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3月13日(木)「中世の史料を読む(三) 鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』第五回

筆者注―本文中の<>は細字、□は旧字体、[]で括って書かれているのは組み合わせれば表現できる場合。いずれも訳文中に当用漢字使用)

○9月大
○四日□夘。降雨大風。巳刻休止。 連日雨國土損亡之間。被行止雨御祈。於前浜有七瀬□。宣賢 為親 廣資 晴憲 晴定 泰房 文元□奉仕之。各向南海列座<東上>。行義 行方 □莅其所奉行之。抑七人中文元上首也。而任先例可召具下座之由。各訴申之間。可列座之由被仰下。仍文元寄座下西。相隔一町令着座云々。

―9月大。
―4日 癸卯(きぼう)。雨降り大風。巳の刻に休止す。連日の雨は国土損亡の間、止雨の御祈りを行わる。前浜に於いて七瀬の祓え有り。宣賢(のぶかた)・為親()ためちか・廣資(ひろすけ)・晴憲(はるのり)・晴定(はるさだ)・泰房(やすふさ)・文元()等これを奉仕す。各々南海に向かい列座す(東が上)。行義(ゆきよし)・行方(ゆきかた)等その所に莅み(のぞみ)これを奉行す。七人中文元上首を仰すなり。而るに先例に任せ下座に召具すべきの由、各々訴え申すの間、列座すべきの由仰せ下さる。仍って文元座下西に寄り、一町を相隔て着座せしむと云々。
―連日の雨は、というと、九月ですから、今なら10月ごろかな。季節ガラ台風ですよね。台風で連日雨が降り止まないから「止雨の御祈り」を行う訳です。「雨乞い」じゃないんだね。
―「七瀬祓え」というのは、天皇などの災いを払うために人形に其の罪を乗せて7ヵ所の海に流す。人形というのはヒトガタですから。「七瀬の禊」とも言います。これは、もともと、京都の公家の間で行われていた物です。京都の公家文化が鎌倉に定着してきた、ということですね。七瀬というのは、由比ガ浜・固瀬(かたせ―片瀬ではない)川・鼬(いたち)川・六浦・杜土(もりと)・江ノ島・金洗い沢(七里ガ浜―砂金を洗ったということから)というところかな。
―この「東が上」ということはですねぇ、地位の高い人は西に座る物なのに、東にすわってしまい、座を直したということです。
―行義・行方というのは、二階堂氏です。

○十月大。
○二日辛未。 西國堺相論事。有其沙汰。一向可為本所御成敗之間。雖有訴訟。不及召決。其中一向関東御領□者。尤可有其沙汰之由。所被仰遣六波羅也。

―十月大。
―2日 辛未 (しんみ)。西国の堺相論の事。その沙汰有り。一向に本所御成敗たるべきの間、訴訟有りと雖も、召 し決すに及ばず。その中一向関東御領の事は、尤もその沙汰有るべきの由、六波羅に仰せ遣わさるる所なり。
―関西についての土地争いのこと。通常は当事者同士で決することで、幕府は口を出さないんです。本所のご成敗を下すべきであって、幕府に訴えてきても感知しない。但し、其の中に関東御領があった場合は特別だよ、ということを六波羅探題、これは鎌倉幕府の京都の出張所みたいなもんですね、そこに言ってやった。
―関東御領というのは、平家が持っていた御領を源平の闘いで取った没官領(ぼっかんりょう)と、承久の乱で後鳥羽上皇が持っていた御領を取った公家領、このふたつの御領は鎌倉幕府の大きな財産です。
―関東御分国というのもあります。其の国の国司を鎌倉幕府が任命できる権利を持っている、という国司任命権ですね。普通は守護の任命権ですから。
―もうひとつは、関東御国内というもの。これは、地頭・荘官(荘園の管理人)を推選できる、という権利。これらは、鎌倉幕府の大きな財産です。

○四日□酉。快晴。戌尅刻俄雨。雷「電」鳴霰相交。 暁更又雷鳴數[迯の外が反になる返に似た字]驚耳者也。

―4日 癸酉(きゆう)。快晴。戌の刻(午後8時)俄に甚雨。雷鳴霰(あられ)相交る 。暁更(ぎょうこう)にまた雷鳴数返(すうへん)、耳を驚かすものなり。

○六日乙亥晴。 寅尅相州室平産姫公。加持若宮僧正<隆弁>。験者清尊僧都也。奥州女房。松下禅尼。相州□群集。為安東左衛門尉光成奉行。有禄物□。銀劔。五衣。馬<置鞍>。万年九郎兵衛尉以下□候人□随所役<云々>。又奥州被送験者祿□。隅田次郎左衛門尉為其使者<云々>。

―6日 乙亥(おつがい) 晴。 寅の刻(午前4時ごろ)相州の室(たぶん重時の娘)姫君を平産す。加持は若宮別当(隆弁)、験者(げんざ)は清尊僧都なり。奥州 (重時)の女房・松下禅尼(安達義盛女=時頼母)・相州等群集す。安東左衛門の尉光成の奉行として禄物(ろくもつ)等有り。銀劔・五衣・馬(鞍を置く)。万年の九郎兵衛の尉以下のし候人等所役に随うと云々。また奥州は験者の禄等を送らる。隅田の次郎左衛門の尉その使者たりと云々。
― 奥州 (重時)の女房ということから、時頼の室は重時女であろうと推定するんですね。
―安東左衛門の尉光成は秋田に所領をもらって十三湊の管理をしている重要な御家人です。鎌倉〜室町時代に活躍した家です。

○十日己卯。 鎌倉中保々奉行條々事。殊不可有緩怠之儀之旨被定之。又政所下部。侍所小舎人□可鎌止鎌倉中騎馬事。同被仰出<云々>。次押買以下事可停止□。被仰万年九郎兵衛尉<云々>。後藤壱岐前司基政。 小野澤左近大夫入道光蓮□為奉行。

―10日 己卯(きぼう)。 鎌倉中保々奉行(ほほぶぎょう)の條々の事。殊に緩怠の儀有るべからざるの旨これを定めらる。また 政所下部・侍所小舎人等、鎌倉中の騎馬を止むべき事、同じく仰せ出さると云々。次いで 押買以下の事停止すべき事、万年の九郎兵衛の尉に仰せらるると云々。後藤の壱岐の前司基政・ 小野澤左近大夫入道光蓮等奉行たり。
― 鎌倉中保々奉行は「鎌倉中の保」です。
「保」というのは、延応2年(1240年)から建長6年(1250年)の10年間、鎌倉の敷地を細分化して、責任者を立て鎌倉幕府の政策を遂行させる、という制度をとりました。京都で行われている「坊」を真似たものです。「坊」を4つに分けたのが「保」です。
鎌倉の「保」は四丁。京都は128戸。「政所の僕」
―侍所小舎人というのは侍所の下級の若侍です。
―「押買(おしかい)」というのは、売らない、というものを無理やり持ち出すことで、その他に「迎え買い(むかいがい)」というのがあって、こちらは生産地に直接行って、卸を通さず、買い込むことです。

○十二日辛巳。自公家被仰下六波羅□断□。有其沙汰。今日被遣御教書其状云。
   被差遣武士於所々事
  御成敗之後。不用御下知。於致狼藉者。不及子細。未断之時。 無是非被差遣者。尤申上子細。可被重仰者。又人倫売買□。守延應 宣下状。一向可停止之由<云々>。

―12日 辛巳(しんみ)。公家より仰せ下さるる六波羅検断の事その沙汰有り。今日御教書を遣わさる。その状 に云く、
    所々に差し遣わさるる武士の事
   御成敗の後に、御下知を用いず、狼藉を致す者は、子細に及ばず。未断の時、 是非無く差し遣わさるる者、尤も子細を申し上げ、重ねて仰せらるべき者。また人倫売買の事、延應の宣下の状を守り、一向停止すべきの由と云々。
―六波羅検断の事というのは、警察権です。
―「所々に差し遣わさるる武士」京都に出張している武士達の越権行為について。鎌倉幕府の御家人達が、京や西国で目に余る所業があって、公家政権からの苦情が出てそれに対処した物です。
―「延應の宣下の状」というのは延応元年(1239年)の政令で、人攫い・かどわかしについての禁令です。

○十七日丙戌 。雑物□依有高直之聞。被定其法。今日所施行也。
    炭・薪・萱・藁・糠□
   高直過法之間。依為諸人之煩。先日雖被定下直。於自今以後者。不可有其儀。如元可被免交易。但至押買并迎買。可令停止。以此旨相模國如然物交易所。也者。依仰執達如件。
     建長六年十月十七日      相模守
                        陸奥守
   筑前々司殿

―17日 丙戌(へいじつ)。 雑物等高直の聞こえ(こうじきのきこえ)有るに依ってその法を定められ、今日施行せらるる所なり。
    炭・薪・萱・藁・糠の事 (日用品で、無くてはならないものの甚だしい値上がり)
   高直法に過ぐるの間、諸人の煩いたるに依り、先日下直(げじき)を定めらるると雖も、自今以後に於いてはその儀有るべからず。元の如く交易をゆるさるべし。但し押買並びに迎買に至らば停止せしむべきなり。この旨を以て相模の国の然る如きの物 交易所に相触れらるべきなり。てえれば、仰せに依って執達件の如し。
―執権と連署の連名で二階堂ゆきやすに当てて出したものです。

○十一月小
○五日甲辰。熊野山本宮造營□。就雑掌參訴。有其沙汰。且彼□領美濃国垣富以下所々地頭□。止色代可済現物之由。被仰出之<云々>。

―5日 甲辰(こうしん)。 熊野山本宮造営の事、雑掌の参訴に就いてその沙汰有り。且つ彼の社領美濃の国垣富以下の所々の地頭等、色代(しきだい)を止め現物を済める(おさめる)べきの由、これを仰せ出さると云々。
―熊野山信仰というものがあります。三熊野詣(みくまのもうで)というと、本宮・新宮・那智の滝、それぞれ山・海・滝です。
筆者・注―三熊野は熊野三社―熊野坐クマノニマス神社・熊野速玉神社・熊野那智神社の総称。参考―熊野三所権現―熊野三社の主祭神として祀られる本宮の家都御子神ケツミコノカミ、新宮の熊野速玉神、那智の夫須美神の三所。)
―色代(しきだい)は、租税を別の物で払うことです。お米で払うところを布で払ったり、労働力にしたり。貨幣経済の走り、がここに見られる、ということです。

○十六日乙卯。天晴。 足利左馬頭入道正義病脳巳及危急之間。為訪之。相州令向彼第給<云々>。

―16日 乙卯(いつぼう)。天晴。 足利左馬の頭入道正義、病脳すでに危急に及ぶの間、これを訪われんが為、相州彼の第に向わしめ給うと<云々>。
― 足利左馬頭入道正義というのは、足利義氏の母は時政の女です。義氏の妻は泰時の女で、大変北条氏との繋がりが深い。だからお見舞いに行くんですね。

○十七日丙辰。 御所中近習□。可免面付公事之旨。以景頼被仰相州。可依御定之由被申之<云々>。

―17日 丙辰 (へいしん)。御所中の近習の輩は、面付の公事を免ずべきの旨、景頼を以て相州仰せらる。御定に依るべきの由申さると云々。
―「面付公事」というのは、一人づつに与えられた年貢以外の雑税(諸税)を赦せ、ということ。「御定―将軍家の可依御定」ならよし、とする。

○十八日丁巳。晴。 酉尅大地震。
○二十一日庚申。霽。入道正四位下行左馬頭源朝臣義氏<法名正義>卒。

―18日 丁巳(ていし)。晴 。酉の刻大地震。
―21日 庚申(こうしん)。霽(はれ)。 入道正四位の下 行 左馬の頭源朝臣義氏<法名正義>卒す。

○十二月大
○一日己巳 。五方引付更被結番之。
  引付
 一番 前右馬権頭   佐渡前司     □後前司(備後)    伊勢前司    城 九郎      中 山城前司
     内記兵庫允(ないきのひょうごのじょう)    山名進次郎    佐籐右京進<新加>
 二番 武蔵守       出羽前司      伊賀式部大夫入道      縫殿頭<新加>   清 左衛門尉    越前兵庫助
     皆吉大炊助    對馬左衛門尉
 三番 尾張前司      掃部助      常陸入道     大曽祢左衛門尉      城 次郎     江民部大夫
     太田太郎兵衛尉        長田兵衛太郎
 四番 和泉前司      武藤左衛門の尉      對馬前司      前太宰少貳    那波左近大夫将監<新加>
     深澤山城前司   甲斐前司     山名中務□(山名の中務の丞)    雑賀太郎(さいかの太郎)<新加>
 五番 筑前前司      參河前司     大田民部大夫     長井太郎<新加>    明石左近將監    
     進士 次郎藏人
     善刑部□(善 ギョウ部の丞)<新加>    越前四郎     對馬左衛門次郎

―12月大
―1日 己巳(きし)。 五方引付更にこれを結番せらるなり。(筆者注―名簿省略)
―引付衆というのは、評定衆を補佐するためにできた。裁判が正確に迅速に行われるように、という問注所の補佐です。一番から五番まで、月割り輪番制を撮っていました。

○十二日庚辰。 今日。於御所有評定。其後相州依召參御前給。兼被儲酒肴。御一門若□。并佐渡前司基綱。和泉前司行方。前太宰少貳為佐以下宿老。多以候座。被召出魚鳥□於砌。令壯士□包丁之。相州殊入興<云々>。御酒宴殆及歌舞之儀<云々>。

―12日 庚辰(こうしん) 今日御所に於いて評定有り。その後相州召しに依って御前に参り給う。兼ねて酒肴を 儲けらる。御一門の若輩並びに佐渡の前司基綱・和泉の前司行方・前の太宰の少貳為佐以下の宿老は多く以て座に候す。魚鳥等をその砌に召し出されて、壮士等をしてこ れを包丁せしむ。相州は殊に入興すと云々。御酒宴殆ど歌舞の儀に及ぶと云々。
―「 御一門若輩」北条一族の若君。佐渡の前司基綱は北条氏。前の太宰の少貳為佐は藤原氏。みんなで忘年会をしたんですね。

○十七日乙酉 。今日。内記兵庫允注進染鞦之故實。依別仰也。彼家代々於上総國令奉行此□。

―17日 乙酉(いつゆう)。今日内記兵庫の允染鞦(そめしりがい)の故実を注進す。別の仰せに依ってなり。彼の家は代々上総の国 に於いてこの事を奉行せしむと云々。
―内記兵庫允、千葉県の(筆者注・聞きそこなった!!千葉氏ではなかったと思うけどm(__)m
―「 染鞦(そめしりがい)」というのは、馬につけた鞍を抑える紐です。

○十八日丙戌。 於御所。光源氏物語事有御談議。河内守親行候之。

―18日 丙戌(へいじゅつ)。御所に於いて光源氏の物語の事御談議有り。河内の守親行これに候ず。
―河内守親行は、源親行、法名覚因。大和の国光行の子で、幕府の和歌所を預かり、実朝・九条頼経・宗尊親王に仕えて、万葉集を鎌倉に取り寄せ源氏物語を進講した。

○廿日戊子。 今日評定之間。御家人官途□。就別仰及其沙汰。是於近習要須□□□者。非指朝要顯職者。毎度雖不付成功。可被申請臨時内「々」給<云々>。但依人可有御斟[酉夕]歟<云々>。清左衛門尉奉行之。

―20日 戊子(ぼし)。今日評定の間、御家人官途の事、別の仰せに就いてその沙汰に及ぶ。これは近習要須の輩等の事に於いては、指せる朝要の顕職に非ずんば、毎度成功に付けずと雖も、臨時の内給を申請せらるべしと云々。但し人に依って御斟酌有るべきかと云々。清 左衛門の尉之を奉行す。
―「 御家人官途の事」中央政府の官職を貰うこと。必ず鎌倉幕府の推選がいるんですね。これを「近習―将軍の近習」においては、重要な官位でなければ、内々の申請でもよい。
―「成功(じょうごう)」というのは、お金を払って官位を買うんですね。
―清 左衛門の尉は清原氏。清原の満定

○廿三日辛夘。 評定衆并可然大名外之□。云出仕。云私出行。不可具騎馬共人。凡非晴儀。僮僕之員可減定之旨。普可相触之由。所被仰付侍所司□也。

―23日 辛夘(しんぼう)。 評定衆並びに然るべきの大名外の輩は、出仕と云い私の出行と云い、騎馬の共人を具すべからず。凡そ晴儀に非ざれば、僮僕の員(かず)を減定すべきの旨、普く(あまねく)相触るべきの由、侍所司等に仰せ付けらるる所なり。
―この場合の大名というのは、戦国大名ではなく、名田を持っている御家人たち、です。

○廿五日□巳。入夜。右大将家法花堂震動。三浦大炊助太郎兼日蒙夢想。有告申人々。

―25日 癸巳(きし) 夜に入り右大将家の法華堂震動す。三浦の大炊の助太郎は、兼日に夢想を蒙り、人々に告げ申すの事有りと云々。
―「右大将家」は頼朝家。三浦大炊助は三浦常安。

○廿六日甲午。於法花堂。仰別當。密々被修不動護摩。供[米斤]□相州令沙汰給。是依夢想震動□也。

―26日 甲午(こうご)。法華堂に於いて、別当に仰せ、密々に不動護摩を修めらる。供料等は相州これを沙汰せ しめ給う。これは夢想震動の事に依ってなり。

「はあ、終わった!!終わりましたねぇ・・・」と先生の溜息でした。そうとう突っ走って、お疲れ様でしたm(__)m


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