迄可為越度事

―そうじて 大酒仕るべからず もし酒に酔い 悪事出来候は 品により 五人組まで落ち度たるべき事
―元禄時代から、酒の飲み方が変わってきました。それ以前は個人で酒を飲む、ということはできない時代でした。祭り・棟上などの振舞いでしか飲めなかったのです。
―江戸時代半ば、農村はもう少し後になって、個人で酒を買って飲む、という時代になりました。そこで酒を飲んで悪事をすると五人組全体の落ち度となり、連帯責任となります。だから、酒癖の悪い者などがいるとみんなが大変だったんです。

一 獨身之百姓夫役ホに参候歟又ハ長煩仕候間耕作不罷成候者名主組頭致吟味五人組并村中にて助合田畑仕付作毛荒シ不申候様にいたし面々の作同意に入念収納可仕事

―独身の百姓 夫役(ぶやく)等に参り候か 又は 長患い仕り候て 耕作まかりならざり候者 名主組頭 吟味致し 村中にて助け合い 田畑 仕付 作毛荒し申さす候ようにいたし 面々の作同意に 念を入れ収納仕るべきこと
―幕府としては、年貢を治めさせることが第一だから、「独身」というのは、「ひとり身」と書かれることもある、つまり「家族のいない者」ということで、そういうひとり身の百姓が「ぶやく」などに借り出されたり、長患いで農作業ができなかったりした時には、自分の農地同様に、念を入れて世話をして取り入れにいそしめ、ということですね。

一 悪事越くわだて神水を呑誓約以一味連判不依何事に一烈徒党ヶ間敷儀堅仕間敷候若於相背者不論理非不可曲事候事

―悪事を企て神水を呑み 誓約を以って一味連判 何事によらず一列徒党がましき儀 堅く仕るまじく候 もし相背くにおいては理非を論ぜず曲ごとなるべく候事
―「神水をのむ」というのは、江戸時代より前、戦国時代、誓約をしたものを紙に書き、それを燃やしてその灰を神様に供えた水に溶かして飲む、という誓いの儀式があって、それが江戸時代にはもっと簡単な一味連判、という形になったのですが、そうやって誓いを立てて徒党を組むということは、正しいとか正しくないという以前に禁止されていた。何事によらず、百姓一揆ということもありますから。

      一札之事
一 私女子不孝者に御座候故押出申候依之五人組一家共相談仕跡屋鋪之儀者幾末へ〇共之内壱人に相譲御百姓相立申候様相願申候為後日一札如件
      元文四年 未ノ三月〇日
         親 多兵衛
           六郎兵衛
         五人組弥兵衛
       御役人衆中

―私 女子 不孝者に御座候故 押出し申し候 之に依り 五人組一家共 相談仕り 跡・屋鋪之儀者(跡・屋敷の儀は) 幾末へ 〇共之内より 壱人に 相譲り 御百姓相立ち申し候様に 相願い申し候 後日の為 一札 件の如し
―元文四年 羊の年三月〇日 親 親 多兵衛 六郎兵衛 五人組弥兵衛
―御役人衆中―御役人というのは村役人です。名主・組頭・百姓代、というころ。
―埼玉県本庄市内のかみざと町のある資料です。
―親子の間の、娘がひとりいて、婿をとるのが普通だが、親不孝だったので追い出す、ということで五人組と相談して、甥か姪のうちのひとりを跡取にする、と届け出た物です。
―子どもがいない場合、老後を誰が面倒見るか?村方は養子を迎えて(両養子)、跡をとらせる。町でも商人など財産のある場合は養子を迎えて面倒見る。先ほどのような借家住まいの一人暮らしなどの老人は五人組が面倒を見る。
―養子親にとって都合のいい養子を育てる、ということですね。






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