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3月9日(日) 古文書解読講座第五回「中世武家文書入門」講師 田島光男(県立公文書館)
                    「明治期の文書」
  講師 石倉光男 (県立公文書館)

今日は、ふたつのセクション(時代)に分かれて、御二人の講師でした。一時間目は「中世の武家文書」ということで、鎌倉・室町時代の文書で、やはりちょつと読みづらいところはありましたが、ナントカ内容だけは理解することが出来ました。
二時間目は「明治初期」のもので、これは大変読みやすくて、ただ、こういうものが出で来ると、本当に文書解読というのは歴史の勉強なのだと、ひしひしと感じます。

T.世武家文書入門」講師 田島光男(県立公文書館)
テキストI−1 源頼朝下文

                   頼朝花押

下 下野國左衛門尉朝政
 可早任政所下文旨領掌所<の>地頭
   職事
右件所々所成賜政所下文也
任其状可領掌之状如件
  建久三年九月十二日
文書の形式でこの位置を「袖」という。花押をそこに押す時「袖判(そでばん)」という。
年号の上にあるときもある。頼朝の花押が無いもの(幕府の機関の出すもの)は
信用されなくなっていた。
下す 下野國左衛門尉朝政(しもつけのくにさえもんのじょうともまさ)
早く政所の下文の旨に任せ所々の地頭職(じとうしき)を領掌すべき
こと
右件の所々、政所の下文を成し賜う所也
その状に任せて領掌すべきの状件の如し
  建久三年九月十二日(建久三年には政所の下文は出さないことになっている)

テキストI−2  将軍(源 頼朝)家政所下文

将軍家政所下  下野國日向野郷住人
  補任地頭職事
    左衛門尉藤原朝政
 右壽永二年八月 日御下文云以件
 人補任彼職者今依仰成賜政所
 下文之状如件以下
   建久三年九月十二日案主藤井花押
令民部少善藤原花押   知家事中原花押
別當前因幡守中原朝臣花押
  前下総守源朝臣
将軍家政所下す  下野の國日向野郷住人(ひがのごうじゅうにん)
  補任地頭職の事
    左衛門の尉藤原の朝政
 右壽永二年八月 日御下文(おんくだしぶみ)に云う件の人を以って
 彼の職(しき)に補任す、者(てへり)、今仰に依り政所の下文を成し賜うの
 状、件の如し、以って下す。
   建久三年九月十二日  D案主藤井(あんすふじい)花押
@令民部少善藤原花押   C知家事中原(ちかじなかばはら)花押
A別當前因幡守中原朝臣(さきのいなばのかみなかはらのあそん)花押
  B前下総守源朝臣

○差出人の名前の序列は@〜D、時計回りの逆になる。
○高官の五人がサインをすれば決定。頼朝が政所を開く以前には、必ず頼朝の花押があったが、政所を開いてからは其の長官や、二人くらいの高等官が出すようになった。
○正式文書では自分の官位を書く。↑の文書の朝臣は記号的に朝のヘンと旁の間に臣という字をはさんで書いてある。
○執行令などは花押のみ。↑のテキストI−1 源頼朝下文は、幕府の文書だけでは信用できないと、わざわざ頼朝の文書をもらった。

テキストJ 関東公方足利持氏御教書(かんとうくぼう あしかがもちうじ みぎょうしょ)

武蔵國久下郷内久下弥五郎
入道頭并杣彦太郎跡屋敷等
事早守寄進状之旨可
沙汰付下地お金陸寺雑掌
由可被下知代官之状
如件
 應永丗一年二月五日  花押
  安房四郎殿
武蔵國久下郷内(むさしのくに くげばらのうち)久下弥五郎(くげやごろう)
入道頭(にゅうどうのかみ)并(ならびに)杣彦太郎跡(そまひこたろう あと)屋敷等の
事 早く、寄進状之旨を守り、
下地を金陸寺雑掌に沙汰し付くべきの(「沙汰しつく」というのは当時の命令用語)
由、代官に下知せらるべきの状
件の如し
 應永丗一年二月五日  花押(足利持氏)
  安房四郎殿(関東管領 上杉憲實)

○室町幕府が京都に置かれるようになると、鎌倉が留守になる。そこで「鎌倉府」を開いて関東方面の支配をするようになった。
○実際権利をもらう人に文書が出されるが、それ以前に、執行人に対して其の件に関する執行命令が出される。

テキストK 道合(上杉憲方)置文(上杉家文書)・・・私的文書

 処加自筆也   
    委細之旨可載置文
    付年号以下為後證
所帯所職事譲与也
もし無子孫者房方可知行之
於文書者預置如意庵并
白雲庵候可候存其の旨候
謹言
 至徳三
   七月一日  道合花押
   長基殿
 
    委細の旨、置文に載すべし
    付年号(つけねんごう)以下(いげ)、後の證として自筆を加える処也
所帯所職(しょたいしょしき)の事 譲り与うところ也
もし子孫無くば 房方これを知行すべし
文書においては 如意庵并びに
白雲庵に預けおき候 其の旨を存ぜらるべく候
謹言
 至徳三
   七月一日  道合花押
   長基殿

○道合・上杉憲方(関東管領)が、上杉憲實に当てて財産を譲る、と言う文書。未だ関東管領という職に着いている道合が、何か問題があった時のことを考えて文書にして預けた。
○「委細の旨、置文に載すべし付年号(つけねんごう)以下(いげ)、後の證として自筆を加える処也」は、宛名を読んだ後に読む。

テキストL

せんとハ山志ろのかみ殿ゆい
物として梅のゑ一ふく賜ひ
ひさう申すへく候此たひのし
あわせなかなか申す事なく候され
                  とも
くはうさまよりおほせつけられ
うちじにをとげられ候へハ御
ちうしん申におよはす候
             うち政<二>
おゐてもせひなくそんする斗にて
なおとお山新四郎申すへく候
            かしこ
  十二月十二日 うち康花押
 山志ろ殿
  こう志つへまいる   
先度ハ山城の守殿遺
物として梅の絵一幅賜ひ
秘蔵申すべく候 此のたびの し
あわせ なかなか申す事なく候 され
                  とも
公方様より おほせつけられ
討ち死にをとげられ候へば 御
忠心申すにおよばず候
             氏政に
おゐても ぜひなく存ずるばかりにて
猶 遠山新四郎申すべく候
            かしこ
  十二月十二日 氏康
 山城殿
  後室へまいる   

○仮名で書いた文書→戦国では珍しい!!
→「受取人が女性」相手が女性である場合は、全文仮名で書いて、自分の名前も一番上の一字は仮名で書く。
・・・京都のやり方で、北条氏も受け継いでいた。→戦国大名としては非常にまろやか。
○山城の守は、武将にして医師、趣味人であった。氏政の弟氏輝が病気の時救った。
○永禄12年、北条氏と武田信玄が戦った折り、討ち死にした。
○北条家の当主として、遺品の礼状というだけでなく、家督は息子に譲っているが隠居として実権者として氏康が慰労のため出した手紙。
☆☆☆―――
いやあ・・・この「全文かな書き」というのは参った(^_^;読める字もあります・・・くらいな読みにくさでした。
漢字というのはありがたいですね(^^)
頼朝の下文のほうは楽勝、楽勝、というくらいきれいな字で読みやすかったです(^^)
関東公方の方も読めない字はいくつかありましたが、それでも大体読めたし、言い回しは少々難しかったけれど意味もソコソコつかめたし、道合置文もこれは読みにくかったわりには意味がわかりやすい文で、まあまあでした(^^)
ところが、この「全文かな書き」というのは、ひたすら、線がのたくった・・・というぐらいにしか読めなくて、ところどころの漢字の崩した分だけが手がかり、というくらいでした(;_;)
しかし、また面白かったのも、このかな文書で、当時の女性の置かれていた立場と、それ以上の政治的権威を感じさせる「後室」としての立場、また、隠居であっても実権掌握者の立場と気配りなど・・・なかなかの興味ある内容が詰まっていました(^^)



U.「明治期の文書」  講師 石倉光男 (県立公文書館)

テキストM 

  芸娼妓解放後 負債償還方ノ事 (神奈川県御達)
先般遊女藝者等改正申渡候二付而ハ
月賦返済等ノ方法ハ取消シ示談儕方
可致旨當月十日相觸置候處右年季
奉公人御解放被仰出既二身代金并
賣拭金等一切債ルベカラサル旨今般司法省
より御布達之趣も有之候条最早示
談等二不及一切返辯不致候とも不苦候間
其旨於心得可申者也
  壬申
   十月廿九日神奈川縣權令大江卓
  芸娼妓解放後 負債償還方ノ事 (神奈川県御達)
さきだって じょろう げいしゃなど あらためて申し渡し候については
つきよりかへしなどのおきては取消しはなしあいすみかた
致すべき旨 當月十日 相い觸れ置き候處 右年季
奉公人 おときはなし仰せ出され 既に身代金ならびに
賣拭金(うりかけきん)等一切 債ルベカラサル旨 今般司法省
より 御布(おふれ)達しの趣も これ有り候条 もはや 示
談(はなしあい)等に及ばず 一切 返辯(すみかた)致さず候とも苦しからず候間
其の旨 心得おく可しと申すもの也
  壬申
   十月廿九日神奈川縣權令大江卓

○人身売買の禁止令として太政官布告に先駆けて、神奈川県庁から出された御触書である。
○この人身売買禁止令の発端となった事件が「マリア・ルス(Maria Luz)号事件」であり、それは日本が始めての国際裁判に勝った、という記念すべき裁判である。

テキストN

第三号 於神奈川縣廰
マルヤルーシ舩一件
       神奈川縣廰吟味目安并見廻番
マルヤルーシ舩は困難<二>逢ひ横浜湾門<二>入港致し
右舩〃長より舩修復中當港へ碇泊出く免許
願出候右船ハ當
皇邦と○○来潟とて国<二>附属致質候處
舩所属之奴隷ハ當縣廰<二>○○候事


当日資料より
○1872年(明治5年)、清国人クーリーを奴隷としてペルーに移送中だったペルー船マリア・ルス号が、修理の為に横浜港に入港中、清国人クーリーが逃亡して、英国軍艦アイアン・デューク号に助けを求めた。それを受けて、英国代理公使のワトソンから、外務卿副島種臣に、マリア・ルス号における清国人クーリーの虐待究明を申し出る。
英米の忠告を受け入れて、副島外務卿は神奈川県庁に特別法廷を設置して大江卓県令を裁判長とした。
○大江はクーリー全員の解放という判決を下し、ペルーへの損害賠償も退けて「日本は初めての国際裁判に勝利を納めた」
○その折、法廷での審理中、船長の弁護人から奴隷と同じ遊女の存在を認める日本が奴隷解放とは身勝手と糾弾されたことが契機となり、人身売買の禁止令が出され、神奈川縣では太政官布告(10月2日)に先駆けて触書を出した(9月17日)。
○横浜在住の清国人たちから、法廷開設に尽力した副島と大江に対して感謝の大旆(たいはい―旗)が贈られ、これらは神奈川県立公文書館に保存されている。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

というわけで、もろ歴史の御勉強でしたが・・・いい加減だよね・・・英・米も・・・自分達だって奴隷も、植民地政策もさんざっぱらやってきたではないかいな!!
まあ、その前非を悔いて・・・奴隷戦争の結果?植民地撤退の結果?・・・・いいえ、昔も、今も中国大陸という大きな市場に狙いをつけて清国人クーリーをバックアップしたのだと考えるのは下衆のかんぐりでしょうか?日本だって、勿論そういうシ・タ・ゴ・コ・ロ(^_^;

娼婦の解放はあったようでも、今も猶、というところはありますし・・・。
しかし、どうして娼婦というのはなくならないのでしょうね(^_^;
イギリスのチャールズ皇太子がイギリス王室を茶化して「史上最古の職業(娼婦を著すんだそうで)」と言った事がありますが、そういうものでしょうか?それって男性諸氏の恥にはならぬものなんだろうか?

どうも、こういう美談に素直に感動できないのは困った物です(^_^;





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