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3月16日(日) 古文書解読講座第六回「武家の書状を読む」講師・下重 清(東海大学)

講師の下重先生は小田原市史の編纂をなさった先生です。というご紹介が公文書館の小松先生からありました。

今日は、小田原藩という神奈川県で唯一の藩に残る資料を扱います。小田原藩主の会というのがありまして、大久保氏・稲葉氏(藩主)の日記、こういうものは大名文書と言います。地方文書ではない、ということです。

テキストO

為端午之祝儀
帷子単物到来
歓思食候猶
堀田相模守可
申候也

五月二日印
     大久保大蔵大輔とのへ
         [片岡家文書]
端午の祝儀として
帷子(かたびら)単物(ひとえもの)到来(とうらい)
歓び思食(おぼしめし)候。猶
堀田相模守
申すべく候也

五月二日 印(家重の丸印)
     大久保大蔵大輔殿へ
         [片岡家文書]

――これは「御内書(ごないしょ)」といって、御内書担当老中が、将軍の許に挨拶にきた者や大名家からの献上物に対して出す礼状です。勿論、老中が自分で書くわけではなく祐筆が書きますが。大名の留守居役などを呼び出して渡します。
――端午の祝儀として帷子の単物が届いた。大変喜んでいらっしゃる―誰が?将軍家です。堀田相模守は、当時の筆頭老中堀田正亮です。相模守は受領名です。相模の受領ということです。
つまり、筆頭老中が、アンタのプレゼントを上様が歓んでるよ、と伝えます、と言うことですねー筆者注
――大久保大蔵大輔殿、大輔というのは官途名です。当時の小田原藩主大久保忠興です。日付より下に(あて先の)名前が書いてあるのは差出人より身分が低い、ということです。
――到のリットウの崩し方。猶のケモノ篇の筆の入り方。キヘンとケモノ篇の違いをよく見る。
――これは年号がかかれていなくても、推定しやすい日付です。家重は九代徳川家重です。将軍在位が延享二年(1745)11月2日から宝暦十年(1760)5月13日です。そこから何年の五月か、ということを考えます。しかも、(大久保忠興が)参勤交代で小田原に戻っている時、小田原から届けさせています。忠興が大蔵大輔を名乗った時、その前は大蔵出羽の守ですから、宝暦9年(1759)12月です。もう宝暦10年の五月ですね。
――家重の印は黒印です。朱印を使えるのは、特に限られた人と限られた場合だけです。将軍でも数えるほどしか有りません。領地を与える時など〜朱印地と言います。戦国大名はわりと使っています。
――この文書は宿場の脇本陣であった片岡家に残っていたものです。御内書類が旧家に残っていることは多いです。内容にたいしたことがなくとも、「将軍家の手紙」と言うことだけで、もらうと名誉です。
藩から拝領するという意でしょぅ・・・たぶん借金の方かなんかで―筆者注)

テキストP老中奉書

御状令披見候松平
伊豆守卒去之儀
相違被絶言語候
因茲御機嫌之御様躰
被承度之由得其意候
入念候段可及 台聴候
恐々謹言
    稲葉美濃守
 四月廿三日  正則花押
    阿部豊後守
          忠秋花押
    酒井雅樂守
          忠清花押
 稲葉能登守殿
      [小田原城天守閣蔵]
御状披見せしめ候 松平
伊豆の守卒去之儀
相違し 言語に絶せられ候
これにより ご機嫌の御様躰(ごようだい)
承わり度くの由 其の意を得候
念を入れ候段 (尊敬の空白)台聴に及ぶべく候
恐々謹言(此れは決り文句)
    A稲葉美濃守(当時の小田原藩主)
 四月廿三日  正則花押
    B阿部豊後守(一番古株だが序列は3番目)
          忠秋花押
    @酒井雅樂守(将軍から特別に認められた連署。加判の折には首座)
          忠清花押
 稲葉能登守殿(九州臼杵藩主)
       [小田原城天守閣蔵]

――「老中奉書(老中連名)」というのは、老中が将軍に奉る形で全国に触れを出す。江戸時代の中で一番権威のある御触れです。老中というのは「加判の職」といいます。老中奉書に加判(印が押せる)できるということです。この場合の判は書き判という花押です。
――江戸時代の印判(いんぱん)は大名級、印形(いんぎょう)というのは庶民です。印鑑というのは、そういうものが「紙」に押された物の事を言います。箱根の関所等も通行手形などに押された印の形を関所役人に届けて起きます。その紙に押された物を印鑑と言います。
――「奉書」というのは、和紙を半折にして袋のほうを下にして書きます。次に続きを書く時は、それをそのままひっくり返して今度は袋が上になるように書きます。
――この老中奉書は内容から日付が特定できます。「松平伊豆の守卒去之儀」とありますが、松平信綱が死去したのは寛文二年(1662)3月16日です。伊豆の守が亡くなった事をお聞きになって言語を絶せられるほど(おどろいた)ことでしょう、という見舞いの手紙です。台聴というのは将軍の耳に入れる、ということです。
――文書は祐筆が書き、花押だけ押していましたが、後には花押も型で起こして、それを墨で塗って押すようになりました。
――受領名・官途名は家柄に応じて繋がったり、出世に応じて変わったりするが、同じ時代に二人同じものを名乗ることはありません。いつから誰が名乗ったか、わかります。
――稲葉能登守殿(九州臼杵藩主)はこの時京都にいました。仙洞御所が火災で消失したため、院御所再建の役をしていたんです。そこから、江戸に見舞いの手紙を出したんです。
――稲葉美濃守正則は春日局の孫に当たります。春日局がお福といって、稲葉正成と結婚して正勝を儲けますが、離婚して家光の乳母になります。稲葉正成は林家から稲葉家に養子に入りお福を妻としてます。お福は三條西家に奉公したという話もあります。正勝は、小田原藩を預かりますが38歳で死んでしまい、正則は12才で小田原城主になります。

テキストQ
奉書を軸装する時は上下を切り離して天地を揃えます。これも軸装のものですから、きちんと天地があってます。
女性が仮名で書いた手紙を「消息」「かな消息」と言います。男性が漢文体で書くと「書状」という。

  こん大夫とよく御
          たん
  こう候て
      いそきこん
  大夫をおたはらへ御
  やりてよく存じ候
        めてとう
          かしく
一筆申し候いづ殿
         こなたへ
御こし候
     ほり平ゑもん
            も
いまた此ばうに
        ふう婦
なからゐ申し候よし
うけ給候かく大夫を
かヽのかみ所へつかわ
             し
候へはおたわらに
           は
五左衛門七らひやうえ
はかりゐ申し候
         みみに
たち候てもいかヽ
しく存候平へもん
におたわらへまいり
  
  こん大夫とよく御談合候て()
         
  
      急ぎ
  權大夫を小田原へ 御
  やりて よく存じ候
        めてとう
          かしく
一筆申し候 伊豆殿
         こなたへ
御こし候
     堀平右衛門
            も
未だ此ばうに
        夫婦
なからゐ申し候よし
うけ給わり候 格大夫を
加賀の守所へ遣わし

候へば 小田原に
           は
五左衛門 七郎兵衛
はかりゐ申し候
         みみに
たち候てもいかヽ
しく存じ候 平右衛門
に小田原へ参り
  

――冒頭に書いてある「こん大夫とよく〜めてとうかしく」までは「猶書(なおがき)」という、奉書の上下で書ききれなかった部分を余白に書くんです。ふつうは、もっと小さく書くんですが、これはかなり大きく書いてあります。猶書で書き足りなければ行間に小さな字で間を縫って書いていきます。大きい字から読む、という不文律があります。
――伊豆殿というのは、斉藤利宗。春日局の兄です。12才で跡目を継いだ正則の後見人になっていました。伊豆殿がこちらへおこしになりました←年号限定の理由。正則が元服した寛永15年(1638)
――堀平右衛門は、客分として稲葉家に仕えて三千石ももらっていました。ふつう陪臣は最大二千石くらいだったのに大変な石高です。
――格大夫というのは、小田原藩の家老の一人、原格大夫
――加賀の守というのは堀田正盛、当時老中です。
――七郎兵衛は稲葉七郎兵衛。小田原藩の家老の一人
――權大夫は田辺權大夫、小田原藩筆頭家老です。

候へと御申しつけ候て
まいり候ましきと
         申候
ハヽこん大夫をおた
ハらへ御やり候て
          よく
存候
  平ゑもん事
         は
さやうに
    そもじおもひ
入もなくうき
       くも
のやうに候ハヽ
たとへおたわらへま
いり候てもたのみ
          も
なき御事に候
        へ共
ぬしまいり候
       わんと
さへ申候ハヽまつ御やり
             候て
よく候こん大夫にも
此ふみのことく申し
      つかわし候間
  五月十四日   かしく
いなば
 みのの守殿    かすか
候へとお申しつけ候て
まいり候まじきと
         申し候わば
權大夫を小田原
へ御やり候て
          よく
存じ候
  平右衛門事
         は
さように
    そもじ 思い
入れもなく 浮雲
       
のように候わば
たとえ小田原へ
参り候ても頼み
          も
なき御事に候
        へ共
主、まいり候
       わんと
さへ申候わば まず御やり
             候て
よく候 權大夫にも
此の文のく申し
      つかわし候間
  五月十四日   かしく
稲葉
 美濃の守殿    春日

[京都府 淀稲葉神社所蔵文書]

――「かしく」は前に戻る、と言う意味の「かしく」です。(筆者注―ここまで読んで、冒頭の猶書に戻るわけですね)
――15歳か16歳で元服した孫に小田原が手薄になっているから客人の平右衛門を遣れという、手紙です。

いやぁ、前回の「山城後室殿」って関東管領の手紙にも泣かされましたが、仮名消息は難しいです(;_;)まして、これはマッコト女手ですから・・・だから綺麗といえばきれいです(^^)あの女傑のイメージの強い春日局がこんなに優しい字を書いて、こんなに孫を案じる手紙を書いていたのかと思うと、そこはそれ、感慨深い物があります(^^ゞ

今日で入門講座は終わりです。また5月に中級講座があるそうで、その他にも毎月一回で土曜講座・日曜講座という定期的な講座があるそうです。秋には上級講座も予定されているそうなので、それが終了したらどちらかに入会したいな、と思います(^^)

でも、今日の東海大の下重先生は大変に要領よく、かなり詰め込んだ授業で充実していました。「五人組」の神大の川鍋先生も大変おもしろかったけれど、中級も期待してまぁす\(^o^)/




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