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3月6日(木)「中世の史料を読む(三) 鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』第四回

(筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用)


〇6月大
〇三日 □酉。晴。 故城介入道願智周[門の中に発]期立塔婆遂供養。導師左大臣法印厳恵。真言供 養也。
布施
  南庭十   馬一疋<銀鞍、厚総鞦>   銀劔<入袋>  單重一領  
加布施   
  錦被物一重<布衣> <顕方卿取之>
布施取二十五人<云々>。又於相州御亭。法花被八講始行之衆。
  頼兼 審範 房源 兼位 頼乗 定圓 經幸 範快<云々>。    □は旧字 <>は細字

―6月大
―3日 癸酉(きゆう)。晴。 故城の介入道願智周□(こ・じょうのすけにゅうどう・がんち・しゅうけつ)の期(ご)に塔婆を立て供養を遂ぐ。導師は左大臣法印厳恵なり。真言供養なり。
―故城介入道願智周[門に発]は秋田城を管理している権の介従五位上藤原朝臣義景です。出家して法名願智。その一周忌です。建長5年6月3日に死去して、それを受けての記録です。安達氏は時頼母「松下の禅尼」の実家にあたります。松下の禅尼というのは障子の切り張りなんかで有名ですね。
―布施
  南庭(なんてい、というのは銀の延べ棒、それが)十  
  馬一疋 <銀鞍、厚総鞦(厚房の尻かい、鞍骨を抑える鞍を締める紐)>  
  銀の太刀 <袋に入る>  
  単重一領(ひとえがさいちりょう)
―加布施
  錦の被せ物一重ね<布衣。顕方卿これを取る―顕方卿が用意した>。
 布施取り二十五人と云々。また相州の御亭に於いて法華八講を始行せらるるの衆。
  頼兼・審範・房源・兼位・頼乗・定圓・經幸・範快と。

〇五日乙亥。晴。相州八講結願。為結縁奥州已下諸人群集。

―5日 乙亥(おつがい)。晴。 相州の八講結願す。結縁の為奥州已下諸人群集す。
―「晴」と「霽」の字、両方とも「はれ」です。こっちの「霽」は雨がやんだ後の晴れです。
―時頼が、法華八講というお経の法会を開いた。結縁として奥州・北条重時以下たくさんの人が集まった。

〇十日庚辰。 於同御第。有御祈祷□<云々>。     □は旧字

―10日 庚辰(こうしん)。 同御第に於いて御祈祷等有りと。
―時頼の邸は二つあります。前回も言いましたが、一つは執権邸。今の萩寺の近くです。もうひとつ山之内に別邸があって、今の明月院のある辺りです。

〇十五日乙酉。霽。 今日。迎前武州禅室十三年忌景。彼墳墓被供養青船御塔。導師信濃僧正道襌。真言供養也。請僧之中。々納言律師定圓<光俊朝臣子>。□中已□經幸。蔵人阿闍梨長信□在之。為此御追福御八講。自京都態所被招請也。相州御聴聞。御佛□已後。相州令歸山内御亭給之處。鎌倉中騒動。路次往返之輩。多以帯兵具。仍則渡御鎌倉御亭也。

―15日乙酉(おつゆう)。霽(はれ)。 今日、前の武州禅室十三年 忌景を迎え、彼の墳墓青船御塔(あわふねのみどう)を供養せらる。導師は信濃僧正道襌。真言供養なり。請僧の中(しょそうのうち)、中納言律師定圓(じょうえん)<光俊朝臣の子>・備中已講經幸・蔵人阿闍梨長信等これに在り。この御追福八講のために。京都より態(わざわざ)招請せらるる所なり。相州御聴聞。御仏事已後、相州山内の御亭に帰らしめ給うの処、鎌倉中騒動す。路次往返の輩、多く以って兵具を帯す。仍って則ち鎌倉の御亭に渡御するなり。
―前の武州というのは北条泰時です。時頼にとってはおじいさん。1242年(仁治3年)60歳で死去して、その13回忌を、禅室というのは出家している奥さんー未亡人が、もよおしたんですね。
―かの青船御塔、泰時が義母のために建立した常楽寺ですね。蘭渓道隆が建長寺建立前に滞在した、泰時も死んでからそこに葬られました。で、真言密教の供養であった。導師は信濃の僧正道襌など、泰時追悼のために鎌倉の僧侶達でなく、わざわざ京都から招いた、ということです。
―で、法事が終わって、山之内の別邸に帰ろうとしたけれど、鎌倉市内、小袋坂を越えたあたりに騒動が持ち上がって、武装した武士達が多く右往左往している。それで執権邸に帰った、というんです。

〇十六日丙戌。鎌倉中物怱之間。自昨夕諸人群参御所中。皆令着到之。披閲。相州御覧<云々>。
所謂、
   遠江前司                陸奥掃部助            同太郎
   相模式部大夫             遠江六郎              陸奥六郎
   同七郎                 備前三郎              上総三郎
   新田参河前司             後藤壱岐前司           和泉前司
   同次郎左衛門尉           嶋津周防前司           安藝前司
   小山七郎               下野七郎              遠江六郎左衛門尉
   城次郎                 同三郎                阿曽沼小次郎
   信濃四郎               大曽[ネ尓]次郎左衛門尉     隠岐三郎左衛門尉
   宇都宮五郎左衛門尉        武藤左衛門尉            同右近将監
   完戸次郎左衛門尉(ししどのじろう-)   和泉五郎左衛門尉     善右衛門尉
   同五郎左衛門尉           善六郎兵衛の尉           善太右衛門尉
   肥後次郎左衛門尉         澁谷次郎左衛門尉         小野寺四郎左衛門尉
   同八郎左衛門尉           山内新左衛門尉          同太郎左衛門尉
   山内籐内左衛門尉         進三郎左衛門尉          常陸太郎左衛門尉
   田中右衛門尉            肥後次郎左衛門尉         同四郎兵衛尉
   紀伊次郎左衛門尉         足立太郎左衛門尉         同三郎
   足立左衛門三郎           和泉七郎左衛門尉        池上籐左衛門尉
   眞壁平六               薩摩七郎              狩野五郎左衛門尉
   同四郎                狩野帯刀左衛門尉         中山右衛門尉
   長内左衛門尉            加地七郎右衛門尉         大泉九郎
   鎌田兵衛三郎            同次郎兵衛尉            同圖書(図書)左衛門尉
   遠藤右衛門尉            宇間右衛門尉   
今夕月蝕。左大臣法印厳恵修御祈。雖有陰雲氣。度々出現<云々>。

―16日 丙戌 (へいぼ)
―鎌倉中物騒の間、昨夕より諸人御所中に群参す。皆これに着到せしむを披閲す。相州御覧と云々。
―所謂(筆者注―略します
―今夕月蝕。左大臣法印厳恵御祈りを修す。陰雲の気有りと雖も度々出現すと。
―「到着」は着く、「着到」は名簿です。「着到状」というのがあって、緊急事態に素早く対応した御家人のリスト、「いざ鎌倉」に際して、誰が早々に駆けつけたか、という名簿です。誰がここにいた、誰がここで動いた、という印です。それを時頼が見るんです。現体制に忠誠を誓った御家人たちの名簿ということです。
―時代が下ると、北条氏の中でも地名によって分けるようになります。金沢北条とか塩田北条とかです。
―厳恵法印が祈祷したけれども厚い雲が出てきたようだが、時々月食はよく見えた。
―この頃から、いろいろな騒ぎが起こってくるんです。
北条氏内部の対立・御家人同士の対立・京都とのいざござ・・・ね。

〇廿三日□巳。晴。 於鶴岡八幡宮被行□勝王經□。壇主別當法印隆弁。相州為御結縁。入御西經所。□衆十人。
  三位法印頼兼(らいけん)       弁法印審範(しんはん)      宮内卿法印房玄(ぼうげん)
  宮内卿律師親遍(しんぺん)      三位律師兼伊(けんい)     治部卿律師頼乗(らいじょう)
  中納言律師定圓(じょうえん)     □中已□經幸(びっちゅう みこう―)    蔵人阿闍梨長信
  侍従阿闍梨
□也。     

―23日 癸巳(きし)。晴。 鶴岡八幡宮に於いて最勝王経講を行わる。壇主は別当法印隆弁。相州御結縁として西経所(経を読む建物)に入御す。講衆十人。
(筆者注―名簿は省略。「□也」というのは「等也」)
―「最勝王経」というのは「今光明最勝王経」というお経です。

〇廿五日乙未。天晴。 了行法印所造置京都之持佛堂。并宿所□。被寄進「□」如意寺營作也。今日有評定。被仰出之。清左衛門尉満定為奉行<云々>。

―25日 乙未(おつみ)。天晴。 了行法印京都に造り置く所の持仏堂並びに宿所等、如意寺営作に寄進せらるるなり。今日評定有り。これを仰せ出さると云々。清左衛門の尉満定奉行たりと云々。
―「了行法印」というのは将軍後継問題で失脚した僧です。
―その、了行が造って置いた持仏堂や宿所を如意寺の修復、前回出てきたあの如意寺です。その修復造営のために寄進したんです。
―如意寺は東山三十六方という辺り、東は園城寺三井寺の境内から鹿ケ谷まで広い地域に広がる寺でしたが南北朝の内乱で焼け落ちてしまいました。その修復のために、ということです。

配布史料から
皇族将軍の東下―建長三年(1252年)12月、陰謀事件が持ち上がり、僧了行らが審問された結果、前将軍九条頼経(宮将軍の前の摂家将軍)が世を乱す企てがあることが発覚したという(『保暦聞記』)。このことを口実に北条時頼は将軍頼嗣は更迭、宗尊親王の東下となった。幕府は九条家との関係を断ち、九条道家ら一族は勅勘を受けたと『保暦聞記』などは伝え、関東の使節上京の翌日、道家は失意の内に世を去った。ところで、この経過は、将軍が執権によって自由に廃立されるようになつたことでもある。皇族将軍は幕府長年の宿願では会ったが、この後次々に廃立されてゆくことになる。


〇七月大
〇一日辛丑。甚雨暴風。 人屋顛倒。稼穀損亡。古老云。廿年以來無如此大風<云々>。

―7月大
―1日 辛丑(しんちゅぅ)。甚雨暴風 。人屋顛倒し稼穀損亡す。古老云く、二十年以来此の如き大風無しと云々。
―「稼穀損亡す」というのは、稲や麦の収穫に損害を与える、ということです。

〇五日乙巳。來月鶴岡八幡宮放生會御参宮随兵以下供奉人被催。
〇十四日甲寅。 可供奉放生會之旨。被仰佐渡前司基綱之處申障。非指故障之由。依聞食及之。重雖被催之。猶如先<云々>。又今日被催可参廻廊之人々。其中□後前司申障<云々>。

―5日 乙巳(おつみ)。来月の鶴岡八幡宮放生会御参宮の随兵(ずいひょう)以下供奉人催さる。  
―14日 甲寅(こういん)。 放生会に供奉すべきの旨、佐渡の前司基綱(後藤基綱)に仰せらるるの処、障りを申す。指せる故障非ざるの由これを聞き食し及ぶに依って、重ねてこれを催せらると雖も、猶先の如しと云々。また今日廻廊に参るべきの人々を催さる。その中備後の前司障りを申すと云々。
― 「指せる故障非ざるの由」たいした故障でない、ということです。
―放生会というのは、8月15日の秋の大祭です。いろんなところで放生会をしていますが、ルーツの宇佐神宮からずっと、文治元年(1185年)頃から行われています。最初は流鏑馬と同じ日にやっていたのが大変なので分けたんですね。建久元年(1190年)頃かな。
―佐渡の前司基綱というのは後藤基綱。関東の御家人としても大物です。片や備後前司というのは三善康晴、問注所の守であつた三善康信の子孫です。このふたりが名誉な職を辞退するということは「?」何かある。
時頼は名執権で、粛々と政治を執り行っていたと思われるが、内実はこういうことが多かった。

〇十七日丁巳 。於相州御第。被始行祈祷□<云々>。
〇廿日庚申。供奉人□[古の下に又]。重有催促。日來連々申子細人々。
布衣
   右馬權頭 (北条政村)        尾張前司 (直江時幸)               駿河四郎 (北条兼時)  
   新田太郎                後藤佐渡前司             小山出羽前司 
   下野七郎 (宇都宮氏)        大須賀次郎左衛門尉 (千葉氏)        土肥三郎左衛門尉
   伊豆太郎左衛門尉           加地七郎左衛門尉          加籐左衛門三郎
   常陸次郎兵衛尉 <聊有懸心□之由申之> (聊か心に懸かる事有るの由これを申す)
随兵
   陸奥六郎 <可令七郎勤仕之由申> (七郎勤仕-つかわ-しむの由申す)
   千葉介 <故障>

―17日 丁巳 (ていみ)。相州御第に於いて御祈祷等始行せらると云々。
―20日 庚申 (こうしん)。
  供奉人等の事重ねて催促有り。日来連々子細を申す人々。
―名簿から
北条政村の邸というのは、今の「北条櫓」の所です。鎌倉武士が住んでいたところとして手付かずに残っている、貴重なところです。
土肥三郎左衛門尉というのは、湯河原の城願寺という寺を菩提寺とする御家人ですが、頼朝敗走の折の「四騎落ち」ののひとりです。
加地七郎左衛門尉は入間飯能の牛耳っている。
常陸次郎兵衛尉というのは二階堂氏。京都から来ている藤原氏です。
陸奥六郎というのは北条義政、七郎というのは弟の業時です。
千葉介(ちばのすけ―下総の千葉頼胤)

〇八月小
〇五日乙亥。晴。 彼岸初日也。於御所御持仏堂。被始行法花懺法。其衆十二口也。
〇十日庚辰。雨降。入夜属晴。 丑尅。東方白虹見。
〇十一日辛巳。晴。今日。彼岸懺法之結願。導師左大臣法印。花山院中将。尾張少将。中御門少将各取 唱導布施。那波左近大夫政茂。能登左近蔵人仲時□[イ殳]請僧布施。

―8月小
―5日 乙亥(いつがい)。晴。彼岸の初日なり。御所の御持仏堂に於いて法華懺法(ほっけせんぽう)を始行せらる。その衆は十二口なり。
―法華懺法というのは彼岸の法華経千法。
―10日 庚辰(こうしん)。雨降る。夜に入りて晴に属す。 丑の刻(午前二時ごろ)東方に白虹(はくこう)を見る。
―11日 辛巳(しんみ)。晴。 今日彼岸懺法の結願なり。導師は左大臣法印なり。花山院中将。尾張少将。中御門少将各々 唱導の布施を取る。那波左近大夫政茂(なはの さこんのたゆう まさもち)・能登左近蔵人仲時(のとの うこんの くろうど なかとき)等請僧(しょそう)の布施を役す。

〇十五日乙酉。陰。 鶴岡放生會。巳尅小雨降。将軍家御出於南面階間。為親朝臣候御祓。 陪膳伊与中将公直朝臣。□送左近大夫政茂。 御出行列。
先陣随兵 (せんじんのずいひょう)
  武田三郎政綱             南部次郎實光           大曽彌次郎左衛門尉盛経 
  出羽三郎行資             越後右馬助時親          備前三郎長頼
  三浦介盛時(相模の守)       遠江十郎頼連            遠江六郎教時           
  陸奥七郎業時
次前駈 (ついで さきがけ)
  能登左近大夫仲時          那波左近大夫政茂
次殿上人 (ついで てんじょうびと)

次御車 (ついで みくるま―将軍が乗る)
  小野寺新左衛門尉行道       土肥四郎實綱           山内籐内左衛門三郎通廉
  善右衛門次郎康有          紀伊四郎右衛門尉        大曽彌左衛門太郎長経
  梶原上野次郎             狩野左衛門四郎景茂       平賀新三郎惟時
  肥後彌籐次
       已上着直垂帯劔。候御車左右。
御劔役人(みつるぎやくにん) 
   遠江前司時直
御調度(みちょうど)

御後<布衣>
   相模右近大夫将監時定           尾張三郎頼章              武蔵太郎朝房
   中務権大輔家氏                参河前司頼氏             出羽前司行義
   壱岐前司基綱                 和泉前司行方              佐々木壱岐前司泰綱
   大隅前司忠時                 伊賀前司時家              周防前司忠綱
   長門前司時朝(笠間時朝)          梶原上野介景俊             遠江守光盛                        城九郎泰盛(秋田城の介ー安達氏)    和泉次郎左衛門尉行章         梶原上野太郎景綱
   大曽[ネ尓]左衛門尉長泰          佐渡五郎左衛門尉基隆         和泉五郎左衛門尉政綱
   筑前次郎左衛門尉行頼           隠岐三郎左衛門尉行氏         小野寺四郎左衛門尉道時
   肥後次郎左衛門尉為時           城次郎頼景                善右衛門尉康長
   薩摩七郎左衛門尉祐能           伊賀次郎左衛門尉光房         狩野五郎左衛門尉
   紀伊次郎左衛門尉為經           足立三郎左衛門尉 (足立区の足立) 加地七郎左衛門尉氏綱
   <大見>肥後四郎兵衛尉行定        [ネ尓]善太右衛門尉              加藤左衛門三郎景經 
   鎌田兵衛三郎
後陣随兵
   相模八郎時隆                 武蔵八郎頼直                長井太郎時秀
   上野三郎國氏(足利氏)            河内三郎左衛門尉祐氏          肥後次郎左衛門尉景氏
   小田左衛門尉時知               田中右衛門尉知継              阿波四郎兵衛尉政氏
   阿曽沼小次郎光綱

―15日 乙酉(おつゆう)。陰(くもり)。 鶴岡の放生会なり。巳の刻(午前10時)小雨降る。将軍家は南面階の間に御出す。(陰陽師)為親朝臣御祓いに候ず。 陪膳は伊与の中将公直朝臣、役送は左近大夫政茂。御出の行列。
―名簿は省略
―三浦介盛時(相模の守) 三浦氏は、北条合戦(124年)の時に潰されたが、この三浦氏だけは残った。鎌倉時代の三浦氏と○○とは繋がっているが、小田原城の北条氏と鎌倉の北条氏は繋がっていません。

○十六日丙戌。晴陰。入夜甚雨。 今日御出之儀同昨。
○十七日丁亥。快晴。 相州此間依御風気蟄居。今日始出仕給。

―16日 丙戌(へいじゅつ)。晴陰。夜に入り甚雨。今日御出の儀昨の同し(ごとし)。
―17日 丁亥(ていがい)。快晴。 相州この間御風気に依りて蟄居す。今日始めて出仕し給う。
はぁ、ここまで読めましたね。今日は絶対ここまでやる、と決めていましたから、大丈夫でしょう。もう後一回しかありませんから、頑張りましょう。







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