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2月27日(木) 「中世の史料を読む(三) 鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』第三回

筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用)


〇五月大
〇一日壬申。人質□有沙汰。被定其法。今日被施行。所謂御制以前。雖入流質券。御制以後至経訴訟者。早可致一倍弁。質事不可及沙汰。凡御制以後質人事。一向可停止由<云々>。如此可申沙汰之旨。自相州被仰問注所<云々>。勧湛・實綱・寂阿為奉行。

―五月大
―1日 壬申 (じんしん) 人質の事沙汰有り。その法を定められ、今日施行せらると云々。所謂御制(ごせい)以前質券を入れ流すと雖も、御制以後訴訟を経るに至らば、早くに一倍の弁を致すべし。質の事は沙汰に及ぶべからず。凡そ(おおよそ)御制以後の質人の事は、一向停止(ちょうじ)すべきの由とうんぬん。此の如く申し沙汰すべきの旨、相州より問注所に仰せらるると云々。勧湛(かんたん)・實綱(じっこう)・寂阿(じゃくあ)奉行たり。
―本来、「基本的には」人を質入することは禁止されている。ことに次のAの場合は厳禁。但し飢饉の場合などは特別措置。
  @政治的身柄拘束(体制に対して行動を起こしそうな人間の肉親などを抑えて反乱分子を抑制する)
  A金のために一人の人間を質として拘束し貸した金の変わりに弁償する
―13世紀半ば延応・仁慈・寛元に人間の質入について法令が出ました。(元々は貞永式目以後いろいろな法令が出ていた→「新編追加」
―追加法299番目「中世法制資料集」

史料―板書―
一、人質事、人倫売買之御制以前、致訴訟於給問状者任證文。 可流質人也。所謂御制已前。雖入流雖質券。御制以後至経訴訟者。早可致一倍弁。質事不可及沙汰。凡御制以後質人事。一向可従停止也。此以趣可為奉行給之旨。被仰下候。仍執達如件。
(人質の事、人倫売買の御制以前、訴訟を致し問状を給うに於いては、證文に任せ 質人を流すべきなり。次いで御制已前、これを入れ流すと雖も、御制以後、訴訟を 経るに至らば、早く一倍の弁を致し、人質の事沙汰に及ぶべからず。凡そ御制已後、 人質の事は、一向停止に従うべきなり。この趣を以て奉行せしめ給うべきの旨、仰 せ下され候なり。仍って執達件の如し。 )
     建長六年五月一日     勧湛
                      實綱
                      寂阿
     大田民部大夫殿

―「問状(もんじょう)」―原告が訴状で訴えた内容について、被告人に答える書状(「陳状」)を出せ、という命令。その訴状と陳状に対して裁判が出る。問状を出さないと裁判所から出頭命令が出る。今と同じです。
―「建長六年五月一日」いろいろな人身売買があるが、人を質入することの法令が出るのは初めてであり、「吾妻鏡」が後日後段部分のみ引用で入れたんです。
―この御制以後、人を質に入れることを禁止した、ということがわかります。(人攫い・辻盗り・担保に人間を入れる・・・など)
―相州から、問注所にかくのごとき申し入れをした、ということです。

〇五日丙子。晴。 鶴岡神事如例。但於下廻廊中巽維。有闘乱。被疵者三人。死者一 人。又中流鏑馬之箭者二人。被踏□馬蹄者一人<云々>。彼是匪直也事歟。(□は旧字体)

―5日 丙子(へいし)。晴。 鶴岡の神事例の如し。但し下廻廊の中、巽の維(すみ)於いて、闘乱有り。疵を被る者三人・死者一 人。また流鏑馬の箭(や)に中たる(あたる)者二人。馬蹄に踏み殺さるる者一人と云々。彼是直なる事に非ざるか。
―5月五日は、現代なら「端午の節句」ですが、1−1・3−3・5−5と奇数(陽数)が重なる日はめでたい、ということで昔も「節会(せちえ)」がありました。
この日は八幡宮で神事があるというのにいろんなことが起こった。

〇七日戊寅。陰。 一昨日、鶴岡廻廊殺害觸穢之間。可有造替之由被経評議。亦召陰陽師等。於評定。彼□□事被行御占。晴茂・為親・晴宗。各別紙勘申之。
〇八日己卯。於聖福寺神験宮有舞楽<云々>。
〇九日庚辰。霽。去比。石清水八幡宮有自□僧之由。彼宮使申之。        (□は旧字体、<>は小字)

―7日 戊寅(ぼいん)。陰(くもり) 一昨日、鶴岡の廻廊の殺害の触穢の間、造替有るべきの由評議を経らる。また陰陽師等を 召し、評定所に於いて、彼の殺害の事御占いを行わる。晴茂・為親・晴宗、各々別紙 にこれを勘申(かんしん)す。
―8日 己卯 (みう) 聖福寺神験宮に於いて舞楽有りと云々。
―9日 庚辰(こうしん)。霽(はれ)。 去比(さんぬるころおい)石清水八幡宮に、自害の僧有るの由、彼の宮の使いこれを申す。
―鶴岡八幡宮というのは、もともと、石清水八幡宮から分社してできたものです。八幡太郎義家などが奥州征伐の折に関東に持ってきたのです。その石清水八幡宮というのは東大寺の中にある手向山八幡宮で、東大寺ができる時に宇佐八幡宮から分社してきたものです。(筆者注、宇佐―東大寺―岩清水―鶴岡ということですね
八幡神というのは仏教と一緒に渡来した神様で、菩薩の姿で仏に仕える、という事になっています。菩薩というのは修行中の姿です。
渡来人が信仰していたものを応神天皇が信仰し、京都から鎌倉、東国一帯に広がり全国に分社されました。

〇閏五月小
〇一日壬寅。相州随身下若□参御所給。将軍家出御廣御所。御酒宴及數献。近習 人々被召出之。各乗酔。時相州被申云。近年武藝癈而自他門共好非□才藝。觸□己忘吾家礼訖。可謂比興。 然者弓馬藝者追可有試會。先於當座被召決相撲就勝負有感否御沙汰之由<云々>。将軍家殊有御入興。爰或逐電。 或令固辞。為陸奥掃部助奉行。於遁避輩者。永不可被召仕之旨。再三依仰含。十余輩愁及手合。<不撤衣装>。長田兵衛太郎被召出候砌。判申勝負是非。依為譜代相撲 也。 (□は旧字体、<>は小字)

―閏5月1日 壬寅(じんいん)。相州、下若等随身し御所に参り給う。将軍家廣の御所に出御す。御酒宴数献に及ぶ。近習の人々これに召し出さる。各々酔に乗ず。時に相州申されて云く、近年武芸廃れて、自他の門、共に非職の才芸を好み、事に触れすでに吾家の礼を忘れをはんぬ。比興(ひっきょう)と謂うべし。 然者(しからば)弓馬の芸は追って試会有るべし。先ず当座に於いては相撲に召し決せられ、勝負 に就いて感否の御沙汰あるべきの由と云々。将軍家は殊に御入興有り。爰に或いは逐電し 或いは固辞せしむ。陸奥掃部の助(実時)奉行として、遁避の輩(とんきのやから)に於いては、永く召仕せら るべからざるの旨、再三仰せ含むに依って、十余輩なまじいに手合せに及ぶ(衣装を撒かず)。長田兵衛太郎召し出され砌に候し、勝負の是非を判じ申す。譜代の相撲 たるに依ってなり。
―相州(時頼)が「下若(かじゃく)等」を持参して御所に伺った・・・「下若」は銘酒の名前です。中国淅江省長興県の若渓(じゃっけい)という川が、よい水が出る、という評判があって、その下流という意味です。
―閏というのは、一年を355日で数える、というのは、前回いいましたが、その誤差がまとまってたくさんになった時に閏月をつくります。
―吾妻鏡は100年くらい経ってから編纂した物なので、何もなかった時には何も書かれません。後、北条氏の都合の悪いことね(は書かれない)。後のほうになると名前の羅列が多くなって記事が少なくなります。
―この頃になると、みんな、武芸をしなくなってきた、たるんできた、というのかな。これは比興(ひっきょう)ー不都合なこと、理に合わないことである。そこで、今日は相撲でもやれ、といったわけですね。将軍も大いに乗り気になったんだけれども、「或いは逐電し 或いは固辞せしむ」―みんなコソコソ逃げたり、できないと断ったりしたので、陸奥の掃部助重時を奉行にして、逃げ出した輩は当分御前に召し出されないぞ、と再三言って、十人余りがいやいや衣装も脱がすに相撲を取った。
―長田兵衛太郎が召し出されて審判を勤めた。譜代の相撲、相撲のうまい家なんですね。

一番 <左持>
    <右> 
 <三浦>遠江六郎左衛門尉 (とおとおみの ろくろうの さえもんの じょう)
 <結城>上野十郎 (こうづけの じゅうろう)
二番   大須賀左衛門四郎 (おおすがの さえもんの しろう)  
      波多野小次郎 (はだのの こじろう)
三番 <左持>
    <右> 
      渋谷太郎左衛門尉 (しぶやの たろう さえもんの じょう)   
      □牧中務三郎 (けん まきの なかつかさの さぶろう)
四番 <左勝>
    <右>
      橘薩摩余一  (たちばなの さつまの よいち)    
      肥後彌籐次  (ひごの いやとうじ)
五番 <左勝>
    <右>
      廣澤余三 (ひろさわの よざ)       
      加藤三郎  (かとうの さぶろう)
六番 <左持>
    <右> 
      常陸次郎兵衛尉 (ひたちの じろう ひょうえの じょう)   
      土肥四郎 (といの しろう)
勝并持者被召御前。賜御劔御衣□。雲客之取。負者不論堪否 。以大器各給酒三度。御一門諸大夫□候□。凡有興有感。時壮観也。

―これは、その相撲の勝敗です。「左持」ー「持」というのは持ち合い、あいこ、引き分けですね。
―勝ち並びに持ちは御前に召され、御劔・御衣等を賜わる。雲客これを取る。負けの者は堪否(かんぴ) を論ぜず、大器を以て各々酒三度給わる。御一門の諸大夫等酌を候ず。凡そ興有り、 感有り。時の壮観なり。
―「堪否(かんぴ) を論ぜず」というのは、負け方によらず、ということで大きな器でお酒を三度も頂いた。お酒好きならこっちのほうがいいかもしれないですね。

〇五日丙午。 三種神符御護□。去年五月五日當于壬午の支干。令懸彼御護給訖。今月五日又為丙午。重可有其沙汰歟之由。去此被 仰遣京都之處。閏月□不可准恒例之由<云々>。       (□は旧字体,<>は小字)

―5日 丙午(へいご) 三種の神符御護りの事、去年(さくねん)五月五日壬午(じんご)の支干(しかん)に当たり、彼の御護りを懸けしめ給 いをはんぬ。今月五日また丙午として、重ねてその沙汰有るべきかの由、去比(さんぬるころおい)京都に 仰せ遣わさるるの処、閏月の事は恒例の節に准ずべからざるの由と云々。
―「去年(さくねん)五月五日壬午(じんご)の支干(しかん)」というのは、建長五年5月5日が壬午(じんごーみずのえうま)にあたり、三種のお守りをかけた。「三大御神符」というのがあって「端午の神符」とお守りを作ってかけると縁起がいいと言われている。比叡符は九つの病気から逃れられる。寡的符などというのは、どんなに弓矢が飛んできても助かる、というものもある。ところが、京都に尋ねると、「閏五月」は該当しない、という回答がきた、ということです。

〇十一日壬子。 奉公諸人面々可為弓馬藝□之由被仰出。今日為陸奥掃部助。和泉 前司行方。武藤少卿景頼□奉行。於御所中被觸廻之。相 州内々令申行給之故也。於馬場殿。連日可有遠笠懸小笠懸。御所内 々可令射給之由<云々>。

―11日 壬子(じんし)。 奉公諸人の面々、弓馬の芸を事と為すべきの由仰せ出さる。今日陸奥掃部の助・和泉 の前司行方・武藤少卿景頼等、奉行として、御所中に於いてこれを触廻さる。相 州内々申し行わしめ給うの故なり。馬場殿に於いて連日遠笠懸・小笠懸有り。御所の内々に射給せしむべきの由と云々。
―「奉公諸人面々」御家人たちのことですね。将軍に奉行している御家人たち。土地を媒介とした御恩と奉公という関係です。
―遠笠懸というのは、武士がかぶる居合笠を的にして射る、弓矢の稽古です。




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